百句鑑賞

https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12749583513.html 【新聞各紙、五島高資著『芭蕉百句』を紹介】より

新聞各紙、五島高資著『芭蕉百句』を紹介。

長崎県出身の五島高資(たかとし)さんが『芭蕉百句』という本を出版(初版2022年3月3日風詠社)されていましたが、この都度この本が新聞各紙にて取り上げられたようです。

私が知り得たのは、著者ご本人によるフェイスブック投稿による6/11の「県民福井」 、そして私が購入した6/20の長崎新聞の「文化」欄でした。以下、その内容を紹介したいと思います。実は私もまだ『芭蕉百句』を読んでなくて、私も本の内容を少し知ることが出来ればと思ってその記事を取り上げることにしました。

○6/11の「県民福井」の記事

五島氏の評論「芭蕉百句」紹介 秋山孤哮

 栃木県在住、日本俳句協会副会長の五島高資氏より、俳句評論「芭蕉百句」をいただいたので紹介したい。序文から、現在の俳壇の危機的状況を強い口調で訴えている。いわく

「事物を言葉で写実しただけの些末写生、独りよがりの主観的表現、単なる言語遊戯などによる、歪んだ俳句が増産され続けている」

 テレビ番組などで俳句の世界は活発化しているように見えるが、ある程度マニュアル的に作れば誰でも俳句らしきものが詠めてしまう、その怖さを訴えているのだ。続けて

「その誤謬に気づかない俳人の何と多いことか。これは一流と目されている俳人も例外ではない」

と手厳しい。それゆえに今、あらためて松尾芭蕉を読み直すことによって、俳句の「風雅の誠」を取り戻したいという高き理想をもって編まれた本である。芭蕉ファンのみならず、これから松尾芭蕉の作品を学ぼうとする方にも勉強になる一冊。(秋山孤哮)

※あとの半分は、広渡敬雄氏さんの「俳句で巡る日本の樹木50選」の紹介でした。この本については私も広渡敬雄氏さんに興味がありますのでいずれまた取り上げさせてもらいたいと思っています。

◯6/20の長崎新聞の「文化」欄

芸術性高めた芭蕉の「切れ」 長崎出身の俳人 五島さんが解説本

 長崎市出身の俳人、五島高資さん(54)=栃木県宇都宮市=が、江戸前期の俳人・松尾芭蕉の句を解説した「芭蕉百句」(風詠社)を出版した。近年の俳句ブームによって、伝統的な俳諧精神が危機的な状況にあるとし、俳句を詩的芸術にまで高めた芭蕉の句を読み返 すことが大事と訴えている。

 テレビ番組「プレバト!!」や俳句甲子園などの影響で、俳句に親しむ人が増えている。一方、五島さんは、それによって近代以降の定式化した俳句が増産されていると指摘する。

 「高浜虚子が近代俳句を継承した際、俳句の定義をした。5・7・5で季語があって、 客観写生による花鳥風詠であること。それが現在まで大きな流れとなり、自分が見た物事を絵画のように言葉で描写する、画一的な俳句が作り続けられている」

と語る。それ自体は悪いことではないが、物事をより多角的に表 現した芭蕉の句を見直すことを勧める。例えば有名な一句

 ★古池や蛙飛こむ水のをと

は、芭蕉が確立して俳句の芸術性を高めた「切れ」の手法を理解する手がかりになるという。

「『古池や』で切れることで間が生まれ、単なる描写だけでなく、視点が読み手に置き換わったりと多角的な意味を持たせて詩的に昇華している」

 古池に蛙が飛び込んで水の音が聞こえるという実景だけでなく、それを想像した時の心の静けさ、読み手それぞれの頭に浮かぶ古池の景色、果ては蛙は芭蕉自身であるといった想像など、さまざまな「光景」が無限に広がる。

「物事の本質を見る伝統的な俳諧精神で、今はそういう俳句が少ない。これからの俳句の必要条件は、5・7・5であることと、この『切れ』ではないか」

 新著では、芭蕉が読んだ句 を年代順に挙げ、それぞれの句の作られた背景や解釈をまとめた。句作を始めた頃から亡くなるまで、芭蕉の俳句への姿勢の変化や深まりも解説。各句には五島さんによる英訳も付けた。

「芭蕉の句がどういう意図で作られたのかを知ってもらうことは、芭蕉の『切れ』を知ることにもつながる。この本を自分の作品の糧にしてもらえたら」

と話す。四六判、302ページ。1650円。五島さんは本紙ジュニア俳壇への投稿をきっかけに 句作を開始。隈治人、金子兜太に師事。「俳句スクエア」代表、「豈」同人。 医師、博士(医学)。2003~05年には同壇の選者を務めた。

※記事は田代菜津美さん。

※五島高資さんの略歴。

 昭和43年、長崎市生まれ。自治医科大学医学部および同大学院博士課程卒業。金子兜太に師事。現代俳句新人賞、加美俳句大賞・スウェーデン賞、現代俳句評論賞、日本血液学会奨励賞など受賞。「俳句スクエア」代表、「俳句大学」副学長、「豈」同人。日本俳句協会副会長、現代俳句協会オープンカレッジ講師、日本文藝家協会会員。句集に『海馬』(東京四季出版)、『雷光』(角川書店)、『五島高資句集』(文學の森)、『蓬莱紀行』(富士見書房)など。評論集に『近代俳句の超克』(日本俳句協会)。編著に『無敵の俳句生活』など。共著に 『現代俳句大事典』(三省堂)、『金子兜太の世界』(角川学芸出版)などがある。

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12746884295.html 【よみうりカルチャー北千住&五島高資『芭蕉百句 解釈英訳』&川越歌澄、俳句大学準賞受賞】より

わが社で刊行した、川越歌澄さんの句集『キリンは森へ』が「第4回俳句大学大賞準賞」受賞したことを知った。

とてもめでたい!

昨日、お祝いの連絡をした。

とても喜んでいた。

私にとってもとてもうれしい出来事だった。

こうして会社としての実績を積んでいけるのが嬉しい。

選考委員 は岡田耕治氏 (大阪教育大学特任教授・「香天」代表) 、木暮陶句郎 氏(「ひろそ火」主宰) 、五島高資氏 (俳句大学副学長) 、斎藤信義氏 (「俳句寺子屋」主宰) 、仲寒蟬氏(「牧」代表)、永田満徳氏 (俳句大学学長)。

選考委員の一人、五島高資さんの選評は以下の通り。

文學の森主催の第1回「北斗賞」の選考委員として、川越歌澄を「俳句の骨法をきちんと踏まえた上で決して気負わず、しかも独自の世界が展開されている。」として強く推薦した。

今回の『キリンは森へ』では、川越歌澄という個人的、さらには集合的無意識を介して、高い詩境の展開を見せている。

五島さんはじめ選考委員の皆さんに感謝したい。

今日は雨の中、よみうりカルチャー北千住の「じっくりと読む奥の細道」講座。

今日で3回目だが、3回中2回が雨…。

「芭蕉俳諧成立の歴史」、おくのほそ道の「室の八島」「日光1」を話した。

講義のあとは駅ビルのルミネでお寿司。

今は6日ぶりに横須賀に戻っている。

数日前、さきほどの選考委員・五島高資さんの著者『芭蕉百句 解釈英訳』が届いた。

五島さんとももう古い付き合いだ。

俳句編集時代、何度もお会いした。

この書は英語が堪能な彼が、松尾芭蕉の作品から厳選した百句を英訳し、解説したもの。

五島さんとは作風は違うが、その作品には敬意を持っていた。

帯を読んでみると、こう書いてある。

独りよがりの主観的俳句、単なる言語遊戯の歪んだ俳句が増産され続け、真に伝統的な俳諧精神が危機的状況にある。

まったく同感である。

やはり、(私より2歳年下だが)五島さんは尊敬すべき人だと再認識した。

本と一緒に手紙が挟んであり、私のブログでの文章も参考にさせてもらった、とある。

取り上げていた句は、

辛崎の松は花より朧にて   松尾芭蕉

この句は「にて」で終わっている。

「俳句は言い切るべし」と芭蕉は言っていたが、この句は言い切っていない。

「にて」というあいまいな終わり方をしている。

そのことについて、芭蕉門弟の間でも、そして現在でも議論になる。

私は、紀貫之の和歌、

唐崎の松は扇のかなめにて漕ぎゆく舟は墨絵なりけり

が念頭にあったのではないか、とブログで述べた。

『唐崎の松について』

先日、本を読んでいたら、 唐崎の松は扇のかなめにて漕ぎゆく舟は墨絵なりけり    紀貫之 という和歌に出会った。 おや、と思った。これは、 辛崎の松は花より朧…

リンク

ameblo.jp

五島さんは、既存の説、自身の考えを述べたあと、

ちなみに、俳人・林誠司は、ブログ「俳句オデッセイ」で紀貫之の〈唐崎の松は扇のかなめにて漕ぎゆく舟は墨絵なりけり〉が芭蕉の念頭にあったのではと指摘している。

まさに上の句と下の句は「にて」によって軽い「切れ」が生じている。

重要な意見だと思う。

と述べている。

深謝。

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