道鏡、左遷先で言葉が通じない! シ ホッパ オロ

https://lifeskills.amebaownd.com/search/q/%E9%81%93%E9%8F%A1 【道鏡の検索結果:23件】

https://ameblo.jp/maimurasaki3233/entry-11892993029.html 【道鏡、左遷先で言葉が通じない! シ ホッパ オロ 】より

染師・まいまい です私の地元、栃木県のお話 塩原温泉で有名な塩原(シオバラ)は

シ ホッパ オロ というアイヌ語が 語源だという話を最近知りました

「アイヌ」といわれると通常、北海道ですが、遙か昔はアイヌ民族になってゆく人たちが

栃木県にもたくさん住んでいたのだそうですね

シ ホッパ オロ ですが意味は「大温泉地」になるそうです

と、ここで、弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)の話・・・・

道鏡の意外な姿に、ちょっと笑っちゃう

(↑ あ、この人物、教科書にちらっと出てくるのだけれど、昔のお坊さんね)

道鏡は、ここ下野(しもつけ・栃木県)に左遷されたのは有名な話ですね

ここから地元ならではのお話

左遷されたはいいが…道鏡は、ちょっとした事を教えてもらおうと、地元住民のお百姓さんに話しかけたが、百年目道鏡  VS  お百姓さん親切そうにするお百姓さん・・・

なのに「この辺りの人とは、言葉が通じない誰か解る言葉を話せる人はいないのか 」

と、道鏡は、困り果ててしまいます

お百姓さんの勝ちです道鏡はサンスクリット語を習得していますし、あらゆる外国語が話せるのが当たり前の超インテリですglasses*とんでもない教養と美貌を兼ね備え、女帝に寵愛され、女帝を補佐し、かつて「法王」という、天皇とほぼ同等の地位・権力を手中に収め、

おまけに時代を代表するほどの達筆をふるう完璧男・道鏡様 でもどうにもならない

まったく歯が立たない ちょっと、プって笑える逸話

今日の道鏡さま 

↑道鏡イケメン解析していますこちらもどうぞ

染師・まいまい ですず~っとご縁のある地元の薬師寺八幡宮にお参りいつものように道鏡様にご挨拶道鏡様のことが気になりだした私はいろいろと学びだしました

弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)の弓削とは物部氏の一族ことだそうです

諸説あったとしても物部氏には変わりないようです

物部氏は渡来人ですが、元をたどると古代インドのマカダ国の人なんだそうですね

古代イスラエルが滅亡し、シュメールの王族が亡命してきてマカダ国に住み着いたそうです

この人たちはアーリア人(白人種)ですあのヒトラーが優越人種としたアーリア人です

そして物部氏の先祖はインド系アーリア人です

インド系アーリア人は白人系の自分たちを優位にし、浅黒い肌の原住民(ハリジャン)を

虐げる制度、カースト制度を作った人たちです

そういえば、現在でもインドにヨーロッパと全く変わらない白人のインド人ってたくさんいるし、身分も高い・・・

さらにマカダ国を出て、途中、ヒッタイトで製鉄・青銅技術を身につけ、そして朝鮮の北の扶余(プヨ)に流れつき定住した騎馬民族です

馬を最初に日本に持ち込んだのは物部氏だとか・・・

騎馬民族ってことは必要性があって足が長くなったっていう、足長が当たり前のうらやましい体型ですね

現代の日本にも両親が白人・外人ではないのに、自分だけ容姿が白人・外人ぽい人がいますが、古の様々な歴史がDNAに刻まれていると

ゆうことなのでしょう

道鏡は若いころインドのサンスクリット語を習得しています

なるほど、つまりは故郷インドの言語を学んだ訳です

後に孝謙天皇の病を治すことになる密教の「宿曜秘法」も学びますが、これもインドの易占術だそうですね

なので道鏡様は体格もよく、すらりとした長いおみ足、ガンダーラ美術、ギリシャ彫刻のような面影を醸す端正な顔立ちで・・・

とんでもない教養を兼ね備えおまけに「奈良の三筆」と称されるほど美しくお上手な字を書き・・・

やさしく献身的に孝謙女帝(この時は上皇)の治療にあたる・・・・

こんな年上の完璧男に介抱されて好きになるなというのは無理な話です

どんな拷問ですか「もー がまんできなーいっっ!!」

野心家の道鏡が計算で近づいたのも事実だと思うけど、どちらかというと、女帝の方が惚れぬいてしまった話ですからね

なんだか漫画・映画の男女逆転「大奥」の右衛門佐(えもんのすけ)・綱吉 編のようなドキドキ感そんな女帝を骨抜きにしたイケメン道鏡様・・・

美しくて悪かったとしたら最悪ドラマや映画のキャラクターにしたらとっても魅力的よね


都の常識はここでは通用しませんよ

道鏡様も下野国の言葉をマスターすることですねその美しいご尊顔で、尻上がりのズーズー弁をしゃべってください なまってんだもん、しょーがあんめぇ!

どうせ都でチクばっか ぶっこいてたんだべ!このデレスケがっ! このチクラッポ! って言われてもポカーンとして、引きつりながらニコニコする道鏡が目に浮かびます

なんて言ったか訳します・・・

訛っているのだもの、しょうがないじゃないか!どうせ都で嘘ばかりついていたのだろう!

この、だらしのない男だ!この、嘘つき!以上・・・・

(だらしのない女の場合はデレスケアマです)

もちろん道鏡の時代と今とでは当然栃木県の言葉は違うでしょうが、当時の方が、もっと

こんなふうに通じなかったことでしょう(栃木県内でも言葉は違いますが、道鏡がいた辺りはこんな感じの言葉です)

チクラッポって新しいチクワじゃないですよおでんには使えません「嘘つき」です

嘘つきがどうしたらチクラッポになるんだ・・・栃木の言葉には「ポ」とか「ペ」なんかも多いですこれってアイヌ語の名残にも感じます

塩原の語源は・・・

(略)

薬師寺の三昧場 道鏡も身を清めたであろう水場 道鏡様、オカンカ、オカンカ(*´∇`*)

国分尼寺 回廊跡 だったかな?国分寺は今で言う、大学ですね ここは尼寺だから女子大

学問・宗教等を修め単位を取得できたら 下野薬師寺で戒律を授けられ見事「お坊さんの資格」ゲットはれて卒業


https://ameblo.jp/maimurasaki3233/entry-11831666552.html 【1 孝謙天皇は道鏡の子を産んでいた! その名は英親王!】より

染師・まいまい です またもマニアックシリーズ開始です 奈良の大仏を造ったりしていたころの時代の話です

道鏡・孝謙(称徳)天皇・英親王ゆかり(所縁)の地

あなたは、英親王(はなぶさ しんのう)をご存じでしたか?私はこれから述べる事実を知ったとき雷にうたれたかのような衝撃が全身に走りました

許されざる間柄に禁断の花が生まれたという・・・

英親王は、孝謙天皇(女帝)が産んだ弓削道鏡(高僧)の子供、皇子です

ご存じの通り、孝謙(称徳)天皇と道鏡は、歴史の教科書では「道鏡事件」として有名ですね 事実、道鏡は女帝に寵愛され 女帝を補佐した人物ですが、二人がただならぬ関係にあったとする逸話もたくさん残されています

このお話は栃木県栃木市大平町の富田に伝わる伝承です

郷土史家の先生曰く、英親王(一説には花房親王)は正史、さらには皇族の系譜にも存在が確認できない人物だそうです

私は調べものをしているとき、ちらっとこの事を知ったのですが、

インターネットで紹介している方もごくわずかで、手軽に深く知ることはできませんでした

伝承地と同じ栃木県内に住んでいますが全く知らない話でした

大平町とは以前縁がありましたのに・・・ここも道鏡と孝謙天皇ゆかりの地になるのですね・・・私の家の近所の図書館で探しても見つからず・・・わき上がる気持ちに突き動かされ現地の図書館へ たくさんの有力情報が入手できました

たまたま接客してくださった係員のお姉さんも、さすが地元、英親王をご存じで 数ある資料から関連のモノを嬉しそうに選んでくださいました

「一般的に知られた話じゃないし、話が話だけに衝撃ですよね。」とおっしゃりながら・・・これから英親王の伝説を紹介します 資料により多少事柄が前後したり、

表現に違いがありますが、キツネ、タヌキ、カッパなどのいかにもファンタジーというキャラクターは登場せず、リアルな人名、地名、時間経過が事細かに伝えられた見事なお話です

はじまり はじまり・・・

ここ富田が千種(ちぐさ)の里と呼ばれていたころから語り継がれてきたお話です。

称徳(孝謙)天皇が崩御されたことにより道鏡が下野薬師寺に左遷されることになり、

息子である皇子の英親王も奥州の国府(役所)に移ることになりました。

12、3歳になる英親王は、主立った従者、野原真人(のはら の まひと)と

竹ノ内阜見(たけのうち おかみ)に守護され道鏡より10日ほど遅れた770年8月22日、奈良の都をあとにしました。

はるばる東山道(律令体制時・古代に整備された道)をやって来て、父がいる下野薬師寺まであと少しという、ここ下野国都賀群千種里で、脚気(かっけ・栄養失調)にかかり、全く歩けなくなってしまいます。

旅を続けられなくなったとこを受け、従者両名は、下野国府(下野薬師寺と同じ地域にある)に申請し、国府の援助により千種の里に仮殿を建てました。

古記録によると、一万三千坪というかなり広い敷地で南側は、竹ノ内阜見、北側に野原真人の居所を建て周囲は堀(大内堀)と矢来をめぐらし、警護に就かせました。現在でも竹ノ内の地名が残っています。

英親王は療養中、薬草を栽培し、回復に努めました。里人にも薬草の使い方を広く伝えたところ、里人にたいへん喜ばれました。

そしていつしか里人は、この土地を「千種の里」と呼ぶようになりました。

そんな心優しい英親王ですが、772年9月18日、療養すること25ヶ月にして、14、5歳で病も癒えず亡くなってしまいます。

奇しくも、父、道鏡と同じ年、わずか5ヶ月遅れで後を追うかのように亡くなりました。

残された従者の両者は、下野国府にこのむねを伝え申請し、援助を受け、千種の里そばの、山田の里に御陵をつくり英親王を手厚く葬りました。

そして両者は永久に英親王の御霊を弔意し、奉仕していきたいと、朝廷に伝えました。

承諾した朝廷は「神ノ倉大権現(かんのくら だいごんげん)」の号を与えました。

そして両者は神ノ倉大権現の社殿をつくり御霊をお祀りしました。

お祀り後、朝廷からの命令なのか、従者の竹ノ内阜見は奈良の都に帰って行きました。

野原真人はこの地に留まり、野原の一族は神ノ倉大権現の近くに移り住み、命日には

祭祀を行い、英親王の御霊に奉仕しました。そして、神ノ倉の地名のも残りました。

その後も野原の末裔たちは、命日には祭祀をを行い末永く英親王に仕えてきました・・・。

おしまい

(このリアルな内容、ただのおとぎ話ではすまされない!!れっきとした記録ではないですか!!

むしろ道鏡の話より明解なのでは!?)

〈参考文献〉

「とらおの富山史 二項 通史ふるさとの神社仏閣」津富楽 寅雄  著

「大平町ふるさと民話 おおひら風土記」原文  大平町総務課保管(広報紙)

編集  大平町立図書館

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