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【更新】およそ1500年前に百済からもたらされて以来、日本では実にさまざまな仏像がつくられてきました。その一体一体は人びとの信仰の対象であると同時に、当時の技術や、それがつくられた時代背景を今に伝える「生き証人」でもあります。私たちが目にする仏像には、どのような歴史が秘められているのでしょうか。駒澤大学仏教学部 村松哲文教授のコラムです。
https://www.toibito.com/.../huma.../science-of-religion/3614 【概説 仏像クロニクル
村松 哲文】より
仏像は私たちにとって身近な存在ですが、その観賞方法や楽しみ方はヴァラエティーに富んでいます。旅行の折にその土地の仏像を拝したり、好きな仏像を見つけて何度も会いに行く、という方が多数派でしょうか。
奈良、京都、鎌倉など地域を限定して仏像を巡る鑑賞方法もあれば、観音像、阿弥陀像など仏像の種類にこだわって鑑賞を広げたり、飛鳥、平安など年代を限定して見に行く楽しみ方もあるでしょう。また、来歴や表現方法などに「謎」がある仏像を追いかけるマニアックな仏像ファンも、案外たくさんいるのです。
仏像が語る歴史
仏像鑑賞を長年続けていると、日本における仏教の変遷や時の政府、権力者との関り、それに伴う仏像の姿や意味の変化などが見えてきます。仏像は日本の歴史の語り部でもあるのです。
たとえば、東大寺の大仏は奈良時代につくられましたが、「江戸の顔」をしています。平安時代の大地震と平清盛の命による南都焼き討ち、戦国時代の松永氏と三好氏の戦火などによって顔が損なわれ、江戸時代にオリジナルとはまったく異なる顔につくり変えられたのです。現在の大仏は角ばった輪郭ですが元は丸顔で、仏様が坐っている台座の側面に線描きされた丸い顔がオリジナルに近いと言われています。
廬舎那仏 東大寺
東大寺の大仏ばかりではありません。1000年以上の時を永らえた仏像の多くは、幾多の天災や戦火で傷つき、修復された姿で私たちを出迎えてくれるのです。
仏像のなかには信仰上の理由や保存状態などの理由で公開されない、あるいは特定の年や日にしか公開されない「秘仏」があります。年に2回だけ公開される法隆寺の救世(ぐぜ)観音もその一つで、明治時代まではずっと厨子(ずし)に納められていました。しかし、単なる収納ではありません。救世観音は400メートルを超す布でぐるぐる巻きにされ、「触ると祟りがある」と言い伝えられていたのです。
この救世観音を世に解き放ったのは、アメリカの美術史家 アーネスト・フェロノサでした。明治政府の依頼で日本の文化財保護に関わったフェロノサは、長きにわたって封印されていた救世観音に好奇心を抱き、厨子から解放しました。
救世観音菩薩立像 法隆寺
一説によると、救世観音は聖徳太子に生き写しなのだそうです。とすれば祟りは聖徳太子と関係があるのでしょうか? この謎はまだ解明されていませんが、400メートル以上の布で包まれていたことを思うと、相当強い怨念が像に宿っていたのかもしれません。
こんなふうに個々の仏像にまつわる歴史や秘話を発見すると、仏像巡りは俄然楽しくなります。仏像好きが高じて専門家になってしまった私は、学生や一般の方に仏像の魅力を伝えることを自らの役割としています。
以前のコラムでは、仏像の「目」に注目しながら、仏像づくりの変化についてご説明しました。今回はもう少し踏み込んで、仏像が日本に上陸した飛鳥時代から江戸期まで、仏像がどう変化したか、その背景に何があったかを簡単にお話しします。
覚えておきたい4つのカテゴリー
まずは基本中の基本を押さえておきましょう。仏像の誕生と、4つのカテゴリーについてです。
仏教はおよそ2500年前インド北部(現パキスタン領)に生まれた釈迦が説いた教えから始まりましたが、釈迦の教えには仏像は登場しません。釈迦は教えのシンボルになるような像の制作を禁じていました。
しかし、釈迦が入滅(逝去)すると弟子や信者のなかからシンボルを求める動きが始まり、1世紀末頃のインドで釈迦を模(かたど)った「釈迦如来像」がつくられるようになったのです。ちょうどその時期、開祖の釈迦が伝えた教えに新しい解釈を加えた大乗仏教が次々興り、仏像の種類が増えていきます。日本には6世紀にこの大乗仏教が伝わり、以来仏像は日本の仏教史に伴って発展していきました。
仏像は、「如来」、「菩薩」、「明王」、「天部」というカテゴリーに大きく分けられます。これらは仏教世界における「位」のようなもので、仏像を見慣れてくると像の姿や衣装、装飾品を見ただけで、どのカテゴリーに属するかが分かるようになってきます。
カテゴリーの頂点に位置する「如来」は「悟りを開いた者」で、仏教の開祖・釈迦如来や阿弥陀如来が代表的です。欲も迷いも捨て去った如来は極めてシンプルに、衣を1枚か2枚まとっただけの姿で表現されています。
如来に次ぐ「菩薩」は、将来如来になることを約束されて、修行に励んでいる者で、観音、文殊、地蔵など多数の種類があります。表現は如来ほどシンプルではなく、瓔珞(ようらく)と呼ばれる装身具や冠を身につけた姿でつくられるので、如来と区別できます。
第3のカテゴリーに属する「明王」は如来の変化身で、仏教の教えを理解、実践できない人を教化する役割です。身体は赤や青色、顔は「怒り」の形相で表現されることが多い明王像ですが、その怒りは私たちに改心を促す「愛のムチ」と言えます。
最後の「天部」は、古代インドで崇められていた神々を仏教の守護神として拝借したものです。私たちにとってなじみの深い阿修羅や帝釈天、四天王がそれにあたります。天部の役割はガードマンで、多くは甲冑などをつけた勇ましい姿で表現されています。
この4つのカテゴリーを見分けられるようになるだけで、仏像巡りの楽しみが一気に増すことでしょう。
中国の影響が色濃い飛鳥時代
ここからは、日本における仏像の変遷を見ていきましょう。大陸からもたらされた仏像をまねることからスタートした日本の仏像は、平安時代後期に日本独特の「和風仏像」へと変化し、その後も独自の発展を遂げていきます。
日本で最初の仏像は今からおよそ1500年前の538年(552年説も)、仏教経典と共に百済の聖明(せいめい)王から贈られました。いきさつには諸説ありますが、当時新羅に圧迫されていた百済が、日本を味方にする手段として仏教を利用した、との説が有力です。
ときの欽明天皇から豪族の蘇我氏に託された仏典と仏像は、飛鳥にあった蘇我氏の屋敷に安置されたと伝えられます。しかしこの仏像は、仏教の普及に反対した物部氏によって屋敷ごと焼かれ、今は残っていません。
現存する日本最古の仏像は、飛鳥の安居(あんご)院(通称・飛鳥寺)に安置されている釈迦如来坐像で、「飛鳥大仏」とも称されています。この仏像をつくったのは漢民族系渡来人の子孫、鞍作止利(くらつくりのとり)で、もともとは馬具などをつくる職人だったことが苗字から推測できます。止利はそのまま仏像をつくりつづけ、日本の仏師第一号となりました。
止利仏師の手による仏像及びそれを模した仏像は、「止利様式」と呼ばれます。代表作は、法隆寺金堂に安置されている「釈迦三尊像」でしょう。三尊像とは三体の仏像が一組になった形式で、中央が「中尊」と呼ばれるメインの像です。法隆寺金堂の釈迦三尊像の中尊に、止利様式の特徴がよく表れています。
釈迦三尊像 法隆寺
仏像の造形は時代ごとに変化していきますが、それが顕著に表れるのは顔です。止利仏師は一貫して、方円形の顔をつくりました。目は大きく開いた杏人形(きょうにんぎょう=アーモンド形)で、口は左右の口角がやや上がっている仰月(ぎょうげつ)形です。一目見て、頬笑んでいるように見えます。いわゆる「アルカイックスマイル」です。
アルカイックスマイルは紀元前6世紀頃のギリシャ彫刻を指す名称ですが、止利仏師が手本としたのはギリシャ彫刻ではなく、中国南北朝時代につくられた龍門石窟の像でした。インド、中国から朝鮮半島を経て日本に上陸した仏像は、中国式の仏像を模すことから始まったのです。
中国の影響をはっきり示すのは仏像の服装です。仏教が誕生したインドで最初につくられた仏像は、服装もインドの僧侶が身につける袈裟に倣っていました。袈裟は1枚の布を身体に巻き付けるのが原則で、インドには2種類のまとい方があります。両肩を左右対称に覆う「通肩(つうけん)」と、右肩を露わにして巻く「偏袒右肩(へんたんうけん)」です。
ところが、紀元0年前後に仏教が伝播した中国では、袈裟のまとい方に自国風のアレンジがなされました。中国の仏像は、袈裟に加えて下半身をぐるっと一巻きする裳(も)を用い、裳が落ちないよう胸元で紐が結ばれています。これは漢民族の服装がルーツです。
先述の止利仏師が最初に手掛けた飛鳥大仏にも、法隆寺金堂の釈迦三尊像にも、この胸元の紐が確認できます。ただ、その胸板は薄く、横から見ると不自然に感じることでしょう。この時代、仏像を横から鑑賞することは考えられなかったため、止利仏師は側面をほとんど気にせず制作したのです。
童子風のアレンジ
仏教美術において、飛鳥時代につづく区分は白鳳時代でした。「でした」と過去形で記すのは、現在多くの国立博物館では「飛鳥後期」と称されているからです。白鳳は大化のあとにつづく白雉(はくち)年間を讃えて言うときの「美称」で、正式な年号ではありません。そのため「飛鳥後期」と称されることになったのですが、仏像の様式は初期の飛鳥時代と明らかに変わるので、私は今も「白鳳」の名称を使っています。
白鳳期の仏像は顔つきが若々しく、目はかまぼこ形に変化しました。飛鳥仏がたたえていた頬笑みは消えています。なぜ突然仏像の表現が変わったのか。そこにもやはり中国の影響があります。白鳳時代(白雉年間)から中国との交流が盛んになったのです。
中国は618年から907年まで唐の時代がつづきますが、文学史や美術史では初唐(618~712年)、盛唐(712~826年)、中唐(762~826年)、晩唐(826~907年)と区分されます。
白鳳時代はこのうちの初唐に当たり、仏像制作も遣唐使が持ち帰る品物や情報の影響を色濃く受けたのです。初唐期の中国では、写実に向かう過渡期的な仏像がつくられていました。洛陽市近郊に残る龍門石窟賓陽南洞本尊が代表的な初唐仏で、角ばった頭部に豊かな頬が特徴です。
日本では頭部だけ残された興福寺旧東金堂の本尊・薬師如来像(釈迦如来説もあり)と、法隆寺の夢違観音が代表的な白鳳仏として知られています。どちらも初唐の仏像を模したつくりですが、初唐の像より頬のふくよかさと、合わせる唇のゆるさが増して、童子のイメージが強調されています。隣国の影響を受けてつくりながら、多少日本風のアレンジを加えたのでしょう。しかし、日本の仏像が明確に独自の姿に変化するのは、まだ300年ほど後のことです。
写実表現が完成する天平時代
奈良に都がおかれた奈良時代は美術史で言う天平時代に当たります。この時代、盛唐と呼ばれる絶頂期を迎えていた唐との交流はさらに盛んになり、さまざまな面で日本に影響がもたらされました。奈良遷都を行った元明天皇は、唐の都・長安に倣って奈良の都を碁盤の目状につくりあげます。
724年に即位した聖武天皇は仏教に深く帰依し、全国に国分寺と国分尼寺を建立して釈迦如来像を安置し、東大寺に大仏を建立しました。その理由として、聖武天皇の即位後に起きた地震や干ばつなど自然災害による飢饉や伝染病被害者を癒す、と詔(みことのり)で述べられています。しかし他方、聖武天皇が目指す中央集権国家確立のために、仏教を利用した側面もあったと目されています。
東大寺の大仏は、大乗仏教経典『華厳経』の中心的な仏である廬舎那仏(毘盧遮那仏)で、密教で言う大日如来と同一と考えられています。廬舎那仏も大日如来も全宇宙を統(す)べる仏と解釈されますので、東大寺の大仏は全国の国分寺、国分尼寺でその土地を護る釈迦如来像の司令塔として、国全体を護る役割です。つまり、東大寺がある奈良で、聖武天皇が仏教を通じて日本全土を統括している、という構図になります。
奈良時代の仏像は、正確な人体把握にもとづく表現がなされ、「人間」に近づくのが特徴です。それまで直立に近かった身体には動きが出始め、衣文も自然な表現になってきます。表情は豊かになり、心の内が顔にも表れるようになりますが、現在の東大寺の大仏の顔は、先に説明したように、江戸時代につくられたものです。
では、心の内まで見えるようになった天平時代の仏像とは、どんな表情なのでしょう。代表的な像を挙げるとすれば、東大寺の四天王像や興福寺の阿修羅像です。
飛鳥、白鳳時代の四天王は直立不動でしたが、天平になるといよいよ動きが出てきます。表情も仏教界のガードマンらしく引き締まり、筋肉質の身体にまとっているのは、オーダーメイドのようなぴったりした甲冑。邪鬼を押さえつけている足は、いまにも動き出しそうです。
興福寺の阿修羅像は、日本一人気の高い像と言われます。三面六臂の姿もさることながら、端正な正面の顔が憂いを浮かべた表情に見えることも人気の理由かもしれません。
阿修羅像 興福寺
つくり方に注目すると、白鳳時代まで大半が銅で制作し表面に鍍金(金メッキ)を施した金銅仏と木像仏だった仏像に、「塑像」と「乾漆像(脱活乾漆像、木心乾漆像)」が加わりました。やはり唐から伝わった制法で、東大寺の四天王像は塑像、興福寺の阿修羅像は脱活乾漆像です。
塑土(粘土)でつくる塑像は飛鳥時代に日本へ伝わり、天平時代になって盛んにつくられるようになりました。脱活乾漆像は木組みに粘土や土を塗った原型に麻布を貼り、表面に漆を塗って仕上げます。内部が空洞のため見た目より軽く、火災時などにすぐ担いで避難させることが可能です。
和様化した平安時代
奈良時代まで中国の影響を色濃く受けながら発展してきた仏像が和様化するのは、平安時代の後期でした。平安時代の初期には、唐から二つの大きな流れがもたらされます。一つは一木造(いちぼくづくり)の仏像で、名称の通り台座を含めたすべてを一本の木を削ってつくる仏像です。それ以前の木彫仏は、別につくった台座を仏像にはめ込んでいました。
一木造は、奈良時代に来日した鑑真和上と共に来日した仏師が最初につくり、平安期に普及したと考えられています。唐招提寺の伝衆法王菩薩立像や神護寺の薬師如来立像など、平安前期に数多くつくられた木彫仏は、身体も顔も肉厚で、厳めしい表情が特徴です。
厳めしい表情は、平安前期に伝来した密教の仏像にも見られます。日本の密教は、唐で学んだ最澄(伝教大師)の天台宗と、空海(弘法大師)の真言宗が始まりで、仏像においては密教の中心となる大日如来や、不動明王、帝釈天など厳めしい顔の明王や天部の像がつくられるようになりました。京都の東寺講堂には、空海が理想とした密教世界が21体の仏像によって表現され、「立体曼荼羅」と呼ばれています。
密教仏は唐の様式を色濃く継いだものでしたが、平安時代の後半になると和様化が始まります。894年に遣唐使が廃止され、907年に唐が滅亡したことが要因です。それまで唐の影響を受けて発展してきたものが、日本独自の表現に変化していったのです。
仏像の和様化を完成させたのは仏師・定朝(じょうちょう)でした。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像に代表される定朝の木彫仏は顔の輪郭と頬が丸く、鼻は低めで口元を軽く閉じています。平安初期に厚みを増したボディは、再び薄くなり、日本人の姿に近づきました。日本における仏像づくりが転換期を迎えたのです。定朝が完成させたこの様式は、「和様」、または「定朝様(じょうちょうよう)」と呼ばれ、日本の仏像の形態美となりました。
阿弥陀如来坐像 平等院
定朝は仏像のなかでも阿弥陀如来像を多くつくりましたが、これには社会的な背景があります。阿弥陀如来を信仰する浄土教は7世紀後半に日本へ入り、平安後期に差しかかる11世紀頃から急速に広がりました。それまで皇族、貴族が半ば特権的に信仰していた仏教が、庶民にまで浸透し始めたのです。
普及の背景にあったのは、「末法思想」でした。末法思想とは釈迦の教えが衰退し、社会も人も大混乱に陥るという思想で、平安後期からこの末法の世になると多くの人が信じ、怯えました。
そこで人々がすがったのは、死者が幸福に暮らせる極楽浄土(西方浄土、阿弥陀浄土とも言う)であり、その極楽へと導いてくれる阿弥陀如来でした。貴族たちはこぞって阿弥陀仏を発注し、庶民もまた阿弥陀仏を求めるようになったのです。
革命的な「寄木造」
中国の影響から脱して和様の仏像を完成させた定朝は、仏像の製法にも革命をもたらしました。それが、複数の木製ピースを合わせて組み立てる「寄木造(よせぎづくり)」です。制作過程で足りない部分に木を足すことは以前から行われていましたが、定朝の寄木造は複数の仏師がばらばらにつくった首、頭、胴体を組み立てるプラモデルのような形式です。これにより生産性が格段に高まり、急激に増加した造像需要に応えられたのでした。定朝はその功績で仏師として初めて僧位を得ています。
定朝を中心とする仏師集団はやがて枝分かれし、その一つである「慶派」から有名な運慶、快慶が登場します。奈良を拠点としていた慶派は、仏像の骨格や筋肉をデフォルメした力強い仏像を生み出しました。代表的な像は、東大寺南大門を護る阿形・吽形の仁王像で、もちろん寄木造です。
ところで、定朝が編み出した寄木造はせいぜい10ピースでしたが、それを継いだ慶派では、その数が一気に増加しました。身長8mの仁王像に使われたのは、3000以上の木製ピースです。仏像一体を3000ものピースに分けたのは、数ミリ単位の違いにこだわって完璧な形を目指すためだったと言われています。実際、1989年から5年がかりで行われた平成の大修理で、胸や臍の一部を制作過程で替えていたことが確認されました。仁王像は運慶と快慶の共作ですが、細かい指示を出して全体を指揮したのは運慶だと言われています。
「人間らしさ」を追い求めた鎌倉時代
平安時代が終焉を迎え、鎌倉幕府が成立すると、慶派仏師は活動場所を関東に移します。運慶が生み出すダイナミックで写実的な仏像は、新政権を担った鎌倉武士たちの好みとぴったり一致したのです。
前回のコラムでも紹介したように、目の部分に穴をあけて水晶をはめ込む玉眼や、紙や布でつくった内臓を仏像の体内に収めたのも慶派の特徴で、これがそのまま鎌倉仏の特徴ともなっています。
慶派の中心仏師である運慶と快慶は、いずれも「より人間らしい像」を目指し、伝統的な手法を学んだうえに個性を加えていきました。運慶の場合は年々アーティスト性を深め、後年の作は「行き過ぎた写実」とでも言うべきダイナミックな表現が目立ちます。
一方、熱心な浄土教信者だった快慶は、寄木造の阿弥陀如来像を数多くつくりました。躍動的な運慶仏とは異なり、平面的で穏やかな印象です。定朝の阿弥陀仏に比べてより繊細で華麗な着色が施されている快慶の阿弥陀仏は「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれ、令和の今に至るまで「阿弥陀像の典型的な姿」と評されています。
日本における仏像の造像は、鎌倉時代の運慶、快慶で完成を迎えた、と目されています。仏像関連の書物も、鎌倉時代の表記で締めくくられているものが大半です。
実際、鎌倉につづく室町、江戸時代には、傑出した仏師が出現していません。しかし、平安後期から仏教と仏像は庶民に広がりつづけ、江戸時代には遠方の仏像を江戸に運んで見物する「出開帳(でかいちょう)」という催しが盛んに行われました。今で言う博物館展示ですが、江戸時代には寺などで開催されていました。なかでも法隆寺の夢違観音が人気を呼んだ、と伝わっています。
夢違観音 法隆寺
意外と面白い江戸時代
江戸時代につくられた仏像に関しては、資料が乏しいのが現実です。しかし、この時代には、非常に特徴ある仏像がつくられていました。私が近年注目しているのは、江戸時代につくられた中国風の仏像です。
平安後期に「和風」を確立したはずなのに、なぜまた中国風の仏像が江戸時代に出現したのか。その鍵を握るのは中国からやってきた隠元禅師です。
日本で黄檗(おうばく)宗を開いた隠元禅師は、インゲン豆や文字の明朝体、20字×20行の原稿用紙を日本にもたらした人物でもあります。しかし、彼が黄檗宗寺院に建立した仏像についてはあまり知られていません。おそらく私たち日本人がイメージする「仏像」とはかけ離れているため、注目されなかったのでしょう。
隠元禅師が建立した京都の萬福寺など、黄檗宗寺院を中心に安置されている中国風仏像には、仏教とは関連のない中国古来の神や三国志の英雄・関羽を仏教の仏にしたものまでが含まれています。これら黄檗様の仏像は、中国福建省出身の范道生(ぼんどうせい)が土台をつくり、范に師事した日本人仏師・松雲元慶(しょううんげんけい)によって江戸の町に広がりました。
たとえば「招き猫の寺」としても知られる東京世田谷区の豪徳寺や、目黒区の五百羅漢寺にも松雲仏師の手による中国風仏像が安置されています。
以上、仏教美術史を学ぶ学生に1年かけてする講義を、ぐっと凝縮してお伝えしました。この小文が、少しでも仏像鑑賞の手引きになれば、あるいは好きな仏像を見つけるための参考になればうれしく思います。
魅力のある仏像は奈良や京都だけにあるわけではありません。有名なお寺だけにあるわけでもないのです。皆さんの家の菩提寺、あるいは近所のお寺にも、ワケがあって隠されている素晴らしい仏像、まだ魅力を知られていない仏像が眠っているかもしれません。
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