環境再生

Facebook兼井 浩さん投稿記事 ■「杜人 環境再生医 矢野智徳の挑戦」

「息をしている限り、まだ間に合う」ある人は「地球の医者」と呼び、ある人は「ナウシカのよう」と言う。人間よりも自然に従う風変わりな造園家に3年間密着。

全国で頻発する豪雨災害は本当に「天災」なのか?風のように草を刈り、イノシシのように大地を掘って環境問題の根幹に風穴をあける奇跡のドキュメンタリー。

「虫たちは風通しの悪いところにつく。葉っぱを食べて空気の通りをよくしてくれているんですよ」

「イノシシはただ食べものが欲しくて土を掘っているわけじゃない。循環が悪い大地を掘って、空気の通りをよくしてくれているんです」

「草は根こそぎ刈ると反発していっそう暴れる。風に倣って刈るとおとなしくなるんです」

「大地も人間と同じように呼吸し、地下を血液のような脈が流れています。それを人間が塞ぐから呼吸不全や動脈硬化が起こる。土砂崩れは大地の深呼吸なんです」

植物はともにこの地球を生きる仲間。セミも、カニも、イノシシも、人間以外の生きものはみんな空気と水が循環するように日々環境改善している。その循環の輪から人間だけがはみ出してしまっていることが、いま、災害という形で人間社会に還ってきている。

人間目線から遥か遠く、植物や虫、大地、生きとし生けるものの声を代弁するかのような言葉は、まるでナウシカのよう。風のように枝を払い、穴を掘る様子はイノシシのよう。一日の作業を終えたとき、その場にはスッと息が整うような、なんとも言えない清涼感が漂っていた。

こんなふうに自然と関われたらどれほど豊かに生きられるだろう、いや、人間であることの罪悪感が少しは軽くなるかもしれない。

泥だらけになって土を掘り、汗だくで草を刈り、一日作業をした最後に「楽しかった」と満面の笑顔を浮かべる人がたくさんいる。人間らしい充足感、幸福感というのは、かつての「結(ゆい)」……人と人、人と自然の共同作業があってはじめてもたらされるものではないだろうか。

ナウシカにはなれなくても、かつての人々が皆そうしたように、移植ゴテ一本、ノコ鎌一本でもっと自然と仲良くなれることを、人間という動物の遺伝子はきっとまだ憶えている。

「この場所を 傷めず 穢さず 大事に使わせてください」と、人が森の神に誓って 紐を張った場=「杜(もり)」。

忘れ去られたこの言葉が、その記憶の小箱を開く鍵となることを願って。

■豪雨災害を防ぐために誰もができることがある。「杜人〜環境再生医・矢野智徳の挑戦」完成・公開プロジェクト!

https://www.youtube.com/watch?v=ySrnMT2v1ls

https://motion-gallery.net/projects/moribito

■「大地の再生の手法②風の草刈り」6分30秒

https://www.youtube.com/watch?v=Q9VIQMGznNY

Facebook清水 友邦さん投稿記事  8月28日は山尾三省の命日です。

山尾三省は草や木、虫や動物、火と水と風と大地、自然と暮らすことの素晴らしさを、田畑を耕しながら屋久島で著作活動を送った詩人です。

「山尾三省の遺言」

 僕は父母から遺言状らしいものをもらったことがないので、こ こにこういう形で、子供達と妻に向けてそれ書けるということが、 大変うれしいのです。

 というのは、ぼくの現状は末期ガンで、何かの奇跡が起こらな い限りは、2、3ヶ月の内に確実にこの世を去って行くことにな っているからです。

 そのような立場から、子供達および妻、つまり自分の最も愛する者達へ最後のメッセージを送るということになると、それは同 時に自分の人生を締めくくることでもありますから、大変身が引き締まります。

まず第一の遺言は、僕の生まれ故郷の、東京・神田川の水を、もう一度飲める水に再生したい、ということです。

神田川といえば、JRお茶の水駅下を流れるあのどぶ川ですが、あの川の水がもう一度飲める川の水に再生された時には、劫初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時であると思います。

 これはむろんぼくの個人的な願いですが、やがて東京に出て行くやもしれぬ子供達には、父の遺言としてしっかり覚えていてほしいと思います。

 第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほし いということです。

自分達の手で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、ぼくは考えるからです。

 遺言の第三は、この頃のぼくが、一種の呪文のようにして、心 の中で唱えているものです。

その呪文は次のようなものです。

 南無浄瑠璃光・われらの人の内なる薬師如来。

 われらの日本国憲法の第9条をして、世界の全ての国々の憲法 第9条に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべて の国々のすべての人々の暮らしの基礎となさしめ給え。

以上三つの遺言は、特別に妻にあてられたものなくても、子供 達にあてられたものでなくてもよいと思われるかもしれませんが、 そんなことはけっしてありません。

ぼくが世界を愛すれば愛するほど、それは直接的には妻を愛し、 子供達を愛することなのですから、その願い(遺言)は、どこま でも深く、強く彼女達・彼ら達に伝えられずにはおれないのです。

 つまり自分の本当の願いを伝えるということは、自分は本当に あなたたちを愛しているよ、と伝えることでもあるのですね。

 死が近づくに従って、どんどんはっきりしてきてることですが、 ぼくは本当にあなた達を愛し、世界を愛しています。

けれども、だからといって、この三つの遺言にあなたがたが責任を感じることも、負担を感じる必要もありません。

あなた達はあなた達のやり方で世界を愛すればよいのです。

市民運動も悪くないけど、もっともっと豊かな”個人運動”があることを、ぼくたちは知ってるよね。

その個人運動のひとつの形としてぼくは死んでいくわけですから。

『MORGEN』2001年7月7日号より転載

「火を焚きなさい」山尾三省 

山に夕闇がせまる

子供達よ

ほら もう夜が背中まできている

火を焚きなさい

お前達の心残りの遊びをやめて

大昔の心にかえり

火を焚きなさい

風呂場には 充分な薪が用意してある

よく乾いたもの 少しは湿り気のあるもの

太いもの 細いもの

よく選んで 上手に火を焚きなさい

少しくらい煙たくたって仕方ない

がまんして しっかり火を燃やしなさい

やがて調子が出てくると

ほら お前達の今の心のようなオレンジ色の炎が

いっしんに燃え立つだろう

そうしたら じっとその火を見詰めなさい

いつのまにか

背後から 夜がお前をすっぽりつつんでいる

夜がすっぽりとお前をつつんだ時こそ不思議の時

火が永遠の物語を始める時なのだ

それは

眠る前に母さんが読んでくれた本の中の物語じゃなく

父さんの自慢話のようじゃなく

テレビで見れるものでもない

お前達自身が お前達自身の裸の眼と耳と心で聴く

お前達自身の 不思議の物語なのだよ

注意深く ていねいに

火を焚きなさい

火がいっしんに燃え立つように

けれどもあまりぼうぼう燃えないように

静かな気持で 火を焚きなさい

人間は

火を焚く動物だった

だから 火を焚くことができれば 

それでもう人間なんだ

火を焚きなさい

人間の原初の火を焚きなさい

やがてお前達が大きくなって 

虚栄の市へと出かけて行き

必要なものと 必要でないものの見分けがつかなくなり

自分の価値を見失ってしまった時

きっとお前達は 思い出すだろう

すっぽりと夜につつまれて

オレンジ色の神秘の炎を見詰めた日々のことを

山に夕闇がせまる

子供達よ

もう夜が背中まできている

この日はもう充分に遊んだ

遊びをやめて お前達の火にとりかかりなさい

小屋には薪が充分に用意してある

火を焚きなさい

よく乾いたもの 少し湿り気のあるもの

太いもの 細いもの

よく選んで 上手に組み立て

火を焚きなさい

火がいっしんに燃え立つようになったら

そのオレンジ色の炎の奥の

金色の神殿から聴こえてくる

お前達自身の 昔と今と未来の不思議の物語に 耳を傾けなさい

「水が流れている 」山尾三省

水は どこにでも流れているが

その水が ほんとうに

真実に流れることは あまりない

多くの時には

水はただ流れているだけで 真実に流れることはない

水が私になる時

水ははじめて 真実に流れるのであるが

水は 私にならないし

私は なかなか水にはならない

私たちは ほんとうは

かっては水であり 水として流れ

水として如来したものたちであった

私たちは ほんとうは

今も水であり 水として流れ

水として如来しているものたちである

水は 流れ去り 流れ来る

億の私たちであり ただひとりの私である

森の底を

水が流れている

深い森の底を 深い真実の

水が 流れている

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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