五島神楽

「五島神楽」に神圖舞には、「峰は八つ門は九つ戸は一つ我が行く先はあららぎが里あららぎが里」という件があり、旧事本紀の天隠山と関係がありそう。

https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/312/00000793 【五島神楽】より

 五島神楽は、長崎県五島列島の各地で伝承され、地元の各神社の祭礼の折などに行われている。これらの神楽は、一間四方の畳二畳分という狭い場所の中をめぐるように舞うもので、二基の太鼓と笛、時に鉦の演奏にのせて舞われている。

 五島列島は、長崎市の西方約一〇〇キロメートルにある一四〇ほどの島々で、一市一二町がある。この地域の神楽に関しては、一七世紀に長刀舞【なぎなたまい】を舞ったことや江戸時代に十二番神楽が上演された記録が残っている。かつては列島全体で神楽が伝承されたが、現在、神楽が演じられる神社は、福江【ふくえ】市、北松浦郡宇久町【うくまち】、南松浦郡の富江町【とみえちょう】、玉之浦町【たまのうらちょう】、岐宿町【きしゅくちょう】、上五島町【かみごとうちょう】、新魚目町【しんうおのめちょう】、有川町【ありかわちょう】の一市七町で確認されている。

 五島神楽のうち上五島町と新魚目町を中心に伝承されている神楽は、上五島【かみごとう】神楽として昭和五十六年(一九八一)に長崎県の無形民俗文化財に指定されている。上五島神楽は、毎年、両町内の一四社の祭礼をはじめ有川町の三社の祭礼のほか、参詣人の個人的祈願の際にも希望に応じて上演されている。上五島町の青方【あおかた】神社では、旧暦一月一日の春祭り、新暦七月十六日と十七日の祇園祭、新暦十一月二日と三日の例大祭で公開されている。同社拝殿は二〇畳ほどの畳敷きで、その中央のやや本殿寄り畳二畳分の広さが板敷【いたじき】になっていてマイイタと呼ばれている。神楽は基本的にマイイタの中だけで舞われる。青方神社の秋の例大祭では、十一月二日に地区内の御輿渡御【みこしとぎょ】の後で、夜の七時ころから九時三〇分ころと翌三日の午前一一時ころから一二時ころに神楽が行われる。本殿に向かって右側に二基の太鼓を据え、それぞれ打ち手がつき、別に笛がいる。上五島神楽は三〇演目を伝承し、二日の夜は、そのうち一五、六演目が舞われる。一人舞が多いが二人、四人、五人の舞もある。手に御幣【ごへい】や鈴、扇などを持ち、狭いマイイタの中を、ぐるぐるとめぐる舞が多い。最初に場を浄める「座祓【ざはらい】」が舞われる。両手に御幣を持った舞である。このような儀式的な演目の間に、米をいれた盆を左右の手のひらで支え、盆の米がこぼれないように急速に回転する曲芸的な「折敷舞【おしきまい】」なども舞われ、最後は獅子舞で、周囲の大勢の子どもたちから大きな掛け声が掛かる。 

https://ameblo.jp/shiogama4081121/entry-12547258830.html 【古代の叡智「天隠山(あめのかぐやま)理論」】より

 『謎の根本聖典 先代旧事本紀大成経(徳間書店)』の著者、後藤隆さんは、『先代旧事本紀大成経』――以下『大成経』――を貫く一本の背骨のような理論を、便宜上、「天隠山(あめのかぐやま)理論」と名づけております。通常の『先代旧事本紀』で「天香語山」と表記されるカグヤマを『大成経』では「天隠山」と表記しているわけですが、『大成経』の思想上、この漢字表記には重大な意味がこめられております。『大成経』には「天隠山八十万里、地水湛山五十万里」という一文があり、後藤さんによれば「つまり、真ん中に高さ八十万里の天隠山があり、その周囲を高さ五十万里の地水湛山(くにのみずたたえやま)がとりまいているという」とのことでした。後藤さんは引き続き次のように述べます。

――引用:前掲書――

 この構造を頭に入れておいていただき、地水湛山を東西南北に分けたものをイメージしていただきたい。中心部がひときわ高く、その四方にそれよりは低い四つの山が取り囲んでいる。それはまさにアンコールワットの構造そのままではないか。

 実は日本の前方後円墳も同じものを表している。

 前方後円墳というのは、三角形の先端に丸を突き刺したようなかたちをしているが、これは天隠山を中心軸とした宇宙の回転を表しているのだ。

 『旧事本紀』には、「天隠山八十万里の中ほど、四十万里は天に隠されている」と記されている。実は天隠山という名の由来もここにある。天に上のほうが隠されている山だから、天に隠れる山ということで「天隠山」というわけだ。

 天の動きは『旧事本紀』を解読して求められる乱数表によって割り出すことができるので、前方後円墳のようなものを作り、天の運行を当てはめていくと、さまざまなことを占うことができる。天の巡りと地の数字を合わせ、この年はどういう年かということを知り、それに従って神事を決め、祭事を行うことができるということだ。

 この前方後円墳を立体的に立ち上げ、天に相当する円の部分を省略したものが、エジプトのピラミッドである。

 後藤さんが言う『旧事本紀』とは『大成経』のことです。前に触れましたが、後藤さんはいわゆる『先代旧事本紀』については「10巻本」と表現し、これはあくまで『大成経』の「ダイジェスト版」に過ぎないとしております。つまり72巻本の『大成経』こそが『旧事本紀』の完本であるから、これをごくあたりまえに「旧事本紀」と表現する姿勢で稿を進めているのです。

 また、ここでアンコールワットやらピラミッドやらが出てきて面食らった方もいるかもしれませんが、これは後藤さんの考える「天隠山理論」が「森羅万象の発生理論」として「普遍的な学問」であるという前提があるためです。 前に触れましたが、後藤さんは『大成経』の実質編纂者と考えられる「秦河勝(はたのかわかつ)」、すなわち「秦氏」が、自称どおりの「秦(しん)の始皇帝」直系一族であろうことはもちろん、さらにその根源をたどれば、はるか古代にエジプトやバビロニアも恐れたという「ヒッタイト・ハッタイト」帝国の、特に「ハッタイト民族」ではなかったか、と考えているのです。

 ヒッタイト・ハッタイト帝国は、ヒッタイト民族とハッタイト民族の両者が一つとなって作り上げた帝国とのことです。ヒッタイト民族は、「青銅」が主流の時代にあって、世界で初めて「鉄器」を発明し、その技術によって強力な軍事力を有したといい、ハッタイト民族は高度な学問を有していたのだそうです。この帝国は紀元前1200年頃から衰退し始め、姿を消してしまったと言われております。後藤さんによれば、「帝国が崩壊したといっても、何か大きな戦いがあって滅ぼされたというわけではない」とのことで、彼等は「各地に散っていき、結果として帝国は衰退したと考えられる」のだそうです。そして後藤さんはこう続けます。

――引用――

 その各地に散っていった中の一つが中国を統一し、秦の始皇帝を輩出したのだろう。そしてその母体となったのは、ヒッタイトではなくハッタイト民族だと思っている。

 技術は常に新しい発見に駆逐されていくが、学問は違う。しかもそれが超古代の叡智に繋がるものであれば、決してほろびることはない。学問を持っていたハッタイト民族は、どこへ流れていっても、その国の重要なポストに就けたはずだ。

 世界中に散っても尚各地で存在感のあるユダヤ人を思えば、その理屈はわかるような気がします。正直なところ、このあたり私も詳しくはないのですが、後藤さんの学生の頃は「ヒッタイト・ハッタイト」文明として学んでいたそうで、最近の教科書では「ハッタイト」の名が消え、ただの「ヒッタイト」文明になってしまっているのだそうです。いずれ、その高度な学問を有する「ハッタイト」民族の末裔が「秦の始皇帝」であり、秦氏であったのだろう、というのが後藤さんの仮説なのです。

 さて、「天隠山」を図式化して考えるならば、まず高さ八十万里の円錐形の主峰があり、その周囲に三十万里低い山々が取り巻いているということになります。そして、その主峰の上半分は「天」という名の球体に隠れているとのことです。

 言うなれば、前方後円墳の後円部分を上にして立体的立ちあがらせて、いわば巨大なテルテル坊主、あるいは一昔前の空気銃の弾のような姿とでも言えばいいのでしょうか。テルテル坊主の頭が「天」すなわち宇宙空間にあたるわけですが、これが回転しているのだそうです。要はそれが太陽も含む星座の動きを表しているということになるのでしょうか。この回転の動きは、『大成経』解読の結果に求められる乱数表によって割り出すことが出来るとのことで、それによってさまざまなことを占うことも出来るのだそうです。

 ここで私達が意識しておきたいのは、当然ながら推古帝時代にはまだコペルニクスの「地動説」が存在していなかったということです。『大成経』が仮に17世紀の創作だとしても、地動説が公に受け入れられ、日本に伝わったのは、一般に八代将軍吉宗の時代と言われておりますので、『大成経』の焚書事件よりもやや遅れた時代になります。したがってこのテルテル坊主の図式は、あくまで天空が回る「天動説」の感覚で受け止めておくことが適当かもしれません。

 もちろん、後藤さんの言葉を信じるならば「天隠山理論」は現代科学よりも優れたものであるはずなので、そういう意味ではこの理論を理解出来たならば地動説どころか宇宙の起源であるビッグバンに至るまでも全て因果づけることが出来るはずです。言うなれば、この理論を極めることは物理学に言う万物を知り得る仮想生物「ラプラスの魔物」に近づく術でもあるのでしょう。ただ、これは古代の叡智である一方で一つの宗教であり、はたまたイデオロギーにもなり得るものです。したがって、それがどのようなものか云々について、本来、当該書籍“一愛読者”に過ぎない私が一朝一夕の知識で述べることは、数字に弱い「ハクション大魔王」のような私が「相対性理論」について述べること以上に大変おこがましい話でもあります。正直なところ、出来れば触れるのを避けておきたい部分でもあるのですが、そう言ってしまっては話が進まないので、さしあたりその風景に触れている次第です。今触れていることは、あくまで「天隠山理論」に対して“私なり”に受け止めた“風景”であるということを念押ししておきます。

 このように言い訳がましい補足をしてでもこの理論に触れておきたかったのは、このような思想を脈々と伝え続けてきたのが何者であったか、ということを少しでも絞り込みたかったからに他なりません。

 『大成経』の序文を信じるならば、これは推古天皇の元、聖徳太子と蘇我馬子、そして太子のブレーンとされる秦河勝が主役であることになります。

 おおよそ、そのとおりだと思います。思うに、特にこの秦河勝という部分は信頼していいのではないでしょうか。

 しかし、一般的な『先代旧事本紀』、つまり後藤さんのいうダイジェスト版の『10巻本』については、近世の研究によってその内容からまるっきり反対の第三勢力である「物部氏」の末裔が黒幕であろうとされております。どんどん混乱していきそうにも見えますが、私の頭の中では両者にさほどの矛盾はありません。


https://frogcroaks.hatenablog.com/entry/2019/09/29/140647 【山八つ谷九つ身は一つ我が行く末は柊の里】より

歴史民俗系 川中島八兵衛

やまがやつ、たにがここのつ、みわひとつ、わがゆくすえわ、ひいらぎのさと

「山が八つ、谷が九つ、身は一つ、我が行く末は柊の里」

川中島八兵衛御詠歌二番の歌詞であり、お札にも書かれるこの文句。八兵衛の御利益のあらたかさを讃えるものである御詠歌のなかで、二番の歌詞だけが異色というか、どういう意味があるのかはっきりしません。いったい誰かどういう理由でどこの柊の里へ行くのでしょうか。

この文句は紙に書いて家の戸口に貼るとか、三回唱えるとかすると、疫病除けになるともいわれていたそうです*1。こうした扱いをみるに、意味のある文章というよりは、一種の呪文のようなものだったのかなという感じがします。

で、山が八つとか柊の里とかなんだろうということですが、これについては現在までのところ以下のような説が唱えられてきました。

修験道醍醐寺当山派の疫癘払いの呪文

もっとも御詠歌の二番にある「山が八つに谷九つに身はひとつ、我が行く末は柊の里」は「□□□*2」(藤枝市茶町2丁目天野信直提供)という修験道醍醐寺当山派の呪文「サワリナス荒振神ヲオシナヘテ ヱキレイ拂アララ木(現在はイチイのことを云うが古代はフジバカマ・ノビルなどをさす)ノサト ミ子(峰)ワ八ツタニ(谷)ワ九ツ戸(身)一ツワカ(我が)ユクサトワアララギノサト 云々」に由来するものと考えられ、八兵衛(または八郎兵衛)は同家*3の縁者ながら修験の群に身を投じ、高野山などで修業に励んだものと見られる。

大井川町史編纂委員会編『大井川町史』下巻、大井川町、1992年、p.817

密教思想の呪文

「やまやつ」は胎蔵界八葉曼荼羅、「たにはここのつ」は金剛界九界曼荼羅、「みはひとつ」は胎(理)・金(智)両部の一元を意味するもので、密教思想の呪文のように思える。

静岡県編『静岡県史』資料編24民俗2、静岡県、1993年、p.1127

八兵衛出身地候補の一つである御坊市の地名

参考に、吉田家は、御坊市に有る道成寺より南へ一直線に出た藤吉田町*4で、田園地帯に有りその北西に八兵衛さんの御和讃に有る山八つとは、八幡山、其の山の北側に、九艘谷(くそうだに)、谷は九つと詠はれる。*5

川村辰己『川中島八兵衛見聞の記』1991年、p.2

しかしどこか別のところで聞いた気がする……

それはそれとして、この「山八つ谷九つ」という文句、どこかで聞いたこともしくは読んだことがあるような気がしていたのです。なんだろうと思って調べてみて、たぶん八岐大蛇の八丘八谷だったらしいと思い至りました。

で、調べている過程で知ったのですが、「山八つ谷九つ」と似たような文句が他地域の神楽歌などにもみられるのでした。たとえば以下のように。

石見神楽・道反しの神楽歌「峰は八つ谷は九つ音にきく、鬼の住むちょうあららぎの里」*6

高千穂神楽の神楽歌「谷が八つ峯が九つ戸が一つ鬼の住処はあららぎの里」*7

広島県広島市八幡川水系の荒平舞「峯は八つ、谷は九つ戸は一つ、我らが通ひし道は一時が一時。(五日市)」「峯七つ谷は九つ戸は一つ、鬼が住む町あららぎが里、峯七つ谷九つこれやこの、大葉の通う時は一時。(白川)」*8

東京都奥多摩町の獅子舞歌「山が八つ谷が九つ是は又 御前御出での御礼なるもの(大氷川)」「山が八つ谷が九つこれは又いせんおいでのお礼なるもの(小留浦)」*9

東京都西多摩郡檜原村人里の獅子舞・ふじがかり「山わ八つ 谷は九つ これわまた 入りは よくみて でわに迷うな」*10

三重県亀山市加太北在家のたいこ踊り唄・獅子踊「峯は八つ、谷は九つ川越えて、それへまいりて御目にかかろよ。」*11

行者が行う送り出し流行病法の神歌「峰の八ツ谷は九ツ山こえて道は一ツで迷ふ方なし」*12

岡山県真鍋島のはらいた(腹痛)や高熱のまじない「我本所は祇園なる彼方にここのつそねはやつらんやあららぎの里」*13

このように、どうやら様々な信仰や芸能に絡んで広く流布していた文句だったようなのですね。

7番目などはもろに流行病除けであり、『大井川町史』掲載の修験道の呪文とも通じるものがあり、これはもしや修験道が元ネタかという気持ちになってしまいます。ただ、似てる度合いだけでいえば神楽歌も似てますね。8番目は明確な類似点はないが、「あららぎの里」とかなんとなく語感が似てる気がしたのでメモっておきました。

ところで神楽歌や修験道の呪文にもみられる「あららぎの里」ですが、各地に伝わる八兵衛御詠歌のなかでも藤枝市高田のものは「柊の里」ではなく「あららぎの里」だったそうです*14。もしかしたら八兵衛御詠歌も元はあららぎだったのでしょうか。

あららぎってあまり身近な言葉ではないと思うのです。いわれて何かわからない。柊のほうが普通に生えてる。音が似ているからより親しみのある柊に変化してしまったとも考えられます。それとも、柊に何か特別な由縁があったのでしょうか。関係があるのかどうか、旧大井川町上小杉の高畑組の八兵衛碑*15は、かつては成案寺川畔の大きな柊の木の下に安置されていたそうな*16。

柊の里よいずこ

それで、結局、「山八つ谷九つ」とか「あららぎの里」、「柊の里」とはなんなのでしょうか。

たぶん、最初のほうで述べたように、意味のある文章というよりは、一種の呪文のようなものなのだとは思います。想像をたくましくするなら、八兵衛が生前、病除けとして用いたことがあるのかもしれません。ただ、八兵衛の生前の活動や御詠歌が作られた過程などが不明である以上、この文句の由来もわかりません。

他地域の神楽歌などではこの文句は何を意味しているのでしょうか。

高千穂神楽においては「あららぎの里」は高千穂神社があるあたりのこととされ、かつて三毛入野命に退治された鬼八(キハチ)が住んでいたということだそう。高千穂には鬼八の首塚や力石、膝付き石など、鬼八にまつわる遺跡が今も残るそうな。

石見神楽の道反しも鬼退治のストーリーであり、やはり山奥の鬼の住む場所という意味のよう。「あららぎの里」を「荒れ狂う里」とする説明もありました*17。

おまじないに現れる山が意味するところについて、ハルトムート・オ・ロータモンドはこのように述べています。

病み目や虫歯治療関係の歌では、悪が追い払われる所が奥山とされる。また「峯は八つ、谷は九つ、山は三つ」等の唱えごとの場合にも同様の意味が含まれている。

ハルトムート・オ・ロータモンド「和歌にみる日本人の宗教心」

この「峯は八つ、谷は九つ、山は三つ」の唱えごとがどのような時に用いられるのかわからないのですが、ともかく、いくつもの山や谷を越えた奥山へ災いを追いやってしまうということのようです。

では、八兵衛御詠歌二番に込められたイメージはなんなのでしょう。山越え谷越え柊の里へと行く者、「我が行く末」というからには御詠歌を唱える本人か八兵衛のようにも思えますが、これを「お前の行く末」ととって病魔をそこへ追いやるのだと考えることもできます。

八兵衛御詠歌について、長谷川一孝は以下のように述べています。

然し、紀伊国川中嶋小長谷八兵衛とある以上、生まれは紀伊国のどこかであろうし、何かのきっかけで八兵衛が信仰され、それが六部によって志太地区に勧請されたのかもしれない、と考えられないこともない。

その点については、八兵衛ご詠歌二番、四番の文は、示唆的であるとも考えられる。

長谷川一孝「川中嶋八兵衛」大井川民俗の会編『民俗大井川』第1号、大井川民俗の会、1973年、p.38

八兵衛信仰が六部によって勧請され云々というのは、藤枝市弥左衛門で紀伊国から八兵衛を勧請したという話が聞かれたこと、志太地区において六部が庚申堂勧請などに関わったとする伝承があることなどから導かれた仮説です。長谷川が弥左衛門の伝承に注目するのは、この付近に最も古い八兵衛碑が集中しており、「志太地域に於ける八兵衛信仰発祥の地ではないか」とも考えられるためです。*18

発祥の地はともかくとして、ここで今一度、長谷川の指摘する御詠歌二番と四番を確認してみます。

二番「山が八つ、谷が九つ、身は一つ、我が行く末は柊の里」

四番「紀の国は遠きわたりと聞きぬれど、祈れば近いお恵みもあり」

紀の国は遠いところと聞いたけれど、祈れば近いお恵みがある。「近い」とは空間的時間的に近いこと、この場で祈ればすぐにお恵みがあるという風にも読めます。こうみると、「お恵み」は本来は遠く紀の国にあったかのようです。

長谷川もそう述べているように、碑銘にもよく見られる「紀伊国」は八兵衛の出身地とする説が主流です。紀伊国といえば紀伊山地、熊野三山、高野山、それに西国三十三所霊場もあり、なんとなく山、かつ、有難いお恵みがあふれていそうな土地という感じはします。長谷川説にのっとるなら、恵みあふれる紀伊国の「山八つ谷九つ」越えた奥深くにある八兵衛の故郷「柊の里」というイメージになるのでしょうか。

しかし、結局、「柊の里」へと行く「我」とは誰なのでしょう。個人的には、御詠歌二番は八兵衛が人々の願いを背負ってどこか遠くへ旅立つようでもあるし、四番をみると八兵衛が紀伊国からなんらかの有り難いものを運んできてくれるようなイメージが湧きます。御詠歌を実際に唱えていた人たちは、これらの文句にどのような印象を持っていたのでしょうか。

ところで、八兵衛とは関係ありませんが、旧紀伊国、和歌山県には、「蘭島(あらぎじま)」というところがあるんですね。川に囲まれた島のような土地なのです。残念ながら柊島ではないのですが。

*1:大房暁『山西の特殊信仰』(西駿曹洞宗史)久遠山成道寺、1961年、p.21

*2:「竹かんむりの下に、車へんに、疑の右側」「竹かんむりの下に、雁だれの下に、斬」「乙」。読めない。

*3:大井川町が中心となった調査において八兵衛出身地と推定された和歌山県御坊市の旧家吉田家のこと。

*4:藤田町吉田の誤り。

*5:和歌山県で八兵衛出身地の調査にあたったのは、大井川町より依頼を受けた御坊市の郷土史家である熊代佐市。よってこの説の出所は熊代と思われる。

*6:道がえし(鬼がえし) | 石見神楽演目紹介 | 石見神楽公式サイト

*7:高千穂町の民話と伝承 - 高千穂町コミュニティセンター

*8:三村泰臣「八幡川水系の神楽」

*9:各地の獅子舞歌 - 高水山古式獅子舞

*10:神無月の道(人里の獅子舞)...月に翔ぶ注連縄・完 | ゴン太親父のお散歩日記

*11:亀山市史民俗 口頭伝承

*12:柄澤照覚『神仏秘法大全』神誠館、1901年、p.145

*13:第5章 真鍋島の習俗 | 真鍋島の歴史と習俗(伝承の記録)

*14:長谷川一孝「川中嶋八兵衛」大井川民俗の会編『民俗大井川』第1号、大井川民俗の会、1973年、p.35

*15:現在は上小杉の自衛隊官舎近くの墓地にある。

*16:静岡県編『静岡県史』資料編24民俗2、静岡県、1993年、p.1125

*17:解説付き! 嘉戸神楽社中 道がえし - YouTube

*18:長谷川は藤枝市泉町(旧弥左衛門川原)の碑に「嘉□七年丑七月」の文字を発見しており、これが嘉永7年であれば最古の八兵衛碑になる。その次は安政6年で、藤枝市高岡(兵太夫上)の碑と同市高洲(兵太夫南)の碑の2基。ただし弥左衛門川原では八兵衛は川除の人柱になったと伝えている。(長谷川 pp.37-39)

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