https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12439121161.html 【日本のペトログラフ】より
ペトログラフ(岩刻文字)の所在地は海の民(海人族安曇氏、Y-DNAハプログループC1)に関わり、大体、海岸に近いところにあるようだ。
まだ、かつて海人族安曇氏が陸上がりしたところなら内陸にもあるようで、滋賀県の安曇川町とか長野県の安曇野市は海人族安曇氏ゆかりの地として有名である。
参考
① 安曇川町の神代文字石 滋賀県高島市安曇川町三尾里
② 安曇野市の神代文字道祖神 神代文字道祖神 神代文字道祖神(左端)・日本最大文字道祖神 野県安曇野市豊科
③ 国東半島の神代文字 ペトログラフ(参考) 大分県国東市国東町大恩寺
④ 北九州市門司区のペテログラフ 福岡県北九州市門司区藤松3丁目2
⑤ 下関市の彦島八幡宮のペテログラフ(参考) シュメール 人のペトログラフとされている。
下関市彦島迫町5丁目12−9 彦島八幡宮
元々は杉田丘陵にあったもので、「杉田岩刻画」とも言われ、桟橋通りバス停と杉田バス停を結ぶかつての主要道「地蔵峠(じぞうだお)」の頂上付近から東側に階段を上り(上り口に標識有り)、民家の庭先を通り抜けた所にあった(参考)。
⑥ 下関市の角島のペトログラフ岩 シュメール 人のペトログラフとされている。 つのしま自然館下関市豊北町大字角島893−1
⑦ 北九州市門司区の淡島神社のペテログラフ 北九州市門司区奥田4丁目9−5 淡島神社
⑧ 宮島の弥山のペトログラフ (参考)(参考) 広島県廿日市市宮島町 紅葉谷公園 獅子岩展望台
⑨ その他のペトログラフ(wikiより)・手宮洞窟(北海道小樽市)・フゴッペ洞窟(北海道余市郡)・大面遺跡(青森県弘前市)・水窪遺跡(静岡県磐田市)・笠置山(岐阜県恵那市)
・ドルメン遺跡(滋賀県滋賀郡)・幣立神社(熊本県上益城郡山都町)・押戸ノ石(熊本県阿蘇郡南小国町)
10 国東半島のペトログラフ 、豊国文字、日本文字の起源(参考)
11 下関の彦島の神社に伝わる岩に文様が刻まれています。この文様は明らかに人工的な物と思えます。東京の方では古代ミステリーとして持て囃されているそうです。この文字はハワイや環太平洋で確認されてるらしい。ペトログラフの学問はまだ発展途上の学問なので、これから新発見などあるやも知れません。これからも静かに見守りたいと思います。(北九州市立時と風の博物館、参考)
12 神代文字が縄文土器などからも見つかるかも知れない(参考)、、、、もし見つかれば、製作年代がわかる可能性が出てくる。
13 ハワイのペトログラフ(参考)、、、ポリネシア人は海人族安曇氏(日本の漁師さん、ハプログループC1)と同族
14 シュメールの影響は南米にもある(参考)
下関市の角島の人面石とよく似ている。
15 シュメール 人のペトログラフと言われるものは、縄文時代の漁師さん、すなわち、海の民の海人族安曇氏が刻んだ!?
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12438734925.html 【最古の文明を遺したシュメール人とは日本の漁師さんのご先祖さま!?】より
アフリカから最初に出て行った現生人類とは日本人の直接の先祖で、男性遺伝子 Y-DNAではCまたはDを持っていた。Cは海沿いに日本列島に到達した海の民、Dは内陸部を東に向かった山の民であり、約4万年前に日本列島で再会し、旧石器時代人、そして縄文人と呼ばれ、さらに日本人として互いに仲良く現在に至っている。
特に真っ先にアフリカを飛び出した海の民が途中メソポタミアなどに立ち寄ったとすれば、世界最古の文明を遺すことが可能であり、シュメール人と呼ばれた可能性がある。そしてシュメール人は日本列島に到達して、北九州市門司区、下関市の彦島や角島などに岩刻文字(ペテログラフ)を遺している。
すなわち、下関市彦島の岩刻文字がシュメール人、すなわち縄文人(海の民)の手によるものなら、今まで日本の縄文時代には無かったとされる日本文字(神代文字)の一つが存在したことになり、神代文字の豊国文字(参考)などと比較検討せねばならない。
そうであるなら、シュメール人の末裔とは現代の日本人の漁師さん達になることになる。ただし、ペテログラフの解読結果からは、山の民と融合した日本語の祖語より前段階にあるのかも知れない。
彦島の岩刻文字(ペテログラフ)(参考)
下関市の彦島のペテログラフ(1924年に発見)の解読結果(参考)
南回りで日本列島に最初にやって来た人類は航海にたけた海の民であった(参考)ので、さらに彼らは太平洋に拡大してポリネシア人となり、さらに南米のインカやマヤの文明を作ったと考えられる(参考)。
下関市の角島のペトログラフ岩
下関市の角島の「つのしま自然館」のシュメール人?の人面石....懐疑的な意見が有るが否定し切れていない(参考)
福岡県北九州市門司区藤松3丁目2のペテログラフ(参考)
雑談
下関市豊北町の角島の対岸の地名"特牛(コットイ)"も、「神に捧げる牡牛」を意味するシュメール語の「コッテ」から転訛したと言う説もある(参考)。
参考
① 「日本人シュメール起源説」の謎(1998.1、抜粋)
・現在の歴史学が“世界最古”とする文明はシュメール文明である。シュメール文明は、シュメール人によってメソポタミアの最南部、チグリス・ユーフラテス川の下流域に築かれた文明である。
シュメール人は、遥かな古代、どこからともなくこの地に姿を現し、何の手本もなしに、独力で人類最初の文明を築き上げ、今から4000年前、突然その姿を消してしまったとされる。
・20世紀になって欧米考古学者、言語学者、オリエント史学者によって解読され始めたシュメール人の文字と言語は、次のようなことが明らかになっている。
【1】シュメールの楔形文字は、漢字の形成とほぼ同じ過程を経て成立した
【2】シュメール文字は現代日本語の漢字仮名まじりと同じ構造をもつ
【3】シュメール文字は子音のみならず母音をも記す(シュメール周辺のセム系言語の文字は、子音のみを表記する)
【4】シュメール語は膠着語である
※ 日本人は漢字仮名まじり文章で生活しており、日本語の文法は膠着語(にかわで接着するの意で、テニヲハの接着語によって単語がぺったりとくっつくさまを示す)系統に属する。さらに日本語は、母音が非常に強調される特色がある。
・日本において、シュメール文明についての研究は、戦前早くから進められてきた。「スメル学会」や「バビロニア学会」が組織され、何冊もの研究報告が出版されていたのである。
だが、そんな研究報告の多くがあまりにも驚異的な内容を含んでいたので、戦後の“実証主義”の歴史学のなかで、ほとんど故意に抹殺されてしまった。そこに共通する論点が、だれもが予想もしないような「日本人シュメール起源説」だったからである。
もっとも、それを最初に唱えたのは日本人ではなかった。元禄時代、日本にやってきたドイツ系のオランダ人歴史学者ケンペルである。日本の歴史を研究した彼は「高天原はバビロニアにあった」とし、「日本人は、はるか西方のその源郷から渡来した」と提唱したのである。
・原田説は論拠として「シュメールの日の神ウト、海の神ヤーなどが、広く日本で崇拝された痕跡があること」、「創世神話、イシュタル女神の冥界下りなど、シュメール神話の多くが、日本神話に取り入れられていること」、「古事記のイザナギノミコトの服装が、シュメール君主の服装に合致すること」、「シュメール人は元来海辺の民で、航海術にたけていたこと」、「日本語の地理的名称にシュメール系の言葉が多いこと」──などをあげている。
・三島氏によれば天皇の古語はすべてシュメール語で解釈でき、いずれも“天から降られた神”を意味している。とすれば、古代の日本に天皇をいただいて天降った(=渡来した)民族は、シュメールの王族とその民だった──ということになる。
② シュメール人の謎(参考)
「日本人はどこから来たのか」 寺社仏閣 古墳 日本人はどこから来たのか。寺社仏閣、古墳など史跡をめぐりながら考える
・シュメール文明
歴史学で世界最古とされるメソポタミア文明。これは現在のイラク、チグリス川、ユーフラテス川の間に栄えました。そのメソポタミア文明の中でも初期、紀元前3800年~3500年頃に興ったのがシュメール文明です。
出土したシュメール文明時代の像。当時のシュメール人を象ったものなのであろうか。異様に目が大きくグレイのようです。
シュメール文明は、シュメール人によってメソポタミアの最南部に築かれましたが、不思議なことにこのシュメール人というのが出自不明の民族でどこからやってきたのか判っていません。そして突然現れた彼らは、その後の文明にも引き継がれてゆく高度な発明を次々に遺します。彼らの多くの発明によりそれ以前と人類の生活は一変してしまったのです。
例えば1分は60秒、1時間は60分という60進法もシュメール文明の発明とされます。天文学が発達していたため12か月の倍数かつ両手の指の10本という数の最小公倍数から来ていると言われています。
このシュメール文明の遺構から数万点にも及ぶ粘土板が発掘されており、文字が記されており、今も解読が進められています。その解釈には様々あるようですがこれらをシュメール文書と呼びます。中には神話も書かれており、そのシュメール神話には、天空神アヌを頂点として多くの神々が語られています。この神々の総称をアヌンナキと呼びます。神話以外にも当時の文明レベルを知る手がかりが秘められています。
粘土版のシュメール文書の解釈の中でもゼカリア・シッチン(1922~2010)という研究者が発表した訳文は大変な注目を集めることになりました。以下のようなものです。
・神々は別の惑星からやってきて、猿と自分たちの遺伝子を合わせて人間を作った 。
・肉眼では見ることのできない冥王星や海王星について、既にそれはの知識があったと思わせる点があった 。
・ニネヴェという都市で見つかった粘土板群から、ニネヴェ定数という甚大な数値(195兆9552億)が出てきた。この数値は、地球の歳差運動の周期で割り切れると同時に、様々な惑星の公転周期で割り切れる数だった。本当だとすると、古代人が先端的な天文学の知識を有していたことになる。
おおよそこのようなものです。文書の解釈については諸説あるので慎重になるべきですが、このような内容の文書が本当に紀元前40世紀に書かれたとなると無視できるものではありません。
神が人間を創造した。
現代の宗教でもそう信じる者がこれだけ多いわけですから、古代に同じような考えがあり、それを粘土板に記したとしても何の不思議もありません。しかし出自不明でどこからともなく突然現れ高度な文明を築いたシュメール人、彼らが自分たちの事を「混ざり合った人」と呼び、別の星から来た存在によって猿と遺伝子を掛け合わされて創られたと信じていた、、、あまりにもリアルな話に震えますね。。
このシッチンという学者の説、詳細にはどのようなものなのでしょうか。
③ アフリカから最初に出てきた現生人類は日本人であり、ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジアにまで分布していた旧人類のネアンデルタール人とも最も深く付き合った(参考)。
④ 日本全国の神代文字を刻んだペトログラフは海の民(現在の漁師さん)の海人族安曇氏によるものか(参考)
⑤ 下関市の彦島に世界最古の文明を作ったシュメール人のペテログラフ(岩刻文字)を刻んだ岩がある
0コメント