ネット時代の俳句の可能性

https://blog.goo.ne.jp/mitunori_n/e/ee90d480b633e190a705c072e44c8314 【ネット時代における俳句の発信】より

『熊本俳句(第52号』(熊本県俳句協会)  

ネット時代における俳句の発信

                   永田満徳

井上微笑の「白扇会報」が日本の近代俳句史上で特筆されるのは、会員の中に近代俳句を推進した人々が名前を連ねていることである。選者、寄稿者を列挙してみると、夏目漱石・高浜虚子・河東碧梧桐・内藤鳴雪・阪本四方太・石井露月・松瀬青々・野田別天楼・寒川鼠骨等。これらの人物はいわゆる子規派、新派俳句と称される人々である。微笑は漱石に依頼して、上記の人々に選句、俳句の寄稿を頼んでいる。漱石自身が依頼に応じられない場合は高浜虚子、河東碧梧桐らを紹介している。一地方誌に過ぎなかった「白扇会報」を中央俳壇に押し上げてくれたのは夏目漱石だと言わざるを得ない。

しかし、それ以上に、「白扇会報」の発行で浮かび上がってくるのは、微笑の熱意に夏目漱石が振り回された格好であるが、微笑の「白扇会報」の発行に対する熱意であり、相手の再三の断りも意に介さないほどの情熱である。

私が熊本在住ながら、全国にはネットやSNSの句会を運営する「俳句大学」を設立し、また、世界には国際的な句座を提供するFacebook「Haiku Column」を立ち上げて、インターネットによる俳句の発信を心掛けているのは、明治時代に熊本の湯前という僻遠の地で、漱石を引き入れて、俳誌「白扇会報」を発行した井上微笑の熱意、情熱に共鳴するからである。

ところで、2022年一月、月刊「俳句界」文學の森では俳句大学の「ネット時代の俳句の可能性を探る」取組みに共鳴し、『文學の森』ZOOM句会と名付けられた句会を本格的に始めた。句座の地位に着きつつあるzoom句会を催すことによって、俳句興隆の一助にしたいとの思いで、企画されたものである。ハンガリーや台湾の参加者もいるこの企画に、俳句大学は立ち上げの段階から今日まで協力している。

俳句大学は、ネット時代を迎えた現今、全国へ、世界へ、リアルタイムなネット句会を通した俳句の可能性を熱意と情熱をもって展開し、ウイズ コロナ、ポスト コロナ社会を見据えた国内外の俳句文化の更なる発展に寄与していきたいと考えている。

(俳人協会本県支部長・俳句大学学長・「火神」編集長・「秋麗」同人 永田満徳)


https://blog.goo.ne.jp/mitunori_n/e/ee834f597c333d5f32e59c83b01a7f4d 【今こそ、インターネットを使った俳句を】より

NPO法人 くまもと文化振興会 2021年3月15日発行 特集「2021年、今年こそは」

〜今こそ、インターネットを使った俳句を〜 永田満徳

俳諧連歌が成立した室町時代末期より、俳諧の発句を芸術の域に高めた芭蕉による蕉風俳諧、正岡子規による近代俳句改革を経て、今日、俳句の歴史はおよそ五百年を閲(けみ)している。そして、今や、俳句は、世界に開かれたインターネット時代を迎えて大きな転換期を迎えている。

七年前、私が学長を務める俳句大学はネット時代を見据えて、俳句の可能性を探ることを目標の一つに掲げて創立された。ネットの長所としては、県を越え、国を越えて、個人が自らの俳句を発表できるということだろう。Zoomを使ったリアルタイムなネット句会も魅力である。これは、新たな「座」(句座)の創出である。

折しも、コロナ感染症を回避するために、情報通信技術を使ったテレワークという柔軟な働き方が推奨されている。俳句大学は、SNS交流サイトFaceBook やインターネット、夏雲システム(オンライン)を使った俳句活動を行っている。コロナ禍の影響は少なく、むしろ、より積極的に、より活発に活動している。

具体的には、俳句大学ではインターネットの「俳句大学ネット句会」、あるいは、 Facebookグループ「俳句大学投句欄」における、①講師による「一日一句鑑賞」、②会員による「一日一句相互選」や③「週末は席題で一句」、④「連休は写真で一句」や、Facebookグループ「俳句大学初心者教室」など、ネット時代の俳句の可能性を探る活動を積極的に行っている。令和二年八月発行の機関誌「俳句大学」第四号は、その俳句大学が運営するネット句会、Facebookグループの活動は無論のこと、国際俳句交流のFacebookグループ「「Haiku Column」、中国圏の二行俳句のFacebookグループ「華文俳句」などを掲載し、俳句大学の取り組みの全貌を明らかにすることを目的に編集し、200ページに近い俳句誌になった。

一昨年、俳句大学を基盤として、ネットに特化した「日本俳句協会(japan-haiku-association)」が設立された。すでにインターネットの普及によって海外でのHAIKU作家との交流も格段に増えてきた。主にSNSを介したリアルタイムな交流も盛んになってきており、日本の俳句への関心も非常に高くなっていることから、今一度、芸術性のある芭蕉の俳諧精神に立ち返ることが必要である。日本俳句協会という新しい「場」は、世界に通用する俳句(HAIKU)における芸術性の確立に向けて、国際俳句交流協会をはじめ、既存の俳句協会と互いに協力し合うことによって世界俳句の発展に貢献していくことを目指している。

さて、俳句大学国際俳句学部では、六年前にSNSの国際俳句交流の場を提供するFacebookグループ「Haiku Column」を立ち上げ、私は代表として、また、向瀬美音氏は主宰として「Haiku Column」を管理している。現在、参加メンバーは2300人を越え、1日の投句数も200句に及ぶ。瞬時に交流できるFacebookという国際情報ネットワークの恩恵を受けているのも特色である。

国籍もフランス、イタリア、イギリス、ルーマニア、ハンガリー、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、アメリカ、インドネシア、中国、台湾と多様である。使われている言語は三ヶ国語で、フランス語、イタリア語は向瀬氏、英語は中野千秋氏が担当している。人種、国籍を問わず投句を受け入れていることから、人道的なグループということで人気があり、HAIKUによる国際文化交流が国際平和に繋がっていることを痛感する毎日である。

これらの国際俳句の試みは、機関誌『HAIKU』のVol.1からVol.6で紹介され、一昨年八月一日に朔出版から出版されたVol.5では、世界中から一五〇人が参加して、総ページ数は五五〇ページを超える。

二〇一七年四月に「俳句ユネスコ無形文化遺産協議会」が設立された。この運動によって、俳句が広く認知されていくことは俳句の国際化にとってよいことである。しかし、この運動を推進するに当たって、「何をもって、『俳句』とするか、そのコンセプトの共有に危惧を抱く」(西村和子『角川俳句年鑑』巻頭提言・二〇一八年版)という意見は重要である。俳句大学の〔Haiku Column〕ではHAIKUとは「切れ」による詩的創造による短詩型文芸であるとして、「切れ」が明確になる二行書きのHAIKUの普及に努力してきた。現在、三行書きのHAIKUが多いが、「切れ」の本質に立ち返る契機として二行書きのHAIKUの重要性は大きいと考えている。

日本の俳句の翻訳の場合であるが、はやくも俳句の構造上による〈二行書き〉の問題を取り上げていたのは角川源義である。角川源義は『俳句年鑑昭和四十九年版』(昭和四十八年十二月)において、「俳句の翻訳はほとんど三行詩として行われている。これは俳句の約束や構造に大変反している」として、「私は二行詩として訳することを提案する」と述べ、「俳句の構造上、必ずと云ってよいほど句切れがある。切字がある。これを尊重して二行詩に訳してもらいたい」とまで言い、「切字の表現は二行詩にすることで解決する」と結論付けている。角川源義が「切れ」(切字)による二行書き(二行詩)を提言していることは無視できない。俳句の本質である「切れ」と、俳句大学が提唱する「取合せ」は、二行書きにして初めて明確に表現できるのである。

日々の「Haiku Column」の二行書きのHAIKUの投句を見ても、日本人が発想しない「切れ」と「取合せ」を発見するたびに、俳句の国際交流が「俳句(HAIKU)」の解放と新しい現代俳句の展開に重要であることが痛感される。

今年は一層、インターネットの積極的活用によって、国内の俳句活動を始として、海外の俳人との交流を深め、真の「俳句(Haiku)」の在り方を探り、ウィズ コロナ、ポスト コロナ社会を見据えた国際俳句文化の更なる発展に寄与していきたいと考えている。

(ながた みつのり/日本俳句協会副会長・俳人協会熊本県支部長)


https://weekly-haiku.blogspot.com/2008/08/blog-post_1772.html 【ネット/デジタル時代における俳句のストラテジー 〔前篇〕】より

小野裕三

『豆の木』第12号(2008年4月)より転載

0. 始めに ~ 本稿が意図するもの

新しいものが登場すると、いつの時代にもそれに対する無節操な礼賛と、同時に無節操な攻撃がついてまわる。おそらく、今の時代で言うなら〝インターネット〟というものがまさしくそのようなものに相当するだろう。文芸、もしくは俳句といった領域も決して例外ではない。多くの評論家や作家たちがインターネットに対する関心を広く口にしているし(評論家で言えば東浩紀氏、作家で言えば平野啓一郎氏などがまず思い浮かぶ)、雑誌『文學界』において「ケータイ小説」についての座談会を企画したのもつい先日のことだ。

俳句というジャンルにおいてもインターネットに対する関心は高まっている。それは、最近の総合誌などをいくつか見てみてもそうだ。インターネットと俳句。それはまさに、現代という時代を生きる我々が考えなくてはならないテーマになりつつあるのだ。

しかし、気をつけなくてはならないのは、繰り返すが無節操な礼賛と、それと同じくらいに無節操な攻撃だ。インターネットが俳句を大きく革新するのだという無根拠な楽観主義も、逆にインターネットが俳句を駄目にするのだという無根拠な守旧主義にも、同時に我々は距離を保つべきだろう。

大切なのは今起きていることの本質を理解し、そしてそれがもたらしうるプラスの要因とマイナスの要因を謙虚に見つめ、その上でプラスの要因がやはりあるとするなら、その方向に全体の流れをどのように誘導していくことできるのか、そのことを冷静かつ良心的に判断することだ。

過去、僕はインターネットと俳句というテーマでふたつの文章を書いている。それぞれ、「インターネットという<座>は俳句を変えるか」〔本号転載〕(『一粒』2002年6月号)、「あえて<俳句2.0>と言ってみよう」〔→参照〕(『碧』2007年5月号)という標題で発表されているが、前者はインターネットというよりもデジタル化による肉体性の変質(つまり、「手書き」を経ない文字入力≒創作)と俳句の関連について、という問題の側面が大きく、また後者については本質に迫る深い考察というよりもティム・オライリー氏等が唱える「Web2.0」を「集合知」や「ロングテール」をキーワードとして図式的に俳句に当てはめてみるとどのような可能性がありうるか、というやや導入論的な内容に過ぎなかった。

そこで今回、インターネットと俳句というテーマについて現状に考えられうる限りの総覧的な見取り図を作成しようと試みた。

視点はふたつある。ひとつには、「あえて<俳句2.0>と言ってみよう」で取り上げたような、インターネットが俳句について与える影響についてさらに考察を深めること(もっと言うなら、インターネットがもたらしうる〝新しい俳句〟の形があるとしたらそれはどのようなものなのか、きちんとした定義を与えること)。さらにもうひとつはその逆方向とでも言うか、俳句がインターネットという世界に与える影響はありえないのか、その可能性について吟味をすることである。

結論的所感から先に言ってしまえば、俳句が長い時間を作り上げてきたその諸作法が、意外にインターネットもしくはデジタル技術が産み出し始めた新しい時代の情報・コンテンツ産業の世界において示唆的な役割を果たしうる部分があるのではないか、と考えている。その理由の多くは、俳句という文芸がとにかく「短い」というこの一点から帰結するさまざまな作法を孕んでいるということに尽きる。

1. インターネットが俳句に与える影響

1-1. ネットが変える俳句の生態系(エコシステム)

 「あえて<俳句2.0>と言ってみよう」の中で僕が取り上げた俳句に起こりうるかも知れない革新とは、主に「集合知」と「ロングテール」というふたつのキーワードによって説明されていた。この文章のポイントを簡単に説明をしておくと、「集合知」とはインターネットが人々の知識を集合させ連携させることで新たな知を産み出しているという現象のことだが、もともと「座」の文芸とも呼ばれる俳句においてこのような「集合知」現象は面白い作用を及ぼしうるという視点であり、また「ロングテール」とはインターネットなどによってこれまでであれば注目されにくかったマニアックな商品なども売れるようになったという現象のことで、これもこれまでならば注目されにくかった作品や俳人を掘り出すことに役立ちうるのではないかという視点であった。

たぶんここで説いているようなことに大きな間違いはないと思う。それが大きな流れになるのかそうでないのかはともかくとしても、これまでのような結社の枠に捉われない俳句的知性・感性のあり方や、あるいは俳人たちの活動といったことは起きていくだろうし、現に起きつつある。だが、そのようなことはいわば表層的な現象に過ぎず、そのこと自体が俳句の質的変化を産み出すのかどうか、が本当は問われなくてはならない。

ここからはあくまで私見になるのだが、インターネットがもたらす最大の俳句の革新は、前衛派と伝統派といった対立の無化もしくは融合だと思う。

「大きな物語」などと呼ばれたものが十全に機能していた時代、そのような体制と反体制を巡る物語の代理戦争として季語や定型も素材にされた。と言い切ってしまうのにはもちろん語弊があるのだが、しかしそういった部分が少なからずあったことも事実なのだと思う。従って、季語や定型に主義や思想として反対である、という主張が登場した。これが、「新傾向」「新興俳句」「前衛俳句」といった系譜に連なるものだ、と雑駁を承知でここで定義してみる。

そのような代理戦争は、結果として俳句界全体の活性化には大いに役に立ったと思うのだが、しかし季語や定型という素晴らしい智恵を体制・反体制の代理戦争の具にしてしまうのはあまりにももったいない。

実際、「大きな物語」の終焉が言われるようになって久しく、伝統派・前衛派といった区分けも、主義や思想の対立というよりは、単に流派の違いに過ぎない、といった感が強くなってきているように、少なくとも僕には感じられる(そもそも、「前衛」などという言葉遣い自体が世の中一般として見ると既に死語であり、であるとすれば「前衛」という言葉は便宜的な分類という以上の思想性は既に持っていないと言ってもよいはずだ)。それもそのはず、代理戦争のそもそもの本体の戦争だった「大きな物語」が消滅したのだから、それは当然の帰結である。

伝統派・前衛派といった対立が主義・思想の対立から流儀・手法の対立に転化したのが現代の俳句状況であるとしよう。それは大きな時代状況の変化を反映したきわめて当然の転化である。ならば、我々にとっての新しい俳句とはまさにこの延長上にあるはずだ。そして実は、僕自身がインターネットが俳句に対して現在大きく影響を与えつつある側面のひとつと思っているものに、このような伝統派・前衛派といった相互の流れの間における浸透圧の高まりであり、結果として起こるそのような対立の無化や融合という現象がある。

伝統派・前衛派といった存在自体にそもそも意味がないと言っているのではない。むしろ逆で、そのような伝統派・前衛派のそれぞれの遺伝子を総合的に組み込んだ俳句の進化をそろそろ夢想してもよいのではないか、ということが言いたいのだ。その対立が思想や主義の対立でなく、流儀・手法の対立であるとするなら、そのことの純化に拘泥することにはあまり意味がない。むしろ、単純な手法や素材の問題と割り切って大胆に捌いたほうがいいのではないか。

そして、インターネットという場が、そもそも情報の偏りをなくし、その遍在化を促進する作用を持っていることは周知のとおりだ。あらゆる情報が、どんな人でも簡単にアクセスできるようになったことは多くの人の実感としてあるだろう。

実際、インターネットの世界における代表的な企業であるグーグル(検索エンジンが主なサービス)の企業理念は「世界の情報を組織化してユーザーが簡便に利用できるようにすること」にあるとされるが、それはインターネットが潜在的に持つ力を象徴している。つまり、インターネットはそもそもが〝情報の再整理〟を強力に進めていく力を内在している。

今までの情報分類をまっさらに戻し、それをユーザーの視点から整理しなおす力を持っている。そして、その作用は俳句にも働いている。その現れが、各結社もしくは流派といったものを超えていく浸透圧の加速化であり、より大きくは伝統派・前衛派といった対立を超えていく浸透圧の加速化である。念のために言い添えておくと、別に伝統・前衛の垣根を超えるということだけがその現象の核ではなく、要は俳句という言語世界における標準化圧力のようなものにドライブが掛かっているということでしかなく、その帰結としての伝統派・前衛派の無化や融合ということがあるに過ぎない。

余談ながら、このようなインターネットによる情報の遍在化は他の文芸においては、「リードオンリーのカルチャー」から「リード/ライトのカルチャー」への移行という形でまずは大きく顕在化している(なおこの図式は、インターネットにおける新しい著作権概念を提唱するローレンス・レッシグ氏がインターネットのもたらす変化を説明するためにしばしば用いるものである)。

つまり、これまで多くの文芸は読み手と書き手が分離していた。その意味では、近代マスメディアが産み出した「リードオンリーのカルチャー」の流れの中に、多くの文芸も巻き込まれていた。だが、今多くの文芸で起きていることは多くの読み手が書き手と化しつつある、つまり読み手と書き手の一致である(いや、場合によっては読み手でもない書き手もいるかも知れないが)。

そのような現象の延長に、最近注目されている「ケータイ小説」なども語られることがある。そのことの当否はともかくとしても、現在多くの文芸が直面しつつあるのはそのような〝読み手の書き手化〟に伴うさまざまな現象であると言えるだろう。

だが、俳句の場合はそもそもインターネット登場の遥か以前から読み手と書き手が基本的に一致していた。例えば小説などのように、〝自らは書かずに読むだけ〟などという人は、俳句の場合には極めて少ないはずだ。俳句はもともとが「リード/ライトのカルチャー」であることをその本質としていたのである。その理由の大部分は、単に俳句が「短い」ということである。短いがゆえに、書くのも発表するのも容易だからである。

ともあれ、であるがゆえに俳句の領域では他の文芸のような「リードオンリーのカルチャー」から「リード/ライトのカルチャー」への移行という問題を既にある意味で通り越し、言語世界における浸透圧の高まりと標準化(その帰結としての流儀の相互浸透)、という現象がホットな現象として起きているのである。

ここで誤解なきようにひとつ補足しておきたいが、このようなインターネットの機能による結社や流派を超えた浸透圧の高まりは、決して結社や師系といったものの価値を否定するものではまったくない。新しい技術や文化に対する紋切り型の批判のひとつに、そのようなものは〝心〟を伝えないといった類のものを必ず目にするが、インターネットに対する批判もやはり同様だ。

挙句には、インターネット発の俳句愛好者はそもそもマナーやルールが分かっていないといった批判まで出てくるが、文芸の発展をそのような瑣末な挙げ足取りに擦りかえるのは本質的ではない。僕が言いたいのは、結社や句会の効用は充分に認め、それを最大限に尊重しつつ、しかもそれにインターネットという技術を重ねることによって俳句にどのような可能性が産まれてくるのか(あるいは産まれてきうるのか)、そのことをきちんと見つめてみたいということだ。

ちなみに蛇足ながらもうひとつ付け加えておくと、インターネットをベースとした俳句に対する批判として〝縦書きでない〟ことを挙げる意見も聞くが、縦書きで配信されるウェブ・マガジンなどが別に存在しないわけではなく、俳句は縦書きが美しいという主張は理解できるにしても、インターネットに対する批判としてはやはり本質的ではない。

1-2. ありうべき〝ネット後の俳句〟

さて、それではそのようなインターネットによる浸透圧とその結果としての標準化の進んだ新しい俳句(それを、わかりやすく「俳句2.0」と呼んでみてもいいのだが)とは、一体どのようなものが想定されるのだろうか。ここから先は、私見というか、個人的に目指している方向性とも重なる部分でもあるので、あくまでひとつの参考意見ということで書いておく。

伝統派と前衛派の相互の浸透圧の高まりと、その帰結としての新しい俳句。それはまず、一番端的な事象としては季語や定型への接し方に現れるだろう。

季語や定型を、主義や思想として墨守することも、逆にそういうものとして否定することも、そこでは相応しくない態度である。そうではなく、季語や定型というものを最大限に尊重しつつ、しかし表現したい内容や素材によっては臨機応変に無季や自由律も採用するという態度こそが俳句の未来にとっては相応しいと僕は考える。

要は、季語や定型を全面的に採用するかそれとも全面的に否定するかという二者択一的な、その表現者の思想性もしくは作家性の〝踏み絵〟となるような問題ではなく、手法の問題としてニュートラルに捉えるべきだろう、ということだ(そして、そのような季語や定型への接し方は決して季語もしくは俳句の本質にも大きくは外れていないと思う)。

季語や定型を「大きな物語」の代理戦争の具とすることは止めて、もっとその本質を見るべきだし、インターネットによる俳句世界での浸透圧の高まりは、そのような状況を自然なものとする素地を準備しつつあるように(希望的観測かも知れないが)感じる。

そして、そのように季語や定型についてだけでなく、もっと内容的な変質もインターネットはもたらしうるのではないかとも考えている。これもかなり私見になるのだが、伝統派と前衛派といったときの本質的な差異は季語や定型といったルール的な問題を抜きにすると、具象性と抽象性に対するアプローチの違いにあると言えるだろう。

雑駁な定義であることを承知の上であえて説明すると、伝統派は具象性を突き詰める中でその最後の一皮みたいな地点において抽象性にアプローチしようとする手法であるのに対して、前衛派は最初から抽象性を見据えてそこに至るショートカットを手法上で模索する(その結果として具象性が手法として出てくる)手法である、と位置づけてみる。

要するに、抽象性と具象性のバランスの問題で、伝統派はきわめて意識的に具象性を目指して進んでいく(その結果として良質な作品においては抽象性が最終段階で浮上する)のに対して、前衛派は最初から抽象性に接近することにきわめて意識的であるということだ。

ただ、この説明でもお分かりと思うが、要するにやっていることはそんなに変わらないのである。具象性を経てある抽象性に至る、そこに詩性を求めるという方法論は結果的に伝統派も前衛派も大差はなく(いや、そもそもあらゆる芸術は本質的にはすべてそのようなものであるはずなのだが)、要は最初の意識の置き方が具象性のほうに寄っているか、あるいは抽象性のほうに寄っているかという違いがあるに過ぎない。

そして今、そのような伝統派と前衛派の浸透圧がインターネットという技術によって加速されている。とすれば起きることはただひとつ、具象性を経て抽象性という詩性に至る方法論の標準化、である。

ただし、あるいは見る人によってはそれは標準化と言うよりは方法論の刷新にも見えるかも知れない。伝統派の人から見れば、具象性の上に抽象性がそのままどさりと乗っかっているような畸形的な句に見えるかも知れないし、前衛派の人から見れば詩的純化を欠いたアンバランスな具象性の句とも見えるかも知れない。要するに、どちらからも少しずつ中途半端というか余所者に見えてしまう可能性はある。

だが、伝統派が培ってきた具象性にアプローチする知恵と、前衛派が培ってきた抽象性にアプローチする知恵、それはどちらも俳句界の大きな財産だ。その二つの泉から宝を汲むことが、今、インターネットという技術を手にした我々に許されているのだとしよう。であるとするならば、それを俳句の革新に繋げていくことは我々の世代の責務でもあるのかも知れない。


https://weekly-haiku.blogspot.com/2008/08/blog-post_24.html 【ネット/デジタル時代における俳句のストラテジー 〔後篇〕】より

小野裕三

『豆の木』第12号(2008年4月)より転載

3. 最後に ~ 表現とテクノロジー

前回まで俳句とインターネットという関係が持つ可能性についてさまざまな側面から検討してきた。だが、ここまでの議論ではまだ物足りない部分が実はある。第一章において、インターネット環境が産み出しうる新しい俳句の可能性について言及したが、それはあくまでコミュニケーション環境の変化ゆえの帰結であり、テクノロジー自体が孕む新しい表現の可能性については考察されていなかった。

一般論として、テクノロジーは新しい表現を作り出しうる。このこと自体はひとつの真理だ。現在、このような観点からもっとも活発な活動が行われているのは、例えばメディア・アートと呼ばれるようなジャンルがそうだろう。

表現手段(メディア)自体がひとつの新しさになりうるというジャンルの性質上、テクノロジーをその表現アイデアの中に取り込みやすい。それでは、文芸はどうなのか。テキストベースのコンテンツ(文芸)が、時に難解な隘路やいささか不毛とも見える世俗的フロンティア発掘争いに迷い込みかねないのも、そのようなテクノロジーの進展を表現の新しさに取り込めないという背景も大きいような気がする。

メディア・アートなどのようにテクノロジーの新しさが表現の新しさに直結し、不思議に迷いのない作品が次々産み出される状況を羨ましいとも思う反面、こんな疑問も湧く。確かにテクノロジーは新奇性ということの泉にはなりうるだろう。だが、もう一歩踏み込んでそれは新奇性だけでなく、本当に本質的な意味での良質もしくは革新的な表現を産み出しうるのだろうか。

そのことを、俳句に即して考えれば、インターネットやデジタルをベースとした新しいテクノロジー自体が、新しい俳句を直接的に産み出すことはないのか、という問いも実は可能性としてはありうる。例えばひとつの可能性として、新しいテクノロジーがまったく新しい俳句の座、そしてそれに伴う新しい俳句を産み出す可能性がないとは言えない。

わかりやすい例で言えば、Wikipedia(インターネット上の百科事典だが、各項目について特定の執筆者は存在せず、インターネットを通じて匿名の複数のメンバーが加筆修正を行いながら解説文を完成させていく仕組みになっている)と同様の仕組みを利用して俳句を生成かつ精製する(つまりは、多くの匿名の俳人たちがひとつの句をネット上で推敲していく)といった、テクノロジーを使った文字通りの方法論としての〝新しい座〟が産まれたり、といったことも単純な技術的可能性で言えば充分にありうることだ。実際、確かにインターネット句会といったものも盛んになっているが、それはあくまで過渡的な形態と見ることもできる。句会や連句ではない、新しい俳句の座がテクノロジーの力によってできないとは限らないのだ。

さらにもっと進んで考えれば、インターネットもしくはデジタルの技術によって新しい〝知能〟(人間と技術の混交、もしくは純粋に技術の中にあるものとして)もしくはそれに準じるものが成立するとすれば、そこから新しい俳句が産まれてくる可能性もあるだろう。

こんなふうに書くと、さすがにそれは夢物語だと思う人もいるかも知れない。しかし、ゲームの世界では既にそのようなことは現実化している。コンピュータの知能は、チェスの世界チャンピオンを既に凌駕したとされており、将棋も遠くない未来にそのようなことが可能になるとも言われている。であれば、芭蕉や子規を人工知能が上回るという日が来ないとは言えない。

いや、実際、デジタル技術を活用すれば言葉のランダムな組み合わせを作り出すことは無理ではないし、実際、そのようなソフトウェアめいたものを作ったというような話も、実はインターネットなどが隆盛になる以前にすらも聞いたことがある。ただそのようなものがその後まったく進展しなかったのは、(そのようなソフトウェアを開発すること自体にそもそも実利性がほとんどなかったという点もさることながら)俳句の質を見極めるのは基本的に人間の知性・感性によるしかないという、おそらくそこに原因があったはずだ。

チェスや将棋のように勝ち負けのルールが明文的にはっきりしているものと違って俳句の質を見定めるのは感覚的な部分に頼る部分が大きいため、要するに仮にソフトウェアを使って俳句を大量に生産したとしても、それを選別するためにはやはりそれなりの俳句の実力を備える人が必要であったのである。

だが、時代は今やインターネットによる集合知が唱えられる時代になった。とすれば、その選別の部分について人間の知能をネット上で増幅させる形で担うという方法もありえなくはない。さらに言えば、そのような集合知をベースにして実際に質の高い俳句を作り出せるようなシステムができないとも限らない。まさかいくらなんでもそんなことが、と思われるだろうが、「グーグルニュース」(文字通り、グーグル内でニュースを提供するサービスなのだが、実はそこには一人の記者も編集者も存在せず、ネット上のさまざまな情報を自動的に加工して「ニュース」として情報を配信している)などの例を見ていると、決して夢想ではないようにも思える。

実際、奇妙な話に聞えるかも知れないが、今や〝世界一の俳句知り〟にグーグルはなろうとしている。ネット上に存在しているデータを蓄積し、さらにそれだけでなく、書籍のデジタル化、つまり図書館などに所蔵されている本の内容をデジタル化するという作業も日本を含めた複数の大学や図書館と共同して進めている。そこでは過去と現在、そして現在の延長にある未来の俳句がデジタルの海の中に飲み込まれていく。とすれば、グーグルは遠からず〝世界一の俳句知り〟になる。そして、そのようなものをベースとした新しい俳句的知性が産まれないとも誰も断言はできない。

と、ここまで最後の章であえてどこか夢想めいた話をしてきたのは他でもない。繰り返すが、俳句とはその短さゆえにインターネット的な風景ともともと近しいものを持っている。言い換えれば、それはデジタルやインターネット的なものともともと相性がよく、従ってそれはデジタルやインターネットの大きな波と文化や芸術的知性・感性との関係を考える際に、ひとつの最良の実験室になりうるはずなのだ。

新しい時代の知性・感性、新しい時代の創作や芸術、そのようなものを照らしだすひとつの実験室として、俳句とインターネットというコンビネーションは面白い可能性をいくつも持っている。

例えばもし、人工的な知性環境によって人の手を介さずに俳句を産み出すことができるのであれば、それはとことんまで試してみるべきだろう。先入観に囚われた聖域など作ることなく、やれるところまでやってみればいい。そして、逆にそこで限界が見えたとすれば、そこに残されたものこそが、俳句であり、文芸の本質部分であるに違いない。新しい時代の創造力の実験室として、それは豊かなものをもたらしうる。

いずれにせよ、俳句はインターネットから多くのものを受け取っていくだろうし、逆にインターネットは俳句という長い時間を掛けて洗練されてきた知恵から多くのものを受け取りうる。そこに、新しい時代の創作や芸術の指針が顔を覗かせているかも知れないという夢想は、決して意味のないものではないと思うのだ。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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