http://itsuki.natsui-company.com/?eid=179 【黒田杏子の語る「想念を動かす」とは・・】より
ある人からこんな質問のメールを頂いた。
先だっての「金子兜太・黒田杏子の道後俳句塾」吟行会での黒田杏子が発した言葉についての質問だ。
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質問です。
黒田さんは、「現場に行ったら感情、想念をよく動かして作る。これが吟行の醍醐味です」と言われたと思います。感情を動かす、というのは何となくわかりますが、想念も動かすのでしょうか。もし、ご記憶や、これまでの黒田さんの言葉でヒントがありましたら教えて頂けないでしょうか。
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師匠である黒田杏子の本意を、どこまで的確に掴んでいるかどうかは分からないが、黒田杏子を師として仰ぐようになってからこのかた、私は(滅多に会う機会のない)師と過ごすささやかな時間において、師がさりげなく口にする短い言葉の意味を、自分なりに噛み砕き解釈しそれを己の栄養とすることを一つの修業としてきた。
質問をしてきた方が、黒田杏子を師と仰ぐ人物であれば「先生のおっしゃる意味をご自分としていろいろに考えてみたらいいと思いますよ」と、お返事したかもしれないが、やや立場を異にする方だったので、私なりの考えを以下のように短くお伝えした。
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黒田杏子は「季語の現場に立つ」ことを創作の基本にしていますし、弟子であるワタシも勿論そうですが、黒田杏子はそこで「五感を使う」ことを勧めます。
「五感」のアンテナを広げて季語の現場に立っていると、勿論さまざまな「感情」も動きますが、何かの音・匂い・動きなどによって、その場には全くないモノや情景がふっとよみがえったり、一瞬のうちに己が虚の世界にワープしていることもあります。
ふくろうに聞け快楽のことならば いつき
この句は、動物園吟行の際、
フクロウの檻の前で一気に作った十数句の中の一句です。これもまた、季語の現場で動いた「想念」から生まれた句だといえるかもしれません。
黒田杏子は、このような句を観念的だとか難解だというふうには切り捨てません。それはきっと、先生自身が季語によって揺り動かされる「想念」からも俳句が生まれることを体で理解しておられるからだろうと思います。
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「夏井さんの句柄は、黒田先生の句柄とは全く違うのに、なぜ師と仰いでいるのですか」などという質問をぶつけられることがある。
私は逆に質問を返す。
「先生の句柄に限りなく似た句を作るような弟子を、先生が喜ぶはずないんじゃないですか?」 ・・ハッとした顔をする人もあれば、怪訝な顔をする人もある。
「先生から何を吸収し、どんな自分を表現するか。それが表現者としての目的であって、それすら出来ないような弟子を育てることに、先生はなんの興味もお持ちではないと思います。少なくとも、私が師の立場にあるとすれば、そんなナサケナイ弟子しか育てられない自分は、人を教える能力に欠けているとの自己評価を下すに違いありません。」
私は黒田杏子の弟子だ。
私は、先生から自分勝手に吸収したものを、「夏井いつき」として表現する。先生はこのワガママ極まりない弟子に対し、時には呆れ、時には爆笑し、時には叱責し、時にはささやかに誉めて下さってもきたが、
どんな場合でも、先生は「良いも悪いも、これが夏井いつきです」と言い切って下さる。良い部分も悪い部分も、これが夏井いつきだと肯定して下さる。だから安心して暴れることが出来る。それが師という存在に対する信頼感なのだと思う。
そして、師を選ぶとはそういうことなのだと思う。
「自分の不出来や不調を師のせいにする」なんてのが愚の骨頂であることは言うまでもないが、「師を持つ」ということは、「表現」という大海に身を漂わせる己にとって、一本の鋼のごとき「錨」を持つことでもあると思う。
そういう意味において、
私は強靱な「錨」を持つ果報者である。
https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19970805,19980311,20000718,20020324,20101231,20111119,20121029,20130320,20151025&tit=%8D%95%93c%88%C7%8Eq&tit2=%8D%95%93c%88%C7%8Eq%82%CC 【黒田杏子の句】より
自転車の灯を取りにきし蛾のみどり
黒田杏子
飛んで灯に入る夏の虫。虫たちの愚かなふるまいを嘲笑った昔の人も、一方では、灯を取りに来る存在として彼らの襲来に身構えるのであった。蝋燭などのか細い灯だと、たちまち彼らに取られてしまうからだ。なにしろ命がけで取りに来るのだから、たまらない。これは、ランプ生活を余儀なくされた少年時代の、私の実感でもある。そこへいくと現代の虫たちは、命と引き換えに灯を取ることもなくなった。せいぜいが打撲(?)程度ですむ。見られるように、作者もここでむしろ抒情的に灯取虫を観察している。「みどり」に見えるのは光源の関係だろう。『一木一草』所収。(清水哲男)
朧夜の四十というはさびしかり
黒田杏子
年齢を詠みこんだ春の句で有名なのは、なんといっても石田波郷の「初蝶やわが三十の袖袂」だろう。三十歳、颯爽の気合いが込められている名句だ。ひるがえってこの句では、もはや若くはないし、さりとて老年でもない四十歳という年齢をひとり噛みしめている。朧夜(朧月夜の略)はまま人を感傷的にさせるので、作者は「さびし」と呟いているが、その寂しさはおぼろにかすんだ春の月のように甘く切ないのである。きりきりと揉み込むような寂しさではなく、むしろ男から見れば色っぽいそれに写る。昔の文部省唱歌の文句ではないけれど、女性の四十歳は「さながらかすめる」年齢なのであり、私の観察によれば、やがてこの寂しい霞が晴れたとき、再び女性は颯爽と歩きはじめるのである。『一木一草』(1995)所収。(清水哲男)
かはせみの一句たちまち古びけり
黒田杏子
高校通学時、最寄り駅まで多摩川を渡ったので、「かはせみ」は親しい存在だった。美しい鳥だ。翡翠(ひすい)を思わせる色なので、漢字では一般的に「翡翠」をあて、魚を取るところから「魚狗(ぎょく)」とも言う。とにかく、素早い動きが特徴。ねらった獲物に一直線に襲いかかり、素早く元いた岸辺に戻ってくる様子は、うっかりすると目では追いきれないほどに感じる。そうやって取ってきた魚は、岩などに叩きつけて殺す。猛禽さながらの鳥なのだが、スズメよりは少し大きい程度の体長であり美しい色彩なので、残酷な印象は残さない。掲句は、そんな「かはせみ」の敏捷さと美々しさとを、暗喩的に捉えた作品だ。「かはせみ」の句をいくつか作ってはみるのだが、眼前にその姿を置いていると、句がスピーディな飛翔感についていけず、たちまちにして「古び」てしまうというのである。対象を直接描かずに詠む技法はよく使われるけれど、なかなか成功しないケースが多い。もってまわった表現になりがちだからだ。その点、この句はぴしゃりと決まっていて、好感が持てる。中村草田男には「はつきりと翡翠色にとびにけり」があって、こちらは流石にどんぴしゃりである。『一木一草』(1995)所収。(清水哲男)
花三分睡りていのち継ぐ母に
黒田杏子
長い間、病臥している母だ。すっかり小さくなった身体を、一日中横たえている。作者には、彼女がひたすら「いのち継ぐ」ためにのみ、睡(ねむ)っているように写っている。季節はめぐりきて、今年も桜が咲いた。母が元気だったころの桜の季節もしのばれて、いっそう悲しい気持ちがつのる。母はもう二度と、みずからの力で桜花を愛でることはないだろう。このときに「三分」の措辞は絶妙である。「二分」でもいけないし、「八分」でも駄目だ。「三分」は母の薄いであろう余命の象徴的表現でもあるので、実際の咲きようが「二分」や「八分」であったとしても、やはり作者は断固として「三分」と詠むのである。詠まねばならない。そして、桜の「三分」は、これからのいのちに輝いていく「三分」。比するに、母の「三分」は、余命をはかなくも保つ灯としての「三分」なのだ。そこには、強く作者の願望もこめられているだろう。この悲しさ、美しさ……。読者の背筋を、何かすうっと流れていくものがある。名句である。「俳句界」(2002年4月号)所載。(清水哲男)
白鳥の来る沼ひとつ那須野にも
黒田杏子
作者は1944年に戦火を逃れて東京から栃木に疎開。以後高校卒業までを当地で過ごす。那須野という地名に格別の個人的な思いがあることがわかる。シベリアから飛来して冬を越す白鳥への思いが幼年期から少女期までの「故郷」に寄せる郷愁と重なる。個人的な思いに根ざした言葉はどうしてこんなに強靭なのか。言霊のはたらきとでもいうべき。『日光月光』(2010)所収。(今井 聖)
とほき日の葱の一句の底びかり
黒田杏子
座五の、底びかり、に惹かれ、まずその葱の一句はどんな句なのだろう、と思った。それから、以前葱農家の方からいただいた箱詰めのそれはそれはりっぱな葱を思い出した。真っ直ぐに真っ白に整然と並んだ太い葱たちは、まな板にのせても切るのがためらわれるほど美しかったのだ。その葱の、大げさでなく神々しいほどの輝きを思い浮かべながら検索してみると〈白葱のひかりの棒をいま刻む〉(黒田杏子)とある。ひかりの棒とはまさにあの時の葱であり、いま刻む、という言葉にはかすかな逡巡が感じられ共感する。遠き日の一句はこの句なのだろうか、いずれにしても、句のことを句に仕立てる、という難しさを越えて光る二つの葱句である。『日光月光』(2010)所収。(今井肖子)
若き母の炭挽く音に目覚めをり
黒田杏子
掲載誌では、この句の前に「炭焼いて炭継いで歌詠みし母」が置かれている。だから掲句の炭は、母が焼いたものだ。私が子どもの頃に暮した田舎でも、農繁期を過ぎると、山の中のあちこちの炭窯から煙が上がっていたものである。焼いた炭は、使いやすいように適当にのこぎりで切っておく必要がある。たいして力もいらないから、たいていは女子どもの仕事だった。深夜だろうか。ふと目覚めると、母の炭を切る音が聞こえてきた。このときの子どもの気持ちは、お母さんも大変だなとかご苦労さんというのではなく、そうしたいわば日常化した生活の音が聞こえることで、どこかでほっと安堵しているのだ。とにかく、昔の女性はよく働いた。電化生活など想像すべくもなかった時代には、コマネズミのように働き、そしていつもそれに伴う生活の音を立てていた。たまに母親が寝込んでしまうと、家内の生活の音が途絶えるから、子どもとしてはなんといえぬ落ち着かぬ気分になったものだ。母を追慕するときに、彼女の立てていた生活の音を媒介にすることで、句には大いなる説得力が備わった。「俳句界」(2012年11月号)所載。(清水哲男)
春暁の土をざくりと掘り起す
小田 実
春は曙……と「枕草子」の冒頭にある。暁は曙よりも時間的には早い。「冬来たりなば春遠からじ」とか「春眠あかつきをおぼえず」といった言葉は、もうお馴染みである。東の空が白みはじめる早朝、畑に出て土を掘り起す(畑と限らなくてもいいが)、土の上に立った晴ればれとした気持ち良さを、たまらずズバリ詠んだものであろう。「ざくり」がいかにもダイナミックであり、春早朝のこころの健やかな気合いが感じられる。掲句は、小田実が黒田杏子に宛てた手紙に、自ら引用した少年時代の俳句である。亡くなる五カ月前に書かれたこの手紙は、杏子の『手紙歳時記』(2012)に引用されている。「実を言うと、昔、少年時代、「俳句少年」でした。短歌は性に合わず、俳句をつくっていました。からだが大きかったので、まだ中学生なのに、大学生になりすまして、大人達の吟行に参加したこともありました」とある。「短歌は性に合わず」は頷けるけれど、彼が「俳句少年」だったことは、あまり知られていないのではあるまいか。小田実を悼んだ杏子の句に「夏終る柩に睡る大男」がある。(八木忠栄)
銀河逆巻くその十指舞ひやまぬ
黒田杏子
前書に「大野一雄公演 パークタワーにて」とあります。大野一雄の舞踏を観た人なら、「銀河逆巻く」は比喩でも誇張でもなく、嘱目ととらえるでしょう。私は20回ほど大野氏の舞台を観、また、数回、舞踏の稽古に参加させていただきました。稽古の前には十数名程の研究生と紅茶を飲み、クッキーを食べながら、生命と宇宙の話をされるのが常でした。「卵子と精子が結合すると、卵子は回転を始めます。それが、ワルツの始まりです。」30分ほど話されてから、「あなたたちは、宇宙的な舞踏家になってください」と、いったん話が終わり、「では、今日もフリーにフリーにいきましょう」のひと言で、研究生たちは各々それぞれの位置で立ち止まり、動き始めます。フリーな動きの中にも三つの要諦があります。一つは、爪先立ちであること。二つ目は、屈む姿勢であること。三つ目は、身体の一箇所は必ず天を向いていること。地に対して向かう屈みの姿勢こそが、土方巽が創出した地の舞いである舞踏であり、大野一雄の独創は、その姿勢を保ちながら天に引っ張られるような垂直の意識を志向するところにあります。たとえば、バレリーナは、身体の軸が天に向かっていますが、大野の舞踏は、地と天に対して同時に向かう意識に特徴があります。大野氏はこれを「together」と言いました。天と地の両方に引っ張られている緊張に舞踏家の立ち居があり、それは、植物が根を張らすために地中をまさぐっていると同時に、天の光に向かって伸びようとしている意志と同じです。この姿を「宇宙的な舞踏家」と言ったのだと思います。大野一雄は、痩身で小柄でしたが、掌が大きく指が長く、同時代の他の舞踏家、例えば息子の大野慶人、笠井叡、麿赤児と比較しても、十指の動きが複雑で、表情が豊かでした。それは、時に昆虫の脚の動きのように見えることもあれば、饒舌な手話にも見え、指で地を天をまさぐり宇宙をつかもうとする強情でした。ですから、「銀河逆巻くその十指」は、比喩でも誇張でもなく、現実です。『花下草上』(2007)所収。(小笠原高志)
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