https://09270927.at.webry.info/201612/article_8.html 【宇都宮 二荒山神社(1)】より
今日の最後の訪問地である宇都宮の二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ、ふたらやまじんじゃ)へやって来た。神社の駐車場が分からなかったので有料の駐車場へ車を入れての参拝となった。
宇都宮二荒山神社は栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1にある神社で、下野国一宮。式内社(名神大社)論社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれる。古くは宇都宮大明神などとも呼ばれた。現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれる。
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この大鳥居は樹齢400年の栃木県産のケヤキを用いた、高さ9.7m、幅13.8m、柱の直径90cmの鳥居で、2008年(平成20年)10月12日に建て替えられた。江戸時代の当社の両部鳥居を復元したものである。
かつてあった鳥居は、第2次世界大戦中に空襲で焼失し、その代わりとして1946年(昭和21年)12月に明神鳥居が建てられた。鳥居の復興が早かったのは、それだけこの神社が宇都宮のシンボルでもある証左ということであろう。
明神鳥居から両部鳥居への回帰は、神仏分離の呪縛から少し開放されたようでもあり望ましいことかもしれない。
社標石柱には、「式内大社 二荒山神社」とあった。また、側面には「下野國河内郡 宇都宮市鎮座」とあった。
「二荒山神社」を名乗る神社は関東地方を中心に数多くあるが、中でも当社と日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)の2社が古社として知られている。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「下野国河内郡 二荒山神社」の記載があるが、その帰属を巡って日光二荒山神社との間で議論がある。その後、神階は正一位まで進み、下野国一宮となったとされる。
私は、日光東照宮に何度も行っているので、日光の二荒山神社も数回訪れている。一宮制度は正式なものではなく、時代によって変遷もあったので、宇都宮も日光も共に一宮を称しているのはそれ程問題はないが、『延喜式神名帳』に名神大社としてある「下野国河内郡 二荒山神社」がどちらなのか争点となるのは分かる気がするし、全国の論社でも論争が絶えず、江戸時代には寺社奉行の裁定を願ったケースなどもある。それ程この『延喜式神名帳』に載ることが由緒ある古社であることの公の証明になる。今でも各種証明書は役所が出していることを考えると宜なることなのだろう。
『延喜式神名帳』は927年成立とされるが、いくつかの神社の縁起には905年に式内社となったいう記載が見受けられることから、10世紀初頭から選定が始められていたようだ。
歴史の中での神社の存在証明の根拠は脆弱なもので、朝廷の作成したこの格式の記載が古社としての確実な存在証明になるという状況である。この『延喜式神名帳』という格式の呪縛から逃れられない時点で、神社も朝廷の神祇制度の中に組み込まれた組織の一つになってしまう。そこには庶民の信仰とはかけ離れた権威主義だけが前面に現れる。しかし、朝廷も10世紀初頭の段階で地方で全く勢力を持たない神社を、式内社として神名帳に記載するわけにはいかなかったという状況もあったであろう。そこには相身互いの関係もあったことは想像できるが、式内社の多くが記紀などの神話に登場する市民権を得た有名神を祭神としていることを考慮する必要があるだろう。それは、土着の信仰の上に中央からの神祇方針が被さった結果でもあり、皇化とセットで考える必要がある。これは西国の神社でも言えることで、一宮などの古社の周辺で銅鐸の出土があることなどから、以前から鎮座地周辺で何らかの祭祀があったことが想像される。
私は神社仏閣を訪ねるようになったのは2011年からで、まだ日が浅いが、これが式内社なのかと疑いたくなるような寂れた式内社もあるし、式外社でも地元民の信仰に支えられて立派な社殿を維持している神社もある。
家元制度がまかり通るように、日本社会では“お墨付き”が一つの権威と効力を持つ。式内社であることは、少なくとも1000年以上続いている神社であるという証明になることは確かなので、古いことを有り難がる神社にとっては重要な事柄なのであることは理解できる。
宇都宮と日光のどちらかが式内名神大社かと問われれば、宇都宮の方に軍配を上げる人が多いようだ。それは、地理的条件や日光は神仏習合の要素が強くまた東照宮との関係が大きく、東照宮以降に勢力を増したと考えられるからだ。私の考えはまだまとまっていないので、日光の二荒山神社をまとめる時に考えてみたい。
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境内のご案内
末社
① 初辰稲荷神社(豊穣・商業の神)
② 女体宮(安産の神)
③ 十社(県内延喜式内社の合祀)
④ 東照宮(徳川家康公)
⑤ 荒神社(疫病鎮めの神)
⑥ 松尾神社(醸造の神)
⑦ 剣宮(武徳の神)
⑧ 十二社(肇国の神)
⑨ 菅原神社(学問の神)
⑩ 須賀神社(お天王さん)
⑪ 市神社(市・商業の神)
⑫ 水神社(水の守神)
※大通りを隔てて旧鎮座地「下之宮」
現地説明板より
『 式内名神大社 下野国一之宮
宇都宮二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)御由緒
御祭神 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
相殿 大物主命(大国さま) 事代主命(恵比寿さま)
主祭神、豊城入彦命は、第10代崇神天皇の第一皇子であらせられ勅命を受けて東国御治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し民を慈しんだので命の徳に敬服し、族は鎮まり、その子孫も東国にひろく繁栄され四世の孫奈良別王(ならわけのきみ)が第16代仁徳天皇の御代に下野国の国造となられて国を治めるにあたり、命の偉業を偲び御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて国土開拓の神大物主命、事代主命を祀られました。
その後、承和5年(838)に現在の臼ヶ峰に遷座されました。以来平将門の乱を平らげた藤原秀郷公をはじめ、源義家公・源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。
古くは、延喜式内社、名明神大、当国一之宮、明治になって国弊中社に列せられ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ篤く崇められてきております。
宇都宮の町もお宮を中心に発展してきたので市の名も社号をそのまま頂いてきており市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ二荒の杜を中心に栄えてきた」とうたわれています。 』
この街中のビルや電波塔に囲まれた神社は、宇都宮の中心であることが分かる。宇都宮はこの神社の鳥居前町(門前町)として栄えてきたのであろう。
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大鳥居の内より表参道の写真を撮ったが、旧鎮座地である下之宮は見えない。ビルの陰にあるようだ。
大通りの大鳥居から表参道石段95段を登り詰めたところに唐破風神門があり左右八間の廻廊が配されている。社殿は南面して建っていた。
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桜はほぼ満開と言ってよい。
承和5年(838)に旧鎮座地より現在の臼ヶ峰(明神山、標高約135m)に遷座されたとされ、遷座理由の一つに神社が道路の近くであり、通行の人々に無礼があり災いや落馬が続出したためだという。社前で下馬しなかったりして、荒ぶる神の咎めを受けたのであろう。
この95段の石段を上らなければ、下之宮(当社創建の旧荒尾崎、馬場町)のようにビルに埋もれてしまうので、遅かれ早かれ遷座は必至であったと考える。
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唐破風の神門を入ると東側に神楽殿、西側に手水舎や社務所・授与所があった。授与所でしおりを頂いた。
社務所・斎館の後ろにはテレビ局のものだろうか電波塔が見えた。
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神楽殿の奥には奉納された酒樽が積まれていた。
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現地説明板より
『 宇都宮市指定無形文化財 昭和44年2月12日
二荒山神社の神楽
神楽は神聖な場所に神々を迎え、その前で踊る舞踊であり清めや豊作祈願などの意味が込められている。
二荒山神社の神楽の起源は江戸時代の中頃と伝えられており、神社では宮比流太々神楽と称している。
舞は、1月28日、5月28日、9月28日の三回奉納され、岩戸の舞や稲荷の舞など18演目あり、舞面は、40面あり、「明治4年(1871)高田運春」の銘などがある。
宇都宮市教育委員会 』
境内の桜はほぼ満開で、宇都宮市の中心部街中にある神社ということもあり境内は公園のような雰囲気もあった。神社の威厳は95段の石段を上った高みにあることで保たれているようでもある。
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頂いたしおりより
『 神社の起源
二荒山神社は大変歴史が古く、第十代崇神天皇の御代にさかのぼることができる神社です。
当社は何度も火災にあい、近年に入ってからも天正13年、安永2年、天保3年、更に明治維新の戊辰の役と四度もあって古い歴史のほとんどが消失しています。
現在残っている社記には、第十六代仁徳天皇の御代(今から約1600年前)に毛野國が上下の二国に別けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王(ならわけのきみ)が下毛野國の国造に任ぜられます。この時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、その後、承和5年(838)に現在の地 臼ヶ峰に遷されたと伝えられています。
延長五年(927)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には、
下野國河内郡一座 大 二荒山神社 名神大
とあります。
栃木県内には由緒ある神社が十一社記されていますが、名神大社は当社のみで代々城主が社務職を兼ね「宇都宮大明神」と称し、郷土の祖神・総氏神さまとして篤い信仰を受け下野國一之宮といわれておりました。 (元國幣中社)
御祭神と御神徳
当社にお祀りされている神様は三柱の神さまです。
御祭神 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
相殿 大物主命 事代主命
豊城入彦命は第10代崇神天皇の第一皇子で上毛野君・下毛野君の始祖と「古事記」にあります。
また「日本書記」の崇神天皇48年の条には命と活目尊(いくめのみこと)の二皇子が召され共に慈愛厚く優れておられ、どちらを皇嗣とするか夢占いがなされ弟活目尊(垂仁天皇)が皇太子となり命は大和朝廷の東國守護に下向されたと記されています。
命の子孫も詔によって下り、東國御治定のよりどころとして祖神豊城入彦命と大物主命(大国さま)事代主命(恵比寿さま)を合わせて祀られました。
祭神は武徳にも優れ古くから武将の信仰が篤く藤原秀郷公(平将門の乱)、源頼義・義家公(前九年・後三年の役)、源頼朝公(源平の役)、徳川家康公(関ヶ原の合戦)など各々当社に戦勝祈願し、神領・宝物の寄進や社殿改築をされています。因に江戸時代の当社神領は1500石に達し鹿島・香取神宮を上回っていました。
また火防(ひぶせ)信仰も古くから起り12月15日・1月15日の冬・春渡祭(オタリヤ)には今でも県内・近県からの信者で夜遅くまで賑わっています。
あづま路や多くの夷平らげて 背けばうつの宮とこそきけ (権律師謙忠作)
宝物・文化財
三十八間星兜(国指定重要美術品)
鉄製狛犬(国指定重要美術品)
正次作太刀(県指定文化財)
新式和歌集(市指定文化財)
本殿勾欄擬宝珠(市指定文化財)
三十六歌仙額(市指定文化財) 』
『「日本書記」の崇神天皇48年の条には命と活目尊(いくめのみこと)の二皇子が召され共に慈愛厚く優れておられ、どちらを皇嗣とするか夢占いがなされ弟活目尊(垂仁天皇)が皇太子となり命は大和朝廷の東國守護に下向されたと記されています。』 とあるが、古代においては末子相続が普通であったようで、正妃(皇后)の末子が皇嗣となる例が「日本書記」にはよく見られる。長子が皇嗣となるのは、仁徳天皇の頃からのようだ。
( 関連記事 『旅132 宇佐神宮』 )
仁徳天皇は応神天皇の皇子であるが、父の応神天皇の母は神功皇后で、応神天皇で王統が替わった(河内王朝)とも考えられている。記紀では、初代神武天皇は九州から大和入りしたことになっているが、第15代応神天皇(胎中天皇)も九州から畿内にやって来た天皇であることに注目する。
境内中央奥に拝殿があり、その後ろに本殿があった。
当社の社殿は、かつては20年毎に立て替えられていた。また、戦国時代以降は戦火あるいは失火による焼失に見舞われ、後北条氏の宇都宮侵攻の際、また宇都宮宿における幾度かの大火、さらに宇都宮戦争(戊辰戦争)の際に新政府軍の砲弾攻撃により破壊され焼失している。
現在の社殿は明治10年(1877年)に明治新政府によって仮社殿として再建されたものだという。
宇都宮戦争では宇都宮藩は新政府軍に属したので、比較的早く二荒山神社は明治新政府によって再建された。
拝殿は入母屋造で前面に向拝が出ている。
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以前の本殿は入母屋造だったそうだが、今は神明造になっている。神明造の本殿と入母屋造の拝殿が相の間で結ばれた少し変った様式となっている。
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本殿は玉垣で囲まれているが、玉垣の向かって左側には女体宮が祀られている。他の末社のように玉垣の外にあるのではなく、本殿の付属物のように祀られているのが気になる。
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女体宮の祭神は三穂津姫命で、安産の神とされる。三穂津姫命といえば事代主と共に出雲の美保神社に祀られている神だ。
境内末社は多いが、神門内にある末社をいくつか紹介する。
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十社は県内の式内社の祭神を祀っている。栃木県内には宇都宮二荒山神社を含め式内社が十一社あるようだが、他の十社の祭神を祀っているということか。
地元では、二荒山神社に参拝すれば下野国にある全ての神社の御利益を受けられるとされ、人々の信仰を集めたそうだ。
栃木県内の式内社は、河内郡の二荒山神社以外、都賀郡に大神神社、大前神社、村桧神社、芳賀郡 に大前神社、荒樫神社、那須郡に健武山神社、温泉神社、三和神社、寒川郡に阿房神社、胸形神社がある。私は当社を訪れる直前に三和神社に参拝している。
因みに境内末社の十社の祭神は、素盞鳴尊、天兒屋命、味耟高彦根命、武甕槌命、豊城入彦命、大山咋命、事代主命、下照姫命、誉田別尊、日本武尊とされる。私が直前に訪れた三和神社の祭神は大物主で、この十社の祭神の中には入っていないが、二荒山神社の本殿の相殿に祀られている。
因みに日光二荒山神社の祭神は、大己貴命(大国主)、田心姫命(宗像三女神の一人)、味耜高彦根命である。大己貴命は大物主ともされるので、大物主は日光と宇都宮の二荒山神社に祀られていることになる。違いは日光では、大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命と親子三神が祀られているのに対して、宇都宮では相殿に大物主と一緒に祀られる子は事代主とされていることである。
どこにも稲荷社は祀られているが、当社の境内末社にも初辰稲荷神社があり祭神は倉稲魂命である。
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須賀神社と市神社が同じ社殿に祀られていた。例祭日も同じ6月15日である。
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向かって右が須賀神社、左が市神社であった。須賀神社の祭神は素戔嗚尊、市神社の祭神は大市姫命である。素盞鳴の正妃として有名なのは櫛稲田姫だが、他の妃に神大市姫命がいて、その間の子として饒速日命がいるという説がある。そしてこの饒速日命が実は大和の三輪山に祀られている大物主であるという説もある。
また、スサノオとアマテラスは誓約(うけい)により宗像三女神など何人かの子をもうけているが、これはアマテラスとスサノオが姉弟ではなく夫婦であったことの査証とされ、後世、天皇や将軍が後宮や大奥を設けるように、古代においてもスサノオなどの有力者は多くの妃をもったと考えられる。また、征服者に従った豪族は姫をさし出して臣従の意を示したこともあったと想定される。
古墳時代以降、祖先神や産土神、氏神を祀り、神々を人格神と見なすようになると、神話の中で神々の闘争やロマンスが語られるのは当然となり、神々の世界も騒々しくなる。その多くは創造の産物であるのだろうが、その深層にその神を祀る部族や氏族の栄光や屈辱が反映されている可能性があるのではないかと考えることも古代史のロマンである。
初辰稲荷神社の横に「明神の井」があった。
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現地案内板より
『 明神の井
宇都宮の名所、七木、七水、八河原の一つで、代表的な由緒深い「明神の井」をこのたび復興致しました。この井戸にまつわる伝承は数多く残されており、明治天皇が明治42年11月那須野ヶ原大演習の折、当地に行幸があり、この井水を以て湯茶を献ったと伝えられております。
この井戸水は御神水で霊水でありますので、御手水にあるいは神棚に供える御水に、また書道等の技芸の水に御使用になると上達すると言う信仰があります。お持ち帰りになり、御神徳を戴かれるようにお奨めします。
二荒山神社社務所 』
江戸時代の人々は、主な湧水を七つ選んで「七水」とした。その一つがこの「明神の井」だとされる。この「七水」と「七木」「八河原」を選んで名所としたそうだ。
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