季題を殺す方法が写生だ ―岸本尚毅集より

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セレクション俳人07 岸本尚毅集(邑書林 2003.6.10)を読み、季重なりの多さに吃驚した。だがこれはもちろん意図的だ。

 巻末の「散文」の中の「写生と季語のダイナミズム」を読んでいて、季題をどのように考えているかを知った。

 今回は、この散文による「季題と写生の関係」の重要と思われる部分を拾っておこうと思う。

季重なりの句

 これは本当に多い。目につくものをいくつか挙げる。

鯰ゐて朴の落葉の降ってくる:鯰ー夏、朴落葉ー冬

冬空へ出てはつきりと蚊のかたち:冬空ー冬、蚊ー夏

雪の上大きな影は椿の樹:雪ー冬、椿ー春

月の出や冬葉が四方八方に:月ー秋、冬ー冬

葉牡丹やダンスの汗がうつすらと:葉牡丹ー冬。汗ー夏

白魚やテレビに相撲映りをり:白魚ー春、相撲ー秋

百千鳥餅ひからびて割れにけり:百千鳥ー春、餅ー冬

鶏頭を濡らして障子洗ひけり:鶏頭ー秋、障子洗うー秋

以上「第一句集 『鶏頭』1986.5.25 牧羊社」より

季題と写生

岸本さんは季重なりについてこのように解説している。

岸本尚毅の俳句レッスン「季重なりを考える」

www.sakigake.jp

おおまかにいえば、

季語はたくさんあり、写生をしていれば一句に季語が複数入ることはある。重要なのは、その主従であり、一句として効果的か否かで判断すべきものである。 ということだ。

 先に上げた句で、一句の季に迷う要素は微塵もなく、鶏頭と障子洗うという秋の季題の季重なりも、庭の写生風景として季節の趣きを高めこそすれ、邪魔だったり無意味だったりということはない。

高浜虚子さん

(以下の内容は「写生と季語のダイナミズム」の抜粋と要約である)

高浜虚子さんの「花鳥諷詠」と「客観写生」は、「季題」を引き裂く、緊張関係にある。

流れゆく大根の葉の速さかな 虚子

 の「大根の葉」は、季題「大根」の本意を離れている。季題の季題らしさを写生の目が覆い隠し、大根の葉は「季題」ではなく「季物」とでもいうべきモノとなっている。

古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

 について、大正七年の虚子さんは「閑寂趣味とそのままの叙述。対していい句とも思えない」としていたが、昭和三十年の虚子さんは「この句が閑寂趣味を詠んだ代表句と教えられて来たことに一つの疑問があった。それは(…)閑寂の天地の中にさゝやかにではあるが、活動の世界を描いたといふことにあった」

「古池の水も温みそめ、そこに蛙が飛び込む。そのことは四時循環の一つの現はれである。天地躍動の様である」

 この「花鳥諷詠」と「実景そのまま、一見平凡は描写」とい写生との融合した句ととった。

「その底には宇宙の動脈に触れた消息がある」

→世界とは動きであり、その動きの一瞬を切り取っての存門の句、という感じ。

山本健吉さん『俳句私見』より

 「蕪村の「季節的雰囲気」は作品から沁み出てくるのではない」

「情趣は創作以前に作者のものとして存在している。それは作品の原因であって結果ではない」

 「芭蕉の、古池やの句は、古池の閑寂さによって蛙の季題趣味を払拭した上で写生の眼(耳)によって、蛙という季題に新しい表情を与える」

「(芭蕉の句は)季語他の語とは同質であり、同様の重量をもって十七文字の中に位置づけられている」

「季語の持つ情緒をいったん殺して、普通語として使うすべを芭蕉は会得していた」

「季語だけが季節感を担っているのではなく、それは句全体に濔漫している」

「あらゆる文字が季語から季感を吸い取っている」

→ 蕪村の句に関してだが、その景を俳句にしようとする段階で、そこにはある種の「感じ」が作者にあったのではないか? それを作品の原因とすることを瑕疵とすることはできないと感じた。

 もちろん予め決め打ちした「季感」に景を嵌め込もうとする態度は、写生ではないし、そのような決め打ちの季感を「季題」のみで表しうるという態度も、季題と景に対する不遜さであると思う。

 だが、なんらかの「感動」が俳句を作る原因であることは否定できず、それが「季感」であったらいけないとも、「季感」ではなかったから「季語」に頼ろうとすることも、一概には否定できないとも思うのであるが。

「季題と写生との間で暴走したのが碧梧桐の自由律だった」

「写生によって季題を噛み砕く方法」

季題の情趣はなぜ殺されなばならないのか

 「それは季題が怖い存在だからだ。(…)季題そのものは一句の成立以前に存在し、既成の情趣をもつ。それゆえ季題は一句一句の自立を脅かしかねない。だから季語を便利な道具にしようなどと考えてはならない。むしろ俳句は季題との闘いだ。季題に挑み、季題を揺さぶる。すると季題は力強く押し返してくる。それが写生の本質だ。季題と写生との緊張関係こそが、俳句形式のダイナミズムを動かす力だ。

 一句の命を季題に吸い取られれないうちに季題を殺す。

 季題を殺す方法が写生だ。

 殺された季題は「普通語」として蘇る。それが芭蕉と虚子と爽波に共通する方法だ。

→この「季題」の在り方が、禅でいう、往還後の「而今の眼」(山はこれ山川はこれ川)を思う。季題をこの境意で用いるとき、俳句は「宇宙の動脈に触れた消息」を薫習するのではないかと思う。

おわりに

20201112放送のプレバトの千原ジュニアさんの、  痙攣の吾子の吐物に林檎の香

の、季語林檎の本意についての解説がよかった。

「これを季語でないという人には「無季の句」と主張すればよい林檎の動かなさ」

 今後の俳句の指針したいと思う。


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