検証の旅・五島列島

http://www.forumsora.com/?p=5811【木内鶴彦先生と行く「検証の旅・五島列島」企画決定】より

第179回フォーラムソラ定例会の様子

3月24日(土)、第179回フォーラムソラ定例会を開催しました。

今回は5月に実施する「検証の旅・五島列島」の内容について、事細かに説明を行いました。

すでに待ちきれない、多くの皆さんにお集まりいただき、詳細な情報を漏れなくお伝えしました。

木内鶴彦先生と行く「検証の旅:五島列島」 とは?

日本とユダヤの関係とは?

なぜキリストは剣山を目指したのか?

巨石文明とは?遥かなる太古への謎に迫る!

■検証の旅・五島列島/検証のポイント

<ポイント1>

今回の「検証の旅」では、木内さんが気になってた場所を実際に赴き、生死を彷徨った「宇宙(そら)の記憶」との接点を探りながら、時空を超えた検証を行います。

<ポイント2>

イザヤ(イエス)が四国剣山に辿り着くにあたり、平戸、諫早、島原半島(小浜)に立ち寄った軌跡を過去の「旅」で検証しましたが、その始まりに「五島列島」があったのでは?という仮説から検証を行います。

<ポイント3>

「古事記・神代篇」に出てくる沢山の神名が五島にある多くの地名と極めてよく似ていることなどから、五島列島が、「古事記」に出てくる高天原であり、神代の物語は五島列島で起きたとの説もあり、日本の古代史からの検証を行います。

<ポイント4>

地元・歴史研究家に協力を仰ぎ、島に残る伝説や神話、迷信、古文書情報を元に、五島列島に潜む巨石遺跡や磐座、パワースポットや神社仏閣から「五島列島の古代史ミステリー」を解き明かす検証を行います。

<ポイント5>

一般的なツアーではなかなか行けない場所へ、特別手配によって訪問を実現させます。 重要な場所の数々を木内さんと共に巡ることで、個々の意識と膨大な意識とのアクセスに挑みます。

■検証の旅・五島列島/概要

[日  程] 5月19日(土)~21日(月) 3日間

[集合時間] 5月19日(土) 11時00分

[集合場所] 長崎港ターミナル(空港集合ではありません)

[解散時間] 5月21日(月) 16時50分

[解散場所] 佐世保港ターミナル(空港集合ではありません)

[参加定員] 15名(フォーラムソラ会員限定)

[含まれるもの]  集合場所から解散場所までの移動・交通費、宿泊、食事、ガイド代等の一切。

[含まれないもの] 集合場所まで解散場所からの移動・交通費、個人的な飲料代や諸費。

[備  考]東京~長崎・エア時刻表

●行き:5月19日

JAL 605便:羽田07:40→長崎09:35

SNA 031便:羽田06:55→長崎08:50

●帰り:5月21日

SNA 042便:長崎21:05→羽田22:45

JAL 616便:長崎20:30→羽田22:10

※参加者様個々でご予約下さい。

■検証先の候補地・紹介

☆福江島

五島列島の政治・経済・文化の中心で、一番アクセスしやすい島。

・諏訪神社→主祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)

・大窄の大椿→県の天然記念物に指定。樹齢350~400年の大椿。

・鬼岳→珍しい火山で500万年前の噴火の上に5万年前の火山が重なり合ってできたもの。五島のシンボル。

・亀甲石舞台→溶岩流の先端が盛り上がり節理(割れ目)ができた珍しい地形。

・勘次ヶ城跡→倭寇(わこう)の時代の遺跡では?と考えられている石組。八幡瀬(ばはんせ)と呼ばれる地形を利用した太古の遺跡か?

 (倭寇:13~16世紀に東アジアで活動した日本人を主体とした海賊)

・観音平の岩屋観音→キリシタンが途絶えた五島に外海(現在の長崎市)から移住者によってキリシタンが復活した場所。

・堂崎教会→キリスト教禁教令廃止以降、五島列島で最初に建てられた聖堂。1974年(S49年)に堂崎教会の名称で長崎県指定有形文化財に指定され、現在は堂崎天主堂キリシタン資料館となっている。

☆嵯峨ノ島

この島は二つの火山がその裾野(すその)でつながってできた一つの島で、北方の男岳(おだけ)、南方の女岳(めだけ)からなり、断崖には火山の内部構造がはっきりと露出し、火山の噴出状況が顕著に示されている島として有名。

嵯峨島はJTBが選ぶ『日本の秘境100選』の一つでもある。

・男岳火口

・女岳

・千畳敷→女岳と男岳の接合部分。地球の形成、地質現象を知ることができる。

☆小値賀島&野崎島

☆野崎島

・王位石(おえいし)→謎の巨石遺跡。人が造ったのか、自然のものか?まったく不明、多くの伝説を持つ神秘的空間。個人ではなかなか行けない貴重な場所。

・沖の神島神社(おきのこうじまじんじゃ)→日本が白村江の戦いで朝鮮に敗れて以降、遣唐使船は五島経由の直行便で中国に向かった。その安全祈願のために創建された神社の一つ。704年創建

☆小値賀

・地の神島神社(ちのこうじまじんじゃ)→「沖の神島神社」と向い合せに造られた。

・神方古墳→五島列島唯一の古墳(6~7世紀)。古事記の大八島(おおやしま)の次に生んだ6島のうち、知訶島(ちかのしま)や両児島(ふたごのしま)に関連するとの一説がある。

https://www.jelc-musashino.org/?p=237【説教「その名はイエス=インマヌエル」 大柴譲治】より

マタイによる福音書1:18-23

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「その名はインマヌエル」

アドベントの三本目のローソクに火が点されました。アドベントとは「到来」という意味のラテン語です。主の第一のアドベントであるクリスマスの出来事と、第二のアドベントである主の再臨の出来事の間にあって、私たちは主の到来を身を正しながら待ち望むのです。先週の礼拝では賀来先生が、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と荒野で呼ばわった洗礼者ヨハネを通して、この時を私たち自身が身を正して主の到来を待ち望むということを語って下さいました。洗礼者ヨハネは自分の後から来られる方を全身全霊をもって指し示すのです。

マタイ福音書は旧約聖書の預言がイエス・キリストの出来事において成就したことを繰り返し記しています。本日は福音書の日課としてマタイ福音書1章が与えられています。そこには主イエスの誕生がイザヤ書7章に預言をされていたことの成就であることが明示されています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:23)。

イエスはインマヌエル、「神われらと共にいます」という名で呼ばれるお方であるということを明らかにしています。救い主イエスの誕生がインマヌエル預言の成就であることは新約聖書の中ではマタイ福音書だけが伝えていることなのですが、それはイエス・キリストのこの世への到来を意味する決定的な預言として理解されてきました。この「インマヌエル」という言葉はマタイ福音書を貫く主題として重要なキーワードになっています。この言葉自体はこの1:23にただ一回だけイザヤ書7:14の引用として出てくるだけなのですが、マタイ福音書の一番最後に復活の主が弟子たちを派遣する場面がありますが、そこにはこう記されています。マタイ福音書の締めくくりの言葉です。

◆弟子たちを派遣する

(16)さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。(17)そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。(18)イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。(19)だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(20)あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というのは「インマヌエル(神われらと共にいます)」ということです。

また、18:20には次のような主イエスの言葉もあります。18節から読んでみます。

「(18)はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(19)また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。(20)二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とは「インマヌエル(神われらと共にいます)」ということです。

そのようにマタイ福音書は、主イエスが弟子たちと常に共にいるということ、インマヌエルということを一貫して主張しているのです。見えない復活の主のご臨在を証ししているのです。 <「その名はイエス」> 「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と天使がヨセフに告げていますが、「インマヌエル」という名と「イエス」という名がどのような関係にあるのかが分かりにくいかもしれません。「イエス」という名は、ギリシャ語では「イエスース」と書かれますが、当時のユダヤ人においてはごくごく当たり前の、ありふれた名前であったようです。それはヘブル語では「イェホシュア」という名前で、「ヤーウェは救い」という意味です。その名は旧約聖書では「ヨシュア」と訳されていて、例えばモーセの後継者で約束の地に民を導いて入っていったヌンの子ヨシュアがそうです。使徒言行録7:45やヘブル書4:8ではギリシャ語で「イエスース」と書かれているところを「ヨシュア」と訳しています。神はインマヌエルの神であり、われらと共にいますことを通してその救いを達成して下さる神なのです。

苦しむヨセフに現れた天使

本日の福音書の日課であるマタイ1章はヨセフの苦しむ姿を記しています。いいなづけのマリアが何者かによって子供を身ごもったことを知ったからです。どのような経緯でヨセフはそのことを知ったのかは記されていません。「聖霊によって身ごもった」とマタイは記していますが、そのことを知っていたのはマリアだけだったはずです。ルカ福音書は天使ガブリエルがマリアに受胎告知をしたことを記しています(1:26-29)。

「聖霊による懐胎」は人間には理解できない神秘的な次元の事柄です。ヨセフはマリアが身ごもった理由を知りませんでした。ですからヨセフは、律法を守る「正しい人」でもあったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、マリアを密かに離縁しようとします。苦渋の決断でした。ヨセフはそうすることで神への愛を貫こうとしているのです。公に離縁するとマリアが姦淫の罪に問われて石打ちの刑で殺されてしまう危険もあったためでしょうか。もしそうであるとすればヨセフは密かに縁を切ろうとすることで、マリアを憐れみ、彼女を守ろうとしたということになるのかもしれません。ルカ福音書は母マリアの方に焦点を当てているのに対して、マタイ福音書は父ヨセフに焦点を当てています。

ヨセフ(「神は加えたまう」の意)はイエスの誕生物語において重要な役割を果たします。それ以降ヨセフは役割を終えて背後に退いて行くのですが、三度(厳密に言えば四度)天使のお告げを聞いて行動を起こします。本日の箇所がその最初のものですが、二度目はヘロデ大王がエルサレムとその周辺の二歳以下の男の子を殺す前に天使のお告げを聞いてエジプトに逃れて行きます。そしてヘロデ大王が死んだ後に天使のお告げを聞いてエジプトから帰国し、さらには(四度目として)夢で示されてナザレに住むことになるのです。

神はヨセフを用いてその救いのご計画を実現されて行きました。ルカ福音書は受胎告知を告げる天使ガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えるマリアの従順を際立たせていますが(ルカ1:38)、私は本日の箇所でのヨセフの「従順」に心打たれる思いがいたします。悩みの中で神の示された御心に、言葉少なではあるけれども忠実に歩むヨセフの姿は、私の中では行く先を知らないで神の言に信頼して旅立ったアブラハムの姿や、燔祭の薪を背負って父アブラハムの後についてゆく従順なイサクの姿と重なります。「主の山に備えあり」なのです。

悲しみの中に降り立ってくださったキリスト

マリアの夫ヨセフに本日は思いを向けました。彼は子供にイエスと名付けたのです。当時の慣習としては母親が名付け親になったようですが、ここではヨセフがその役割を果たしたとマタイは記します。どのような苦しみや悲しみの中にあっても、インマヌエル、神われらと共にいますのです。

先週私は聖路加国際病院に足を運びました。恩師が緩和ケア病棟に入院されているからです。聖路加病院は、私が1985年、今から25年前になりますが、神学生時代に3週間の臨床牧会訓練を受けた場所です。時間を超えてフラッシュバックのようにその時のことを思い起こしました。今もそうですが、聖路加の小児病棟は小児白血病の患者さんが大勢入院されていました。今でもはっきりと思い起こします。ある時に小児病棟を訪問していたら、若いご両親が私に対して深々と頭を下げられたことを。「いつも子供を訪問して下さってありがとうございます」と笑顔で言われたのです。

けなげに病いと闘っている子供たちの姿を見て心震えるような思いをして病棟から出てきた直後だったように記憶しています。病の子供を抱える親の気持ちを思うと、何もできない自分の無力さに胸がつぶれるような思いがしました。しかし、そのような辛い現実の直中に無力なままで踏みとどまることの大切さをその笑顔とお辞儀とによって教えられたように思います。キリストが私たちの現実の直中に降り立って下さったのです。どのような苦しみにあってもインマヌエル、神われらと共にいます。私たちの救い主、その名はイエス(インマヌエルの神は私たちを救う)なのです。

ジョン・パットンという米国の牧師がある本の中で紹介している印象的なエピソードを思い起こします。それは次のようなエピソードです(”From Ministry to Theology,” Journal of Pastoral Care Publications, 1995)。

米国のある病院での出来事。産婦人科は病院の中にあって唯一喜びと笑顔の溢れる場所です。子供の誕生を誕生を心待ちにしていた一組のカップルがいました。しかし、悲しいことにその女児の赤ちゃんは死産となってしまいました。マギーという名前を付けられた赤ちゃんのために病院のチャペルで礼拝が行われます。礼拝の最中に、涙をとどめることができないでいるその若い両親が突然、この子のために洗礼式を行って欲しいと申し出たのです。それを執り行っている若いチャプレンの目からも涙が溢れ続けた。突然の申し出で洗礼盤には水も用意されていません。チャプレンは瞬間迷いましたが、そのご両親の申し出を了承したのです。そしてご両親の涙と自分の涙を指でぬぐって、「マギー、父と子と聖霊のみ名によってわたしは洗礼を施します」と言って、赤ちゃんの額にそっと指を触れ、十字を切って洗礼を行ったのでした。

主イエスは、その名の通り、悲しみの中にも「インマヌエル」、われらと共にいましたもう神のご臨在を示してくださるのです。そのことを覚えつつ、一週間を過ごしてまいりましょう。

お一人おひとりの上に祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

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