https://ameblo.jp/daimular208729/entry-12210803175.html 【【意識】は【蓮の花】へ~ 『身は泥中の蓮華』 ~ 釈迦 「維摩経」より】より
『身は泥中の蓮華』 お釈迦様の維摩経(ゆいまきょう)より
蓮の花は泥の池の中から綺麗で美しくそして大きな花を咲かせます。この美しい花を咲かせるためには汚く、汚れた水が必要なのです。
綺麗で清らかな真水からは綺麗で美しく大きな花は咲かないようです。
汚い泥水の中から養分を吸い取り見事な大輪を咲かせるようです。それと同じように。私たちの日常。「もうこんなのイヤだ!!!」となることもあると思います。
ですが。【私の意識】と【私の感情】とは【別物】です。
泥の中で前も見えないと、「こんなのイヤだ!」という感情、「イライラ感」はどんどん大きくなり、その「イライラ」がイコール自分、と思ってしまうこともあると思います。
でも。「私の携帯電話」「私の財布」「わたしの息子」が「私」ではないように、
「私のイライラ」は「私」ではないんです。
「私」とは・・・?身体?? じゃ右腕がボトリと落ちた、「あ、オレだ!ここにオレが落ちてる!」ではないですよね。
「私」とは・・・『意識』であり『魂』の部分、その人の『データ』の部分です。
その『データ』であるあなたと、『イライラ感情』とは別物、持ち物であってイコールではありません。
【身は泥中の蓮華】
泥のような日常(泥が悪いわけじゃないですが)でも、感情は泥によってかき乱されるかもしれませんが、『意識』は蓮の花に置きます。
『私はどういう生き方をしていくか。』『私はこの世で何を成すのか。』『私は父親としてどうあるのか?』『私は妻として何を成すのか?』『私は事業主として何を体現していくのか?』蓮の花にそれを乗せて生きてゆきます。
感情は色々涌きます。
【蓮の花】が泥に目を向けて泥にエネルギーを割いていたらきれいにはなれないと思います。
きれいな花を咲かせていること。ただ『在る』 ということ。その凛とした美しさの底では、いろんなことが起こっています。
でも。それをうまく栄養にするんですね。うまく栄養にしながら、「自分は何をこの世になしていくのか。」「死ぬ直前に人生を振り返ったときにどのような花が咲いていたか。」そこに【意識】を置くんですね。
と、かくいう私が、自分の感情と「どうやってつきあおっかな~」と、蓮に意識を向けざるをえない日々を楽しんでいます(#^.^#)
お釈迦様。2,600年も前から。すごい(^.^)
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仏教の経典『維摩経』のなかに、「泥中の蓮(でいちゅうのはす)」という言葉があります。蓮(はす)は泥の中で大輪の花を咲かせます。つまり、汚れた環境の中でもそれに影響されずに、清らかさを保っていることの例え(デジタル大辞泉より抜粋)なのです。
その一方で、この言葉は、生まれ育ちが悪いにも拘らず、一生懸命に努力している人を皮肉って言う場合もあります。
しかし、基本的には、周りに左右されることなく、自分を見失わずにがんばっている人に対する褒め言葉として使うほうが一般的です。
泥中の蓮となれる人は、確固たる信念の持ち主で、考えや行動に一貫性があります。人の顔色を見て、意見をコロコロ変えるようなことはなく、明確に意思表示し、言うべき時はNOをはっきり言うのです。しかし、性格に裏表がないので、他人から嫌われることなく、信頼されるのです。
さらに、極めて個性的です。それは、他人との違いを明確に意識し、自分は自分であるという姿勢を崩さないからです。個々の違いというものを理解しているため、他人の個性も大いに尊重しているのです。
そして、悪意のある仲間外れを恐れないため、常に孤高の人であり続けます。そういう生き方が好きなので、良い意味で一匹狼なのです。
まずは周囲に影響されず、自分を知り、何をしたいのかを明確にしましょう。そして、他人と比較することなく、決して自分に嘘をつかなければ、どのような環境におかれても、必ず泥中の蓮となり、光り輝く自分を手に入れることができることを忘れないでください。
https://noriog2525.wordpress.com/2017/07/27/%E6%B3%A5%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%93%AE%E8%8F%AF/ 【泥中の蓮華】より
泥中の蓮華(でいちゅうのれんげ)by 維摩経(大乗仏教経典の一つ)
お寺ではたくさんの「蓮の花」を見かける。
浄土真宗のご本尊、阿弥陀如来が立たれているのも蓮の上であるし、また教典・聖典の中にも、「阿弥陀経」はもちろん「正信偈」にも「蓮の花」がでてくる。「蓮華(れんげ)」と書いてある場合もある。
蓮の花は、決して美しい環境とはいえない泥の中に生えて、それでも泥に染まらず、とても美しいきれいな花を咲かせる。
泥は私たちがいるこの俗世間をあらわしている。
泥は私たちの「煩悩(ぼんのう)」をあらわしている。
そして「花」は仏教でいう「さとり」をあらわしている。
「花」は「物事をありのままに見ることができる、美しい清らかな心」をあらわしている。
つまり仏教では「このどろどろした俗世間で、美しい清らかな心をもった目覚めた者になろう」と蓮の花を意味づけている。
しかし「煩悩を無くし、さとりをひらく」ことが出来ればいいのであるが、やはり圧倒的大多数の人が、泥の中にいれば泥に染まってしまう。
でも親鸞聖人はそれが悪いことだとはおっしゃっていない。
正信偈*の中に、
※親鸞聖人の信仰告白であり、あなたも親鸞聖人と同じ真実の幸せになれる仏教の真髄が記されている。
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
とある。わかりやすく意訳しすると、
よく信心をおこして、阿弥陀様の救いを喜ぶ人は、清い水をもつ川、泥水をもつ川、あらゆる川の水が海に流れ入って一つの味の澄んだ水になるように、煩悩を断たないままですべて等しく悟りを得ることが出来る。
という意味だそうだ。
そして正信偈はこう続く。
摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貧愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
ここで親鸞聖人は、煩悩を「雲(くも)」「霧(きり)」におおわれた「闇(やみ)」に例えられておられる。
「闇」をうちやぶるのは「光」意外にありえない。
ひとすじの太陽の光がさせば、「闇」は一転、明るい世界である。
「闇」が「闇」をうちやぶるのではなく、「闇」は「闇」のままで、太陽の光によって明るい世界へと変えられていく。
闇(煩悩)に囲まれた私たちが、自らその闇(煩悩)を打ち消すことは非常に難しいことである。
しかし、闇(煩悩)はそのままで、阿弥陀さまの本願の光に包み込まれて、光の世界へと変えてくれる、親鸞聖人はそう説く。
最後に、
「蓮の花」というのは、きれいな澄んだ清流のような水のあるところには決して咲かないそうである。
「泥の中」にしか咲かないそうである・・・。
そして、花が咲くには、太陽のひかりが必要なのは、言うまでもない・・・。
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