笠島はいずこ五月のぬかり道

https://ameblo.jp/hiro-5517/entry-12290131284.html 【■佐倍乃神社■】より

(さえのじんじゃ) 別名:笠島(笠嶋)道祖神社

【御祭神】 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ) 天鈿女命(あめのうずめのみこと)

【鎮座地】 宮城県名取市愛島笠島字西台1-4

【創 建】 景行天皇40年(110年)

社号標は道祖神社となっております。途中、付近にある案内標も道祖神社となっております。鳥居額は正一位道祖神下矢印

狛犬さん下矢印

歴史がある神社さんって感じですね。

御神門兼神楽殿下矢印

こんにちは。カメラを向けたら、こっちに振り向きそうな気配です滝汗

神門前の狛犬さん下矢印

誇らしげに構えてます真顔

御由緒下矢印

【御由緒】

 佐倍乃神社は、元禄2年俳聖松尾芭蕉の「奥の細道」行脚の時、「笠島はいずこ五月のぬかり道」とよんだ句にある名取市愛島笠島に鎮座している神社で「笠島道祖神社」と称しました。

 祭神は猿田彦神と天鈿女命で、例祭は4月20日としております。本社の創建については、一に景行天皇の御宇日本武尊東征の際といい、或は垂仁天皇の御宇八津峯に鎮座あり、雄略帝の御宇宮社を造営するともいわれる。

 室町時代大永2年(1522年)10月23日本殿造営され、桃山時代文禄元年(1592年)2月15日伊達政宗公社殿の御修繕をされました。慶長7年(1602年)の野火に罹り、社殿及び頼朝以来の古文書什物等悉く焼亡した。江戸時代の元禄13年(1701年)伊達綱村公拝殿を御修造し、祭田2貫文を寄進、享保17年(1733年)7月正一位の神階を授けられた(宗源宣旨)等々のことがあり、歴代の藩主領主等厚く尊宗した神社であります。

 明治の初め道祖神社の社号を現社号の村社佐倍乃神社に改めた。明治41年11月郷社列格、同43年3月供進社に指定された。これより先佐具叡神社外10社を合祀した。祭神の猿田彦神は、天孫降臨の際道を開きご案内した事から道の神と、又御夫婦の神である天鈿女命と共に人間生活の道を守るところから縁結び、夫婦和合の神と祀られております。

 例祭日には宮城県指定無形文化財に指定されている出雲流の「道祖神神楽」が奉納されます。

 尚平安朝時代の長徳4年(998年)左近衛中将藤原実方朝臣馬上にて社前を過ぎたところ、この神はその非礼を咎め為に、実方は馬と共に斃れ死んだと伝えられており、その墳墓は当社より北方700米の塩手字北野にあります。

手水舎下矢印お願い

中央の石には龍神様が彫られてます龍

5、6年ほど前から愛用してるブレスレットです。

拝殿下矢印

神社境内に入った時、とても感じが良かったですキラキラ

宮城野区の青麻神社さんの時はビリビリしましたが、

ここは優しい風に包まれてる感じで、とても心地よいですお願い

【御祭神について(Wikipediaより)】

 佐倍乃神社の祭神である猿田彦大神は、天孫降臨の際に皇御孫命である邇邇芸命を先導した神とされており、そのことから「道祖神」や「幸神(さいのかみ)」と呼ばれている。当社の社名の「佐倍乃(さえの)神社」は「幸神(さいのかみ)」の名称にちなむものである。佐倍乃神社は、主に人生や生活の道開き・交通安全の神社として崇敬を集めており、その他にも縁結び・五穀豊穣・商売繁盛・家運隆盛の御神徳があるとされている。

 また、もう一柱の祭神である天鈿女命は猿田彦大神の妃神であり、天の岩戸開きのときに岩戸の前で舞を踊った神とされる。そのため、当社は音楽・芸能技芸向上の神や夫婦和合の神として信仰されており、芸能関係者が参拝に来るという。(以下略)


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno13.htm 【奥の細道

(笠島 元禄2年5月4日)】より

 鐙摺*、白石の城を過、笠島の郡*に入れば、藤中将実方*の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「是より遥右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社 、かた見の薄*、今にあり」と教ゆ。此 比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、簑輪・笠島も五月雨の折にふれたり*と、 

笠島はいづこさ月のぬかり道(かさじまは いずこさつきの ぬかりみち)岩沼に宿る*。

 5月4日。午前8時頃、白石出発。小雨もこの頃には止み、薄日も射し始めた。岩沼で竹駒神社参詣。その別当竹駒寺の後に武隈の松がある。これを見物。

 笠島はいささか遠いというので見ずに通過。名取川を渡り、仙台市長町で若林川を渡って夕方仙台に到着。この夜は、仙台市国分町大崎庄左衛門宅に宿泊。

笠島はいづこ五月のぬかり道

 藤中将実方ゆかりの笠島は五月雨あとのぬかり道のかなた。この辺土で無念の死をとげた中将の魂は今何処にあるのだろう。

 この日は、五月晴れとはいかなかったが、薄日のさす晴れの日だったらしい。しかし、ここの地形からして梅雨どきの畦道を通って笠島道祖神まで歩いて行ける状況ではなかったに違いない。

 『猿蓑巻之二』では、「奥刕名取の郡に入、中将実方の塚はいづくにやと尋侍れば、道より一里半ばかり左リの方、笠嶋といふ處に有とをしゆ。ふりつゞきたる五月雨いとわりなく打過るに」としてこの句を掲出する 。

鐙摺:<あぶみずり>と読む。白石の山峡で難所。義経の軍勢はここで鐙を摺ったという言い伝えがあった。鐙は、乗馬時に足をのせるための馬具 。

白石の城を過:<しろいしのしろをすぐ>と読む。白石は、伊達家の支城で、片倉氏の居城。

笠島の郡:宮城県名取郡笠島村、現名取市愛島(めでじま)。

藤中将実方(~998):<とうのちゅうじょうさねかた>と読む。藤原実方。一条天皇の時代、和歌の名手といわれて、左近衛の中将にまで昇進したが、長徳元年9月、天皇の前の歌会で藤原行成と口論に及びそれがもとで陸奥守に左遷される。当代きってのプレイボーイで、関係した女性は20人を超えたといわれている。行成との確執は清少納言を間に挟んだ恋の鞘当てが原因らしい。長徳4年12月12日、実方は馬に乗ったまま笠島道祖神前を通過したところ、馬は突然倒れて死亡、その下敷きになって実方も死亡。そのままこの地に埋葬されたという(謡曲『実方』)。よくある貴種流離譚の一つ。

五月雨の折にふれたり:蓑や笠と雨に関するものに関係があるという軽口。

かた見の薄:<かたみのすすき>。後に西行がここを訪れ、実方の形見とて薄の穂波だけとなっている姿に涙して一首したためている。「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野の薄かたみにぞ見る」

岩沼に宿る:岩沼は宮城県岩沼市。東北本線と常磐線の分岐点。実際には、芭蕉一行はここに宿泊していない。あえて文学的粉飾を施す必要も見えないので、これは芭蕉の記憶違いか? はたまた、佐藤庄司旧跡で一日溯って日付たので、ここで文学的調整を企図したのだろうか?  ただし、芭蕉自筆本では「岩沼宿」として次の「武隈の松」の章見出しとして位置づけていたようでもある。そうだとすると、日付問題が再燃するので、素龍清書時に改稿した可能性も無いではない。

全文翻訳

鎌倉に馳せ参ずる義経一行が馬の鐙を擦ったと言い伝えられる「鐙摺」の細道、白石の城下を過ぎて、笠島に入ってきた。藤中将実方の塚は何処かと人に尋ねると、「こっから遥か右の方さ見える山際の里だら、箕輪・笠島と言ってぇ、道祖神も藤中将形見の薄なども残っているんだでば」と言う。このところの五月雨で道はぬかるみ、身体も疲れていたので、遠くから眺めるだけで通り過ぎることにしたのだが、箕輪の「蓑」といい、笠島の「笠」といい五月雨に縁があるので、

笠島はいづこさ月のぬかり道

と詠んだ。この日は、岩沼投宿。


http://www.basho.jp/senjin/s1006-1/index.html 【笠嶋はいづこさ月のぬかり道 芭蕉(おくのほそ道)】より

平安時代の歌人中将実方、その墓のある笠島はどの辺りであろうか。この五月雨が降り続いて、ひどいぬかるみの道では立ち寄ることもできない、という意。一条天皇の頃の優れた歌人実方は、宮中で行成と口論となり、相手の冠を取って庭に投げ捨てたことから、「歌枕見て参れ」と陸奥守に左遷された。笠島道祖神の前を通った時、馬上のままだったので神の怒りに触れ落馬して死んだと伝えられる。のちに西行がその墓を訪ね「朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄形見にぞ見る」(新古今・哀傷)と詠んでいる。『曽良旅日記』に「行過テ不見」とあるが『猿蓑』に「いとわりなくて打過るに」、「真蹟懐紙」にも「わりなくて過ぬ」とある。この「わりなくて」に、西行を慕い、歌枕を訪ねる芭蕉の、まことに残念、心残りだ、という思いが滲む。はるかなみちのくの梅雨、そのぬかるみに難渋するほど、先人の苦労を実感したであろう。『おくのほそ道』本文に「此頃の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば」とあるが、事実『曽良旅日記』にも、五月二日(陽暦六月十八日)の夜から三日にかけて雨、白石に泊まった翌四日は少し止んだとあるが、思わしくない天気にかわりはなかった。道筋からいえば、笠島の前に武隈の松があるが、それを後まわしにしている理由は「みのわ・笠じまも五月雨の折りにふれたりと」とあるように、五月雨に縁ある二つの村をひとまとめに表現したかったからであろう。この天候と体調では、笠島をあきらめざるを得なかったと、自らを慰めているような一章である。だが『曽良旅日記』によれば、五月三日は白石泊で、四日は仙台泊である。その間十三里二丁、というから一日の行程としてはかなりきつい距離をこなしているので、「五月雨に道いとあしく」には、創作の手が入っていると思われる。

 みちのくにまだ桜の残るころ笠島を訪ねた。高速道路を降りてから道に迷い苦労した。「行き過テ不見」が少し解る気がする。交番、郵便局、駅前のタクシー、田や畑で働いている人々に訊ね、ようやく畑の用水堀 にかかる小さな「実方橋」を見つけた。一本の満開の桜の木の下に、平成元年、名取市で建てた句碑と解説がある。

元禄二年(一六八九)漂泊の俳人松尾芭蕉は門人曽良とともにみちのくへ旅し悲運の歌人藤原中将実方朝臣の塚を訪れようと名取の郡に入る折り悪しく日没と五月雨の悪路に阻まれ目的を果たせぬままこの地に無念の一句を残し通り過ぎる(後略)。

さらに山に向かって細い道があるので行ってみると、一間四方ほどの柵にかこまれた、土饅頭の実方の墓があった。傍らに西行の歌碑が傾いている。解説板の記述が心に残った。

実方、西行にゆかりのあるこの地は芭蕉の詩情と遊心をかき立てる憧憬の地であったにちがいなかったと思はれる。しかし芭蕉は遂にその願いを断念せざるを得なかった。  

「笠島はいづこさ月のぬかり道」は彼の万斛の思いをこめた絶唱である。

なお東北では、梅雨どきや雪解の頃の日常会話であった「ぬかる」という言葉に、舗装道路などなかった頃の泥道の風景が一瞬にして目に浮かんだ。

(文) 根本文子


http://575.jpn.org/article/174793844.html 【笠嶋は(松尾芭蕉)】より

笠嶋は いづこさ月の ぬかり道  松尾芭蕉

■ 訳

(藤原実方ゆかりの)笠島はどっちだろう。五月雨でぬかるんだ道(では思うように進めないよ。)

■ 解説

「笠嶋(かさしま)」は現在の宮城県名取市笠島、「ぬかり道」はぬかるんだ道、を意味します。季語は「さ月」で夏です。

■ この詩が詠まれた背景

この句はおくのほそ道、「笠嶋」の中で芭蕉が詠んだ俳句です。前回の佐藤庄司旧跡から、飯塚を超えた後の出来事です。おくのほそ道には、「鐙摺白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ笠嶋と云。道祖神の社、かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪笠嶋も五月雨の折にふれたりと、(本俳句)」

(鐙摺(あぶみずり:馬の鐙がすれるほど狭い道の事)、白石の城(宮城県白石市の白石城)を過ぎて笠島村(現在の宮城県名取市の南西部)に入り、藤中将、藤原実方の塚はどこにあるのだろうかと人に聞くと、ここから遥か右に見える山際の里が箕輪、笠島だと言われる。

(実方が下馬しなかったためバチが当たったとされる)道祖神の社、(西行法師が実方の死を偲び「朽ちもせぬ その名ばかりを 留めおきて 枯野の薄 かたみにぞ見る」と詠んだという)かた見の薄(かたみのススキ)は今も残っていると教わった。

近頃の梅雨の影響で道は悪く、疲労困憊であったこともあって、遠方から眺めただけで立ち去ってしまったが、蓑輪、笠島(という地名)も五月雨と縁があると(知って一句詠んだ。)

(本俳句))とあります。

■ 豆知識

作者は松尾芭蕉です。

今回、芭蕉が訪ねた藤原実方(ふじはらのさねかた)ゆかりの地ですが、実方は道祖神の社の前を通った際に馬が突然倒れ、下敷きになって亡くなったそうです。

不幸な事故によって失意の内に亡くなった実方の霊は雀となって内裏に侵入し、台盤の飯を食らい尽した挙句、農作物にまで被害をもたらしたという噂が立ち、恐れられました。(入内雀)

「朽ちもせぬ その名ばかりを…」と詠まれた西行法師の詩は新古今和歌集 第八巻 793首目、および山家集 卷下に記載があります。

この詩については後日説明します。


https://www.watabe-lab.org/old/news/2015/04/20150416124446.html 【道祖神神楽】

 道祖神社は、延喜式内社で日本武尊が東征のおり八津峰に皇居し、草薙宮と称した東北唯一の社と誇る由緒ある神社である。祭神としては天孫降臨の際、先導神として道を開かれた猿田彦大神と神楽の舞神、天鈿女命の二柱を祀っている。

 道祖神社に伝わる神楽は出雲流三拍手と言われ、藩祖伊達政宗公が岩出山から移住の際(約三八〇年前)道祖神社を尊拝し、当社に社家を置き道祖神社を守り、神楽を奏曲している社家一人に対し五人扶持を与え、神楽の保存に意を用いたと言われている。往時には社家百家あまりあったが、その後離散し江戸中・末期には十四家によって神楽が奏曲されていた。現在も社家の子孫に引き継がれている。

 構成は、太鼓一名、つづみ大鼓一名、笛一名、舞方数名である。

 曲目は、岩戸開之舞、湯立之舞、神姫之舞、浮橋之舞、庭鎮之舞、神招之舞、五穀成就之舞、四方弊之舞、四方固之舞、浪之神楽、三神之舞、山神之舞、剣之舞、桧剣之舞、弊之舞、獅子舞、注連切之舞。

時期

 一月十五日(どんと祭)、四月二十日(大祭)、六月十四日(夜)、八月六日(夜)

所在地

 宮城県名取市愛島笠島字西台

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