病雁の夜寒に落ちて旅寝かな

https://mainichi.jp/articles/20201107/ddm/001/070/107000c 【芭蕉に「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」がある…】より

 芭蕉(ばしょう)に「病雁の夜寒(よさむ)に落ちて旅寝かな」がある。旅先で風邪にふせていた芭蕉が、湖に落ちる病んだガンの哀れに自らを重ねた句という。病雁は「びょうがん」か、「やむかり」か。読み方で興趣も違ってくる

▲角川俳句大歳時記によると、「がん」も「かり」も鳴き声に由来する名という。その昔、ガンは春のウグイス、夏のホトトギスと同じように、秋の深まりを「声」で伝える鳥とされていた。「初雁(はつかり)」はその秋初めて聞くガンの声である

芭蕉は病雁の落ちるのを見たのか、声を聞いて心に描いたのか。ともあれ今の季節、シベリアからやって来るマガンなどの渡り鳥の病気と聞けば、思わず身構える現代人である。人がウイルスにさんざん悩まされた今年はなおさらだ

▲香川県の養鶏場で高病原性鳥インフルエンザが発生、飼育されていた約33万羽が殺処分される。すでに先月末には北海道で野鳥のふんから高病原性ウイルスが検出されていた。国内での発生は一昨年1月以来、2年10カ月ぶりという

▲感染経路はまだ不明だが、環境省は養鶏場の半径10キロ圏内を野鳥監視重点区域に指定した。さらに野鳥への全国的な警戒レベルを最高の3に引き上げ、多数の野鳥の死骸を見たら素手で触らずに自治体に連絡するよう呼びかけている

▲濃厚接触による人への感染例もある鳥インフルだが、人から人への感染は極めてまれである。鶏肉や鶏卵を食べての感染の心配はない。ともあれ病鳥の哀れがわが身にもしみ入るウイルス増長の秋冬である。


https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519941675.html  【病雁の夜寒に落ちて旅寝かな】より

○松尾芭蕉の辞世の句、  旅に病で夢は枯野をかけ廻る を考える上に於いて、

  病雁の夜寒に落ちて旅寝かな を無視することは出来ない。この句は「猿蓑」巻之三秋に載せる。幸田露伴「評釈猿蓑」には、以下のように記す。

       堅田にて

    病雁の夜寒に落ちて旅寝かな   芭蕉

   其角が枯尾花の序に、近在隣郷より馬を走らせて来たり迎ふるもせんかたなし、心をのどめてと思ふ一日も無かりければ、心気いつしかに衰滅して、病雁の堅田に下りて旅寝かな、と苦みけん云ふに

  とあり。初案は、堅田におりて、とありしにや。堅田落雁、もとより聞こえたることながら、夜寒に 落ちて、の七文字はるかに勝れたり。去来抄によれば、凡兆は、海士の家は小蝦にまじるいとどかな を入集せんといひ、去来は病雁を取らんといひ、終に両句とも乞ひて入集す。其後芭蕉、病雁を小蝦 などと同じことに論じけるやと笑へりとなり。芭蕉が自ら重んじたるの句なること著し。

○岩波書店「日本古典文学大系45 芭蕉句集」(大谷篤蔵・中村俊定:校注)では、発句篇秋・雁の項に、

       堅田にて

  病雁(びやうがん)の夜さむに落ちて旅寝哉   芭蕉【猿蓑】

  病(や)む雁(かり)のかた田におりて旅ね哉    【枯尾花】

と、わざわざ「病雁」に「びやうがん」と読みを振っている。更に頭注に、

  ○病雁ー『枯尾花』の表記から「ヤムカリ」「ヤムガン」と読む説と音読説とがあるが、

   後者をとる。

と注記する。その理由は、おそらく補注に、 『枯尾花』の表記は、其角が音読していなかったことを示すもので、この語の訓に関する重要な資料ではあるが、これをもって直ちに訓読すべしとすることにはあたらない。其角は些事にこだわらず ルーズな性格であり、現にこの句の中七を「かた田に」と誤っている。荻野清氏の「ビヤウガン」の 「心に冷たく澄み入ってくるその音感」(『芭蕉講座』(三省堂)第七巻)というをよしとする。

  もとより「ヤムカリ」と読んで誤りというのではない。とあるのが、それであろう。

○其角がわざわざ「枯尾花」で、『病(や)む雁(かり)』と読んでいるものを、ことさら『びやうがん』と読ませる理由にしては、極めて根拠の薄い話である。荻野清氏の「ビヤウガン」の「心に冷たく澄み入ってくるその音感」(『芭蕉講座』(三省堂)第七巻)などと言うけれども、それは全く個人の主観に基づくものに過ぎない。逆に、

  やむかりの よさむにおちて たびねかな

の連続する大和言葉の音調の方が遙かに勝っている。この句は決して『病雁(びやうがん)』などと読んではいけない典型ではないか。そうすることによって、「かり」「よさむ」「たびね」と言う言葉が始めて連動出来るのである。それを「びやうがん」などとしたら、木に竹を接ぐようなもので、まるでこの句の良さは死んでしまう。 

○この句は芭蕉の大傑作のひとつである。これほどの句が芭蕉にそれほどあるわけでもない。それに当時、この句は相当喧伝されていた節もある。それを其角が読み誤ると考える方に無理がある。其角は確かに杜撰な男かも知れないが、少なくとも俳人である。中七を「かた田に」と誤ったかもしれないが、それは其角の念頭に「堅田落雁」の言葉があったからにほかならない。それに、其角は中七、「夜寒に」を「かた田に」とすることによって、「病む雁の」句が堅田での作句であることを表現したかった可能性だって棄てきれない。あながち、其角の『ルーズな性格』とか、『誤り』の一言で片付けられる問題でも無い。そういう表現なら俳文にはいくらだって散見される。と言うか、俳文とはもともとそういうものだろう。 

○『芭蕉講座』(三省堂)や「日本古典文学大系45 芭蕉句集」(岩波書店)がこの句を、

  病雁(びやうがん)の夜さむに落ちて旅寝哉

とすることで、多くの人々が芭蕉の大傑作を喪失する結果となってしまった。何とも情けない話である。それに誰もこの句のすばらしさを鑑賞しようすらしない。この句のすばらしさを知れば、この句は決して上記のような句では無くて、

  やむかりの よさむにおちて たびねかな

であることが了解されよう。この句の句意は以下の通り。

○琵琶湖沿岸の堅田の地に於いて、芭蕉は病に臥せている。この地はまさに、「堅田落雁」の地である。ここで「堅田落雁」の句を詠まないわけにはいかない。それが芭蕉自身でもある「病む雁」である。折しも「夜寒」の季節である。「病む雁」は病気の為、「堅田に落雁」し、旅の途次であるから、やむなく「旅寝」するわけである。

○見えるものは黒く広がった琵琶湖の水面と葦原。その葦原の彼方から、遠く、「堅田に落雁」した雁の悲しい声が聞こえてくる。「夜寒」であるから、夜が深まるにつれて、しんしんと寒さが増す。雁の鳴き声はそれでも時折、遠くからかそけく聞こえてくる。

振り仰げば、天上高く星々がきらきらと輝いている。その天上を渡る雁が棒になり、鈎になり渡っていく。満天の星空であるから、雁の姿が星々の光を遮ることによって、渡る雁の様子が地上から窺い知れるのである。

○その雁の列に向かって、「堅田落雁」した「病む雁」が呼びかけるのでる。病床の芭蕉が聞いている雁の声はそういう只一羽の「病む雁」の友を呼ぶ遠い悲痛な叫びである。

○それを「病雁(びやうがん)」などとするのは、全くもって俳諧を知らない人の見解である。「心に冷たく澄み入ってくるその音感」など、ここでは何の作用も及ぼさない。何とも机上の空論は空しい。俳諧は実見を重んじる即物詩である。だから今でもそれは真実である。無駄に本など読まずに、雁行を実見すれば、それは一瞬にして了解される。それが俳諧である。


https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519941683.html 【真贋?芭蕉翁辞世之句】より

○各務支考の「笈日記」(10月8日条)に拠れば、芭蕉の辞世の句について、以下のように記す。 

之道住吉の四所に詣して、此度の延年を祈る所願の句あり。記さず。此夜深更に及びて介抱に侍りける呑舟を召されて、硯の音のからからと聞こえけるは、如何なる消息にやと思ふに、 病中吟  旅に病で夢は枯野をかけ廻る  翁

その後支考を召して、なをかけ廻る夢心と言ふ句作りけり。いづれをかと申されしに、その五文字は 如何に承り候はんと申せば、いと難しき事に侍らんと思ひて、此句何にか劣り候はんと答へけるなり。如何なる不思議の五文字か侍らん。今は本意無し。自ら申されけるは、はた生死の転変を前に置きながら、発句すべき業にもあらねど、世の常此道を心に籠めて、年もやや半百に過ぎたればい寝ては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声に驚く。是を仏の妄執と戒め給へるただちは今の身の上に覚え侍るなり。此後はただ生前の俳諧を忘れむとのみ思ふはと、返す返す悔やみ申されしなり。さばかりの叟の、辞世はなどなかりけると思ふ人も世にはあるべし。

○これに拠ると、芭蕉辞世の句には二つあったことが判る。一つは、

  病中吟  旅に病で夢は枯野をかけ廻る  翁

であり、もう一つは、

  なをかけ廻る夢心

と言うことらしい。ただ、これは五文字が無い。「旅に病で」句には『病中吟』と注記するから、厳密には辞世の句でない。とすれば、『なをかけ廻る夢心』が辞世の句と言うことになる。「笈日記」で、支考は、その五文字は如何に承り候はんと申せば、いと難しき事に侍らんと思ひて、此句何にか劣り候はんと答へけるなり。如何なる不思議の五文字か侍らん。

  今は本意無し。

と嘆いている。しかし、これはあくまで支考のポーズであって、真意ではない。

○支考ほどの俳人であれば、この句の冠辞五文字くらい容易に思い付きそうなものなのに。やはり、師芭蕉に対する遠慮が働いたのであろう。支考に成り代わり、冠辞五文字を提示しておきたい。

○『なをかけ廻る夢心』の冠辞五文字に、何より必要なのは、大阪に対する挨拶であろう。これが最大の要件。それに『なをかけ廻る夢心』には季語がない。だから、冠辞五文字は当然季語を含むと言うのが第二の条件。『なをかけ廻る夢心』は体言止めとなっているから、切れ字はあってもなくてもかまわない。

○もちろん、テーマは辞世の句である。上記の条件に従えば、冠辞五文字は自ずから限定される。おそらく、芭蕉の辞世の句は以下の通りとなるのではないか。

  露と落ちなをかけ廻る夢心

○こういう問題をそのまま「笈日記」に残している支考と言う男はなかなか面白い。明らかに読者は試されている。折角の支考の厚意であるから、それに答えない手は無い。支考の考えや芭蕉の本意にかなっているかどうかは不明であるが。


https://blog.ebipop.com/2017/10/basho-tabine.html 【病雁の夜寒に落ちて旅寝哉】より

「雁(がん)」と言えば、森鴎外の同名の小説を映画化した「雁」。この映画をテレビで見たのは、今から五十年ぐらい前のこと。たしか高校生だった時。どんな内容だったのか、ぼんやりとしかおぼえていない。昔のことは忘れていく。時が過ぎていくとともに。

ただ、名優東野英治郎の憎々しげな顔つきと、高峰秀子の寂しそうな表情は記憶に残っている。印象とはすごいものだ。忘れっぽい脳のなかでも輝いている。

病雁(びょうがん)の夜寒(よさむ)に落ちて旅寝哉  松尾芭蕉

句の前書きに「堅田にて」とある。堅田は大津の北部の地名。琵琶湖の西岸にある。

歌川広重作「近江八景」の「堅田の落雁(らくがん)」で有名なところである。

芭蕉は、貞享二年三月上旬頃に大津を訪れ、「唐崎夜雨」として近江八景のひとつとなっている唐崎(辛崎)の地で「辛崎の松は花より朧にて」という句を詠んでいる。

このとき、堅田にある本願寺大津別院の俳僧三上千那(せんな)が入門。

その縁で、芭蕉はまた堅田を訪れたものと思われる。

「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」によれば、「病雁の・・・」の句は元禄三年九月中下旬の作。

芭蕉はこの年の四月六日、大津の北西にある国分山の幻住庵に入っている。

ここで、有名な「幻住庵記」を執筆。

七月二十三日に幻住庵を引き払い、大津に出ている。

その後九月末まで膳所(ぜぜ)にある木曾塚(義仲寺)・無名庵に滞在。

掲句は、木曾塚から堅田へ出、堅田滞在中の作であるという。

木曾塚から茶屋与次兵衛という人に宛てた書簡には、「拙者散々風引き候ひて、蜑(あま)の苫屋に旅寝を侘びて風流さまざまの事共に御座候。」とあって掲句が添えられている。

この書簡によれば、芭蕉は堅田から木曾塚へ戻る途中、風邪の症状が悪化し、途上の漁師小屋に一泊したものと思われる。

風邪でしんどい思いをしながら、夕暮れの「堅田の落雁」を眺めていたのであろう。

「落雁」とは、雁(ガン・カリ)が一列に連なって、ねぐらに舞い降りる様子を表わす言葉とのこと。

この句の「落ちて」も落下することではなく、雁が舞い降りるという意。

昔観た映画「雁」にも「落雁」のシーンはあったような。

モノクロームの映画だったせいか、暗い雰囲気の映画だったなあと記憶している。

掲句の「病雁」や「夜寒」や「落ちて」にも暗いムードが漂っている。

風邪の症状が芭蕉を暗い気分にさせているのか。

もともと雁は、悲壮なムードに包まれている鳥なのか。

芭蕉は、群れの数ある雁のなかには自分のように体調の悪い鳥もいることだろうなあと思いながらねぐらへ向かう雁を眺めていたのかもしれない。

私の思い入れが過ぎるかもしれないが、芭蕉は群れのなかに個を見ていたのではないだろうか。

病気の雁、気弱な雁、空腹の雁、年老いた雁・・・・・。

だが、雁はいくら体調が悪くても「夜寒」の空を飛んで、健気に巣に戻っていくように見える。

そんな上空の「落雁」を眺めながら、自分は地上の漁師小屋でゆっくり養生しているという句である。

「病雁」「夜寒」「落ちて」と暗いムードが続くなかで、「旅寝」だけがポッと明るい。

漁師小屋で旅人は、焚火にあたりながら「夜寒」の夜を暖かく過ごした。

そんな安堵感を読者に与えている句である。

「病雁」という夕暮れの不安な空と、ちいさな小屋のささやかな安堵感の取合せがこの句の旅情を深めていると私は思っている。

ところで、「芭蕉年譜大成」には「病雁」に「びょうがん」と読み仮名がついているが、

掲句の「病雁」を「やむかり」とする読み方もあるという。

「びょうがん」と「やむかり」ではイメージが違ってくる。

「びょうがん」は事務的で、冷淡な感じがする。「びょうがん」では、私には雁の姿が見えてこない。それに対して「やむかり」は感情を雁に寄り添わせたような印象がある。

一羽一羽の雁の顔が見えるようだと言えば大げさだろうか。

そのなかに体調の悪い「やむかり」の姿も見える。

私がそう感じているということは、私も「病雁」を「やむかり」と読んでいるということになる。

芭蕉は、十把一絡げの群れとしての雁を見ているのではない。

個が集まった群れとしての雁を見ているのだと思う。

そうであるから群れのなかの「病雁(やむかり)」と芭蕉自身とを重ね合わせることができるのだ。

そうであるから、小屋での「旅寝」という安堵感がポッと明るいのだ。

そういえば映画「雁」での高峰秀子さんの笑顔もポッと明るかったなぁ。


https://dokonet.jp/top/blogSingle/shiga/2860296/3514 【#63) 俳句の韻律 その2】より

 1/5は「小寒」、「寒の入り」でした。まさに石鼎句「寒卵(かんたまご)」どおりの季節になりました。

 前回の続きを書きます。「俳句は音」だなんて、ぐだぐだと屁理屈をこねるなよ!と怒り出す人もあるでしょう。でもね、世の中には私と同様の主張を、私よりも強力かつ整然と述べる人も居るのですよ。

 芭蕉の秀句があります。

    病雁の夜寒に落ちて旅寝かな

これを岩波『日本古典文学大系』や三省堂『芭蕉講座』に於いて専門家たちは、わざわざ「びょうがんの」と仮名を振っているのだそうです。しかも、芭蕉門弟の基角が「やむかり(病む雁)」と振り仮名を付けているにも拘わらず、「びょうがん」とこじつけている、というのです。(yan氏のブログ『古代文化研究所』2009/12/9 「芭蕉秋暮」より)。

 これら専門家の振り仮名こそは、せっかくの芭蕉の名句を台無しにする愚挙だ、とyan氏は言います。yan氏による適正な読み方とはこうです。

   やむかりの よさむにおちて たびねかな

このように読むことで「連続する大和言葉の音調の方が遙かに勝っている」と述べています。私も全く同感です。

 更に、私の解釈を加えさせてもらうならば、「やむ」と「よさむ」のY音の重なりが一層の心地よさ・韻律を生み出しているのだと思います。

 yan氏によれば、この句は芭蕉が近江・堅田で詠んだ最晩年の作であって、辞世句とされる「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の前哨になる重要な句である、とのこと。だからこそ、一音たりともおろそかに読んではならぬ!と。近江八景「堅田の落雁」を踏まえた一句であることは言うまでもありません。

 ここまで書いてきて、私はハタと気がついた。「寒雁のほろりと…」は昭和26年の晩秋~初冬の作とされている。そして、石鼎が没したのは同年12月20日なのです。つまり、石鼎は自分の死期を悟ってこの句を詠んだのではなかろうか? かくて、石鼎の最晩年作「かんかりの」を芭蕉の最晩年作「やむかりの」と重ね合わせることができるような気がする。考え過ぎだろうか?

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