Facebook・木村 正治さん投稿記事·
スイスではついにディープステイトが最も恐れていた事態が生じていますね。
それは民衆が事実を知り、怒りに満ちて立ち上がり彼ら彼女らの居城に押し寄せて取り囲み怒りと抗議の声を挙げている光景です。
今までは大衆に事実を知らせないことにより可能だった統治が崩れる可能性がありますね。
善良な外国人の知人から私に質問がありました。「日本でも同じ光景は生じますか?」と。
事実を知ると多くの国では大多数の国民が怒りの声を挙げ、居城を取り囲みます。
さて、もしも同じ本質に直面した場合に今の日本人はどうするでしょうか?
残念ながらうなだれるだけの可能性を感じます。私はそのように回答しました。
アウンサン・スーチー氏は長年に渡り平和の活動をしてきたという印象を大多数の日本人は
抱いていますが真実は逆でしたね。
アウンサン・スーチー氏こそ人身売買に深く関与し、麻薬のロンダリングにも関与して
いた悪でした。
それで怒りを抑えきれないミャンマーの愛国者が決起して軍が動き、スーチー氏の政党を無効化させ、暫定軍事政権を樹立したのです。
しかし、この動きが急過ぎたために、また事実がミャンマー国民にきちんと浸透しない中での軍事行動だったために、事実をよく知らない多くのミャンマー国民が単なるクーデターだと勘違いして抗議行動を起こしてしまいました。
アウンサン・スーチー氏の悪の事実がきちんと伝わらないまま、あたかもアウンサン・スーチー氏が迫害されたかのように多くのミャンマー国民が勘違いをして抗議行動を起こしたのです。
アライアンスが日本における展開に際して懸念しているとしたら、これと同じことかも
知れませんね。
もしも事実がきちんと日本人に知らされないままに日本の巨悪の根源を粛清したとしたら、
事実を知らないままの多くの日本人が勘違いして被害者意識に陥るかも知れません。
ですから、事実を的確に伝える手段が極めて大切です。
中枢に正当性があれば国民はこれを支えますが中枢が偽りであったならば、国民が意思表示を示さなければなりませんね。中枢が恐れているのはこれでしょう。
もっと言えば日本国民が事実を知り怒りを示し自分たちを排除するのではないか、という事を中枢は極度に怯えます。
更に言うならば、日本国民が怒りを示して行動する事に自衛隊も加わって立ち上がるのではないか、という事を中枢は極度に怯えます。
それ故に故意に自衛隊管理職に対して強い毒だと知りながら遺伝子組み換え液体の体内注入
を自衛隊員に命令しているのでないか、とすら見えて仕方ありません。
多くの自衛隊員が副作用で動けなくなれば中枢が恐れている事態を避けることができると踏んでいるのでしょうか。
液体の事実を知っている少なからぬ自衛隊管理職に対して、命令として遺伝子組み換え液体の自衛隊員に対する体内注入を命じた人物や存在を炙り出し、日本人として決して許さないようにしなければなりません。
小野寺五典か。
私達日本人は悠久の日本を守り継承したいのであって権力者を守りたいのではありません。
源頼朝と源義経。
若い頃は義経のほうに関心が向かいましたが、色々と経験を重ねて年齢を重ねてくると
今は頼朝のほうに関心が向かいます。日本人の感情に合うのは義経のほうでしょう。
判官びいきも生まれドラマや小説にも向いているのは義経のほうです。
頼朝にはドラマや小説にするような華やかさはないかも知れませんが長らく続いた公家政権
から日本初の武家政権を樹立し、初の幕府を開いたという事から不世出の偉大な政治家という存在ですね。
これに対して義経は今で言えば軍人ですね。軍略に優れ、また人間味もあったのでしょう、
多くの人々を魅了しました。しかし義経は武人であっても政治家ではありませんでした。
もっと言えば義経は優れた武人でしたが政治が理解できなかったと言えます。
頼朝は優れた武人であったと同時に卓越した政治家でもありました。
この違いが兄弟でありながら決裂して行った要因だと言えますね。
もしも頼朝と義経がタッグを組んでいたなら優れた政治家の頼朝と優れた軍略家の義経とで
鎌倉幕府もっと言えば源幕府は最強だったでしょう。
しかし歴史の現実はそのようにはなりませんでした。
源頼朝は平家を追いやり、更には奥州藤原氏をも滅亡させ鎌倉幕府を揺るぎないものにしました。
また義経と共に運命を共にした武蔵坊弁慶は奥州平泉で義経自刃の後に戦死したとされていますが、興味深い事実があります。
和歌山県の熊野三山の1つ、熊野速玉大社を7年前に散策していると興味深い説明がありました。
それは武蔵坊弁慶は義経の家臣と共にこの地に逃れてきて、追手と戦いとなりこの地で戦死したとあったのです。熊野速玉大社の説明板ですから信憑性は高いですね。
つまり、義経と武蔵坊弁慶とは途中からは行動を別にしていた事になりますね。
義経と武蔵坊弁慶とが奥州平泉にて死んだというのは後世の人々による創作の可能性を私は感じました。
また、義経も平泉で死んでいない可能性を私は強く感じます。
私は20代の頃、北海道を何度も旅しましたが北海道の西南部、特に積丹半島周辺の地域には義経にまつわる言い伝えが沢山あります。
義経がここに黄金の兜を置いて行ったとか、義経と恋に落ちた女性がやがて積丹半島の神威岬から今の満州へ渡航した義経に追いすがり、失意のうちに身を投げて死んだという言い伝え等、実に多くの義経にまつわる話が北海道西南部には残されていました。
もしもこれらが作り話ならば、いつしか立ち消えていた筈です。
いつまでもいつまでも地元の人々が大切に義経ゆかりの祠だと祀り、また語り継いでいる姿はやはり事実だと感じます。
更には満州一帯や更なる北方地域には義経にまつわる祠や関連遺構がたくさん残っています。
義経一行はじっくりと歩を進めながら各地域の地元民と交流し、その地元民の長の人物に例えば兜や武具などを褒美として授けながら移動しています。
褒美として兜や刀などを与えられた各地域の人々の長は感極まり、子々孫々に至るまでこれを宝として祀り、それ故に北方地域の各地に今も義経にまつわる祠や遺構が残っているのです。つまり、これらの姿や遺構、祠などから源義経一行は奥州平泉から更に北へ逃れ、
蝦夷地つまり今の北海道西南部に渡り、そこでしばらく過ごした後には神威岬から船で満州エリアに渡航し、そこから北方へ移動しながら歳月を重ね、やがてはモンゴルに入って行った可能性を強く感じます。
義経一行はじっくりと時間をかけながら各地域で力を蓄え、地元民を味方につけながら、やがてはモンゴルに入ったと私は見ています。
この時代は今のような地理感覚や国境意識はありませんから、人を中心として物事は動きます。
ここからはロマンですが、私は源義経はやはりチンギス・ハーンになった可能性を感じます。チンギス・ハーンの家紋と源義経の家紋は酷似していますし、また義経の騎馬戦術はやがてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンの騎馬戦術とやはり酷似しています。
またフビライになってからではありますが、モンゴル帝国(元)は日本を攻めてきましたね。
当時は鎌倉幕府です。
頼朝の樹立した鎌倉幕府をわざわざ海を越えてまで攻めてきたモンゴル帝国の真の動機はどこから出たものだったのでしょうか?
兄頼朝から追われた義経が遺恨を持っていたとしても自然ですね。
その義経がチンギス・ハーンになっていたなら、その意志を受け継いだフビライハーンが鎌倉幕府を攻めてきたとしても不思議ではありません。可能性はあると私は見ています。
さて、今の崩れ行く日本には織田信長が必要です。
まずカルトの駆逐と殲滅、それから売国奴政権の破壊と追放は信長でなければ不可能です。
信長がカルトを駆逐し売国奴を破壊した後の日本には源頼朝が必要です。
頼朝の卓越した政治家としての手腕で今の世における鎌倉幕府に匹敵する日本人政権を樹立
しなければなりません。
そこから軌道に乗れば徳川家康が必要ですね。
最低でも数百年は続く安定した平和な日本を構築しなければなりません。
歴史に学ぶことは多々あり、それを感じながら歩くことは快感でもあります。
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