https://www.tb-kumano.jp/kumano-kodo/sanzan/ 【熊野三山】より
「熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)」、「熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)」、「熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)」の三社を「熊野三山(くまのさんざん)」と呼びます。
熊野三山は、和歌山県の南東部にそれぞれ20~40㎞の距離を隔てて位置しており、「熊野古道(熊野参詣道)中辺路」によって、お互いに結ばれています。
三社は個別の自然崇拝に起源を持ちますが、三社の主祭神を相互に勧請し「熊野三所権現」として信仰されるようになりました。
また、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」としては、神仏習合の過程で熊野那智大社と密接な関係を持つようになった寺院「青岸渡寺(せいがんとじ)」及び「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)」の二寺も熊野那智大社とともに登録されています。青岸渡寺は西国三十三所霊場の第一番札所として、補陀洛山寺は補陀落渡海信仰で知られた寺院です。
熊野本宮大社
京から最初にたどり着く、熊野の聖地
古の都・京都から、長い道のりを歩く熊野詣。厳しい中辺路を経て、最初にたどり着く聖地が熊野本宮大社です。
かつては、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にあったのですが、明治22年の洪水で多くが流出し、現社地に流出を免れた社を移築したものです。
門をくぐって、向かって左手の社殿が牟須美(むすみ)・速玉(はやたま)の両神。中央は主神の家津美御子神(けつみみこのかみ)。そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られています。
全国の熊野神社の総本山にあたる熊野三山(本宮、新宮、那智)の中でも、現在もとりわけ古式床しい雰囲気を漂わせています。
熊野本宮大社Webサイト
参道入口の鳥居から158段の石段を上り、熊野本宮大社へ。
参拝後は再び石段を下り、徒歩10分ほどの距離にある旧社地・大斎原へ。
大斎原(おおゆのはら)
熊野本宮大社旧社地 大斎原
大斎原は、熊野本宮大社の旧社地です。熊野本宮大社は、熊野川・音無川・岩田川の3つの川が合流する大斎原と呼ばれる中洲にありました(現在は川の形が変わり、明確に中州の形はみてとれない)。ところが、明治22年(1889年)8月の洪水により、大斎原にあった熊野本宮大社の社殿の多くが流されました。現在の熊野本宮大社は、流失を免れた上四社3棟を明治24年(1891)に現在地に移築・再建したものです。大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられています。
大斎原の大社は、およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうです。
七越峰から見た大斎原と熊野川
大斎原の大鳥居
背後の森を守るかのように、高さ約34m、幅約42m、日本一の巨大鳥居がそびえたっています。はるか遠くからですら確認できるこの鳥居の後ろ、こんもりとした森に囲まれた地帯が旧社地・大斎原です。
この大斎原は本宮大社前のバス停(現在の熊野本宮大社)から500mほど離れています。
熊野本宮大社の周辺
熊野本宮大社周辺は田辺市本宮町の中心地であり、飲食店やおみやげ店、郵便局や交番、消防署などの公共機関もあります。
大社参道入り口横の「瑞鳳殿」にも、カフェやおみやげ店、荷物搬送サービスなどがあります。
大社前には「世界遺産熊野本宮館」があり、本宮温泉郷や田辺・中辺路・新宮・十津川方面へのバス停もあります。
宿泊はバスで10~20分の本宮温泉郷(川湯温泉・渡瀬温泉・湯の峰温泉)があるほか、熊野本宮大社周辺にも民宿やゲストハウスなどがあります。
本宮エリアの宿泊(熊野トラベル)
世界遺産熊野本宮館
熊野本宮大社の前にある「世界遺産熊野本宮館」には、和歌山県世界遺産センター、熊野本宮観光協会などがあり、熊野古道の情報や観光情報が提供されています。
熊野速玉大社
熊野川河口に鎮座し、境内には神木とされる天然記念物の「ナギの木」の大樹があります。現在の社殿は明治16年9月に炎上し、その後再建されたものですが、世界遺産には神社境内を中心に背後の「権現山(神倉山)」と熊野川に浮かぶ「御船島」及び「御旅所」を含んで指定されています。
神倉山の南端のゴトビキ岩に降臨した熊野権現を歓進するため、現在の地に社殿が造営され祀られたと伝えられています。それ以来、神倉山の元宮に対し、ここを新宮と呼んだといわれています。
大社敷地内にある神宝館(しんぽうかん)には、1200点にものぼる国宝が保管展示されています。
梛の木
天然記念物「ナギの木」の大樹
神倉神社
神倉神社
神倉神社は市街地の西、権現山(神倉山)の南端に鎮座する、熊野速玉大社の飛地境内摂社です。
「ゴトビキ岩」を御神体(ごしんたい)とし、高倉下命(たかくらじのみこと)・天照大神(あまてらあすおおみかみ)を祭神としています。熊野の神が降臨した地とされ、絶壁の上の巨岩「ゴトビキ岩」に、古代の人々は神がやどると信じていました。
熊野速玉大社
熊野速玉大社の周辺
より大きな地図で 神倉神社と熊野速玉大社 を表示
熊野速玉大社周辺は、新宮市の中心地に面し、すぐ横は「川の熊野古道」熊野川。熊野川川船下りの到着地でもあります。
市街地に面しているため、少し歩けば飲食店やおみやげ店などもあり便利な場所です。
熊野速玉大社境内に、詩人 佐藤春夫の旧宅を移築した「佐藤春夫記念館」、大正・昭和モダンを象徴する重要文化財の建築「旧西村家住宅(西村記念館)」、美しい石垣が残る「新宮城跡」などの見どころもいっぱい。
新宮駅からは那智勝浦への電車・バスのほか、本宮へのバスなど交通の要所となっています。
熊野那智大社
那智山の中腹に鎮座し、那智大滝(那智の滝)に対する原始の自然崇拝を起源とする神社。
熊野三山の一つとして熊野十二所権現を祀るが、当社では那智大滝を神格化した「飛瀧権現」を加え十三所権現とも呼ばれています。
社殿は熊野本宮大社や熊野速玉大社のように横一列に並ばず、三所権現をはじめとする主要五社殿と八社殿及び御県彦社が矩折して配置されています。
青岸渡寺
青岸渡寺
神仏習合の過程で熊野那智大社と密接な関係を持つようになった寺院「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二寺も、熊野那智大社とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録されています。
青岸渡寺は西国三十三所霊場の第一番札所として、補陀洛山寺は補陀落渡海信仰で知られた寺院です。
那智の滝(那智大滝)
那智の滝は、熊野那智大社の別宮・飛瀧神社のご神体として古くから人々の畏敬を集めてきました。
那智大滝は「一の滝」とも呼ばれ落差133mは日本一の名瀑で、熊野の山より流れ落ちる姿は圧巻です。
那智の滝
補陀落山寺
補陀落山寺
那智勝浦で行われる補陀落渡海の出発地であり、一大拠点となった寺。
補陀落渡海とは、観音様の信者等が小さな屋形船に乗り、補陀落(観音様のおいでになる浄土)をめざして渡海するという習わしでした。
渡海僧は約30日分の食糧と灯火のための油を載せた屋形の中に入り込むと、扉には外から釘が打ちつけられたそうです。小さな船で荒れる勝浦の海へと船出をしており、餓死や沈没などの最後を迎えたであろうことから、捨身行の一種であったとされています。実際に868年~1722年の間で25人の信者が補陀落を目指し船出していったと伝えられています。
現在は熊野那智大社とともに世界遺産に登録されています。
関連リンク
那智勝浦町観光協会
熊野那智大社
熊野那智大社の周辺
熊野那智大社に隣接して「那智山青岸渡寺」があり、那智の滝へは約1km、徒歩15分です。
また那智山手前の「大門坂」は、全長約600メートルの石畳が続く、熊野古道の面影が色濃く残った道。
補陀落山寺へはバスで約20分、那智駅下車徒歩3分。那智駅から紀伊勝浦駅へはバスで約10分。
紀伊勝浦駅周辺には多くの宿泊施設があります。
https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0606_kumano/0606_kumano_01.html 【熊野川の歴史】 より
川のみち 熊野川
あらゆる人々を受け入れる聖なる地・熊野
深く険しい山々が幾重にも連なり、その山間を縫って幾筋もの支川を集めながら近畿地方最長の熊野川が流れる聖地、熊野。近寄り難い厳しい大自然のこの地に、人々は神々を見いだしました。平安時代以降、日本全国から様々な人々が惹きつけられた熊野三山。
「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどの多くの人々が訪れたのは、熊野の神が悩みや苦しみから人々を解放し、さまざまな願いをかなえてくれると信じられてきたからです。
また、老若男女、身分や貧富の差などを問わずあらゆる人々を受け入れる包容力に魅力を感じたからではないでしょうか。その包容力は自然崇拝、浄土信仰、密教、修験道といった多神教的な性格によるものと思われ、それらを融合しながら独自の宗教世界を生み出してきたといえます。
熊野三山と聖なる地・熊野
熊野三山と総称される熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社。もともとはそれぞれ独自の信仰を持っていたようです。三社の信仰の起源はそれぞれ自然崇拝からはじまったのではないかと考えられますが、特に熊野本宮大社と熊野速玉大社は、熊野川に対する深い信仰があったと思われます。熊野本宮大社はもともと大斎原と呼ばれる熊野川、音無川、岩田川の合流地点の中州に鎮座しており、熊野川を神聖な場所として崇(あが)め、洪水鎮圧のために祀(まつ)っていたのではないかと考えられます。
また熊野速玉大社は熊野川の河口付近に鎮座していることから、川を神として崇敬し、かつ川のはん濫を鎮める役割を担っていたのではないかと考えられ、速玉という名前が玉のように早い流れを意味することでも熊野川との関係がうかがえます。さらに速玉大社の例大祭である御船祭は、熊野川河口から約3km上流に位置する御船島を神の宿所として、その周囲を神幸船で回ることにより魂を鎮める神事とされています。このことからも熊野川は神が往来する場として捉えられ、神聖視されてきました。
そして、熊野三山は、地理的に近かったことと、いわゆる本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)(仏や菩薩が人々の救済のために神の姿を借りてこの世に現れたという考え方)に基づいた神仏習合の思想の影響を受けて、互いに神仏を祀り合い、関係を深めるようになり、巡拝が行われるようになりました。
熊野本宮大社
熊野速玉大社
地域の暮らしをささえてきた熊野川
河川の利用については、舟運が古くからあり、中世(平安~鎌倉時代)の熊野御幸にはじまり、江戸時代に入ると流域の材木の筏流しや炭、農作物の運搬における三反帆などの舟運利用が活発となり、その後、プロペラ船も活躍し、昭和初期まで続いていました。昭和30 年代に国道の開通やダムの建設により、舟運は衰退していきましたが、観光船などに形を変えて利用は続いています。
河口付近の右岸にある池田港は、熊野詣における伊勢路からの参詣で熊野川を渡る「鵜殿の渡し」があった場所で、昭和10 年の熊野大橋仮設後も「池田の渡し」として残りました。幕末には丹鶴丸(洋式軍艦)が建造され、明治から大正時代には、材木や木炭輸送の拠点として活況した港でもあります。
<昔の熊野川河口の様子>熊野川河口と池田港〔大正初期〕
流域の人々の交易拠点・川原町
現在の新熊野大橋付近には、かつて川原町と呼ばれた町が存在し、現在の新宮市船町(熊野速玉大社の前面)あたりの川原に、最盛期には200軒を超える家が建っていたと言われています。川原には3本の道路が造られ、その道路の両側に軒を並べるようにして町が形成されていました。町には、宿屋、鍛冶屋、雑貨屋、米屋、銭湯、理髪店、飲食店、履物屋などがあり、上流から筏を流してきた筏師や川舟の船頭たちで賑わっていたようです。
興味深いのは、これらの建物すべてが容易に組み立て・解体ができる構造になっていたことです。「川原家」(かわらや)と呼ばれ、川原町に住む人々は、大雨が降り洪水の危険を察知すると即座に家を解体し、安全な高台に避難しました。そして、水が引くとまた川原に家を建てていました。組み立てやすく、解体しやすい構造は、家が流されないための知恵であります。
こうして栄えた川原町も、陸上交通の発達とともに衰退、1950(昭和25)年に完全に消滅し、現在の川原には何の形跡も残っていません。しかし、地元の新宮高校の建設工学科では実習で川原家を造っていたり、熊野速玉大社の境内では、お土産物屋として活用されています。
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