『和漢三才図会』の世界

https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20200831post-359.html 【江戸博士が質問に答える!江戸の百科事典『和漢三才図会』の世界】

福井 智一

去る2020年8月9日、日本科学未来館と国文学研究資料館がコラボして、オンラインセミナー「和書からさぐる!お江戸のサイエンスとライブラリー」を開催しました。江戸の博物学と呼ばれる「本草学」と、江戸時代の読書事情について、国文学研究資料館教授の入口敦志さんと、人間文化研究機構総合情報発信センター研究員(人文知コミュニケーター) で、国文学研究資料館 特任助教でもある粂汐里さん、そしてわたくし日本科学未来館の科学コミュニケーター福井智一の3人でお送りしました。途中通信トラブルでご迷惑をおかけすることもありましたが、総勢359人もの方に参加いただき、100を超える質問もいただきました。

本記事では、そんなセミナー中に参加者から頂いた質問をピックアップしてお答えしてゆきたいと思います。イベントに参加された方も、今回初めて知ったという方もお楽しみいただければと思います。今回は江戸の百科事典『和漢三才図会』にまつわる質問にお答えしてゆきたいと思います

江戸の百科事典『和漢三才図会』について

江戸の博物学「本草学」を代表する資料として、イベントでは百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』が何度も登場しました。『和漢三才図会』は西暦1712年に大坂の医師、寺島良安によって発行された、105巻81冊におよぶ大百科事典です。「和漢」は日本と中国、「三才」は天地人をあらわし、この世のすべてを網羅するという意気込みがタイトルからもうかがえます。まずはこの『和漢三才図会』にまつわる質問からご紹介したいと思います。

本草学と『和漢三才図会』に関しては、こちらのブログ記事も参照ください。科学コミュニケーターブログ「江戸時代に百科事典があった!東洋の博物学「本草学」とは?」

質問:江戸の百科事典はどのようなクラスの人が読んだのでしょうか?寺子屋に通うような子どもも見ることがありましたか?

入口教授:漢字だけの漢文で書かれていますので、子どもには無理だったろうと思われます。漢文は今でいえば英語にあたり、学術的な記述は漢文で書くべきであったという原則がありました。武士の子弟などは、「素読(そどく)」と言って、まずは『論語』や『孝経』などの漢文を見ながら、先生の読みに従って音読すると言うことから勉強を始めたようです。

質問:『和漢三才図会』が百科事典的役割として教育に用いられたことはあるのですか?

入口教授:『和漢三才図会』そのものは漢文で書かれた専門家向けの書物ですので、一般の教育には使われていなかったと思われます。ただ、そこに記された知識をひらがなの和文にしてテーマや対象を絞った書物も出ており、それらは教育用にも使われたはずです。

福井:そんな和文ダイジェスト版の中には、子ども向けの図鑑のようなものはありましたか?

入口教授:これも、ないと思います。子ども向けの本は、草双紙(絵入りの娯楽本)のうち特に赤本・黒本と呼ばれていたようなものが主です。大人むけの雑学知識、今で言う家庭の医学や手紙の書き方などをたくさん詰め込んだ「○○重宝記(ちょうほうき)」や「往来物(おうらいもの)」などと呼ばれるような書物はかなりたくさん出版されています。『和漢三才図会』の図像などを利用した物は多くあったと考えます。

質問:算数の知識は、庶民にも広まっていたと聞きますが、このような本草学や蘭学の知識は、どのくらい広まっていたのでしょうか?

入口教授:庶民をどのレベルでとらえるかで難しいのですが、本草学や蘭学の知識はあまり庶民には広がっていなかったと思われます。庶民向けには、別にひらがなで書かれたものが出版されていて、それらは読まれていたようです。『和漢三才図会』のような漢文で書かれたものは専門家向けです。和算については、17世紀に出版された『塵劫記』(筆者注:じんこうきー和算家の吉田光由が著した算術書)はひらがなで書かれていて、庶民向けの実用書だったと考えます。

質問:『和漢三才図会』は、蘭学ベースという認識で良いですか?中国や日本にも暦学がありましたが、それとは別の発想で書かれているとみて良いのでしょうか。(筆者注:蘭学=オランダから来た学問=自然科学などの西洋由来の学問)

入口教授:『和漢三才図会』は、儒学ベースです。蘭学とは直接関係を持ちません。東洋的な宇宙観を示しています。1609年に中国で刊行された『三才図会』に基づき、日本のことを増補したものが『和漢三才図会』なのです。ですから、中国の思想がベースになっているわけです。

福井:『和漢三才図会』の太陽系図も天動説ベースでしたね。中国由来の天文学は暦づくり、特に日食や月食を予測する計算に主眼を置かれていて、天体の実際の軌道運動などはあまり関心を持たれていなかったようです。もっとも、『和漢三才図会』が発行されたころはまだ日本に地動説は紹介されていませんでした。江戸幕府の天文方はのちに蘭学を暦づくりに取り込んでいったようですが、蘭学の色が濃い百科事典的な本はありましたか?

『和漢三才図会』に描かれた、太陽系の図。国文学研究資料館蔵

入口教授:蘭学色の強い百科はないと思います。一般的ではありませんので、やはり蘭学は特殊なものと考えた方が良いでしょう。

質問:江戸時代の図鑑ではないですが、浮世絵師が描いた絵にも、日本にはいなかっただろう生きもの(象やトラなど)が描かれていますが、どうしてそのような動物を描くことができたのでしょうか?(筆者注:『和漢三才図会』では日本に生息してない動物が図入りで多数紹介されている)

『和漢三才図会』より、サイの項目。本物のサイとは体形や角の付き方がずいぶん違う。伝聞をもとに描いたことが伺われる。国文学研究資料館蔵

入口教授:基本的には中国で作成された図像が日本に渡ってきて、それを手本に書いたものです。ただ、江戸時代になりますと、実際に珍しい動物も渡来するようになりました。例えば、五代将軍吉宗の時代(1728年)には、象が渡来しており、江戸まで来ています。そのほかラクダなども渡来していて、なかには見世物(みせもの)として興行するようなこともあったようです。

日本人見ることが出来なかった動植物はほぼそのまま元の『三才図会』の図像を踏襲しているのですが、日本にもあるものについては、かなり細かく観察して描かれています。本草学は薬や食べ物についての学問で、命に関わることでもありますので、実物を観察して間違わないようにすることは大変重要なことだったのです。

福井:19世紀に活躍した絵師、岸駒(がんく)は、リアリティのあるトラの絵を描くために、トラの骨や毛皮を手に入れて研究したそうですよ。研究しただけあってド迫力の絵を描いています。

『和漢三才図会』に関する質問だけでも随分たくさんいただきました。次回は和本の歴史や江戸の出版事情をテーマに質問に答えていただきたいと思います。乞うご期待!

執筆スタッフ紹介

福井 智一 (ふくい ともかず)

専門分野:遺伝学

【2020年まで在籍】大学で研究員としてショウジョウバエと戯れるも、野生の世界への憧れを捨てられず青年海外協力隊としてアフリカ・ケニアで野生生物保護活動に従事。帰国後はケニアで撮影した写真をもとに個展などを行う。紆余曲折の後、無節操な知識欲と経験を活かすために未来館へ。


https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20200717post-351.html 【江戸時代に百科事典があった!東洋の博物学「本草学」とは?】より

 日本に「科学」が生まれたのはいつのことだと思いますか? ヨーロッパ式の自然科学が本格的に日本に導入されたのは明治維新以降のこと。それから100年も経たないうちに、医学の北里柴三郎、物理学の湯川秀樹など、世界レベルの研究者が次々に現れました。そんな科学発展の背景には、明治以前に普及していた学問「本草学」の存在があるのかもしれません。

 きたる2020年8月9日に、国文学研究資料館と日本科学未来館がコラボして、江戸時代の日本の科学と読書事情を探るオンラインイベント「国文学研究資料館×日本科学未来館 和書からさぐる!お江戸のサイエンスとライブラリー」を開催します。詳細はブログの最後をご覧ください。

【国文学研究資料館×日本科学未来館 和書からさぐる!お江戸のサイエンスとライブラリー】

江戸時代のエンサイクロペディア『和漢三才図会』

江戸の百科事典、『和漢三才図会』の、天文に関するページ。左側には天動説モデルによる太陽系が描かれている。右の本文には「地球」と書かれているのが確認できる。

 この古い本、いまから300年以上前の江戸時代に出版された百科事典『和漢三才図会』の1ページです。105巻81冊にもわたるボリュームで、天文・宇宙から人体、動植物、地理、人間社会に関する事柄まで、ありとあらゆるトピックが訓点付きの漢文とイラストを用いて解説されています(江戸時代まで、フォーマルな文書は漢文で書くのが一般的でした)。西暦1609年、中国の明代に発行された『三才図会』をベースに、大坂の医師、寺島良安によって30年余りをかけて編纂され、江戸時代中期の1712年に成立しました。

東洋の博物学「本草学」

 この東洋の博物学とでも言える学問のことを「本草学」と呼びます。本草学は中国から伝来し、さらに日本で独自に発展しました。古代ギリシア・ローマを起源とするヨーロッパの博物学が自然界に存在するものを収集・分類し、世界のありようを探求することを主目的としたのに対し、本草学は人の役に立つ情報、特に医学に役立つ情報を集めることを主な目的にしていました。

 東洋医学で用いられる薬の多くは植物などの自然に存在するものを原料としています。しかし一方で、生き物の名前は地方や資料によってバラツキがあります。例えば春の七草のひとつとして知られ、薬草としても利用されるナズナには、ペンペングサ・シャミセングサ・ビンボウグサといった異名があります。もしも名前のバラツキが原因で薬の原料を間違えると患者の命に関わります。なぜなら、植物の多くは大なり小なり毒を持っているからです(毒を薬効成分として使っているとも言えます)。そこで必要とされたのが、薬草の名前と特徴を整理したリファレンスをつくることでした。このことが「本草学」という名称の由来にもなっています。やがて本草学の守備範囲は医学の外側にまで広がってゆき、東洋の博物学と呼ばれるまでに発展しました。

カマキリの医療利用?

 大百科事典である『和漢三才図会』にも医学書としての精神が込められています。植物の項目では精細なイラストレーションに加え、薬としての効能や服用方法に関して非常に詳しく記述されています。そればかりか、一見薬と関係なさそうな項目にも医用情報が書かれていることもあります。例えば「カマキリ」の項目には、その形態や生態のほかに、「イボをカマキリに食べさせて治療する」といった、ちょっとショッキングなカマキリの医療利用(?)も紹介されています。

『和漢三才図会』カマキリの項目。イラストの下には名前と異名、中国語読みなど、左の本文にはカマキリの形態や生態などのほか、イボ治療への利用についての解説文が記されている。「以保無之利(イボムシリ)」という異名も紹介されている。

「コノシロ」の物語

 医学を主目的とした知識体系である本草学ですが、その守備範囲は広く、いわゆる「理系」の知識だけにとどまりません。例えば、『和漢三才図会』に収録されている、魚の一種「鰶(コノシロ)」の項目では、魚の形態や調理法のほかに、焼くと人間の遺体を焼いたときのような臭気を発することにちなんで、名前の由来の俗説としてこのような説話が紹介されています。

 「 野洲(下野国=栃木県)は室の八嶋(むろのやしま)に一人の美しい娘がいた。娘には密かに心を通い合わせていた男がいたが、娘の父母はそれを知って彼に娘を嫁がせようと考えていた。ある日のこと、国司が娘の美貌を聞きつけ、無理に娘を娶ろうとした。娘と父母はこれを断りたかったが、国司の怒りを買うことを恐れて一計を案じた。すなわち棺を作って数百匹のコノシロを詰めて火葬し、娘は病死したと偽り難を逃れた。これが「コノシロ(子の代=子どもの身代わり)」という名前のいわれである。」

本草学は学際知の先駆け?

 現在出版されている、自然科学系の図鑑には、もちろんこのような情報はあまり記されていません。明治以前には現在で言うところの「文系・理系」という分け方はされていなかったことがうかがえます。生物学者・博物学者・民俗学者として、明治から昭和にかけて世界を股にかけ活躍した知の巨人・南方熊楠は、若き日に6000ページ以上にわたる『和漢三才図会』全巻を書き写したそうです。

 また、本草学の精神はアートの領域にも強い影響を与えました。喜多川歌麿や伊藤若冲などの、同時代の偉大な絵師たちも動植物の生き生きとした姿を精緻に描いた「本草画」をたくさん残しています。

喜多川歌麿作の狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』。写実的なタッチに本草学の精神が感じられる。

 あらゆる学問が細分化された現在、分野をまたいで新しい価値を見つけ育てようという動きが再び活発になりつつあります。あらゆる知を取り扱う本草学の精神から現代人が学ぶことはたくさんあるかもしれませんね。

8月9日(日)13:30~15:00、国文学研究資料館教授の入口敦志さん、同館人文知コミュニケーターの粂汐里さんをお招きし、本草学、そして和書の世界について語るオンラインイベント「和書からさぐる!お江戸のサイエンスとライブラリー」を開催します。皆様のご参加をお待ちしています!『和漢三才図会』に掲載されている不思議な生物の謎や、江戸時代の庶民の読書ライフに迫ります!イベントの詳細・参加方法はこちらをご覧ください。

https://www.miraikan.jst.go.jp/events/202008091463.html

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