Facebook・清水 友邦さん投稿記事「目覚めと成長」
悟った人は超越しているので好き嫌いが無いと考える人がいます。
悟った人でもマインドは持っていて好き嫌いがあって、感情のない無表情な人になるわけではないようです。
まくわ瓜が好きだった有名な禅の僧侶がいました。
鎌倉時代末期に京都大徳寺を開山した大燈(だいとう)国師(宗峰妙超 しゅうほうみょうちょう)です。
大燈国師は24歳の頃、鎌倉の建長寺で大応(だいおう)国師(南浦紹明・なんぽしょうみょう)について雲門(うんもん)禅師の関(かん)公案の修行をしていました。
雲門禅師の関(かん)の公案は無門関(むもんかん)という禅の修行者のための教科書に出てくる話です。
それは次の通りです。
「仏法は誤って説いたり、あまり老婆親切に説きすぎると、仏罰が当たって眉やひげが抜け落ちるといわれているが、どうじゃ、ワシの眉毛はまだ生えているだろうか?」
唐の時代の翠巌(すいがん)禅師のこの問いに雲門禅師はひとこと「関(かん)」と答えました。
関(かん)は関所のことです。
悟りの世界に行くには関所の「門のない門」を通り抜けなければなりませんでした。
「門のない門」とはいかなる門でしょうか?
見たことも想像もつかない「門のない門」をどうしたらくぐれるのでしょうか?
両手を打つと、音が響きます。
しかし、片手で打つと、どんな音がするでしょうか?
禅の公案はいくら考えても頭では解決つかない問題ばかりが出てきます。
存在の本質を心身全体でつかむことを禅は求めるので、
頭を超えた智慧が体得されていないと弟子が何を答えても師に渇 ! を食らってしまうのです。
また、師が眠っていると目覚めた弟子に渇 ! を食らうこともあったようです。
大燈国師は雲門禅師の公案を3年間取り組みましたが解けませんでした。
ある日、大燈国師は持っていた蔵の鍵がガシャと鳴った瞬間に、忽然と真理に気づきました。
その悟りの境地を詩偈 ( しげ )にしたためて師の大応国師に示しました。
いったん、雲門禅師の関所を通り抜けてしまうと(一回透得雲関了)
南北東西どの道も自在に通り抜けられることがわかった(南北東西活路通)
朝夕いつでも、主客の区別がない(夕処朝遊没賓主)
頭のてっぺんからつま先まで清風がかけぬけるようなすがすがしさだ(脚頭脚底起清風)
私があるという自己認識はどんなときにも変わらずにいつもあります。
探している今ここにもあったのです。
自我は時間と空間に囚われていますが本当の自分は時間の流れとは関係がない時空を超えた次元にありました。
「苦労してやっと探し求めた究極の真理があまりにも当たり前にいつも目の前にあることを知って全身から汗が出てきて背中を流れた」と大燈国師の行状録に出てきます。
無門関の名前の通り関所も門も最初からなかったのです。
大燈国師は26歳の時に大悟しますが大応国師から印可を受けた後、京都の三条の河原で20年間乞食行をしていました。
悟りを開いて世に出てくるまで20年間ホームレスをしていたというのも、すごい話です。
まくわ瓜が好きな大燈国師が乞食の群れの中にいることを知った花園天皇はまくわ瓜を乞食にただで与える札を立てさせました。
当日、まくわ瓜を持った役人が乞食の群れに向かって「足なしで来たれ」と言いました。
困惑して誰一人手を出すものがいないと一人の乞食が「手を使わずに渡せ」と答えたので大燈国師であることが判ってしまったと伝えられています。
大燈国師がまくわ瓜が好きだったと言う話は面白いですね。
禅には悟りを得ても、それを人々にシェアできるようになるために、さらに勉強する「悟後の修行」という言葉があります。
一方では
『悟後の修行なんていう人は悟りそこねたんです。悟りに段階はないので悟ると元には戻りません。修行なんて必要ありません。いまここあるがままで完全なので何もしなくていいんです』という人もいます。
ですがこの地上世界では悟った意識だけで生活することはできません。
自我の境界が消えて宇宙全体と一つになっても身体がある限り再びマインドに戻ります。
ですから悟ったからと言ってただちに、英語やスワヒリ語が話せるようになったり
スケートで4回転できるようなったり弓矢の名手になったり大工仕事が上手になったり
料理の天才になったりプロの演奏家や歌手や作曲家になれたりするわけではありません。
どのような個人でもマインドはその時代と地域の文化、政治、思想、団体、部族、民族、国家の影響下にあります。
宇宙の真理に気がついたからといって隣の人までただちに真理を理解してもらえるわけではありません。
悟った人と一緒にいても、この人とはついていけないと離れたり、離婚が起きることもあるでしょう。
残念ながら悟ってもそれは個人的なものでありマインドは特定の段階にとどまったままなのです。
二元性を超えた本性に気づいても、特定の段階に同一化したままのマインドを通して表現していくしかないのです。
現象の世界は目覚めと成長の二重の道になることを自覚しなければならないでしょう。
白隠禅師は「悟後の修行」は永遠だといっていました。
それは宇宙全体が覚醒するまで終わらないのでしょう。
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