July 2771998
向日葵や起きて妻すぐ母の声
森 澄雄
夏休みの朝は、普段とは違う独特の雰囲気がある。学校のない子供らはいつまでも寝ているし、親の日常ペースも狂いがちだ。この句の妻も、いつもよりは遅く起きたのだろう。雨戸を開け放つと、庭の向日葵にはすでに陽光がさんさんと降り注いでいる。もう、こんな時間……。妻はいきなり「母の声」になって、作者と子供らを起こしにかかる。そんな情景だ。半身を起こした作者に向日葵はいかにもまぶしく見え、それが「母の声」と見事にマッチしているなと感じている。そしてこの句の背景には、ささやかにもせよ、一家の生活の安定が感じられる。みんな元気だし、とりあえず思い煩うこともない。作者のこの安心感が、読者をも安心させるのである。この句が載っている『花眼』〔1969〕には敗戦後10年くらいからの句作が収録されており、ということは、人々の生活がようやく落ち着きを取り戻そうとしていた時期にあたるわけで、その意味からして「向日葵」の扱いも利いていると思う。「向日葵」だなんて暑苦しいばかりだという時代が、ついこの間まであったのだから。(清水哲男)
July 1471999
向日葵の非のうちどころ翳りゐて
小川双々子
明るさを、明るさのままに享受しない。もとより、逆の場合もある。それは詩人の性(さが)というよりも、業(ごう)に近い物の見方であり感じ方だと思う。意地悪なまなざしの持ち主と誤解されるときもあろうが、まったく違うのだ。といって「盛者必滅」などと変に悟っているわけでもなくて、そのまなざしは物事や事象を、常にいわば運動体としてとらえるべく用意されている。現在のありのままの姿のなかに、既にその未来は準備されているという認識のもとで、まなざしは未来を予感すべく、ありのままを見つめようとする。作者の眼前の向日葵のありのままの姿には、実は一点の「非のうちどころ」もないのである。見事な花の盛りなのだ。しかし、花であれ人間であれ盛りの時期は短く、生きとし生ける者はことごとく、いずれは衰亡していくものだ。衰亡の種となるであろう「非のうちどころ」は、いまのところ「翳りゐて」見えないのだが、確実にそこに存在しているではないかという句だ。手垢にまみれた「非のうちどころ」という言葉を逆手に取った手法も、新鮮で魅力的である。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)
June 2262002
向日葵の月に遊ぶや漁師達
前田普羅
季語は「向日葵」で夏。若き日に、大正初期の九十九里浜で詠んだ句。ここは昔からイワシ漁の盛んな土地で、明治以後、二隻の船が沖合いでイワシ網を巻く揚繰(あぐり)網が取り入れられたが、砂浜に漁船を出し入れするのに多大の人力を要した。集落をあげて船を押し出す仕事を「おっぺし」と言い、1950年代までつづいたという。老若男女、みんなが働いていた時代だった。そんな労働から解放されて、集落全体にやすらぎの時が戻ってきた月夜に、なお元気な「漁師達」が浜で遊んでいる。酒でも酌み交わしているのか。「向日葵の月」とは、月光に照らされた向日葵が、また小さな月そのものでもあるかのように見えているということだろう。この措辞によって、現実の世界が幻想的なそれに切り替わっている。加藤まさおが書いた童謡「月の砂漠」の発想を得たのも九十九里浜だったそうだが、見渡すかぎりの砂浜と海にかかる月は、さぞや見事であるにちがいない。月と向日葵と漁師達。その光と影が力強い抒情を生んで、詠む者の胸に焼き付けられる。少年期の普羅はしばしば九十九里浜に遊んでおり、愛着の深い土地であった。臨終の床で「月出でゝかくかく照らす月見草」と詠み、死んだ。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)
August 0282002
妻留守の完熟トマト真二つに
山中正己
男子厨房に入るの図。夏の旅行か何かで、妻が家を空けている。トマトは、妻が買って置いておいたものだろう。日数を経て「完熟」してしまっている。柔らかくなっているので、もはやスライスできないのだ。ええいっママよと、乱暴に「真二つに」切って食べることにしたと言うのである。こういうことを句にする人は何歳くらいだろうかと、略歴を見たら、私より一歳年上の同世代人であった。さもありなん……。思わず、ニヤリとしてしまった。日ごろ台所のことを何もしていないので、妻が留守をすると、食事のたびに面倒くさくて仕方がないのだ。句にそくして言えば、ちょっと近所まで新しいトマトを仕入れに行けばよいものを、それからして面倒なのである。冷蔵庫などに食べられるものが残っている間は、不味かろうが何だろうが、それですませてしまう。無精もここに極まれり、というわけだ。もっとも、なかには詩人の天沢退二郎さんのように、毎朝娘さんの弁当を作ってきたという料理好きの人も、同世代には散見されるので、この無精を世代のせいだけにしてはいけないのかもしれないが。そう言えば、原石鼎に「向日葵や腹減れば炊くひとり者」があった。世代やシチュエーションは違っていても、石鼎も作者も、食事とはとりあえず空腹を満たすことと心得ている。この夏にも、完熟トマトを真二つにする男たちは、まだまだ多いだろう。『キリンの眼』(2002)所収。(清水哲男)
August 1182002
追撃兵向日葵の影を越え斃れ
鈴木六林男
小
切手
説の一場面でもなければ、映画のそれでもない。まったき現実である。作者は、地獄の戦場と言われたフィリピンのバターン半島とコレヒドール島要塞戦の生き残りだ。あえて「越え斃(たお)る」と詠嘆せず、「越え斃れ」と記録性を重視しているところに、現場ならではの圧倒的な臨場感がある。極暑の真昼に、優位に敵を追撃していたはずの兵士が、一発の弾丸で、あるいは地雷を踏んで、あっけなく斃れてしまう。現場に参加している者にとってすら、信じられないような光景が白日の下に不意に出現するのだ。変哲もない向日葵の影で、変哲もなく人が死ぬ。これが戦争なのだと、作者はやり場のない憤怒を懸命にこらえて告発している。1942年(昭和十七年)、日本軍はバターンを包囲制圧し、相手方の司令官ダグラス・マッカーサーは「I shall return」のセリフを残して、夜陰に乗じ高速艇で脱出した。戦中の「少国民」のはしくれでしかなかった私も、この季節になると、戦争に思いを馳せる。そして、ただ偶然に生き残っただけの自分を確認する。それだけで、八月には意義がある。写真の切手は、フィリピンで1967年8月に発行されたマッカーサーのシルエットとコレヒドール奪還に上陸するパラシュート部隊。『荒天』所収。(清水哲男)
August 0182004
ひまはりと高校生らほかにだれも
竹中 宏
季語は「ひまはり(向日葵)」で夏。漢字名のように、花は太陽の動きにあわせて向きを変える。たくさん咲いていても、どれもみな同じように見える。その向日性において、また同じように見えるという意味でも、高校生の集団に通い合うものがありそうだ。夏休み、部活かなにかの「高校生ら」が向日葵の咲く野か路傍に見えている。炎天下ということもあり、元気な彼ら以外には「ほかにだれも」いない。こうした夏の白昼の光景は、なんだかサイレント映画のように森閑とした印象だ。その印象が、作者をみずからの高校生時代の記憶に連れて行ったのだろう。面白いもので、過去の記憶に絵はあっても、めったに音は伴わない。だからこのときの作者の眼前の光景と過去のそれとは苦もなくつながる理屈で、とたんに作者は過ぎ去ってしまった青春に深い哀惜の念を覚えたのだ。と同時に、いま眼前にある高校生らと向日葵の花の盛りの短さにも思いがいたり、青春のはかなさをしみじみと噛みしめることになった。「ほかにだれも」で止めたのは、いま青春の只中にあるものらへの作者の優しさからだ。彼らは昔の自分がそうであったように、はかなさに気づいてはいない。ならば青春は過ぎやすしなどと、あえて伝えることもないではないか。「だれも(いない)」と口ごもったところに、句の抒情性が優しくもしんみりと滲んでいる。『花の歳時記・夏』(2004・講談社)所載。(清水哲男)
August 1982004
実の向日葵少年グローブに油塗る
古沢太穂
ふつう「向日葵(ひまわり)」といえば夏の季語だが、この場合は「実(種子)」ができているのだから、秋口の句としてよいだろう。戦後間もなくの句だ。秋とはいえ、まだ猛暑のつづく昼下がり。さすがに真夏の勢いは少し衰えてきた向日葵の見える縁先で、ひとり「少年」が一心に「グローブ」の手入れをしている。あの頃のグローブは貴重品だったので、これは珍しい光景なのだ。大事に大事に、少年が油を塗っているのも宜(むべ)なるかな。熟成に近い向日葵とこれから成熟してゆく少年との取り合わせは、それだけで生きとし生けるもののはかない運命をうっすらと予感させて秀逸だ。グローブ・オイル(保革油)には、哀しい思い出がある。小学生時代、クラスで本革のグローブを持っていたのはS君ひとりきりだった。誰もが羨んだけど、彼は遠い街から養子にやってきて、実家を去るときに父親がくれたものだということも知っていた。句の少年と同じように、学校でもよく油を塗っていたっけ。そんな彼と、ある日猛烈な喧嘩になった。取っ組み合いの果てに、彼は私の鞄の中味をぶちまけると、いちばん大切にしていた小型の野草事典を引き裂いたのだった。逆上した私は、同じように彼の鞄の中からグローブ・オイルを掴み出し、思い切り床に叩きつけた。途端にそれまでは涙を見せなかったS君が、びっくりするほどの大声で手放しで泣き出したのである。私も泣いた。泣きながらしかし、あまりの彼の悲しみように、後悔の念がどんどん膨らんだことをいまでも覚えている。数年前のクラス会で、謝ろうと思っておずおずと切り出してみたところ、彼は「覚えてないなア」と微笑した。Sよ、覚えてないなんてことがあるもんか……。『三十代』(1950)所収。(清水哲男)
August 2282005
向日葵に大学の留守つづきおり
鈴木六林男
季語は「向日葵(ひまわり)」で夏。「大学の留守」、すなわち暑中休暇中の大学である。閑散とした構内には,無心の向日葵のみが咲き連なっている。まだまだ休暇はつづいてゆく。向日葵が陽気な花であるだけに、学生たちのいない構内がよけいに寂しく感じられるということだろう。そして元気に若者たちが戻ってくる頃には,もう花は咲くこともないのである。私も学生時代に、一夏だけ夏休みに帰省せず,連日がらんとした構内を経験した。向日葵は植えられてなかったと思うが,蝉時雨降るグラウンド脇をひとりで歩いたりしていると、妙に人恋しくなったことを覚えている。誰か一人くらい、早く戻ってこないかな。と、その夏の休暇はやけに長く思われた。これには九月に入っても、クラスの半分くらいは戻ってこなかったせいもある。ようやくみんなの顔が揃うのは,月も半ば頃だったろうか。むろん夏休みの期間はきちんと決まってはいたけれど、そういうことにはあまり頓着なく、なんとなくずるずると休暇が明けていくのであった。そのあたりは教える側も心得たもので、休暇明け初回の授業の多くは休講だったような覚えがある。大学で教えている友人に聞くと,いまではすっかり様変わりしているらしい。学生はきちんと戻ってくるし,休講などとんでもないという話だった。大学も世知辛くなったということか。『王国』(1978)所収。(清水哲男)
July 1472008
向日葵に路面電車の月日かな
藤城一江
今年も、向日葵が勢いよく咲く季節になった。向日葵に限らず夾竹桃も百日紅なども、夏の花はみな元気だ。そんな向日葵が咲きそろった舗道を、路面電車が通過していく。この電車、相当に古びているのだろう。レール音も、心なしか喘いでいるように聞こえる。この街に住んで長い作者は、その昔、まだ電車が向日葵を睥睨するようにして、颯爽と走っていた時代を知っているのだ。それが年を経るうちに、いつしか立場は逆転して、いまや路面電車に精気はほとんど感じられない。かたや向日葵は、毎夏同じように精気にあふれているのだから、いやでも電車の老朽化を認めないわけにはいかなくなってきた。すなわち、それは作者自身の老齢化の自己認知にもつながっているのであり、なんでもないようなありふれた光景にも、このように感応する人は感応しているのである。路面電車といえば、広島市内には、かつての各地の路面電車の車両が当時そのままの姿で走っている。以前同市を訪れた際に、あまりの懐かしさに行く宛もないまま、昔の京都スタイルの市電に乗ってしまったのだった。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)
July 2572013
ひまはりのこはいところを切り捨てる
宮本佳世乃
水彩画教室に通っていた頃、ベテランの一人がすっかり枯れて頭をがっくり垂れたひまわりばかり描いているのを不思議に思った。大きな花びらもちりじりに干からびて黒い種子がびっしりと詰まったその姿に興味を引かれて描き続けているのだという。この人にとってひまわりの美は太陽の下でカンと頭をふりあげている姿ではなく、種をびっしり抱えながら干からびてゆく姿だったのだろう。美しさを感じるポイントが人それぞれのように「こはいところ」も人によって変わるかもしれない。ひまわりのどこがこわいのか、どこを「切り捨てる」のか、いろいろ探っているうち、具体的な部分ではな「ひまはり」の存在自体が「こはい」ように思えてきた。堂々とした向日葵の原型に対峙した句が「向日葵や信長の首切り落とす」(角川春樹)の句だとしたら、「ひまはり」の「こはいところ」にあえて向かい、切り捨てるこの句からは健気さが感じられる。『鳥飛ぶ仕組み』(2012)所収。(三宅やよい)
August 3082014
一瞬の自死向日葵の午後続く
岡本紗矢
放射状に広がる黄色い花弁の持つ明るさと種の部分の仄暗さ、向日葵は見る人の心情を照らす花だ。この句を引いた句集『向日葵の午後』(2014)のあとがきには「通勤時に人身事故が発生し、生きることの辛さについて思い巡らしていた時、じりじりと焼けるような太陽の下、向日葵が立ち並ぶ情景に出会った」とある。向日葵が、自死のやりきれなさに対する単なる生の明るさではなく、無常観を持ちながらも明日へ向かう静かな力を感じさせるのは、続く、という一語によるものだ。先週末、生まれて初めて訪れたいわき市の海辺に、向日葵がたくさん咲き残っていた。ときおり吹く初秋の風の中、朽ちてゆきながらまっすぐ立っている向日葵の姿は深く心に刻まれている。(今井肖子)
September 1592015
ブロンズの少女が弾く木の実かな
山本 菫
まず、誰もが木蔭に置かれたブロンズ像を想像する。容赦ない夏の日差しから葉を茂らせ、ブロンズ像の少女を守ってきた大きな木。季節はめぐり、思いを告げるように梢はポツリポツリと木の実をこぼす。固いブロンズにぶつかっては転がっていく木の実が、冷たく思いをはねつけているようにも見えるだろうか。それとも、あどけない少女がどれほど手を差し出して受け止めたいと、ブロンズの身を嘆いていると見るだろうか。たったひとコマの描写のなかに、静があり、動がある。物語が凝縮された作品を前に思いを巡らせ、結末をひもとく幸福な時間もまた、俳句の楽しみのひとつである。〈向日葵を切つて真昼を手中にす〉〈遠雷や柩にこの世覗く窓〉『花果』(2015)所収。(土肥あき子)
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