https://liberal-arts-guide.com/the-chrysanthemum-and-the-sword/ 【【5分で読める】『菊と刀』とは?その論点や批判をわかりやすく解説】 より
『菊と刀』とは
『菊と刀-日本文化の型-』(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)とは、著名なアメリカ人文化人類学者のルース・ベネディクトが第二次世界大戦中の敵国である日本を知るためについて書いた本です。
『菊と刀』は1946年に発行されてから70年以上も経ちますが、今日でも需要が高い本です。事実、21世紀に入ってから、異なった研究者による翻訳が2冊も刊行されています。
日本国内では1946年の刊行当初から賛否両論ある本で、さまざまな論者がさまざまな読み方をしてきました。どの意見に賛成するかはあなた次第ですが、まずは『菊と刀』の概要を知ることが重要です。
そこで、この記事では、著者のベネディクトに関する情報『菊と刀』の内容『菊と刀』に対する批判をそれぞれ解説していきます。
あなたの関心に沿って、好きな箇所から読んでみてください。
1章:『菊と刀』とは
1章では、ベネディクトの伝記的情報や『菊と刀』のポイントを解説します。『菊と刀』の批判や読み方に興味のある方は2章から読み進めてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1を入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1: 『菊と刀』とベネディクト
『菊と刀』とはルース・ベネディクト(Ruth Benedict 1887年 – 1948年)
冒頭で述べたように、『菊と刀』は著名な文化人類学者であるルース・ベネディクトによって書かれた本です。まずはそれらの点を簡潔に解説していきます。
1-1-1: ルース・ベネディクトとは
さっそくですが、ベネディクトの主な情報は以下の通りです。
ベネディクトが文化人類学を学び始めたのは1919年、ベネディクトが32歳のとき
アメリカ人類学の父であるフランツ・ボアズのもとで学ぶことたった9ヶ月、『北米における守護霊の観念』という論文で博士号を取得した才女
アン・シングルトンというペンネームで詩をいくつも発表している
ボアズの考えの基層であった、文化相対主義を方法論化したことでも有名
見てわかるように、ベネディクトは多才な人物です。有名な研究ばかりですが、特に有名なのは『菊と刀』に先だって発表された『文化の型』(1934)です。
『文化の型』では文化人類学における「文化」という分析概念が提示されています。この本を読むと、『菊と刀』では『文化の型』で提示された文化概念を、具体的な対象(日本社会)に用いて分析したことがよくわかります。興味のある方はぜひ読んでみてください。
1-1-2: 『菊と刀』のコンテキスト
さて、『菊と刀』が第二次世界大戦末期に戦時情報局からの要請で敵国日本人の行動を分析するために書かれたものであるという事実は大事です。
ここからは、太田好信の「文化人類学と『菊と刀』のアフターライフ」『日本はどのように語られたか』(昭和堂)を参照して紹介します。
当然、第二次世界大戦中ということもあり、ベネディクトは日本に来ることができませんでした。2章で説明しますが、日本国内での反応は「来たことがないのになぜここまでわかるんだ」というものが多かったです2。
敵国日本を研究する際、ベネディクトが資料として用いたのは、以下のものです3。
「帰米」といわれた日系人二世たちへのインタビュー
日系人収容所からの報告書
夏目漱石の『坊ちゃん』などの英訳された小説
新聞、大衆映画、軍事的なプロパガンダ
他にも、ベネディクトは日系人たちと一緒に映画をみて、日本人のモノの見方を学んでいました。
「そんな資料で日本文化を理解することが可能なかの?」と思う方もいると思いますが、ベネディクトはこの点にしっかりと答えています。
『菊と刀』の序文では、文化人類学の修練の結果体得した能力によって、戦時中という制約下、フィールド調査の実施が不可能であったにもかかわらず、アメリカ合衆国の戦時情報局が彼女に与えた日本文化の分析という難題をクリアーできる、と述べています。
では、文化人類学が与えた能力とはどのようなものだったのでしょうか?『菊と刀』のポイントはまさにこの点です。次に『菊と刀』の論点を解説します。
1-2: 『菊と刀』の論点
端的にいえば、『菊と刀』の論点は「文化という概念」と「日本文化」です。それぞれを解説しています。
1-2-1: 文化とは
結論からいえば、日本文化の分析という難題は文化人類学的修練の結果与えられた「文化」概念によって可能になるとベネディクトはいいます。
文化人類学の文化概念とは、次のようなものです。
ある社会の成員による諸行動を有意味にする暗黙の前提となっている考えを分析する能力
言い換えると、日本において当然と見なされており、日本人にとり自然化している行動の前提を分析する能力
自然化している行動とは、統覚しているにもかかわらず、あまりにも自然なため空気を吸うように、世界で起きる出来事を無媒体で透明に知覚すると錯覚させるほどに自然ということ
つまり、文化人類学者がこのような「行動のパターンや意味の体系」与えた名前が「文化」でした。事実、『菊と刀』の副題は「日本文化の型(Patterns of Japanese Culture)」とあります。
ベネディクトは「レンズ」という比喩を用いて「行動の前提としての文化」を説明しました。彼女がこの比喩を以下のように説明しています4。
「どの国の人々も独自のレンズを通して世界を統覚している。そのレンズを通して与えられた世界はあまりにも自然なため、意識する(メガネをはずすこと)は難しい。そのような時は眼科医(文化人類学者)が必要になる」
1-2-2: 日本文化とは
では一体、ベネディクトの指摘した行動の前提、つまり日本文化とはなんだったのでしょうか?答えからいうと、日本文化とは「階級制(ヒエラルキー)」です。
たとえば、ベネディクトは「成金」という事例を提示します。日本とアメリカにおける「成金」の捉えられ方についてベネディクトは次のように説明します。
日本社会の場合・・・「秩序と階層的な上下関係に信を置く」ため、成金は常にネガティブな意味を含意する
アメリカ社会の場合・・・「自由と平等に信を置く」ため、ヌーボー・リッシュ(成金)はポジティブとネガティブな意味を同時に含意する
ベネディクトはアメリカ社会と比較しながら、日本社会は階層的な上下関係に信頼を寄せており、それが家族、国家、信仰、経済活動の基層となってるといいます。
成金の事例はほんの一例で、『菊と刀』では日本人が「応分の場を占めること」をどう理解しているのかに関して永遠と事例が提示されます。数々の事例は省略しますが、ベネディクトが主張してるは日本人の行動の前提となるのは階級制である、ということを理解してください。
重要な点は『菊と刀』が日本語に翻訳されたのはあくまでも歴史的偶然であって、ベネディクトが想定した第一読者はアメリカ人であったということ
つまり、日本文化の分析を通して「アメリカ人も一つのレンズをかけており、そのレンズに意識的になれ」というメッセージがある
事実、『菊と刀』では日本の事例について述べた後、すぐにアメリカとの比較が必ずおこなわれる
1章のまとめ
『菊と刀』は『文化の型』で提示された文化概念を、具体的な対象(日本社会)に用いて分析した書物として読める
『菊と刀』の論点①:日本文化の分析という難題は文化人類学的修練の結果与えられた「文化」概念によって可能になること
『菊と刀』の論点②:日本文化とは「階級制(ヒエラルキー)」
2章:『菊と刀』への批判
さて、冒頭で述べたように、『菊と刀』は刊行当初から賛否両論がありました。ここでは『菊と刀』への批判を紹介し、最後にオススメの読み方を解説します。
2-1: 『菊と刀』に対する批判:日本とアメリカ
まず、『菊と刀』に対する評価を日本とアメリカに区別して紹介します。
2-1-1: 日本における『菊と刀』の評価
日本における『菊と刀』への評価でもっとも有名なのは、日本民族学会の学会誌である1950年の『民族学研究』です5。
1950年の『民族学研究』は、人類学者の石田英一郎の編集長を務めたもので、「ルース・ベネディクト『菊と刀』の与えるもの」という特集が組まれている巻頭論文では川島武宜の「評価と批判」が掲載されているものです。
この論集では日本文化の個別の解釈や描写に関する議論がされており(「来たことがないのになぜここまでわかるんだ」や「来たことがないから間違いも多い」といったもの)、ベネディクトが提示した「文化概念」に関する議論はありません。
同様に、日本文化論や日本人論を研究する論者は『菊と刀』を重要なテキストとしていますが、ベネディクトが主張した「文化人類学の修練」についての解釈は全く言っていいほどありません。
つまり、主に日本社会における『菊と刀』の評価は、個別の解釈に対する批判に終始する
しばしば感情論に走るベネディクトの理論的な背景を無視するといったものが大半でした。
けっして好意的とはいえない日本社会の反応は、1953年にアメリカ文化人類学会に伝えられています。
2-1-2: アメリカにおける『菊と刀』の評価
アメリカでは刊行以来、すぐさま古典になったという評価もあれば、強い否定の評価もあります6。
アメリカ社会での評価
肯定的な評価・・・たとえば、ボアズのもとで学んだ著名な文化人類学者のマーガレット・ミードは『菊と刀』は「瞬時に古典」になった著作であると評価
否定的な評価・・・その一方で、ダグラス・ラミスはベネディクトに厳しい批判した。たとえば、ベネディクトは日系人と日本人を同一視しており、それは日本人の行動を本質主義的に描き出すのもである、と指摘
個別の評価はさまざまですが、まずはあなた自身で読むことをおすすめします。
2-2: 『菊と刀』の読み方
『菊と刀』は、日本文化に関する個別の解釈は意見がわかれるところですが、日本人という立場から距離を取り読むべき書物なのかもしれません7。
日本語に翻訳されたのはあくまでも歴史的偶然であって、ベネディクトのターゲットはアメリカ人であったということ
つまり、「アメリカ人も一つのレンズをかけており、そのレンズに意識的になれ」というメッセージがある本である
ボアズの思想を受け継ぐベネディクトは、冷戦構造を見据え、文化の拘束性から解放されることを求めていました。具体的に、『菊と刀』ではあまりにも自然となった文化を意識することで、文化の拘束性からの解放することをアメリカ人読者に求めています。
誤解を招かないようにいいますが、ベネディクトは文化から解放されることで「世界が一つになる」という画一性を求めているわけではありません。ベネディクトは、次のようなことを言っています8。
「世界はひとつ」を唱道する人々は、画一的な世界を前提にしないことには善隣の方針を立てられないらしい。(中略)しかし、ほかの国民を尊重する条件としてそのような画一性を要求することは、妻や子どもにも同じことを求めるのと同様に、やはり非現実的である。
つまり、ベネディクトは冷戦構造時代が迫る1940年代、世界の画一性ではなく、文化を意識することで差異を尊重する術をアメリカ人読者に訴えているのです。
そのような世界は「アメリカは世界の平和をおびやかすことなく徹底的にアメリカ的で」、同様に「フランスはフランスであることが許され、日本は日本であることが許される」9世界です。
日本文化の個別の解釈に着目するのではなく、理論的な背景や時代背景を理解することでこのような読み方ができるのではないでしょうか?
これまでの内容をまとめます。
2章のまとめ
日本社会における『菊と刀』の評価は、個別の解釈に対する批判に終始、しばしば感情論に走る、ベネディクトの理論的な背景を無視するといったもの
アメリカではすぐさま古典になったという評価もあれば、強い否定の評価ある
ベネディクトは冷戦構造時代が迫る1940年代、世界の画一性ではなく、文化を意識することで差異を尊重する術をアメリカ人読者に訴えている
3章:『菊と刀』と文化人類学を学ぶ本
最後に、『菊と刀』と文化人類学を深く理解するための書籍を紹介します。
まず、何よりも文化人類学という学問自体に興味をもった場合は、こちら記事を参照ください。初学者用から上級者用まで紹介しつつ、さまざまな書籍の良い点と悪い点を解説しながら、紹介しています。
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