http://osanpo246.blog.jp/archives/5741019.html 【古典講読「奥の細道」第49回】より
NHKラジオ古典講読「奥の細道~名句でたどるみちのくの旅」の第49回(3月14日)放送を聴いた。
松尾芭蕉の生涯をたどる前半部分は、細道の旅に続くおよそ2年間の上方滞在を切り上げ、江戸に帰って来てからの動向や作品を取り上げている。きょうは同じころ連句ではどのような詠み方を示しているのかみていく。
『炭俵』という撰集から巻頭の歌仙に注目してみる。この『炭俵』は野坡、利牛、孤屋の三人が選者となったもので、この三人は江戸の呉服店として有名な越後屋の手代だったようだ。その職務の合間に芭蕉の指導を受け、芭蕉もかるみの同伴者として期待を寄せていたのだった。
巻頭の歌仙は芭蕉と野坡の両吟。野坡に自分がいま目指す俳諧をしっかり伝えようと両吟を選んだと考えられる。この時期を代表する大きな成果といえる。巻頭の4句を見てみる。
むめがゝにのつと日の出る山路かな 芭蕉
處々に雉子の啼たつ 野坡
家普請を春のてすきにとり付て 野坡
上のたよりにあがる米の直 芭蕉
発句の季語はむめで春。梅と同じだ。梅の香が漂う山路を歩いていて向こうを見やると、突如として日が出てきたという内容だ。「のっと」は擬態語で、これがとても効果的だ。この1語でこの句がぐっと親しみやすいものになる。
嗅覚、視覚の両面から早春の山路を描いた。脇の野坡はこれに聴覚を加えた。キジがが春の季語。あちらこちらでキジがさかんに鳴いているという内容だ。前句の山路では確かにこうした鳴き声を聞くことになるだろう。発句に合わせながら音という新たなものも出してきた。
両吟ではひとりが長句、もうひとりが短句に偏らないよう、ときどき同じ人が2句続けて詠む。第三もそれで、季語は春。春や秋は3句以上、5句まで続けるルールだ。春の手すきは農閑期だろう、少し暇ができたので家普請に取り掛かるというのだ。前句のキジを聞く人を山がの農夫とみかえ、その人の行動をつけた。
芭蕉の4句目は季語がない雑句。上方からの便りで米の値段の上がることが伝わってきたという意味だ。景気のよさそうな前句の農家にとって、さらに喜ばしい話題ということで米価の高騰に目をつけた。その想像力はさすがだ。
もう一箇所、次の3句も見ておく。
東風風に糞のいきれを吹まはし 芭蕉
たヾ居るまゝに肱わづらふ 野坡
江戸の左右むかひの亭主登られて 芭蕉
東風は「こち」に同じで春の季語。東から吹く春の風だ。それに乗って肥料の臭いがあたりに漂っているという内容だ。この田園風景に野坡は腕を患ってぶらぶらしている人を付けた。雑の句だ。この2句の関係はなんだろうか。
前句には労働に精を出す農民がいると考え、それとは対照的な人を出したのだろうと考えられる。向付という連句の付け方のひとつだ。でも、ここでは前句に人が詠まれていない。詠まれていないけれど、いるはずだと考え、そう仮定された人と対照的な人を詠んだのだ。ここに斬新さがある。
芭蕉句も雑。そうは左右と書き、あれやこれやの意。特にあれこれの情報といった意味に使われる。お向かいの亭主が江戸の話を持って登られるということは、江戸に出かけていたのが帰って来たということになる。
前句の人の内面を推し量って、暇を持て余しているに相違ないと見定め、その無聊を慰めるには珍しい話題の提供者が一番と考えて、それを江戸帰りのご近所としたわけだ。ここでも一句がなるまでには大変な想像力が働いていたのだと知られる。
さらに次の2句も紹介したいと思う。
奈良がよひおなじつらなる細基手 野坡
ことしは雨のふらぬ六月 芭蕉
「奈良がよひ」は奈良に通う商いのことだろう。なじつらはどう程度。細基手は零細な資金。雑の句で、私たちは同じようにわずかな元手で奈良通いをする身だといった意味だ。これに付けた芭蕉句はいたってシンプルだ。今年は雨の降らない6月だというので、6月が夏の季語。
だれでも作れそうだが、付け方を探っていくと決して単純ではないことに気付かされる。まず前句のなかにどこか愚痴めいた口ぶりを感じ取り、こうした行商人にとってつらいのは夏の暑さであろうと考え、その人が言いそうなことを必死にまとめたのだ。
これも想像力の産物で、しかもその途中経過を句の表面に残さず、潔く渡世の苦労や、猛暑の様子などいっさいを句から追い出した。そして雨が降らないというひとつのことだけに絞ったのだ。2句の間は離れている。その関係に理解が及んだとき、汗を拭きながら愚痴をこぼし合う商人たちの表情までも見えてくるようだ。
思えば深川に入った頃、ことばの縁に頼った親句を否定し始めてから十数年、ついにこうした境地に芭蕉は至ったのだ。
ここからは『奥の細道』の続き。
先週は『芭蕉翁月一夜十五句』の前半を紹介したので、今回は後半を読む。
『芭蕉翁月一夜十五句』(後半)
越の中山
中山や越路も月ハまた命
気比の海
国々の八景更に気比の月
同明神
月清し遊行のもてる砂の上
種の浜
衣着て小貝拾ハんいろの月
金が崎雨
月いつく鐘ハ沈める海の底
はま
月のミか雨に相撲もなかりけり
ミなと
ふるき名の角鹿や恋し秋の月
うミ
名月や北国日和定なき
越の中山は『新古今和歌集』所収の西行歌「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」をふまえ、同じ名を持つ越路の中山で月を見るのも命あってのことだと詠んだ。西行への思いが示された一句だ。
気比を対象にした月の句はまだあった。「国々」の句は、八景と称される美景を国々見て回り、さらにここ気比で月を眺めるといった句意。この後に「月清し」の句があっても文章がないとその感動は伝わらず、他の月の句と同列に置かれることになってしまう。
種の浜は今日のメインテーマなので、改めて後ほどに取り上げる。金が崎での句は海に釣り鐘が沈んでいるという伝承に基づくもの。名月の夜に浜で予定されていた相撲が中止になったという句もある。そして敦賀の古名が角鹿であることから、その港を月が照らしているのを見ると、角鹿と呼ばれた古が恋しく思われるとも詠じた。
その後に北国日和の句が置かれる。実際はもうい句あったのが欠けて見えないと、これを写した荊口が注記している。これは各地の月をどのように詠み分けられるかという一種の稽古なのだろう。
これとは別に敦賀や種の浜の記述の原形ともいうべき句文の資料が知られている。『桂下園家の花』と呼ばれるもので、敦賀の東恕という俳人が家に伝わる資料として『俳諧四幅対』という俳書を出版する際にこれを掲げている。 敦賀滞在中に記したものと考えられる。
(略)
これと同様のものが芭蕉自身の書留帳にもあったのだろう。特にこの前半が細道に活用されていったと考えられる。ただし、この句文では単に伝聞として書いたものが、細道では宿の亭主の語りというかたちになっていく。
笠島の章段でも、先行する句文では間接話法のように書かれていたのが、細道になるとより直接話法の要素が強くなって読者もその場に立ち会っているような臨場感を味わえるようになる。細道を記すにあたって芭蕉が採用したひとつの方法であったと考えられる。
その亭主の語りということが、この句文では別の話題で行われている。金ケ崎の海に釣り鐘が沈んでいる話を同じ夜、亭主が物語ったのだ。国主が漁師に命じて潜らせたところ、吊り下げるための竜頭から落ちているため引き上げられなかったというので、その話を聞き「月いづく」の句を詠んだ。
この部分はそっくり割愛し、亭主の物語りという枠組みだけを気比神宮の伝承を記すところに利用したわけだ。さらに種の浜に関しては文章を記さず、前書きプラス句、前書きプラス句で示した。ここからは『野ざらし紀行』以来の紀行文にみられた序破急の呼吸が感得される。
では細道ではどうか、本文を読む。
『奥の細道』(49)①
十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云もの、破籠・小竹筒など、こまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。
『完訳 日本の古典55』(小学館)
「十六日、空霽たれば」というのはもちろん15日は雨だったというのを踏まえたもので、北国の天気の変りやすさを改めて実感させる効果がある。「ますほの小貝ひ」というのは『山家集』に収められる西行の「潮染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらん」で知られるもので、ますほは赤い色を指す。
海水を赤く染めるこの貝を拾うことから、ここを色の浜というのかというのが大意だ。その小貝を拾うという行為を自分も行い、西行と同化するため予も色の浜に向かう。本文には種の浜とあり、これで色の浜と読む。古くから色の浜も使い、現在はそのように表記する。
海上七里というのは誇張で、実際は二里ほどだ。この舟を出してくれたのは天屋何某。敦賀の廻船問屋、天屋五郎右衛門という人だ。玄流という俳号を持っている。5日前の8月11日、曽良がこの天屋を訪れ、芭蕉への手紙を託したことが『曽良日記』から知られる。
別の記録では、芭蕉がこの土地に風流人がいないか人に聞き、天屋を訪ねたところ大喜びで金ヶ崎や色の浜を案内したとある。細道では実名を出さず何某とした。俳諧を好むということを記さないのも、ひとつの章段にあれこれつめ込まない、細道の基本的な性格に起因する。
店の者に命じて弁当や飲み物の支度を十分にさせたわけだ。そして舟にはその下僕たちも多く乗り込んだ。すると追い風に乗って時の間に浜に着く。書かれてはいないが、その間わいわいと話がはずんだのだろう。
『奥の細道』(49)②
浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ感に堪たり。
寂しさや須磨にかちたる浜の秋
浪の間や小貝にまじる萩の塵
其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。
『完訳 日本の古典55』(小学館)
浜には粗末な漁師の小家と、これも詫びた風情の法華寺があるだけだった。法華寺とは日蓮宗の寺院、本流寺がそれで、現在も浜の近くにある。この寺で茶を飲み、酒を温めるなどして過ごす。そしてこの浜で得た印象を「夕ぐれのさびしさ感に堪たり」と記す。
「感に堪たり」は感極まったということで、自分が大きな感動に浸っていることをいう。夕暮れの寂しさが、予を感動させているのだ。寂しさは現代的なニュアンスとはやや異なり、少なくとも予や作者芭蕉にとっては愛すべきものだった。静かさに包まれ、心が何者にも煩わされることがない状態とでもいえばよいか。
芭蕉はこの旅を終えた後、伊勢長島の大智院で「憂きわれを寂しがらせよ秋の寺」と詠み、これを2年後の『嵯峨日記』に「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」と詠み変えて記す。これらは『山家集』の西行歌「とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住みうからまし」を踏まえている。その境地を由とし、自分もそれに倣おうとしているのだ。
「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」は、この浜の寂しさは、あの須磨の浦の寂しさにも優っているというのだ。須磨といえば幾多の文芸に登場する土地で、現在の兵庫県神戸市須磨区。この場合特に重要なのは『源氏物語』の「またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり」という記述だ。
これがもとになって、須磨の浦の秋こそが哀れの最たるものであるということが和歌の世界の常識になる。作者芭蕉はその伝統を受け継ぎながら、眼前の景観をそれ以上であると認めたわけである。
そしてもう一句が「浪の間や小貝にまじる萩の塵」。季語は萩で秋。ここでお目当ての小貝を対象にした。浪の間には、ますほの小貝に交じるように同じ色をした萩の花クズが散っているという光景だ。
『芭蕉翁月一夜十五句』には「衣着て小貝拾ハんいろの月」という句があった。衣着てに西行と同化する姿勢が顕著だ。これはその場限りの句ということなのかもしれない。その日のあらましを等栽に筆をとって書かせ寺に残したとある。これは現存する。次回それを紹介しつつ、句の問題をもう少し考えてみる。
次回はいよいよ終着地の大垣。
0コメント