http://taka.no.coocan.jp/a5/cgi-bin/dfrontpage/fudemakase/kanekotoutailtusa.htm 【一茶句集 金子 兜太】 岩波書店 より
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我星はどこに旅寝や天の川
江戸にいて俳諧旅の空をおもっているのである。夜空に天の川が濃くながれて、すでに
夏も終る気配。---〈あの星のなかに俺の星もいるにちがいない。そいつはどのあたりか
な。天の川のどのあたりで旅寝していることやら。〉
一茶には似た句が多い。この句によく似たもの三句をあげてみよう。
我星はどこにどうして天の川 (五十歳)
我星は今は旅寝や天の川 (五十九歳)
我星はひとりかも寝ん天の川 (六十歳)
五十歳の作は、『七番日記』文化九年(一八一二)のところと、同年一年間だけの句文集(文
化十一年の記事もすこし混じる)『株番』にあり、五十九歳の句は、『八番日記』文政四年
(一八二一)、六十歳のものは、『文政句帖』文政五年(一八二二)のところにある。掲記の句を
含めて、四句とも発想が酷似し、中七字音の措辞が身軽に変化している。
然り、身軽に変化している。前に出来ている句を推敲して次の句が出来上ったというふ
うな継続性が感じられないし、だいいち、以前の自句を念頭においていたのかどうかも疑
わしいくらいである。そのときその場の気持でつくっていて、発想の酷似などは気にせず、句形の
異同も意に介せずで、それぞれ独立の一句と受けとれるのである。
〈自己模倣〉という言い方が妥当かどうか。とにかく、過去の自句をまったく(あるい
はほとんど)意識しないでつくっていて、結果として自句の模倣(類句)になっている場合
と、はっきり承知で模倣している場合と、両様が一茶句には認められるが、これら「我
星」の句は前者である。そして、その意味での自己模倣ではあるが、いや、そうした自己
模倣であるだけに、それぞれの句に―ことにその句の出来たときの事情と照らし合わせ
て読むと、陰翳の異なった味わいが残る。そのときどきの活きた反映が、それぞれの句に微妙なニ
ューアンスを帯びてあるわけなのだ。
(〈自己模倣〉と〈推敲〉はいうまでもなく違う。それでも、自已模倣でつくっているも
のと、その都度推敲しているものとが、似た結実を示す揚合があること、これらの句例を
見てもわかる。しかし、結果は似ても、句姿の相違はあきらかなのだ。推敲といぇば芭蕉
をおもいだすが、芭蕉は類句を避け、推敲して止まなかった。歌仙の発句を、脇句以後の付合の句
から切り離して、一句として自立させて書留めるときにも、推敲していた。一茶
『西国紀行』余白書込みに「俳句」の語が見受けられるから、一茶の頃はすでに、歌仙の発句と自
立の一句の区別を承知していて、自立句を「俳句」と呼んでいたのだとおもうが、しかし発句と俳
句を異なる句姿のものと見て推敲することはほとんどなかったようだ。芭
蕉はそこをやっていたのである。芭蕉一千句、蕪村二千句に対して、一茶句約二万といわ
れているが、その多作の理由の一端が一茶流の身軽な自已模倣にあったことも承知できよ
う)
一茶の自己模倣には、ときとしてそのときの状態の生きた反映があり、これらの句にも
ある、といま述べたが、それを手短かにたどってみたい。
まず五十歳の句だが、この年柏原に帰郷定着する。気持に寛ろぎが見えはじめていて、
それが初老意識を呼びこんでもいた。〈「どこにどうして」いるのやら〉といった義太夫の
一節でも口遊むような言い方には、ことさらに初老めかした、おどけた調子が覗く。
五十九歳の正月は、中風で半身不随だったのが快癒して、「蘇生坊」などと称して大喜
びしていたが、二男には死なれるし、妻は痛風で長く寝込むしで、なんとしても老いを意
識しないわけにはいかなかった。〈ただいま旅寝。もう寝ておりますわい〉と極め付けて
いう気分は、四十一歳のときの「どこに旅寝や」の感傷とはずいふん遠い。
六十歳の正月は「荒凡夫」などと書きつけて、開きなおって余生を生きょうとしていた。妻は病
みがち。弟子廻りもままならず孤寂の念争いがたしだった。「ひとりかも寝ん」は
軽く冗談めかしているが、本音なのだ。
以上のょうなぐあいである。終りに自己模倣とまではいぇないが、発想の根の同じ作で、私が好
きな句を挙げておく。
我星は上総の空をうろつくか (四十二歳)
房総のそんなに高くない山の連なりと海の匂いが伝わる。「うろつくか」は実感。ここからここ
へ、といった真直ぐな旅をしていたわけではなかったのである。
一茶にこんな書留めがある。「笑ふ星あり、うらむさまあり。皆それぞれ哀楽はかの思にありて祭
らるゝ星なるべし。我星は、」(『文化句帖』文化元年七月の末尾に)
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人は旅見度(みたう)なうても草の露
「立秋」の日の句で、上総の富津に着く。
立秋や旅止まくと思ふ間に
おく露やことしの盆は上総山
などの句も記してある。〈こんな旅なんざあ止めちまおうか、とおもっているうちに、ま
た立秋になってしまった。〉〈露がおりているな。もう盆か。ことしの盆は上総の山を眺めながらと
いうことになってしまったな。おやじが死んでもう四年だなあ〉
お盆で立秋。そして露。そして旅先。一茶はしみじみとわが身の「旅」をおもい草におりた露
のはかなさを引きくらべるのである。〈人間なんて所詮旅の一生さ。草の露と同じようにはかない
ものさ。そんな露なんか見たくないなんていったって、露の命に変わりはないのさ。〉
句意はすこし理屈めくが、「見度なうても」という言い方に一茶の面目がある。葛飾や上総の野
路を足早やに歩いてゆくときのリズム惑で、話しことばを五七調にのせていたのである。いや、そ
うおもえるくらいに五七調と話しことばのリズミカルな諧和がある。そのせいだろう、「草の露」
が理屈のかたまりに終らないで、コロコロところがる。具体的に、露そのものの印象で、草の上に
光っている。
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けさ秋ぞ秋ぞと大の男哉
一茶には〈大男〉を皮肉っぽくからかった句が多い。また、〈大〉の字を讃辞に遣うことはまず
ない。蛍のような可愛い生きものでも、大きな蛍となると次のように皮肉な喩えに使われてしまう。
世が直るなをるとでかい蛍かな (梅塵抄録本)
しかし掲記の句の「大の男」には珍しくも皮肉の色が薄いのである。むろん、〈大男〉と「大の
男」とは違うことで、片や〈体の大きな男〉、こちらは「年の長じた男」のこと
だから比較にはならない。したがつて「大」の語感で診断するわけだが、この場合はからかいが十
分に込められつつも、皮肉っぽいところはまことに少ない。
〈今朝は秋だぞ、秋になったぞ、と、子供ならいざしらず、大の男が触れ回っているぜ。止しぁ
いいのにとおもうんだが、それにしてもいい朝だな。秋がきたんだ。〉
省略が効いていて、すこし抽象味さえ帯びた映像を見ている印象がある。一茶の感性が冴えてい
るときで、当然のこと心情の安定を得ていた。こういうときは皮肉は無関係。
(付記)すこし心情が翳ってくると、
けさ秋と合点でとぶかのべの蝶 (七番日記)
けさ秋と云ばかりでも小淋しき (同)
といったぐあいに湿ってきて、愚痴っぽく皮肉っぽく神経質になって、句柄も小さくなる。
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水上は皆菫かよ角田川
〈上流の武蔵野は一面の菫の花かもしれねえぞ。いや、もっと川上の秩父の山合も菫で
いっぱいかもしれねえ。隅田川よ、すまして流れているが菫の花の谷間や野原が水上に
置いてあるなんて、味なことだぜ。〉
一茶の感性の基本のやわらかさ、そして庶民風な着意を味わうべし。さらに私は、一茶
のなかに、人買に連れ去られた愛児梅若丸を狂い尋ねて都から下った女が、隅田川でわが
子の死を知る、能の狂女物が記憶されていて、死の梅若丸と一面の董の花を重ねた映像が
あったのではないか、と勘繰ったりもしている。そう推量したくなるような、可憐で艶な
雰囲気がこの句にはある。
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夕暮や蚊が啼出してうつくしき
『七番日記』文化八年(一八一一)三月のところには、「夕空や蚊が鳴出してうつくしき」
と記されているが、それから二か月後の一瓢と巻いた両吟歌仙(一瓢編『物見塚記』所収)では、
掲記の句を発句としている。これは意識して修正したものではあるまい。「夕暮」でも「夕
空」でもどちらでも、の気軽な気持の結果とおもう。
一瓢は、江戸谷中の日蓮宗本行寺の二十代住職で、一茶より八歳年下だったが、二人は
じつによく気が合っていた。一茶は月四、五回は本行寺にゆき、柏原に帰ったあとでも、
江戸にでてきたときはかならず立寄り、ときには薙髪さえ受けていた。
その一瓢は一茶五十五歳のとき伊豆玉沢の妙法華寺に移り、約二十年経って、京都の日
蓮宗大本山妙顕寺第四十四代の法灯を嗣いだ。そしてそれから二年後に江戸に戻り、本行
寺で遷化している。したがって、一茶と一瓢の交際は一茶五十五歳までだったが、一茶は一瓢
の句風から並並ならぬ影響を受けていた。なんというか、二人の体質が似ていたのではないか
とおもう。二人の詩質には兄弟のような似かよいがあった、と言ってもょい。
この句に付けた一瓢の付味を見ただけでも、それが惑じられるのである。初折表六句を書き
写しておく。
夕暮や蚊が啼出してうつくしき 一茶
すゞしいものは赤いてうちん 一瓢
露しぐれはらはら松も宝にて 茶
筆一本に秋は来にけり 瓢
月かげの翌日は湖水のなきやうに 茶
蒲団の下へ草鞋かいこむ 瓢
〈夏の夕暮はなかなかのものだが、蚊がなきだして、それが耳にかすかに聞こえるとき
なんかは、なんともいえず美しいものだ。〉 一茶がこうつくったときの一瓢の脇句は、一茶本
人の付句ではないかとおもえるほどに、「うつくし」に添って「すゞし」.「赤」など
と共通した感覚が重なっていて、おもわずその情景に引きこまれるほどなのである。一茶
の第三も流麗。一瓢はその秋の気分をためらいなくいっぱいに受け取る。だから誘われるょう
に漂泊のおもいを募らせて、湖水をもかき消すほどの月明を一茶は画いてしまう。どこまでも
歩いてゆけそうな月光の山野のひろがり。一瓢の付けは、その漂泊心を汲みとり、具体化し、
相共に秋の旅路をゆくがごとし。
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夕不二に尻を並べてなく蛙
一茶の富士山の句は、すべてが視角に特徴をもっている。富士の見方が〈奇〉と言えて、こ
の句以外にも、たとえば次のようなものがあった。
なの花のとつぱづれ也ふじの山 (七番日記)
巨燵より見ればぞ不二もふじの山 (同)
朝富士の天窓(あたま)へ投る早苗哉(希杖本)
こう並べて見て、一茶と同時代の葛飾北斎「富嶽三十六景」、「富嶽百景」をおもい浮べる
ことはたやすい。〈似た視角〉を十分に覚えるのである。「なの花」の句を、「富嶽三十
六景」中の「神奈川沖波裏」に似ていると指摘したのは、栗山理一 『小林一茶』(筑摩書房)
だった。「とっぱづれ」は新潟県頸城地方の方言で「過失」の意(東京堂出版『全国方言辞
典』)だから、菜の花畑のはずれのほう、それも<とんでもなくはずれたあたり>というふうに
受け取れて、栗山氏の類似の指摘が納得できる。私などはそのほかの、たとえば、「江戸
日本橋」やら「本所立川」あたりにより一層の類似を承知するのである。
掲記の夕富士を背景に尻をならべてゲロゲロ鳴きたてている蛙の句も、構図の上で似た
北斎の絵が随分ある。句の夕富士はかなりに大きく、近景の蛙どももかなりに大きい。そ
の対照の妙(滑稽味)がこの句の魅力だが、絵のほうでは、蛙ではなく鶴が近景に画かれて
いる「相州梅沢左」(「左」は彫り師の誤刻で「在」が正しいようだ)をおもいだす。しかし
この絵には滑稽味はない。それよりも、「五百らかん寺さざゐどう」の見晴台にいる人た
ちを蛙にしたら似た感じになるのではないか。富士がすこし遠すぎるが、台上の人たちの
姿態にはそのまま蛙にしてもよいような滑稽味がある。
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そば時や月のしなのゝ善光寺
文化九年(一八一二)は一茶の帰郷定住の年だったが、十一月下旬に正式に帰郷する前に一度、
かれは郷里に足を運んでいる。六月十二日に江戸をでて、八月十八日に帰る、約二か月間の滞在
だったが、いょいょとなっての瀬踏みだったか。一茶にはこの種の慎重さがあるわけなのだ。
そのときの句で、旧暦八月ともなれば、この土地の蕎麦の収穫期が近づいてくる。柏原
在住の一茶研究者清水哲から聞いた話だが、この地力では、七月の終りから八月のはじめ
にかけて蕎麦の種子をまき、ほぼ八十日間で収穫する。その間、黒姫高原の霧はふかく、
したがって、蕎麦は霧のなかで育ち、霧に濡れて花を咲かせ、そして実を結ぶ。そこから
「霧下そば」の名があるそうである。「霧の味がするはずです」と清水は笑った。
今日は月明だった。霧は黒姫、飯綱、妙高の富士火山系北限の三山や、野尻湖東方の斑
尾山やらの打ち重なる山山にあらかたが去って、高原は月光を浴びていた。十五夜もちか
い。<蕎麦どきだなあ>とおもい、月と信濃と善光寺と、三題噺ならぬ四題噺のように重
ねて、〈おらが国だなあ。〉ともおもう。
そして、こんな和やかなかたちで<ふるさとのうた>がでてきた自分の心情の今を、一
茶はまったく久しぶりの気持で眺めていたのである。
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笛吹いて白露いはふ在所哉
この「在所」は、単にざいごうとか田舎とかと読まず、くにもと、それも〈田舎のくにもと
(ふるさと)〉と読みたい。この句も前句同様、夏から秋にかけての帰郷のときにでき
たもので、「在所」という言い方に和やかな寛ろいだ心情が覗いている。
それにしても、「笛吹いて白露いはふ」という感受の素撲さよ豊かさょ。たちどころに、柏
原の町並や路傍の草ばかりでなく黒姫高原全体にきらめく白露のひろがりが浮かぶ。そして、
どこからともなく流れてくる笛の音。一茶のアニミズムは、白露を神仏のごとくに感受しつつ、
笛の音をそれへの手向にするわざ(法楽)と感応していたのだろうが、「いは
ふ(祝う)」といったもともとは目的を感じさせることばが、逆にまったく無目的な無造作
な笛の音の流れを感じさせるところが、この句の美しさでもある。
一茶に露の句は多く、五十歳あたりからはとくに好句が多い。一茶お好みの天然の事物
の一つだったのだ。好句のいくつかを挙げておきたい。
いびつでも露の白玉白玉ぞ (七番日記)
露の玉つまんで見たるわらべ哉 (八番日記)
うら窓に露の玉ちるひゞき哉 (文政句帖)
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春立や菰もかぶらず五十年
この句を読んで先ずおもいおこすのが、芭蕉の「薦を着て誰人います花のはる」である。これ
についての普通の解釈は、西行法師の『撰集抄』を引用したりして、「乞食の中にりっぱな世捨
人のいることもある。そこに菰をかぶっている人ょ、もしや元は身分あるど
なた様かではないでしょうか」(少学館『日本古典文学全集.松尾芭蕉集』)ということなのである。
これでもよいのだが、一歩立ち入って、その人の「元の身分」などよりは、「菰をかぶる」(い
ま菰をかぶってそこにいる)こと自体への讃辞――というょりはそれを羨んで見せる心
意ーーと私は受け取りたいのである。芭蕉は「菰をかぶる」ことにいわば理想の状態を思
想していたと私は見ている。
これでまた直ちにおもうのは、「栖去之弁」のなかの周知の結語、「なし得たり、風情終
に菰をかぶらんとは」である。この場合も、俳諧一筋の果てに菰をかぶる(乞食となる)という受
け取りかたょりも、菰をかぶる状態になってはじめて、真に「風情」を得る、と受け取りたい。名
利一切を捨てて〈こころ一と筋〉になったとき、精神はひらけ、詩が見えてくる。芭蕉の求めてい
た俳諧は、談林派のそれではなくて、言うなれば<詩と俳諧の結合>(〈談林俳諧に詩の肝を入れ
る〉こと)だったから、その〈詩〉の真姿は菰をかぶらずしては得られず、と思想していたと私は
受け取る。
一茶は齢五十に達した正月のいま、芭蕉のその考えに抵抗しつつ生きてきて、しかし、師の竹阿
の「抑々蕉門の俳諧は第一世法也。」ということばを噛みしめながら、芭蕉さんも分っていたのだ、
と頻りに自分に言いきかせつづけてきたことをおもいかえしていたのである。この句、平たく受け
取れば、〈芭蕉さんは菰をかぶりたがっていたが、俺なんざあそう考えただけでも野垂死にしてし
まうょ。とにかくお飯をいただくことが第一。まあ五十年間、乞食もしねえで生きてこられて、よか
ったよかった〉
しかし、そう言いながらも一茶には竹阿の言を手掛りにした次の理解があったということ。
〈芭蕉さんはこころ一と筋になることを理想にはしていたが、俳諧と言うものは孤高のものでは
なく、俗にまみれるところにあるものなりとも重重承知していた。奥の細道からはとくに俗にまみ
れつつこころを生かす道が本当の俳諧とおもうようになっていたから、「高悟帰俗」だとか、「不
易流行」なぞと言うようになったのさ。乞食になるということも、乞食になって俗世間をうろつく
ことで、俗世間から逃げることではなかったのだ。〉
〈そうなれば、自分のこころの持ち方の問題で、なにも乞食になる必要はない。必要がないど
ころか、毎日のお飯をきちんといただく道を講じて、つまり世間のなかで暮してゆく道を固めて、
それでこころ一と筋を貫ければ、これに越したことはない。いや、そのほうが貫きやすいかもしれ
ぬ。芭蕉さんはそのことも承知していたと俺はおもうぜ。それが「第一世法」さ。芭蕉さんと同じ
頃に上島鬼貫と言う偉え俳諧師がいて、芭蕉さんより早く、「まことの外に俳諧なし」と言ったと
いうんだが、あの人はひどい貧乏で、生き様に怪しいところがぁったと言う人もいるくらいだ。そ
れでは本当の俳諧にならないと芭蕉さんは見通していたんだとおもうよ。〉
そうおもいながらも、一茶のなかに皮肉っぽい眼がきらりと光る。芭蕉が「薦を着て誰
人います花のはる」とつくれるのは、当時すでに有名人で、坐っていてもお弟子が面倒み
てくれていて絶対に菰をかぶる心配のない状態だったからだ、とおもう。〈図図しい話
さ〉とも。そこへゆくと自分は、「秋の風乞食は我を見くらぶる」(文化句帖)で、とても比較
にはならないから芭蕉のような句はできない。
〈おっととと、「芭蕉翁の臑をかぢって夕涼」(七番日記)。悪口を言っちゃあいけねえ。素
直に、さっきのように考えていねえといけねえ。〉
一茶は同じとき、次のようにつくってもいたのである。帰郷の年を迎えての、〈なし得
たり〉の満足感も少しずつ湧いてきていた。
春立や先(まづ)人間の五十年
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嗅で見てよしにする也猫の恋
「猫の恋」は春の季題。猫の交尾期は年四回あるが、春が著しいので、当季の季題とはなった。
その「うかれ猫」雌雄を見ている一茶の眼のにこやかさよと言いたい。この句相手を嗅いでみて、
プイッと横をむいて付き合いを止めてしまった猫のことなのである。じっさいにこんな場面を見た
ことのある私は、おもわず〈旨い〉と手をたたいてしまう。恋猫はことに一茶のアニミズムを満足
させるものだったようだ。諧謔味溢れる(フモーリッヒな)数句を左に。
こがれ猫恋気ちがいと見ゆる也 (八番日記)
縛れて鼾かく也猫の恋 (同)
大猫や呼出しに来て作り声 (文政句帖)
恋猫や互に天窓(あたま)はりながら (同)
雨の夜や勘当されし猫の恋 (同)
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牛モウモウモウと霧から出たりけり
一茶はこの「モウモウモウ」のような畳語の遣い力が得意であり、さらには、擬音語
(擬声、擬態語をまとめてこう言いたい)を多用且つ多産している。対象と交感するままに、
その生きた感応をそのまま句に移そうとして、そうした書き方(ことばの遣い方)になるの
だ。ーーーこの句、ことばで書いてこれほどリアルに描けるものかとおもうほどに生ま生ま
しい。畳語成功である。
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死ぬ山を目利しておく時雨哉
<時雨が山から山へと伝わるように移ってゆく。まるで死ぬときはどの山で死のうかと、
鑑定しているょうだ。>ーーそして胸のなかではこうもおもっている。〈時雨も一所不住の
旅をつづけているわけだから、とんでもないところで野垂死にするのを気にしているのさ。
死ぬならこの山と決めておいて、そこで死にたいのさ>
一茶は時雨を擬人化しているのだが、擬人化すべく擬人化した(そうした技術的なエ夫を
凝した)のではなく、はじめから時雨は一茶にとっては生きものであって、生きものとして
親和的に交感しているうちに、こういう句ができてきたのである。したがって、こう言いな
がら、からかい気味に時雨を見ているー茶のすこしおどけた眼が覗く。それがいかにも親し
げでもある。
この句を読んで二つのことが承知できる。一つは、「時雨」に漂泊のおもいを託してきた
日本文学の伝統である。宗祇は「世にふるもさらにしぐれのやどり哉」とうたい、芭蕉はこ
れを受け継ぐょうに、「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」ともじった(本歌取)。旅に住
した宗祇の日日のこころは即ち「しぐれのやどり」であり、旅をもとめる芭蕉の日常を占め
ていたものもそのこころだったから、難なく「しぐれ」を「宗祇」に置きかえることがで
きたのである。そして、芭蕉を敬愛していた蕪村も、先達の内奥に連なりつつ、「目の前に
昔を見する時雨哉」とつくっていた。
一茶のこの句の時雨にもその伝統が込められている。「漂泊六年也」(七番日記)のお
もい
を噛みながら帰住の地を踏んだ一茶である。時雨に会うたびに、先人たちのおもいをおもう
ところがあったはずだ。
しかし一茶は、時雨を漂泊の喩そのものとして書こうとはしなかった。漂泊のこころを喩
えるものとしてではなく、天然の一現象(一茶にとっては好もしき生きものの一つ)として
描きとっていたのである。ここにも、観念より事実に就き、伝統的美意識より現実への即物
的姿勢にかたむく一茶の<現実派>ともいえる特色が見えるわけだが、この特色は一茶だけ
ではなく、化政期らしい特色と言ってもよい。したがって、この句でもそうだが、一茶の時
雨は、すくなくとも中興俳諧期あたりまでの時雨とは、一と味違う興趣を帯びはじめていた
のである。ーー次のものなどは、一現象(生きものの一つ)としての時雨の感如実の句と言え
よう。
雀らが仲間割する時雨哉 (文政句帖)
近道のむかふへ廻るしぐれ哉 (同)
一時雨人追つめてもどりけり (同)
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けし提て喧嘩の中を通りけり
文政八年(一八二五)、六十三歳の作。同時期に、「けし提て群集の中を通りけり」もある
が、「群集」では韻律が鈍る。「けし」「ケン嘩」の乾いたひびき合いに人間たちの顔があ
り、その人たちに向けた一茶の諧謔がある。「群集」ということばは、どこかで見かけた
ものを遣ってみただけのことだったろう。
一茶の「荒凡夫」に徹しようとするこころの自由さが受け取れる句で、私は、この活気、
この明るい諧謔、そして、芥子の花の赤の美しさを好む。一茶の代表作と見ている。
私はこの句について、かつてこう書いたことがあった「蕪村に.葱買て枯木の中を通
りけり・がある。葱の青と枯木色の対照を褒める人が多いが、私は葱のスーッした視覚
と触覚が、枯木のなかをゆく感じーー洗練された心理的感覚を読むべきだとおもう。
一茶にも、この句が頭にあったのではなかろうか。そして意識して、芥子と喧嘩をぶつける
ことによって、洗練された心理風景に対して、荒い生臭い心理を演出したのではないだろうか。
ともかく、二人の作風の相違が見えておもしろい句だ。」(河出書房新社『日本の古典22
・良寛.一茶』)
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