https://gogo-miyagi.com/187 【「仙台城(青葉城)」伊達政宗が築いた最後の砦!仙台のお城巡り⑥】 より
2021/03/31 更新
戦国時代は武将として、江戸時代には仙台藩の為政者として、数々の戦歴や功績を残した伊達政宗。そんな政宗が造営した仙台城は、明治維新までの約260年間、藩政の中心地として機能し、歴代藩主が住んでいました。そんな仙台城跡の見どころや、歴史をご紹介します。
いまや仙台市の観光名所となっている「仙台城(せんだいじょう)跡」。
およそ420年前の戦国時代末期、奥羽(現在の東北)の戦国武将・伊達政宗(だて まさむね)公が造営したお城です。
仙台城を紹介する前に、まずは政宗公の生涯をざっくりご紹介します。
戦国時代後期の永禄10年(1567)、現在の山形県米沢で生まれた伊達政宗公。
幼少期に天然痘にかかり右目を失明、これが後世に独眼竜と呼ばれる所以となります。
天正12年(1584年)18歳で一族の当主となると、次々と勢力を拡大させていきます。
そして家督相続からわずか5年で、伊達氏の歴史史上最大の領土を得て、※南奥羽(山形県、宮城県、福島県の一部)の覇権を握りました。
その後1590年の小田原合戦を機に、豊臣秀吉、そして徳川家康に服属します。
表向きは天下人の指示に従っていた政宗公ですが、混乱に乗じて領土拡大を図るなど、天下への野心を燃やし続けていました。
江戸時代では、国内統治に長けた名君
江戸時代になると、政宗公は仙台藩62万石を治める初代仙台藩藩主となります。
それまで戦を指揮していた政宗公ですが、政治家としての手腕も備えていました。
城下町の整備や治水工事も行うなど、藩の事業を拡大させていきます。
とくに新田開発に力を注ぎ、江戸が急激な人口増加で米不足になった際は、仙台領の米を江戸に出荷し、江戸の米消費量の3分の1を仙台藩米が賄っていた、という話があるほど。
幕府が開かれたことで江戸の人口増加する、と先を読んでいたからこそ、政宗公はいち早く新田開発に取りかかったのではないか? とも言われています。
現代に政宗公がいたら、すごい経営者になっていたかも…。
戦国時代は武将として、平和になった江戸時代には為政者として、数々の功績を残した政宗公。
寛永13年(1636)政宗公は満70年の生涯を、江戸城下の藩邸で閉じます。隠居することなく、生涯現役を貫きました。
政宗公は「いつ」「なぜ」「この場所に」仙台城を築いたのか?
仙台城 本丸跡
撮影:筆者(仙台城本丸跡からの眺め)
現在の仙台市青葉区川内にある青葉山(あおばやま)に築かれた「仙台城」。幕末までのおよそ260年余、藩政の中心地として機能していました。
では政宗公は、いつ、なぜ、この場所に仙台城を築こうと決めたのでしょうか? その理由を紐解いていきたいと思います。
仙台城が造営される前、政宗公は現在の宮城県大崎市にある「岩出山城」を居城としていました。岩出山城については、下の記事をご覧ください。
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慶長5年(1600)※関ヶ原の戦い後、政宗公は徳川家康の許可を得て「仙台城」の築城をはじめます。
同年、青葉山で縄張(城の設計)をはじめ、地名を千代→仙臺(新字体は仙台)と改めました。
城の縄張とともに城下町の町割を行い、領民を岩出山から移住させたそうです。
そして翌年の慶長7年(1602)年に仙台城は一応完成したとされ、慶長8年(1603)に政宗公が入城します。
※関ヶ原の戦い…豊臣家の天下を守りたい石田三成(西軍)と、ひそかに天下を狙う徳川家康(東軍)が衝突した戦い。東軍の勝利で終わる。伊達氏は徳川についた。
なぜ「仙台城」をつくった?
中央で徳川家康と石田三成が激突した、1600年の関ヶ原の戦い。
このとき奥州では、のちに”北の関ヶ原”と呼ばれる、徳川側の伊達氏と反徳川である会津の上杉氏による戦が起こっていました。
この戦いの最中、政宗公はもともと伊達氏の領地であった「白石城(しろいしじょう)」を、上杉氏から奪還しています。
その後関ヶ原合戦の勝敗を聞き、上杉氏は撤退。政宗公は再び起こるであろう上杉氏との合戦に備え、山城が必要だと考えたようです。(実際は起こりませんでした)
なぜ「仙台」を選んだ?
岩出山城は領地の北に位置していたため、領主として統治するのにいささか不便な地でした。
そこで政宗公は、領地のほぼ中央に位置する仙台に目をつけます。
奥羽街道に接しており交通の便がいい、なおかつ広大な仙台平野を前に控えた地形は、大都市への発展の可能性が備わっていました。
仙台は経済の中心地としても適しており、領主の居城として十分な条件がそろっていたのです。
なぜ「青葉山」を選んだ?
さらに青葉山は、天然の要害でした。西、南、北の3方向は、人も馬も通れない山林が生い茂り、大軍が攻めてくると思われる東側は、高さ64mの断崖が続いています。
しかも崖の前には広瀬川が流れ、天然の堀となっており、守りやすく攻め難い「山城」にうってつけの場所だったのです。
しかし江戸時代になると、仙台城の砦としての機能は不要となり、平野部に二の丸、三の丸が造営されます。
以降、本丸が使われる頻度は減り、政務や居住は二の丸が中心となりました。
仙台城の規模と現在の姿
仙台城の広さは、東西約245m、南北約267m。坪数では約2万坪といわれ、当時としてはかなり大規模な城だったようです。
本丸には、詰ノ門左右に脇櫓(わきやぐら)、東北の隅に艮櫓(うしとらやぐら)、東南の隅に巽櫓(たつみやぐら)など三重の櫓、西には酉ノ門(とりのもん)の二重櫓が建てられ、藩主としての権威を示しました。。
大手門は二階建の瓦葺屋根、脇櫓は一部二階建で、壁や柱を白漆喰(しろしっくい)で塗りこめた総白壁造でした。
両方とも昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和42年に脇櫓のみが再建され、在りし日の仙台城を現在に伝えています。
■大手門の復元計画が進行中
大手門脇櫓と道路
出典:PIXTA(大手門の脇櫓)
仙台市教育委員会は、2020年11月に仙台城跡の2021年度~2038年度の整備基本計画で、最終年度までに大手門復元の中間案を公表しました。
2031年度に復元整備の基本設計に着手し、完成まで最長7年を見込むとしています。
郡仙台市長は大手門復元に関し「気持ちとしては、仙台藩祖伊達政宗の没後400年の節目を迎える、2036年度に復元を完了できればいい」とコメントしました。
2021年度から大手門跡地周辺を含む一帯の発掘調査に初めて着手するそうです。
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