https://fragie.exblog.jp/29606301/ 【追悼とお祝いと。】 より
2月22日(木) 旧正月 旧暦1月7日
今日の新聞は金子兜太氏の追悼の記事が掲載されていた。
讀賣新聞の宇多喜代子さんと朝日新聞の長谷川櫂さんの「追悼」を抜粋して紹介したい。
歳のはなれた長谷川櫂さんは、俳人・金子兜太という俳人とその時代をあざやかに分析してみせた。歳のいくぶん近い宇多喜代子さんは、あふれる思いをおさえつつその人と俳句の魅力について触れている。
長谷川櫂さんのタイトルは「乾いた詩情 戦後俳句を開く」
(略)振り返れば金子兜太九十八歳の生涯は大きく二つに分かれる。まず社会性俳句、前衛俳句の旗手として戦後俳句の境涯を広げてきた「昭和の兜太」。その後、人間としての生き方や戦争・原発について発言をつづけた「平成の兜太」である。私はこの二十年近く毎週金曜日、朝日俳壇の選句会で会って話をした。話題は俳句や文学より四方山の人物評から昨今の世相、国内外の政治問題まで、思えばじつに楽しい時間だった。
そこから浮かび上がる兜太という人は世間で思われているような豪快な野人ではなく、むしろ繊細な神経の持ち主である。青年時代の兜太の書を見たことがあるが、それは後年の肉太の書ではなく、腺の細いインテリの書だった。その自分の繊細さに対する反発、そして肉付け、いわば自己改造がのちに太っ腹な兜太を出現させたのではなかったか。
(略)
晩年、兜太は高齢化社会の老人たちのアイドルにされる。この事態に直面して兜太は自分を「存在者」と定義し直した。人間は戦争で犬死にしたりせず、何もしなくても生き永らえるだけで尊いという考え方である。
これが草木岩石すべてに命が宿るという日本の原始的な宇宙観に通じることはいうまでもない。重要なのはそれが理想を見いだせぬまま欲望を肯定してきた戦後の価値観に形を与え、迷える老人たち、誰より自分を励まそうとしたものだったということだろう。
宇多さんのタイトルは「俳句への愛惜 戦友への鎮魂」
(略)
「自分は俳句の塊」という俳句への愛惜の気持も、戦場に果てた戦友への鎮魂も、一茶への憧憬も、糞尿譚も、みな同じ重量感をもって金子兜太の肉体となってゆく。金子兜太の存在の魅力とは、圧倒的な重量感と愚直な人間性の発露にあった。ただの豪放磊落な人物というのではなく、驚くほどに繊細な優しさがあってこそのものであった。
そんな存在感と兜太本人以外だれにもわからない戦場体験に裏打ちされた俳句は、いわゆる俳句らしい技法や既成の美学を吹き飛ばすような切り口で人間の真ん中に立って、戦後七十年余を生きてきた。いまや戦争体験者も少なくなったが、生涯を通して戦場体験を句作の根幹において作句しつづけた俳人は金子兜太を最後にいなくなった、そういってもいいのではないか。
(略)
私世代が若かった日、かまびすしい話題となった「前衛俳句」の金子兜太、時代に敏感な俳句作品を発表しつづけた金子兜太、俳壇の外でその名や句が語られるときの金子兜太、産土(うぶすな)を語り、秩父音頭を唄う日の金子兜太、どれもみな百年を生きた人間金子兜太でそのものであり、太い杭であった。
濃厚に生きて、俳句の歴史、時代の歴史に太い杭を打ち込んだ金子兜太に、こころからの経緯を捧げ、感謝と哀悼の意を捧げたい。
以下句集『少年』より何句か抄出する。
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
独楽廻る青葉の地上妻は産みに
舌は帆柱のけぞる吾子と夕陽をゆく
縄跳びの純潔の額を組織すべし
屋上に洗濯の妻空母海に
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ
夕方頃、池田澄子さんがお電話をくださった。
対談集『金子兜太×池田澄子 兜太百句を読む』のことに話がおよんだ。
「あの本については、もう無我夢中だったけれど、今思うとあの本を出せて良かったってつくづく思ってるわ」と池田澄子さん。
「思いきって兜太先生にぶつかってお願いしたことが良かったです」とわたし。
池田さんが兜太さんより昨年の7月に貰った最後のハガキには、こう書かれていたと。
「あなたのユニークさに案外気づかない人が多い。残念」
「そんな風に思ってて下さったんだ……」と池田さん。
さて、昨晩は二次会のおいしい赤ワインを飲み過ぎてすっかいいい気持になって帰ってきたのはいいが、すでに午前零時を大きくまわっていた。
追悼とお祝いと。_f0071480_19122297.jpg
選考委員の高橋睦郎氏と山口昭男氏(右)
以下は高橋睦郎氏の選考のことばより。
(略)山口昭男句集『木簡』。昨年一年間に出版された詩集・歌集・句集中の白眉だ。次にとくに心に残った七句を並べよう。
鳥の目のぼんやりとある深雪(みゆき)かな
東(ひんがし)の空の色なる杜若(かきつばた)
仏壇も仏も洗ひ家暑し
爐開(ろびらき)の雨粒ならば少し尖(とが)る
蒲団(ふとん)より綿の見えたる涅槃(ねはん)かな
三人で運ぶ絨毯百千鳥(ももちどり)
空海の真白き肌(はだえ)蘆(あし)の角
ついでにいえば、この句たちの無欲さ・純潔さは、実作者が知らず知らず身につけている手垢(てあか)、読者が気づかず持っている目垢を洗い流してくれる。そんな清品は、文学全体を見渡してもめったにない。
山口昭男氏のご挨拶は、二人の師について語った。
二人の師とは、波多野爽波と田中裕明。
「田中裕明」という名前が山口さんの口をとおして讀賣文學賞の受賞パーティの広い会場に響き渡ると、わたしの心も震えるような思いがしたのだった。
山口昭男さま、そしてご家族の皆さま、ご受賞まことにおめでとうございました。
版元青磁社の永田淳さんは京都からいらして昨夜は大手町にお泊まりだとのこと。
ワインを飲みながら、出版社をやっていくことの大変さや楽しさを話すことになった。
二次会も果て、東京の地図はよく分からないというので、帰りは同じ方向ゆえに大手町までご一緒することにした。
「わたし、大丈夫わかるから」と言って、またおしゃべりをしながら地下鉄にのったのだけど、あららら、反対方向に乗ってしまった。
「ごめんなさい、反対に乗っちゃったみたい」
淳さんは全然怒らない。むしろ恐縮している。
で、電車を乗り換えてふたたび本作りのことに夢中になりながら話をし、大手町で「ここよ」って偉そうに教えて、わたしは帰ってきたのである。
仙川駅を降りたら、すでに12時を過ぎているので驚いてしまった。
まだ10時頃だと思っていたのだった。
わたしは版元でもないのに二次会に呼んでくださって、「あれっ、yamaokaさん、なんでいるの」と言われれば、
「永田さんの営業活動をじゃましにきたの」って言ってすましていた。
それでも淳さんは嫌な顔ひとつしない。
著者のご受賞は版元にとっても嬉しいこと。
永田淳さま、ご受賞おめでとうございました。
句集『木簡』 たくさん売れますように。。。。
今日はいろいろとお客さまが多い日であったのだが、夕方に来られたお客さまは、
歌代幸子(うたしろ・さちこ)さん
と言って、ノンフィクション作家の方である。
何回かお電話をいただき、ふらんす堂の本も買っていただいている。
いま「新潮45」という雑誌で「100歳の肖像」という連載をやっていてその記事を担当されているのだ。
その10回目が後藤比奈夫氏である。
先日、比奈夫先生のお宅まで行ってお目にかかって取材をされてきた。
「ふらんす堂さんでは、ずいぶん後藤比奈夫氏の句集などを刊行されていますよね。後藤先生のことについてもう少し聞きたいことがあるので、是非時間をつくってください」という取材の申し入れがあったのだ。
で、今日いらっしゃった次第である。
「俳句については門外漢なので、いろいろと知りたいこともあって」ということだが、「わたしがお答えできるでしょうか」とこっちも自信がない。
(すごく苦手……)
参考になりそうな資料などをあつめて応対することにした。(というか話していた途中で、気づいたのだが)
それでも2時間ほどいろいろとお話して、お帰りになられたのだった。
歌代幸子さん。
ノンフィクション作家として著書がある。
著書に『音羽「お受験」殺人』『精子提供―父親を知らない子どもたち』『慶應幼稚舎の流儀』など。
比奈夫先生の記事は、「新潮45」の四月号に掲載される予定。
ちょうど桜が咲くころである。
「それは、良かった。桜の季節に本がでるとは 比奈夫先生にふさわしい! 楽しみです」と申しあげたのだった。
花に一会花に一会と老いけらし 比奈夫
0コメント