https://gendaihaiku.gr.jp/column/2001/ 【れんぎょうに巨鯨の影の月日かな 金子兜太 評者: 松本勇二】 より
第十一句集「皆之」に所収された一句。連翹の黄色がまずは目に浮かぶ。その黄色は春真っ盛りを象徴する黄色だ。それに合わせたのが巨鯨の影。このスケールの大きさは兜太先生でないと書けない大きさでまさに面目躍如。また、この二者の距離感は読む者に途方もなく大きな空間を与えてくれる。感覚で繋いだ二物で、先生の多くの二物配合の句の中でもその壮大さは抜きんでている。下五の「月日かな」に時間の経過がうかがえる。先生六十七歳のころの作品なので、海程を率いてかなりの年数を経ている。先生の意識の中に巨鯨の影がいつも見え隠れしていた。その巨鯨はトラック島から引き上げる時に見た、或いは想像した巨鯨ではなかったろうか。引き上げてからも時折その巨鯨の映像が頭を過っていたのかもしれない。青鮫が来ていた庭に鯨も来ていたようだ。感覚で書けと言われた先生の顔が浮かんで消えない。
平成十五年海程会賞受賞のときいただいた色紙が当該句である。筆者四十六歳で三人の子育て真っ最中であった。巨鯨の影を自己に投影し、こじんまりせず大きく大きくと言い聞かせながら俳句も仕事も子育てもやっていた。俳句に生かされていることを少なからず意識したのもこの頃であったように思う。この句を先生が書かれた年齢までまだ数年ある。先生がこの句を与えてくれたことを噛みしめ、この句のようにスケールの大きな人間でありたいと思っている。
※『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より
https://gendaihaiku.gr.jp/column/1999/ 【猪がきて空気を食べる春の峠 金子兜太 評者: 渡辺誠一郎】 より
大分前のことだが、秩父に足を運んだことがあった。武甲山を眺め、秩父神社に詣でた。秩父へ向かう列車に揺られながら、山並が遠くまで続く風景のなかに、ふとこの句の情景が思い浮かんだ。山並の稜線に猪の幻影を見たような気がした。
秩父は古くから多くの猪が生息する地である。日本武尊が東征した時に、猪を退治した故事にちなんだ猪狩神社がある。今も猪の肉は珍重され、牡丹鍋が秩父の名物である。
この句の猪の立つ峠には、春の気持ちの良い風が吹いている。兜太はアニミズムの世界に共感し、「生きもの感覚」を俳句の力とした。空気を食べるとは、まさに秩父という産土のエネルギーを体内にたらふく溜め込むかのようである。
兜太は〈おおかみに螢が一つ付いていた〉など、狼の句を数多く詠んでいる。しかし日本狼は絶滅したが、猪は日常的に身近な存在であった。兜太には、土の臭いのする猪の方が良く似合っている。その意味で、この峠に立つ猪の存在は、兜太自身の姿とも重なってくる。俳句の世界において、社会性俳句・前衛俳句、そして反戦の活動と、亡くなるまでエネルギッシュに生きた兜太の存在は、まさに猪突猛進の猪の姿そのものであった。風貌やその振舞いからも、兜太は猪族であったのだ。
この句のように、兜太が秩父の空気をたらふく食べて、俳句の世界への繰り出して来たように想像してみるのも可笑しくも楽しい。
※『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より
https://gendaihaiku.gr.jp/column/1997/ 【両手挙げて人間美し野の投降 金子兜太 評者: 宮崎斗士】 より
一九七二年(昭和四十七年)発行、兜太の第四句集『暗緑地誌』所収の一句。
『暗緑地誌』のあとがきに「五年まえの夏、緑林と田の熊谷に移った。(中略)それから現在まで、東京とのあいだを往来し、日本列島のどこかを歩き、地球上の戦争を憎んできた。そしていつか、私のなかに暗緑地誌の語が熟した」とある。また兜太は後に『暗緑地誌』のことを振り返りつつ「高度成長期という時代に対する私の反時代意識というものがあった。反措定。暗い時代だという思いがあったんです。モノがどんどん出てきてみんな豊かになるけれど、これで人間の心というものはいいのかなと思ったんだ。生な人間というものをもういっぺん見直さなければいかんということだ」と述べている。
掲句では、投降する者を非難するわけでもなく哀れむわけでもなく、ただ「美し」と捉えている。「そうだ、それでいいんだ」という兜太の端然とした、そして慈愛に満ちた眼差しが読む者のこころに深く沁みてくる。また下五「野の」とすることで人間と大自然との強い交わりを詠ったとも解釈できよう。それもまた人間の一つの生な姿である。
生涯の俳句活動において、人間のあるべき姿を追求し続けた兜太―。
掲句は、後に兜太が提唱する「存在者」というキーワード……「存在者とは〈そのまま〉で生きている人間」にも通じる、まさに兜太ならではの人間賛歌なのであろう。
※『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より
https://gendaihaiku.gr.jp/column/390/ 【湾曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太 評者: 高岡 修】 より
他誌の同様の特集にも書いたことだが「金子兜太の一句」とするとき、私はどうしても掲出の句を選ばざるをえない。西東三鬼の、
広島や卵食ふとき口ひらく
とともに、戦後を代表する俳句としているからである。
偶然だが、共に無季である。私が意図して無季作品を選んだわけではない。
では、この二句に時間的な要素は含まれていないのだろうか。いやいや、そんなことはない。恐るべき詩的現実の一瞬は、むしろ永遠性をさえ獲得しようとしている。
あえて三鬼作品から照らすなら、この俳句が提示しているのは三つの時制である。すなわち、広島=死者の世界=過去、口=生の世界=現在、卵=未生の世界=未来、という具合である。
つまり、死者の世界である広島で、未生の世界である卵を、生の世界である口が食うという構図である。原爆が投下された広島でないかぎり、卵を食う口が、これほど異様に照らし出されることはない。まさに詩的に異化された光景の具現と化している。
兜太作品も同じ構図なのだと言える。爆心地である長崎で、くねくねとマラソンしているのは生者だけではない。全身が彎曲し、ずるりと皮膚の剝げた死者も走りつづけている。そんなにも懸命に死者たちは何処に行こうとしているのか。再生の場所としての未来である。結局、掲出句にも永遠にも似た壮大な三つの時制が現前しているのである。
※『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より
https://gendaihaiku.gr.jp/column/49/ 【合歓の花君と別れてうろつくよ 金子兜太 評者: 池田澄子】 より
兜太の一句を選ぶのは難しい。所謂、代表句と言いたい作が余りにも多いからだ。そのことをもって金子兜太なのだと思う。
俳句の主題も、言葉の種類も、言葉の使い方、表現法も様々で、夫々の魅力を発散している。そのことが、時代と正面から向き合って生き、向き合って俳句を詠み続けた金子兜太という俳人の特長なのだと思う。
「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」の第二、第三の人生の始まり、「霧の村石を投うらば父母散らん」の産土への思い。「熊飢えたり柿がつがつと食うて撃たれ」の現代の地球との対峙。その中での極めて個人的日常の思い、極めて正直な大の男の情が、掲句にある。
少し前までの主題にはなかった、それまではあまり見せなかった、普通の一人の男の極めて個人的な思いの吐露。恥ずかしげもなく呟かれた個人的妻恋の呟きが、そのことをもって個人を離れる。俳人としての、若くはない大の男の、普遍的な姿を見せる。
平凡とも言えるそのことによって、個人の思いは個を離れる。呟きが作品になる。妻に先立たれて「うろつく」男は世に多いだろうけれど、「君と別れてうろつくよ」と呟いた男は多くはない。例え「うろつく」日々であっても、そのことを言葉に移すことを思いつかない。それほどには意識しないのが普通の男。
「合歓の花」という言葉を付け加えることで、個人の妻恋いの情が、作品としてこの世に定着し、残った。
※『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より
https://gendaihaiku.gr.jp/column/383/ 【よく眠る夢の枯野が青むまで 金子兜太 評者: 恩田侑布子】 より
初読のとき、兜太の辞世だ、と直感した。現実の死までにはまだ二十年もあったが、兜太の俳諧自由は、八十を前に自分自身に引導を渡していたのである。
すぐ連想するのは芭蕉の終焉の
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
であり、最期まで推敲を重ねた
清滝や波に散込青松葉
である。前句は藁色と金色のあやなす枯野にうす墨の翳がこもり、後句は散り松葉を吸う清滝川の青水沫が凄愴の気をもたらす。どちらも文学の妄執ここに極まれりといった感覚の冴えがあり、沈痛な声がせまる。
では、兜太はどうか。くったくもなく眠るのである。寝入り端に出てきた「夢の枯野」さえ忘れ果てて、一っ飛びに千年万年を熟睡する。季節は次々に巡り、春から初夏へ野山は一斉に緑のひかりをほとばしらせよう。
輪廻転生は古代インド思想が有名だが、古代ギリシャにも古代中国にもあった。万葉集でも大伴旅人は歌う。〈この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ〉現世の快楽主義は転生などものかはだ。
兜太は、彫心鏤骨の芭蕉からもエピキュリアンの旅人からも遠い。トラック島の筆舌に尽くせぬ戦争体験に二十代で侵襲された男である。終生〈青春の十五年戦争の狐火〉につき纏われた永遠の「少年」が、狐火ならぬ、無傷の青草と無心な青野の生を願い続けたとしても、そこになんの不思議があろうか。
※『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より
https://gendaihaiku.gr.jp/column/576/ 【青春の「十五年戦争」の狐火 金子兜太 評者: 大牧 広】 より
「十五年戦争」、資源をまるで持っていない日本が資源獲得のため米英に戦争しかけた財閥のため長の自己保身のため、自分の国の弱さ貧しさを顧みず昭和六年の満州事変から昭和二十年の敗戦の日のまでを「十五年戦争」と呼ばれるのであった。
十五年戦争を「大東亜戦争」を今でも呼ぶ人が居るが、この言葉は、当時の首相東條英機が「大東亜共栄圏」なる妄想に近い構想を打ち出した時の言葉で、今でもその言い方をする年配者に会うと、プロパガンダの恐しさを、つくづくと考える。
さて、掲分の「狐火」、これが平和論者であった金子兜太が、みごとに、十五年戦争の「恐しさ、むなしさ」の気持がこめられていてまさに「狐火」なのである。
金子兜太は青春の何年か、この「十五年戦争」にひっぱられた。トラック島に派遣されたのである。
戦争に必須な「兵器」という意識が全く欠落していた事の上層部、ゆえに、兵隊達は紙のように白くなって可哀想でしたし、と事あるたびに話されていて、金子兜太のやさしい心情がつねに、こめられていた。
戦争はまさに狐火、それも強いものにおもねり弱い者を虐げる。ちょうど、今の政治そのものと言わざるを得ない「狐火」であった。
※『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より
https://gendaihaiku.gr.jp/column/584/ 【梅咲いて庭中に青鮫が来ている 金子兜太 評者: 柿本多映】より
『遊牧集』所収。掲句を初めて読んだとき、その強靭なイメージに息を飲んだのだった。一句の中の青鮫と白梅、シュールな絵画を眼の前にしているような不思議な感動におそわれたのを覚えている。
兜太氏は掲句について「戸を開けると白梅。気が付くと庭は海底のような青い空気に包まれていた。春が来た、命満つ、と思ったとき、海の生き物でいちばん好きな鮫、なかでも精悍な青鮫が、庭のあちこちに泳いでいたのである。」と述べている。(金子兜太自選自解99句)。
この時、兜太氏は単に人を食う鮫としてではなく〈生〉あるものの命の象徴として、生命力そのものとして、具現しているのだ。白梅も命の象徴なのである。
ふと私は、自解の「海底のような青い空気」に兜太氏の心底を重ねている自分に気付かされる。青鮫、それは魂そのものであったのだ。掲句はトラック島の海に果てた兵士へ、いや自他ともへの鎮魂であり、「青鮫」は魂の矜持としての兜太自身でもあろう。
昨年八月、「戦あるな人喰い鮫の宴あるな」に出会う。この鮫は明らかに人喰い鮫である。この叫びにも似た金子兜太のメッセージこそ、形式を越えたころで俳句を書きつづけた兜太氏が、身をもって示した最後のメッセージとなった。金子兜太という俳人は、そのような人であった。
※『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より
https://gendaihaiku.gr.jp/column/738/ 【谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな 金子兜太 評者: 大畑等】 より
金子兜太自身色紙によく書く句。今日多くの人の眼に触れている。エネルギッシュな印象もあいまって、「性的なほのめかしも感じられる」との評も見受けられる。しかし、それは違う。この句は性歌なのである。この句は金子兜太句集『暗黒地誌』(1972年11月1日刊)に掲載されているが、連作「古代胯間抄十一句」のなかの一句なのである。その十一句は次の通り。
泡白き谷川越えの吾妹(わぎも)かな
雉高く落日に鳴く浴みどき
胯深く青草敷きの浴みかな
森深く桃色乳房夕かげり
髪を噛む尾長恥毛(しもげ)に草じらみ
陰(ほと)しめる浴みのあとの微光かな
黒葭や中の奧処の夕じめり
唾粘り胯間ひろらに花宴(はなうたげ)
谷音や水根匂いの張る乳房
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな
瞼燃え遠嶺夜空を時渡る
かつてこの十一句を読み、琴線ならぬ銅鑼のような野太いリズムが響いたことを思い出す。世に有名なのは「谷に鯉・・・ 」であるが、全句を鑑賞すると鯉とは何であり、谷とは何であるか、曖昧さがない。ぎりぎりのところで(短詩型)文学として成立している緊張感を読み取ることが出来るのである。これら十一句の情景から、歌垣のあとの性の交わりや父権制婚姻形態以前の共婚にまで遡ることが出来そうだ。最初の一句は古代歌謡で言う恋歌であるが、その他の句は性歌と言って良い。1960年代の熱気が性の表現を越えて伝わってくるのである。
※金子兜太先生を偲び、2015年03月16日現代俳句データベースコラムから再掲載いたしました。
https://gendaihaiku.gr.jp/column/741/ 【無神の旅あかつき岬をマッチで燃し 金子兜太 評者: 松田ひろむ】 より
母親にとって、子供はいくつになっても子供という。
ここでは「与太」といいながら、わが子を眼を細めて見ている様がうかがわれる。
作者もまた「与太」と言われることに満足している風が楽しい。
「夏の山国」と、ややぶっきらぼうに置かれた季語が、おおらかで言い換えれば、いかにも「与太」らしい。(「与太」は東京落語の与太郎から出た言葉。)
この句には書かれていないが、すでに百歳を超えた母なのだ。
次の句のように老母と言いながら、それがテーマになる幸せ。
老母指せば蛇の体の笑うなり
蟬時雨餅肌(もちはだ)の母百二歳
おうおうと童女の老母夏の家
白餅(しろもち)の裸の老母手を挙げる
この句には谷佳紀の鑑賞があった。「久々に訪ねてみれば、開け放された家の中で、搗きたての餅のようにふっくらぺちょんと坐り、暑さを避けている裸の老母。おお来たか、私は元気だよというようにふんわり手を挙げた。」(「海程」)とあるが、いかにも白餅がいい。兜太(とうた)の母は、蛇・蟬時雨・裸といつも夏の風景のなかで笑っている。
※金子兜太先生を偲び、2004年の現代俳句データベースコラムから再掲載いたしました。
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