https://otenki-bosai.seesaa.net/article/a64627992.html【私論:月山(6)…芭蕉、月山を詠む
俳句、川柳 月山 芭蕉 松尾芭蕉 奥の細道 雲の峰 出羽三山】 より
松尾芭蕉が出羽三山の主峰:月山(がっさん、1984m)に登頂したのは1689(元禄2)年の新暦7月22日とされる。夏の季語でもある《雲の峰》‥つまり「入道雲(積乱雲)」は夏の風物詩だから、芭蕉が月山を詠んだ『雲の峰 幾つ崩れて 月の山』については毎年7月22日頃になると巷のお天気キャスターが本句を引用して解説する。一部は本人のブログやSNSにも展開・保存されているだろうから、その内容については何時でも検証可能だが、マウンダ―極小期を持ち出すなど面目躍如とばかりに盛られた解説の中には読むに堪えない内容が多い。それは芭蕉崇拝者や俳句フリークらのホームページ等に掲載されている意訳についても同様だ。今回は『おくのほそ道(奥の細道)』で芭蕉が月山(つきのやま)を詠んだ本句に関し、気象アナリスト・月山を愛する登山者‥の一人として筆者の解釈を展開する。然らば本編は私論:月山の『肝』でもある。
まずはじめに『奥の細道』から月山登拝に関する章(抄)を以下に転載する。
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八日、月山にのぼる 木綿しめ身に引かけ、 宝冠に頭を包み、 強力と云うものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏みてのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こゞえて頂上に至れば、日没して月顕わる 笹を鋪き、篠を枕として、臥て明るを待つ日出て雲消れば、湯殿に下る谷の傍に鍛治小屋と云有 此国の鍛治霊水を撰て、爰に潔斎して劔を打、終に月山と銘を切て世に賞せらる 彼龍泉に剣を淬とかや 干将莫耶のむかしをしたふ 道に堪能の執あさからぬ事しられたり 岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり ふり積む雪の下に埋れて、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし 炎天の梅花爰にかほるがごとし 行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ 惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず 仍て筆をとゞめて記さず 坊に帰れば、阿闍利の需めに依て、三山順礼の句々短冊に書く
『涼しさや ほの三か月の 羽黒山』『雲の峯 幾つ崩れて 月の山』『語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな』
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この抄において月山登拝が「八日」とあるが、実際には「六日」だった。注目すべきは『雲の峰‥』の句が月山の下山後まもなく完成していることだ。芭蕉は羽黒山の別当代理である阿闍利[あじゃり]に揮毫した三句の短冊を謹呈している。
※これらの短冊は、現在いずれも山形美術館(山形市)に収蔵されている.
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■桃青詠『雲の峰‥』の根底に胚胎する感慨
俳聖:芭蕉が著した『奥の細道』は紀行句文集の最高峰とされる。それによると松尾芭蕉と随行した門人:曽良(そら)の出羽三山滞在は7泊8日(旧暦:6月3~10日)の長きに及び、月山登頂はその中日に相当する4日目(同6日)に実行されたようだ。この日程から芭蕉の出羽三山参詣が月山登拝を中心に企てられていたことが容易に判る。恐らく月山は松尾芭蕉自身にとって、それまでに登頂した何処の山岳よりも高く、“難行の極致”との自覚もあったことだろう。
今般、筆者が月山で出逢う若い男性登山者の中にはトレッキングポール(ストック)を巧みに操りながら走るように過ぎて行く軽装の猛者がいる。聞けば‥日中のうちに蔵王と月山を踏破し、今夜は鳥海山の5合目で車中泊‥などとドヤ顔で答える。たぶんNHK-BSP《ザ・グレート・トラバース》などの悪影響であろうが、プロアドベンチャーレーサーの田中陽希氏は車など一切使っていない。それは松尾芭蕉一行も同様で、当時は現在のような装備(=軽量のトレイルシューズ、筋疲労を軽減する加圧式トレッキングタイツ)など望むべくもなかった。
しかも芭蕉は月山登拝のみが目的だったのではない。齢46にして湯殿山本宮を折り返し点とする全行程約30㎞の出羽三山縦走に挑んだのだ。つまり『雲の峰 幾つ崩れて 月の山』の根底には、まず《この難行への感慨》が胚胎している。
■昔の月山は今よりも賑わっていた
『辞世ならざるはなし…』などと断られてしまうと死をも覚悟せねばならない危険で孤独な長旅を想像してしまうが、少なくとも芭蕉が訪れた当時の月山は出羽三山詣での登拝者で大いに賑わっていた。特に《表参道》とも言える羽黒口(はぐろぐち)は一合目の海道坂、二合目の大満、三合目の神子石…など各所に茶屋が置かれ、七合目の合清水までは馬が通っていたという。
当時の芭蕉は既に俳諧の大師匠‥つまり《著名人》ゆえ、恐らく合清水(七合目)までは馬上の人であっただろう。今となっては藪漕ぎ必至の難所:東普陀落(ひがしふだらく)も、当時は下草が刈られ、今より歩き易かったと考えられる。更に月山山頂には月山神社の門前に数件の掛小屋(宿泊施設)が犇めき合っていた。現代と異なり、多様性に乏しい元禄の社会に在って、西の熊野と双璧を成す東の出羽三山は篤い信仰を集める《一大テーマパーク》であり、まして夏ともなると東北・関東からの登拝者が絶えることはなかった。
■即応の俳句と推敲を重ねた紀行文の合体
芭蕉の出羽三山巡礼の日程を新暦に読み替え、当時の月暦(月齢)を調べてみると、羽黒山を詠んだ『涼しさや ほの三か月の 羽黒山』は確かに三日月であったことが判明する。従って、その3日後の月山山頂からは六日月が望めたことになる。
紀行句文集『奥の細道』には…
…息絶え身こゞえて頂上に至れば、日没して月顕わる…
‥とある。盛夏(新暦:7月22日)の時期に六日月が「顕われる」のは南中から西に傾き始める夕方以降だ。曽良の随行日記によれば芭蕉一行が山頂に到着したのは15時半頃らしく、このタイミングでは六日月は認識できない。つまり上記の原文(抄)は早々に完成していた『雲の峰‥』の句に対し、紀行句文集の推敲の段において月山の月との親和性を強調するために著者が演出した部分だろう。
本句『雲の峰‥』における季語:雲の峰は、幾度となく湧き上がっては崩れる入道雲によって時間の長さ(→月山登頂の辛さ)を表現している。さらに『峰のような雲』と『月のような山』を対照することにより月山の円かさ(実際の月山山頂は訪れる者に高原に近い印象を与え、初登頂の芭蕉は拍子抜けしたかも…)を強調している。
■当ブログ管理人による『雲の峰…』の訳
芭蕉が月山を詠んだ句に関し、筆者が説明したい背景は尽きないのだが、本編もだいぶ長くなっているので、読み疲れされないうちに筆者の解釈を述べたい。
『雲の峰 幾つ崩れて 月の山』(桃青)
〔当ブログ管理人による訳〕
立ち昇っては崩れる入道雲を幾度となく遣り過ごしても、霊峰:月山の頂上は一向に見えてこない。難所を廻り氷雪を踏みしめながら疲労困憊の暁に辿りついた月山の頂上は、果たして此処が頂上なのかと思うほど円かで、遠くの山並みを霞めて立ち昇る雲の峰々とは全く対照的だ。疲れた体を伸ばしながら天を仰げば、すでに六日月がその姿を顕わしている。
なお、上に記した解釈の転載・引用にあたってはクレジットとして、必ず、収録元である『気象・歳時・防災 サロン』に加え『芭蕉,月山を詠む』を明記すること。
《参考》巷で『雲の峰‥』はどう意訳されているか?
・学研全訳古語辞典・
[訳] 昼間、峰のように高くそびえ立つ入道雲が、いったい幾つ湧(わ)き立っては消えていっただろう。今、空には月がかかり、月山(がつさん)だけが神々しい姿を見せている。
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・芭蕉庵ドットコム・
[訳]昼間の陽射しの中で、猛々しく起立していた雲の峰はいつしか崩れ、今は、薄明かりに照らされた月の山が嫋(たお)やかに横たえているばかりであるよ。
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・Yahoo!JAPAN知恵袋(質問への回答)・
[意味]これは、出羽三山のひとつ月山の光景を詠んだ句ですね。
月山は、なだらかな稜線を描く優美な山ですが、雲の峰という隠喩を通じて、この山は雲が幾つ流れゆく間にこのような姿になったのだろうかという侘びの世界を表したのではないでしょうか。
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・奥の細道 朗読・
[意味]空に峰のようにそびえる入道雲が、いくつ崩れてこの月山となったのだろう。天のものが崩れて地上に降りたとしか思えない、雄大な月山のたたずまいだ。
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・奥の細道仮想旅行・
[句意]昼間立っていた高い雲の峰が、いくつ崩れまた立って、この夕月の月山になったものか。
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・芭蕉DBおくのほそ道・
[訳]入道雲がいくつもいくつも沸き上がってはその姿を崩して行く。そういう千変万化する世界の中で月山がすっくと不動の姿で屹立している。芭蕉一行は、月山の全景の見える位置に立って、入道雲と残雪をいただく月山を視界に入れているのであろう。
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