龍門の滝付近

https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2016/04/post-d6ba.html 【「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 龍門の花や上戸の土産にせん / 酒のみに語らんか斯かる瀧の花 芭蕉】 より

本日  2016年 4月21日 貞享5年 3月21日はグレゴリオ暦で 1688年 4月21日

 龍門

龍門の花や上戸(じやうご)の土産(つと)にせん

酒のみに語らんか斯かる瀧の花

「笈の小文」。吉野の龍門岳の南麓を流れる吉野川の支流に懸る瀧。現在、奈良県吉野郡旧龍門村、現在は同郡吉野町内にある。ここには室町期までは龍門寺という寺があり、その後背たる龍門山は古代に於いては神仙境とされ、「龍門山」の初見は「懐風藻」でそこに神仙境の地として登場するとウィキの「龍門寺跡」にあり、さらに、昌泰四(九〇一)年頃に『生存し、自らも仙人と称された天台の陽勝によれば、龍門寺には「大伴仙・安曇(あつみ)仙・久米仙」の』三人の『仙人がいたと伝えている。特に久米の仙人にはユニークな逸話が残る』ことは御存じの通りである。諸注は瀧と酒を愛した李白を念頭に置いた句とするが、私は寧ろ、前句「雲雀より空にやすらふ峠かな」の天馬の逍遙遊をさらに李白から遊仙へと向かわせ、この同巧の句を敢えて並べて、俗界からこれから向かう吉野を、完全に遮断する障壁と成したのではないかと秘かに思うのである。


http://www.enyatotto.com/saigyou/saigyou.htm 【西行さんと歩く】 より

 紀伊山地を遊び場にしていると、西行(1118-1190年)さんによく出会う。吉野山、大峰奥駈、高野山、天野、熊野などなど。よく出会うといっても、平安末期の歌人が残した歌を刻んだ歌碑だとかその昔結んだ庵跡など、かすかな足跡にすぎない。

 そうした残像も、これまでは私の意識の中に留まらずスルーしてきたが、ある時、佐藤義教という北面の武士の存在を知った。なんでも平清盛と 同い年で同じ釜の飯を食っていたエリート武士集団の一人。あと、かの待賢門院と恋に落ちたとかどうとか。出家後の義教は 円位あるいは西行と名乗り、全国を行脚する。各地で逗留することも多く、 とりわけ吉野の桜への思いは尋常でない。吉野山から面々とつながる大峰奥駈にも、二度チャレンジしている。歌人としても秀で藤原定家と対比されることも多いが、かの芭蕉も西行の足跡を訪ねるなかで『奥の細道』を著したとか。

 彼の足跡を知れば知るほど人間としての面白さや魅力が増し、いつしか彼の人となりや行動を詳しく追いかけたくなった。短歌や俳句の素養がない私にとって、西行の歌はとても難解で、追体験にも苦労するが、とりあえず『山家集』を持って800余年後のその場に立つ。


http://www.enyatotto.com/yamato/kume/kume.htm 【いつの世にも久米仙人】 より

龍門の滝付近に建つ

 『今昔物語集』巻11第24話に、「久米仙人始造久米寺語(久米仙人が久米寺を造る物語)」というのがある。この物語を要約すると以下の通りとなる。

【今昔物語集】久米仙人始造久米寺語(要約) ※平安時代末期作

 昔々、久米という男が、仙人になるための秘術を会得するため、吉野の竜門寺で修行していた。やがて、空を飛ぶ術を身につけ吉野川の川べりを飛んでいると、若い女が脛まで衣をまくり上げ川を洗濯していた。その女の真っ白なふくらはぎを見て、久米仙人は心乱れ女の前に墜落した。久米は、その女を妻にめとり、神通力も消えた普通の男として暮らした。

 やがて、都の造営に役夫としてかりだされた久米だが、まわりが彼のことを「仙人、仙人」と呼んでいるのを役人が不思議に思った。彼の過去を聞き出した役人に対し、都造りのためにもう一度仙人の術を取り戻す努力をしてみましょうと、久米は道場に籠もった。8日目の朝、突然空が曇り、闇夜のようになり、激しく雨が降った。神通力を取り戻した久米によって、大中小の材木が空を飛び造営地にどんどん運ばれて行った。

 この話を聞いた天皇は喜び、久米に免田三十町を与えた。この免田をもとに大きな伽藍の寺を建てたのが久米寺である。

 苦難の末に会得したキャリアや地位、財産も、色恋によってすべて失ってしまうという話は、今昔問わず人間の性である。まして、仙人でさえ、洗濯する女性の見え隠れする足元に心奪われたとなると、世の男性にとってもなぜかホッとする話だが、久米仙の場合、その女性と結婚もし、さらに起死回生のオチまでついているのは、さすが元仙人である。

 このようにこの逸話はずいぶん人々の心をくすぐったのか、話の枝葉を変えながらも『本朝神仙伝』や『徒然草』など様々な古典にも見られる。

【本朝神仙伝】久米仙 ※平安時代後期作

 天平年中、和州吉野郡竜門山の窟に三人の神仙、大伴の仙、安曇の仙、毛堅の仙がいた。そのうち毛堅の仙(久米仙)は、久米河で布を洗う下女の股の色を見て、愛心を発して通力を失い、その女性と暮らし、東大寺建立の人夫とされる。十一面観音が頭上に現れる不思議を知った奉行が、通力で木材を運べと命じ、久米仙は通力で材木を飛ぶ鳥の如く運ぶ。久米仙の姿が消え、女性は仙を慕って身罷る。七日後、久米仙が姿を現し、呪して女性を生き返らせ、共に西を指して飛び去ったという。

【参考文献】『日本と中国の仙人』松田智弘・著

【徒然草】第八段 世の人の心まどはす事、色欲にはしかず ※14世紀前半作

 世の人の心まどはす事、色欲にはしかず。人の心はおろかなるものかな。匂ひなどはかりのものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ずときめきするものなり。

 久米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通を失ひけんは、誠に手足・はだへなどのきよらに、肥えあぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。

【久米仙人が落ちた場所】

 今となっては、どの話が原作なのかわからない。ただ、洗濯していた女性を見つけた場所を、吉野川とするもの(『今昔物語集』など)、久米川とするもの(『本朝神仙伝』など)、具体的な地名を明記しないもの(『徒然草』など)、さらには芋洗芝(芋洗い川)とするものまである。

 ただ、芋洗芝(芋洗い川)説は、江戸時代以降の作品(『和州巡覧記』『大和名所図会』など)で登場してきた話である。現在の久米寺の西約500mのところに「芋洗い地蔵尊」があるが、このあたりは「芋洗芝」と呼ばれ「芋洗い川」が流れていたという。ただ、この地蔵尊の由来には、「昔は疱瘡(天然痘)のことを“いも”と言い、集落の入り口や峠に“いも”が入って来ないようにとの願いからお地蔵さんを祀った」という説も見つけることができる。久米仙人が女性に心を乱し墜落した場所に「芋洗い芝」を結びつけたのは、「疱瘡(いも)洗い」「芋洗い」「妹洗い」という言葉の語呂合わせにのっかたものかもしれない。『西国三十三所名所図会』でも、後世に作られたものだろうと切り捨てている。

 久米川という名の川は、「大和川>曽我川>高取川>高取川の支流で久米寺付近を流れていた川」と想像する。

【久米仙人にかかわる寺院】

 話は、久米仙人が修行したという吉野の龍門寺に戻そう。この寺院は、7世紀後半、龍門山(竜門岳)の南に建立されたと伝えられており、金堂、三重塔、六角堂、僧房などの伽藍が立ち並んでいたようだ。1333(元弘3)年在銘の美しい「下乗石」が今も残っているが、龍門寺は応仁の乱以降廃寺となる。現在は、わずかに礎石などが認められ、いつしか建立された「久米仙人窟跡」銘の石碑が林道横に見られる。

 一方、『今昔物語集』では、天皇からのご褒美で久米仙人が久米寺を建立したとされているが、『和州久米寺流記』では聖徳太子の弟・来目皇子(くめのみこ)が開基とされとり、正確な詳細は不明である。ただ、久米寺としても久米仙人伝説との結びつきを 大切にしているようで、10月には久米仙人まつりが行われ、長寿や縁結びの祈願に久米仙人の絵馬なども見られる。

【余談・竿打仙】

 余談になるが、『本朝神仙伝』は大江匡房撰とされ、平安期の仙人観を知ることができる。そこには、久米仙など37人の仙人が紹介されているが、もう一人「竿打仙」の話が好きである。

 この人物は、俗骨で薬も効かず、修行の成果がなかなかついてこないという。なんとか獲得した神通力は、竿をもった子どもにたたき落とされかねない飛行能力だというのだ。この表現がとても面白く、 これまた仙人の俗っぽさに人間味を感じる。

【本朝神仙伝】竿打仙

 竿打ちの仙(ひじり)は、大和の國の人なりけり。仙の道を学べども俗骨猶し重くして、藥餌の力も施し難くぞありける。地を離れて飛べども、その高さ七八尺に過ぎざりしかば、年少き兒童ら、皆竿を捧げて追ひたり。故に此る名をぞ得たりける。その終つるところを知らざりけり。



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