儒教、仏教と芭蕉

http://taka.no.coocan.jp/a5/cgi-bin/dfrontpage/fudemakase/gyukyoutobasyou.htm 【芭蕉の精神形成 儒教、仏教と芭蕉     藤井 晴子   道草的俳句論】より

芭蕉の俳諧を理解するためには、どうしても、その根底をなす芭蕉の思想を理解しなければならない。否、むしろ、我々が本当に知りたいのは、実は、芭蕉という人間そのものではないだろうか。 そのためにこそ、芭蕉の俳諧を究明したく、彼の思想を知りたいのだ、と言った方が本当かも知れない。 とにかく、その思想を知る手ががりとして、私共は、俳句のほか芭蕉自身が書き遺した文章と、弟子が芭蕉の言行を書き留めたものと、芭蕉が同座した連句とを持っている訳である。 そこで、芭蕉の思想を調べるに当たって、最初に手をつけるべきことは、芭蕉に影響を与えた古人、古典が、どんなものであったかを知ることである。そこで私は、芭蕉が書いたとされている文章の中に引用されている古人・古典の名と、その引用回数を調べて見た。 その結果が、次の表である(省略)。なお、テキストとしては、角川文庫本『芭蕉俳文集』と、同じく、角川文庫本『芭蕉読本』中の文章篇のうち、前者と重複しないものとを用いた。 まず思想的な古典の中では、御覧の通り、荘子が圧倒的に多く、根元的な真実を尊重し、自己を束縛する一切のものから己を解放しようとする荘子の生き方が、芭蕉に与えたものに思い当たるのである。 従って、本稿の主題は、荘子が、芭蕉の人生観形成にどんな役割を果たしたかという問題になってくる訳であるが、その前に、芭蕉は何故、荘子以外の思想を受け容れることが少なかったのであろうかという疑問について考えてみなければならない。 

一、儒 教

 芭蕉は、主君蝉吟の歿後、京都に上って、北村季吟から、国文学一般について学んだことは、よく知られているが、当時、やはり京都で、儒者、伊藤坦庵(一六二三一一七〇八)から漢学を学んだということが、種々の伝記に書いてある。 伊藤坦庵というのは、人名辞典によれば、はじめ医術を以て業としていた人で、儒学を修め、中年以後は儒者となり、もっぱら朱子学を唱え、伊藤仁斉らと交っていたということである。 伊藤仁斉も、坦庵と同年輩の儒者で、京都、堀河派儒学の創設者であり、朱子学に飽き足らず、儒教のうちでも古学を提唱した人である。当時、江戸では朱子学が盛んであり、全国的に孔孟の教えが広められていたことであるから、芭蕉の周囲には、儒学が道徳の規準として厳存していた事は疑いのないところである。

 しかし、そのように風靡した孔孟の書物から、芭蕉はあまり語句をも、思想をも引用していない。引用回数は七回といっても、例えば、「嵐蘭を悼む詞」中にある「金革をしきねにして」(中庸)「文質片ならざるをもて君子のいさをしとす」(論語)などのように、単に文飾のための引用に過ぎないのである。

 閉関の説の冒頭の、色は君子の悪む所にして、仏も五戒の初めに置けりといへどもさすがに捨てがたき情のあやにくに、哀れなるかたがたも多かるべし。云々は、芭蕉が、どうしても儒教にも仏教にも共鳴ができない、帰依し得ないという告白と言えよう。

 このように、芭蕉が儒教に心惹かれなかった理由は、要するに、芭蕉は詩人であり、自分の感覚が納得しないことは受付けられない、自分のこころの真実をごまかすことができないという、感覚の潔癖性から来ているのではないだろうか、と私は想像するのである。

 孔子の説くところは立派である。しかし、誰がそれを実行したであろうか。人間のありのままの姿、人間社会の矛盾、葛藤を掘り下げたとき、人間の本性と、道徳との撞着を、どうにも解決できない苛立ちを感じたことであろう、と私は考えざるを得ないのである。

 そうして、中国の詩人達、杜甫、白楽天、陶淵明らに親しむうちに、そこに芭蕉は、もっと心の奥に触れるものを発見し、それらの詩人達の思想の底を流れる荘子流の自由闊達な思想に目をみはり、魅せられて行ったのではなかろうか。

 二、仏 教

 芭蕉は、三十歳の半ば頃、すでに円頂黒衣の姿であったというしその後旅に出るときは、頭陀袋を首からぶらさげ、雨よけのござを負い、鉄鉢と柱杖を携えていたというから、外見上は全く托鉢の僧と変らなかったらしい。

そして、正式に妻帯したことも無く、一人で庵で生活したり、旅に出たりする期間が永く、出家と同じ暮らし方であった。又、文章中にも「無情迅速の理いささかも忘るべきにあらず」(幻住庵記)と明言している。そして、生家、松尾家は、愛染院という寺を菩提寺としていて、そこの過去帳に、芭蕉桃青の名が明記してあるという。しかし、これらのことで、芭蕉が仏教を信じていたということはできない。私はむしろ、芭蕉の文章中には、その反対の結論を導き出すような個所が多いのに注目するのである。

かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やゝ病身人に倦んで、世を厭ひし人に似たり。つらつら年月の移りこし拙き身の科をおもふにある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身を責め、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にしてこの一筋につながる。(幻住庵記)

 「仏籬祖室」とは恵能禅師語録中の「吾三十ニシテ仏籬祖室ヲ窺フ」からの借用であり、仏籬は仏の教え、祖室は禅宗の祖である達磨大師の室の謂いである。

 芭蕉は元禄三年、四十七歳の年に、琵琶湖の畔、石山寺の近くに、ひとの住み捨てた庵があったのを借りて、そこに暫く滞在し、そうしてこの「幻住庵記」を書いたのであるが、その執筆にあたっては心血を注ぎ、門人、知友にも原稿を見せて意見を聴き、何回も書き改めたという。現在三種類の稿が遺っているが、比較してみると、前記のくだりについても、次のように二通りある。

 我しひて閑寂を好むとしなけれど、病身人に倦みて、世を厭ひし人に似たり。いかにぞや、法をも修せず、俗をもつとめず、仁にもつかず、義にもよらず、唯若き時より横ざまに好ける事ありて、暫く生涯のはかりごととさえなれば、万のことに心を入れず終に無能無才にして此の一筋につながる。云々

  かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。ただ病身人に倦みて、世を厭ひし人に似たり。何ぞや法をも修せず、俗をも努めず。いと若き時より横ざまに好ける事侍りて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、終に此の一筋につながれて無能無才を恥づるのみ。

 最初に掲げたのが、一番遅く書かれたものと言われているが、これら三種類をよくよく読み比べ味わうならば、当時としては大胆なと思われる程端的に、仏教に対する芭蕉の態度が表現されているし晩年の芭蕉の思想が想像できるというものである。

 芭蕉は遂に仏教に帰依しなかったのである。その理由を私は次のように考えている。

 徳川時代においては、仏教は、天台、真言など古い派に加えて、浄土宗、真宗、日蓮宗など新しい宗派が弘まり、禅宗の寺も、勢力を持っていた。(禅宗については、あとから、芭蕉との関係を述べなければならないが)とにかく、徳川幕府の政策によって、民衆はすべて、いずれかの寺院に属せしめられた。これは宗教を形式化することであった。

 このことも、芭蕉をして、仏教に対し、批判的な態度をとらしめた原因のーつとなっていたと考えられる。しかし、もっと根本的な理由は、禅宗以外の各派仏教の教義そのものと、風雅一途、文学至上主義的な芭蕉の人生観とは、全く相反するのである。

 文学と宗教は、乖離する運命にあるようだ。文学は常に、疑問から出発した真実の探究であり、それは極まるところのない旅である。

 これに反し、宗教は、人間の力で探究する権利を放棄して、神、仏に人間のすべてをあげて一任することである。それが帰依であり随順である。ところが、芭蕉はあくまで人間の権利を放棄しなかったのだ。どこまでも自分を信ずるのである。臨終の床にあってさえ念仏する代りに、自分の作品を推敲していたのである。

 ただ、仏教のうちでも禅宗には大分惹かれたと見え、仏頂禅師の許で参禅している。天和元年、三十八歳の頃、芭蕉庵と小名木川を距てて向い側にある臨川寺という寺に、仏頂禅師が、屡々、鹿島の根本寺から来て滞錫するので、芭蕉は師礼をとって参禅するようになったという。

 ところが、その後六年を経て、四十四歳の秋、鹿島神宮に詣でた芭蕉は、根本寺に仏頂禅師を訪ね、その折次の句を詠んでいる。

   寺 に ね て 誠 が ほ な る 月 見 哉

「ひるより雨しきりに降りて、月見るべくもあらず。麓に根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて此処におはしけると云ふを聞きて、尋ね入りて臥しぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけむ。云々」という本文に続いてこの句が載っているのだが、「深省を発せしむ」とは杜甫の詩よりの引用で、深く身を省みる気持になるの意味で、そのつもりで「寺にねて」の句を読むと、滑稽にも意味深長にも思われてくるではないか。芭蕉にとって、仏頂禅師は師であり、高徳の僧であるから、むろん尊敬もしていたであろう。

しかし、芭蕉の風雅を尊ぶこころとは今や少しばかり喰い違ってしまっていることを、芭蕉は自覚している。しかし、それを面に表してはならないので、懸命に真面目な顔をして月見をしている芭蕉を想像すると可笑しくなるではないか。

 禅について、私は僅かな知識しか持っていない。そこで、現天竜寺派管長で、しばしばマスコミに登場する関牧翁氏の著書からの受け売りであるが、禅と他の仏教諸派との違いは、信仰の対象を外に求めないことだそうである。自分自身の心を対象とするので信仰というより、悟りというべきである。お釈迦様は、本来、宇宙に遍満しているところの真理、自然の大道を、たまたま体得し、それを開示したに過ぎない。仏と言い、教えと言い、禅と言い宗と言うも、ただみな心の異名に過ぎないというのである。

 そうしてみると、芭蕉の考えに随分近いものらしい。しかし先にも引用した通り、幻住庵記に「仏籬祖室に入らむとせしも」入らなかった、と断言していることを思い出さねばならない。

 そこで思い当たるのが芭蕉四十八歳の作、次の一句である。

   稲 妻 に さ と ら ぬ 人 の 貴 さ よ

この句には前書として、「ある智識ののたまはく、なま禅大疵のもとひとかや、いとありがたく覚えて」とある。俳句として鑑賞するなら、余りに思考がそのまま露出しているので、一般には高く買われていない句であるが、芭蕉としては、どうしても言い止めて置きたい内容であったため、敢て、このままで遺したのではあるまいか。

 一句一句が全部芸術的に完成されたものであるより、こういう句を混ぜることによって、他の句の本意を読者に理解させるという意図も考えられることではないだろうか。

 この句について、加藤楸邨氏は次のように書いておられる。

実際、なまさとりの人は、自分の生半可の悟りに結びつけ、その考えに縛せられて、却って事象の真相を見失うことが多いのである。ところが、悟らぬ人は、事象を事象として見るので、却って事象をありのままに受容し、その本質を感得することが出来る訳である。稲妻を見て人生の無常にすぐ結びつけるよりも、稲妻を稲妻としてそれに感合し、それを感得する態度の方がずっと尊いと観じているのである。

 更に私見を加えさせていただくならば、私は、芭蕉は、生半可どころか、深い悟りすら拒否しているのではないかと思う。悟ってしまえば文学は終結する。それよりも、芭蕉は、中国の詩人達や西行が身を以て形づくる文学の大河の中に、自分も流れ込んで、共に永遠に流されて行く方を撰び取ったのではなかろうか。

 芭蕉の俳諧が禅の公案と関係があると説く学者もあるが、関係があったとしても、芭蕉は禅門に降ってはいなかった。

 むしろ、一休和尚におくった、その母親の手紙、

「釈迦、達磨をも奴となす程の者ならば、俗にても苦しからず候」という識見、抱負をこそ、芭蕉も抱いたのではなかろうか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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