https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20190826-409188.php 【【須賀川・玉川・乙字ケ滝】<五月雨は滝降うづむみかさ哉>二つの滝結ぶ】 より
長雨の影響で水が濁流となって流れ落ちる乙字ケ滝。江戸時代、阿武隈川を通る船便の難所とされ、サケやマスが遡上する陸奥のランドマークだった
夏の青空の下、長雨でかさを増した阿武隈川の水がどうっと流れ落ちる。須賀川市と玉川村の境にある乙字ケ滝だ。表情が険しい。轟音(ごうおん)が響く木立に身を置き、複雑にうごめく水をじっと眺めていると、われを忘れる。
滝のそば、「滝見不動堂」の傍らには、芭蕉の句碑が。
〈五月雨の滝降りうつむ水(み)かさ哉〉(長雨で滝が降り埋まるほどの水かさになっているだろうよ―の意。碑の句は、助詞と表記が底本「俳諧書留」と異なる)
滝の姿を活写しているようで感心するが、この場で詠んだ句ではないというから面白い。
船便最大の難所
松尾芭蕉と河合曽良が須賀川を出発したのは1689(元禄2)年4月29日(陽暦6月16日)。「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)に当日の記述はないが、芭蕉は守山(現郡山市守山)に向かう途中、この滝に立ち寄っている。
那須連峰旭岳から流れ来る阿武隈川は、ここで一度だけ滝となる。古くは「石河の滝」と呼ばれ、水が「乙の字」に落ちることから今の名が付いたそうだ。
幅は約100メートル、落差は約6メートルといったところか。江戸時代、船便最大の難所だった。滝の北側には船を通すために掘削した跡がある。漁も盛んで、遡上(そじょう)するサケやマスは白河藩への献上品になった。今や「小ナイアガラ」と称され「日本の滝百選」にも数えられる名勝だ。
だが、芭蕉は〈五月雨は滝降うづむみかさ哉〉(「俳諧書留」の表記)を乙字ケ滝で詠んでいない―といわれる。根拠は、曽良が記した「俳諧書留」にある。
この句を巡る書留の記述は「石河の滝といふあるよし。行て見ん事をおもひ催し侍れば、此比の雨にみかさ増りて、川を越す事かなはずといゝて止ければ」との前書に句を続け「案内せんといはれし等雲と云人のかたへかきてやられし」と続く。そう。句文を書いたのは、滝見物が増水で中止となった日、つまり実際に滝を訪れた29日より前のことだ。「日記」が示す天候を勘案すれば27日が妥当か。この日はというと、芭蕉たちは芹沢の滝(須賀川市五月雨にあったという滝。連載第17回参照)を訪ねている。
「書留」と「日記」27日の記事を照合すると案内人は等雲(吉田祐碩)。芭蕉に同行するのだから須賀川俳壇の重鎮の一人だろう。想像してみよう―。芭蕉を芹沢の滝に連れ「実はですね、『石河の滝』というこりゃすごい滝がありましてね」。「真打ち登場」と言わんばかりの等雲。芭蕉を前に鼻息が荒い。だが彼は間が悪かった。行く手を阻む川の水。肩を落とす等雲に芭蕉はそっと句を書き与える。〈五月雨は滝降りうづむ―〉。五月雨は芹沢の滝の地名でもある。うまい。悲嘆の涙が歓喜のそれに変わった―。
さて、令和元年夏の乙字ケ滝へ。
「濁流ですね」
カメラを手に訪れた夫婦は、ご機嫌斜めの滝に圧倒された様子。そばの自転車道をロードバイクとマラソン人(びと)が駆け抜けていく。不動堂の脇に、水が流れ出る井戸を見つけた。ひしゃくですくって手と顔を洗い、一口飲む。体の火照りが引いていく。
流されても建立
今、乙字ケ滝にある句碑は、芭蕉来訪から124年後の1813(文化10)年、須賀川の俳人石井雨考が、江戸の如意庵一阿なる人物の意を受け建てたとされる。
雨考は翌14年、句集「青かげ」を著した。亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)(須賀川出身の画家)が乙字ケ滝を描いた「陸奥国石川郡大隈瀧芭蕉翁碑之図」(市立博物館所蔵)はその挿絵。この二人、隣人同士だったというから驚きだ。画面の繊細かつ躍動感に満ちた滝から一度目をそらそう。神は細部に宿る。左脇に不動堂、傍らの細長い碑が「芭蕉翁碑」。陸奥の名所に俳聖の足跡が加わった。
一方、一阿と雨考の8年前、京都の一之坊という人物が、〈五月雨の〉の句碑を建てたとの記録が残る。川に流された後引き揚げられ、巡り巡って今は同博物館にある。表面が粗く碑文が読めないのが惜しい。流されても建てる。芭蕉ファンの意地と底力を見た。
芭蕉は乙字ケ滝を目にしたが、句は残さなかった。「日記」によると、この日は久々の快晴。晴天の下、眼下に広がる「滝降うづむ」ような光景に改めて詠む必要を感じなかったのか、あるいは無粋と思ったか。二つの滝をつなぐ一句。何とも粋な置き土産だ。
須賀川・玉川・乙字ケ滝
【 道標 】プライド懸けた勝負
須賀川は俳句のまち。その歴史をたどると、松尾芭蕉の「おくのほそ道」に突き当たります。芭蕉は須賀川に7泊8日滞在し、須賀川の俳人と親交を温めながら句を詠んでいます。芭蕉が須賀川に滞在していなければ須賀川が「俳句のまち」と言われることはなかったかもしれません。
芭蕉と曽良が須賀川に入ったのは1689(元禄2)年。須賀川は白河藩に属し、往来が盛んな物資の集散地として発展していました。この中で、町人文化として芽生えていたのが俳諧です。須賀川の俳諧は、芭蕉の来訪を機に隆盛の道をたどります。元禄時代、須賀川には俳人とされる人物が28人いました。その中心が芭蕉をもてなした相楽(さがら)等躬(とうきゅう)です。芭蕉と等躬はともに松永貞徳の孫弟子に当たり、旧知の仲でした。
「ほそ道」原文で、等躬に「白河の関いかにこえつるや」と問われた芭蕉は「風流の初やおくの田植うた」と応えています。芭蕉46歳、等躬52歳。芭蕉の来訪を待ち構えていた等躬が、いきなり切り掛かっているようなこのやりとりは、俳人としてのプライドを懸けた真剣勝負だったのではないでしょうか。当時、田植えの時期は現在より1カ月遅かった。そして、田植えは「百姓の祭り」とされていました。芭蕉にとって、なまりのある悠長な唄を歌いながらの田植えは、心に残ったと思われます。
等躬の歓待ぶりはこの上ないものでした。歌仙を巻く際には江戸で仕入れたであろう中国の紙を使い、地元の「そば切り」を食べさせ、常に接待役を付けていた。出立時には馬まで遣わしている。これらのことは同時に、等躬がいかに力を持った人物だったかを物語っています。(須賀川市立博物館長・安藤清美さん)
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