http://blog.livedoor.jp/equal2/archives/52139104.html 【芭蕉の宇宙観】 より
私が芭蕉の俳句に興味を抱くのは、彼の俳句に親近感を感じるからである。どういった部分でそのように感じるのか。
それは、自然をあるがままに体験し素直に描写するという凡庸な作業にも似た俳句詠みから、次第にその綴られた記録としてのコトバの役割から、より大きな内観的なイマジネーション空間が静かにそして滔滔と溢れ出すような宇宙的なまなざしを感じるからである。
私は、俳句には興味が薄いが、芭蕉の俳句には強い関心を抱く。この宇宙的なまなざしがなければ、彼らしさを感じないと言い切っても良いぐらいなのである。
宇宙的な、と言ってしまえばなんだか大げさなようでもあり、同時に陳腐なように受け取ってしまう人もいるかもしれないが、私が言いたいのは、様々な出来事を全て自分のイマジネーション空間の中で動的に展開できるような、瞑想的とでも言ったら良いのだろうか、ダイナミックな時間的、空間的な蠢きの中に、自分の存在とそれをまなざす俯瞰的視点を持ち合わせた複眼的な時空間設定ができる意識を持ち合わせた存在、それが芭蕉だと言いたいのだ。
具体的で説明的。的確でわかりやすいこと。そんなことを俳句には求めはしない。少なくとも芭蕉の俳句には!
出来事に対応したことばーーーそんな単純な表現なら、芭蕉でなくとも良いのだ。
蝉の声をきいて、「やかましい」と表意、表現するだけなら、子供にだってできる。事実、そんな程度の俳句が多いし、言いまわしの妙や時代のセンスとやらで俳句を詠み、俳句を語る者の何と多いことか。
学者にしたって、せいぜい「歴史」的な解釈どまりだ。
せめて芭蕉の句を語るのなら、「哲学」を持ち合わせていなければ、その醍醐味は味わえないと心せよ。
不易流行
この哲学的概念の創出された意義が理解されているのだろうか。
ああ、流行ばかりに関心が行く現代社会のあさはかさよ。
https://www.bs-tbs.co.jp/kyosyo/bknm/11.html 【五七五への挑戦】 より
五七五、わずか十七文字の中に、四季折々の美と心情を映し出す、俳句。この俳句の礎を築き、数々の傑作を残したのが、松尾芭蕉と小林一茶です。「俳句」は、明治時代に作られた言葉で、江戸時代は「俳諧」と呼ばれていました。その俳諧を、芸術にまで到達させたのが、松尾芭蕉の『おくのほそ道』。有名な“夏草や 兵どもが 夢のあと”は、人の営みの儚さと、雄大な自然とが対比され、悠久の時の流れを感じさせます。芭蕉は150日間、2400キロにわたる旅の中で、壮大な哲学を追い求めました。一方、日々の暮らしの中から言葉を紡いだ、小林一茶の『おらが春』。“名月を 取ってくれろと 泣く子哉”でお馴染みです。生まれたばかりの愛娘との暮らしの中でつづった一茶の思い。そこに、人間一茶の素朴なまなざしがありました。芭蕉と一茶、二人の巨匠は、五七五にどんな思いを込めたのか?その、人生をかけた挑戦に迫ります!
松尾芭蕉の「おくのほそ道」
若き芭蕉は、“願はくは 花の下にて春死なむ その如月の 望月のころ“で有名な、鎌倉時代の歌人・西行に憧れます。武士の身分を捨てて出家し、旅に出た西行のように、優美で崇高な世界観を持つ“風雅”を極めたいと思うのです。芭蕉は、俳諧で身をたてるべく江戸に向かいますが、当時江戸では、句に点をつけてもらうために俳諧の師匠に多額の金を払うという、金にまみれた世界だったのです。芭蕉は、俗世と少しでも距離をおこうと、深川に庵をうつしますが、大火により、住まいは灰燼と化します。その時芭蕉の脳裏に浮かんだのが、西行の姿でした。芭蕉は、西行の足跡をたどるべく、奥州へと旅立つ決意をします。それが、「おくのほそ道」の旅。西行が歌を詠んだ場所、蘆野の里を経て、ふと寄り道をした山寺で詠んだ句、“閑さや 岩にしみ入(いる) 蝉の声”。芭蕉はここで、先人の歌に頼らず、自らの言葉で、“風雅”を表現したのです。江戸を出て95日、越後・出雲崎に到着。この地で詠んだ句こそ、芭蕉が目指した“風雅”の境地を表していると言われます。“荒海や 佐渡によこたふ 天河”時を超えて変わらない、荒海と天の川。その真ん中に位置する佐渡が象徴する、変わりゆく人間の営み。それを芭蕉は「不易流行」と言いました。「不易」とは、永遠に変わらないもの、「流行」とは常に変わりゆくもの。それが同時にこの世にあることを詠む。その「不易流行」という概念こそが、芭蕉が見出した五七五の境地だったのです。
小林一茶の「おらが春」
信濃生まれの一茶は、15歳の時、江戸へ奉公に出ます。当時は江戸の庶民文化が花開いた時代。一茶は、奉公先の主人と句会に出かけ、五七五の世界に魅了されます。その頃には、芭蕉が創り上げた俳諧が隆盛を極めていました。芭蕉に憧れ、一途に学んだ一茶は、めきめきと頭角を現し、俳諧の師匠にまでのぼりつめます。しかし、武士や商人たちは、農民出身である一茶の弟子になろうとしませんでした。絶望の淵に立たされた一茶。彼は50歳にして、江戸での生活をあきらめ、ふるさとに戻ります。この時から一茶は、芭蕉の風雅とは異なる独自の世界を切り拓いてゆきました。一茶57歳の1年間をのちにまとめたのが、「おらが春」。24歳年下のきくを嫁にめとり、娘さとが生まれて初めての正月に詠んだ一句、“目出度さも ちう位なり おらが春”。贅沢でもなく、悪すぎもしない、身の丈にあった、生きる実感がそこにありました。“這へ笑へ 二つになるぞ けさからは”我が子の成長を素直に喜ぶ胸のうちが、そのまま一茶の句となりました。しかし、そんな一茶を、不幸が襲います。さとが亡くなってしまうのです。その時詠んだ句、“露の世は 露の世ながら さりながら”。最愛の娘の死を受け入れられない生身の一茶がそこにいます。我が子の死に直面し、いやがおうでも呼び起こされる悲しき「生の実感」。それが、一茶が到達した五七五の世界です。
芭蕉と一茶が愛され続ける理由
「おくのほそ道」には、一つの秘密があります。“一家に 遊女も寝たり 萩と月”は、同じ宿にいた遊女を詠んだ句ですが、随行した弟子の日記によると、遊女はいなかったというのです。今年94歳になる現代俳句の巨匠、金子兜太さんは、こう語ります。「つくりごとをしてみせたんですね。それを嘘とほんとに混ぜ合わせで“虚実皮膜の間”と、うそとほんとは皮ひとつでつながっている、要するに一言で言って俳句は作るもんだと。」虚と実の間をよむ。そこに宿る、芭蕉が創り上げた世界が、今も私たちの心を捉えて離さないのです。一方、一茶は60歳の正月に、“荒凡夫のおのれ”という言葉を残しています。荒凡夫とは、愚のままに、欲のままに生きるということ。一茶は、「自分はこれから荒凡夫で行きたい」と、阿弥陀如来に向かって呼びかけたといいます。金子さんはこう語ります。「何かの時に如来様にすがるっていう、絶対のものにすがるっていう気持ちがね、彼を支えていたと思います。だから彼の晩年の句を見ると心がきれいな句が多いです。」「おらが春」の最後の句“ともかくも あなた任せの 年の暮れ”にも、一茶の澄み切った心情が描かれています。「あなた任せ」とは、自分の運命を阿弥陀如来にゆだねるという事。日々の暮らしをただ愚直に生きたいという思いが、晩年の一茶の句に、純粋な美しさを与え、その飾り気のない素直な表現が、今の私たちの心に、そのまま響いてくるのです。
日比野克彦
日比野の見方「宇宙観」
日比野の見方この絵は、五七五の世界が、“宇宙観”を表わしているということ。右下にどんどん追求していくと、無限連鎖で同じような世界がある。一茶が、個人の「生の実感」をうたった事で、ミクロな世界で普遍性を得たように。逆に五七五の世界を左上に広げていけば、宇宙までいってしまう。芭蕉が、「不易流行」というマクロな世界の普遍性を表現したように。俳句は、宇宙を集約した世界です。
小川知子
小川知子が見た“巨匠たちの輝き”
松尾芭蕉と小林一茶、大きな意味で日本人の心に住んでいる二人だと思います。外国人と話していると虫や動物、自然についての感じ方の違いに驚くことがよくあるのですが、日本人がもっている小さな生き物に対するまなざしはこの2人の影響ではないでしょうか?今回の放送で始めて知ったのは松尾芭蕉の句は、古典の句を知った上で楽しむとより深く理解できるというもの。さらに「奥の細道」は旅が終わって5年後に出されたもので、その間推敲に推敲を重ねたらしいです。「せっかく旅で詠んだのに家に帰って直したら小さくまとまってしまうのでは?」との疑問にゲストの小林恭二さんは「推敲してよくなるのがプロの仕事。遂行して小さくなるのはシロウト」とのことでした。失礼しました><
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