Facebook・今中 健二さん投稿記事
中国医学では、体や心の変化を易経で考えます。その変化をいい感じに保つために道教を学びます。その道教を伝えた方が老子です。
https://fufu-imanaka.com/2021/02/21/%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e5%8c%bb%e5%ad%a6%e3%81%ab%e3%82%82%e5%bd%b1%e9%9f%bf%e3%82%92%e4%b8%8e%e3%81%88%e3%81%9f%e3%80%81%e9%81%93%e6%95%99%e3%81%ae%e8%80%81%e5%ad%90%e3%81%a8%e3%81%af%e3%81%a9%e3%82%93/?fbclid=IwAR0b11ftl2QSVybVQsnVLjuKsw8Wiifi4AvPGiBt0zW8fL9Q5yulELtcIew 【中国医学にも影響を与えた、道教の老子とはどんな方。】 より
中国医学にも影響を与えた、道教の老子とはどんな方。
フーフーです。老子ってどんなことを伝えた方なんですか
道教ですよね。一体どんな内容なんでしょう。
まず老子についてお話ししますね。
春秋時代の思想家。易経と並ぶ中国の思想にもっとも影響を与えた書とされる。
史記によると、老子と孔子は同世代の人物とされている。
孔子はもちろん儒家の始祖とされ論語を記した人物。
その孔子が、老子をこう表現した。
「私は鳥の飛び方を知っている。魚の泳ぎ方もしかり。獣の走り方を知っている。だから、速く走るこの獣は罠で捕まえ、泳ぐ魚は釣ることが出来るようになる。しかし、老子。あれは無理だ。老子は獣でも魚でも、鳥でもない。あれは龍だ。飛び方も知らないし。だから捕まえることが出来ない。この様な人物である」と言わしめています。
道教は道、すなわち「みち」を表す。
この道とは、首と辶で出来ており、首は頭、辶は尻尾を表します。すなわち頭から尻尾まで、一本の繋がった道理を表す。自然を解説した易経に対し、自然のままで暮らすことを説いた道教。これらが中国の思想の土台となっている。
さらにもう一つ。老子は徳も説いている。道が物事の流れや変化に関する規律のようなものとすると、徳は人の行為が全て自然体で行われるように導き、決して無理をさせないもの。これを合わせて説いている。
老子は一生を道徳の研究に捧げ、身を隠して名声を求めなかったとされている。
https://shibunraku.blogspot.com/2011/02/blog-post.html 【荘子と俳句】 より
昨日今日と、閑暇あり、荘子を読む。昨日は雑篇、今日は内篇と外篇を読む。
こうして荘子を読むのは、他方、松尾芭蕉というひとの思想を理解しようとするためなのであるが、荘子を読んで明白なことがひとつだけあります。
それは、荘子は、政治的であることを徹頭徹尾排したということです。
あるいは、商売とのことを考えると、その言っているところは、社会的な交際、社交というものも全く排したということです。
逆に、積極的に、この思想と態度をどういえばいいのかと考えてみると、それは、やはり世上いわれるように、無為自然に即(つ)くという考え方と、その行いです。
芭蕉が惹かれたのは、このことであることに間違いはないと思います。
つまり、無為自然、芭蕉が自然を何だと思い、どのように思ったのかを俳句から読み取ることができるだろうということでもあります。
俳句をするひとたち、即ち俳人たちは、芭蕉七部集の連衆の職業をみても、市井のひとたちであります。商人もいれば、医者もいれば、富裕のひとたちです。
富裕の余り、余剰の高等な遊芸が俳句であるといえば、それはその通りでありませう。
江戸の時代、元禄時代は、学校の歴史の授業で教わったように、確かに成熟していたのだと思います。改めて、この歳になって、そのことの意義を思うのです。芸術と経済と歴史の関係の意義もまた。
荘子を読んでおもうのは、やはり内篇の第1章、宇宙のはじめの生き物が、次々と変身を繰り返してゆくという話です。
これが、荘子という書物の根幹です。
それは、丁度、老子という書物、道徳経の根幹が、第1章にあるのと全く同じだと思いました。
わたしは、この荘子を、最初のところは、づっと、西洋の哲学と論理学でいうと何をいっているのかという観点から文章を読んでいきました。
同じものが別のものになる、成る、変身する、変態するということは、主語と述語は、実は同じものだ、同じ価値を有しているということをいっているのであり、それは一だというのであります。
これは、西洋哲学のよく考えないところだと思います。
混沌に穴を穿ったら、混沌が死んでしまったなどという話は、誠に、東洋人であるわたしからは、最高の話であります。この場合、話の中では、間違いなく、混沌という宇宙の始まりの状態は、媒介者、媒介物であり、その役割を演じている生き物です。(ここから、機能の話しをしたいのですが、今は控えます。)
何故西洋哲学は、そうなのか、そうは考えないのか?
つまり、わたしの哲学の定義は、哲学とは、それは何かという問いに答えることだというものですが、この定義から考えると、それは何かという問いに答えるときの、答え方、即ちものの考え方が、荘子と西洋の哲学者、たとえば、ソクラテスとは全然違っているのです。
何故なのか?
どうもこれは、老子もそう、荘子も読んで、そう思いましたが、言葉、言語に対する考え方の相違だと思いました。
今、これについては、こういうに留めます。後日を期して、また論ずることがあるでしょう。
さて、それから、もうひとつ。
人生は旅だという考え、人生を旅に譬える考えは、荘子にはありません。
それなのに、芭蕉をはじめ、お弟子さんたちの句、連句には、それがそう歌われているのは、荘子とはまた別の、日本人の譬喩であると思います。
旅のはじめと終わりをどのように考えるのか、生と死をどのように考えるのか、芭蕉の考えと、荘子の考えは異なっているということになります。
芭蕉は荘子の何を正解し何を誤解したか、芭蕉は荘子をどう正解し、どう誤解したか。
しかし、文藝は、誤解と引用から生まれるものです。
わたしだって、ソクラテスを誤解しているかも知れない。
それでも、そのひとの人生、わが人生を豊かにしてくれているのであれば、それは素晴らしいことではないでせうか。
こうして荘子を読んできて、先ほど、老子の第1章を読み返してみますと、誠に誠に、これで老子の思想は、やはり、尽きているのであります。
荘子も、そうではないかと思います。
荘子の、哲学も論理学も言語学も。
追伸:
混沌が、媒介者であることを、今回読んで認識しました。
媒介者、即ち関数、functionであります。
それはとらえどころが無いので、混沌と呼んだのでしょう。
宇宙創造の最初の関数、隠れた関数です。
(わたしなら、概念というでせう。)
それを恩恵を蒙ったふたつの生き物が、7つの穴を穿ったら、混沌は死んでしまったというのです。
全く、わたしは、この歳になって、古典の真理を知るということだ。
生きていてよかったなあと思い、歳をとってよかったなあと思う。
https://lakeside.naturum.ne.jp/e2935460.html 【北村季吟も近江聖人だけどね】 より
安曇川の中江藤樹さん、高月町の雨森芳洲さん。そして、野洲の北村を故郷とする北村季吟さん。中江藤樹は中国の学問を、雨森芳洲は朝鮮の学問を、そして北村季吟は、日本の古典を研究した。先の二人に比べて、あまり有名でありません。
地元の人も詳しく知らない人が多い。
北村季吟も近江聖人だけどね
近江野洲の北村は、かつては和歌や俳諧連歌の盛んなところで、近くの永原天神(菅原神社)には、藤原定家(平安時代)や宗祗(室町時代)も訪れ、歌会や句会が度々開かれたそうです。北村季吟の祖父は医者であり、教養も高くて連歌の会の中心だったようです。
季吟の父は次男であったので、京都に出て医者の修行をしていたようで、その子の季吟はその京都で生まれたようです。
医者になるべく修行をしますが、学問や俳諧が好きだったようで、京都で松永貞徳に師事した頃から、俳人として有名になっていきます。
松尾芭蕉は季吟の弟子の一人で、伊賀や京都で教えています。
「源氏物語湖月抄」を出版し、町人にもわかりやすく源氏物語を解説したことで有名です。
土佐日記や伊勢物語などたくさんの古典を研究している江戸初期の国文学者です。
大学等で国文学を習った方は、よく知っておられると思います。
京都にいる間は、けっこう生活が厳しく、新玉津神社の神官になってもなお生活は苦しかったのですが、俳句だけでなく、苦手だった和歌も勉強して、ついに息子の湖春とともに、幕府の歌学方として江戸に行きます。
ここから生活は一変します。
北村家は代々幕府の歌学方になっていきます。季吟は徳川綱吉の歌の先生になったわけで、江戸でもすごく有名になりました。
でも、故郷とした近江野洲の北村にもなんどか帰郷し、たくさんの句を詠んでいます。
祇王井に とけてや民も やすこほりの句碑が、菅原神社にあり、息子の名前を湖春としたように、季吟の故郷は近江の北村と思っていたようです。
地元の小学校の校歌にも季吟の名が歌われています。
少年像が校庭にありますが、松尾芭蕉ほど有名でないのが悲しいです。
それにしてもこの辺りは京都まで歩いて一日の距離で、京都は江戸初期では、学問の中心でもありました。
志ある人が京まで出て医者になるにも、漢学、国学は基礎教養みたいなものでできる人はなんでも良くできたんだなぁ
今の時代も、すごい人はいろんなことができるし、面白いんだろうなぁ。
視力や脳の働きが劣って行く前に、もっと学問しないと、、、どんどん衰えて行くだろうなぁ。今から何ができるというのか?資金は限られている。何ができるかな?
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kigin.htm 【北村季吟きたむら きぎん】 より
(元和10年(1624)~宝永2年(1705)6月15日、享年82歳)
江戸時代の俳人で歌人.号は,拾穂軒・湖月亭など。近江野洲郡の医者の家に生まれ、16歳で京に出て、安原貞室に師事して俳諧を学ぶ。19歳で、貞室の師松永貞徳の門に入る。25歳で俳書『山の井』を出版。60歳で、新玉津神社宮司、66歳の時幕府の歌学所に入って、法印にまで昇進。『徒然草文段抄』・『源氏物語湖月抄』・『枕草子春曙抄』・『八代集抄』・『万葉集集穂抄』など古典注釈に精力を傾注し、その文学的功績は大きい。『俳諧埋木』は、俳諧の論書として有名。実作者としての才能は乏しく、優れた作品はない。
芭蕉は、旧主蝉吟の縁故で季吟の門下に入り、季吟の秘伝であり免許皆伝の証である『埋木』を与えられたといわれている(伝)。芭蕉は、季吟を通じて俳諧に進むことになるが、後にはこれを遥かに越える高みに上ることになる。
北村季吟の代表作
鳥篭の憂目見つらん郭公 (あら野)
http://www.basyo370.com/?p=56 【松尾芭蕉の師、「北村季吟」について】より
芭蕉の師といえば、北村季吟(きたむらきぎん)。(1625~1705年)
でも、どんな人? と問われれば答えに困りませんか?
季吟は、俳人・歌人・学者・古典文学研究者と、多くの肩書きを持ち、どういう人なのか、今ひとつわかりにくいのです。
季吟と芭蕉
季吟は、近江国野洲郡(滋賀県野洲市)の医者の家庭に生まれ、医学を学びながら、はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳に俳諧を学びました。
24歳で、季寄せ『山之井(やまのい)』を刊行します。
俳諧宗匠として独立後は『新続犬筑波集』などの撰集、俳諧式目書『埋木(うもれぎ)』なども刊行しました。俳諧師としての季吟は、実作に優れていたというより、数多の俳書にその才を発揮したといえます。
季吟の大きな功績の一つに、松尾芭蕉を指導したことが挙げられます。
芭蕉は13歳のとき、父を亡くしたため、藤堂新七郎家に奉公に出ました。
藤堂家では、跡継ぎであった藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ)に小姓として仕えます。
良忠は俳諧が好きで、蝉吟(せんぎん)という俳号を持っていました。
蝉吟の師匠が北村季吟でしたから、芭蕉は、蝉吟の句の添削をしてもらうため、主人の代理で京都の季吟の元へ通うこともあったようです。
季吟から句の指導を受け、それを蝉吟に伝える役目を持っていたのです。
このとき、芭蕉は俳諧の妙味を知ったのでしょう。
また、蝉吟の学びに付き合うような形で、芭蕉は漢詩や和歌も学んでいったと考えられます。しかし、芭蕉が23歳のとき、蝉吟が死亡しました。
その後、29歳で江戸に下るまでの6年間、芭蕉の動向は正確には分かっていません。
引き続き藤堂家で働きながら、俳諧の研鑽を続けていったとも、蝉吟の死後、藤堂家での奉公を辞して京都に行き、季吟に入門したともいわれます。
どちらにせよ、伊賀か京都かで、季吟の指導を受けながら俳諧を学んでいたことは確かでしょう。
芭蕉が江戸で活動するようになると、季吟との関わりはなくなります。しかし、江戸で俳諧師として活動する際には、季吟から伝授された俳諧の作法書『埋木』が、芭蕉に権威を与えてくれました。
季吟との出会いがなければ、芭蕉という俳人は存在しなかったかもしれません。
古典注釈者としての功績
季吟の最も大きな功績は、その古典研究にあります。
『源氏物語湖月抄』『徒然草文段抄』『枕草子春曙抄』『伊勢物語拾穂抄』『八代集抄』『菟芸泥赴』『万葉拾穂抄』など、古典文学に関する多くの注釈書を著しました。その数は百八十余冊にも及びます。
特に、『源氏物語湖月抄(こげつしょう)』は、原文と注釈・頭注を見開きに収めて、様々な学説を紹介しています。これは現代の解説書にまで受け継がれる形式です。
『湖月抄』さえあれば『源氏物語』を読んで理解できるわけですから、江戸時代を通じて、もっともよく読まれた注釈書であったのです。
季吟の著した数多くの注釈書は出版され、古典文学が一般の庶民にまで浸透する契機となりました。貴族階級のものであった古典を、広く普及させた功績は、大きいものでした。
松尾芭蕉が、季吟という大いなる古典学者から教えを受けたこと、つまり、古典に関しての深い理解があったことは、芭蕉の文学を考える上では忘れてはなりません。
幕府歌学方になる
季吟は66歳の時、幕府の初代歌学方として、子の湖春とともに江戸に招かれました。
歌学方とは和歌に関する様々なことをつかさどる役職で、この後、幕府の歌学方は北村家が世襲してゆきます。
東京・駒込にある「六義園(りくぎえん)」という庭園をご存じでしょうか。現在は都立公園となって一般公開されています(入園料が必要)。
ここは北村季吟がアドバイスし、柳沢吉保が作った庭園です。
「六義園」という名称は『古今和歌集』にちなんでおり、紀州和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として表現されています。
柳沢吉保も、古今和歌集や源氏物語などの古典文学をよく知る人ではありましたが、季吟の古典への造詣の深さがあってこその六義園ではないかと思います。
季吟はやがて、法印(僧侶の最高の位)の称号を受け、宝永2年(1705年)82歳で没します。
辞世の句は、「花も見つほととぎすをも待ち出でつこの世後の世思ふことなき」
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