https://tamegoro.exblog.jp/29894422/ 【芭蕉「雪見の句」つづき】
前の記事のつづきです。
いざさらば 雪見にころぶ 所まで
前半の意味を、大火を見に、または「見舞」と解釈しました。
芭蕉は隠密で、俳句が「暗号文」とすると、この句はどこに「秘密」があるのか。
大火を見に行ったとか、隠す必要ない。
となると「ころぶ所」が、秘密かなあ。
一体どこだよ!
「転ぶ」=転二=五 御所じゃない?
見舞いには「巡視」の意味もあるんだよね。
*追記 解ったゾ!
噺では、お酒を持って「犬」たちを見舞う。
「海賊〜」でも、遺族たちを見舞う。
「ころぶ所」→犬仲間の所
「ころぶ」=転二=五=下六=げむ=犬
勝海舟によると、いろいろな職業の人が幕府の「スパイ」だったそうです。
旅の誹諧師。山頭火のような人かな。船宿の主人もあった。違和感なく大勢の人と接して情報が得られるご商売の人なんでしょう。
https://ameblo.jp/kamekokishi/entry-11107867101.html 【芭蕉の暗号 無辜の罪】 より
ネットで興味深いサイトに出あった。
芭蕉の暗号ー俳句「古池や」の逆読みー 土屋北彦
http://www.geocities.jp/kitahiko501326/geodiary.html
古池や かわづ飛び込む 水の音
この芭蕉の区を逆さに読むと、、、ふるいけや かはつとひこむ みつのをと
遠の罪 無辜 一つ墓 焼け衣 流布
驚いた。HP「鎌倉、まぼろしの風景」では、芭蕉の句をキリシタンというキーワードで読んでいる。
「六地蔵、芭蕉の辻と潮墳碑」や、「許六と芭蕉」、「芭蕉の見た闇」など、キリシタン弾圧の状況を並べて読むと俄然、句が面白くなるのだ。
それでいけば「遠の罪」は「遠い昔の戦い」ではない。
「十(とお)の罪」だ。十字架を持っている罪、である。彼らは盗賊でも殺人者でもなかった。無辜の罪、である。
キリシタンの墓には戒名の一番上に「一」の文字がつくという。
一伯、一葉、一休、一茶、一笑。一を上につける名前は沢山ある。
キリシタンは火刑になった。その殉教者の焦げた着物は、遺物として沢山に切り分けて、キリシタンの人々に配られた。
それは信仰の対象になったという。
つまり「十の罪 無辜 一つ墓 焼け衣 流布」
やはり芭蕉の句はキリシタン弾圧の状況を加味して味わうものだと思う。
カエルが三つでミカエル。
フランシスコ・ザビエルが決めた日本の守護天使が、ミカエルだった。
江戸の風流人がカエルを好むのは、天使ミカエルに由来するのかと思っていた。
そうではなくて、芭蕉の句「十の罪」に由来するのだろうと、今は確信してしまう。
この句に魅かれてキリシタンだと告白してしまった若者は、命を亡くしたのだろう。
ふるいけや かはつとひこむ みつのをと
この句は有名になった。普通の人が書いたら死刑になる様な危険な句だからだ。
芭蕉は安全だった。
それは彼が、幕府から保護されていた、証拠であったのだろうと、思う。
https://plaza.rakuten.co.jp/iyomantenoyoru/diary/200810180000/ 【勝海舟と芭蕉】より
明治維新の先覚者坂本竜馬はかつて氷川の寓居に勝海舟を訪ね、もしその会談の次第によっては「公を刺さんと決す」ときめつけていたが「いまや公の説(一大共有の海局)を聴き大いに余の固陋を恥ず」として海舟の門下生たることを明言する。高知の姉に手紙を書き、
「今にては日本第一の人物勝麟太郎と云う人に弟子入り致し、日々予て思付き候ところを精と致居候」と感激している。
「一大共有の海局」の思想は長崎にて亀山社中・海援隊となって実現の緒につく。
また「賢侯会盟」による挙国一致策は、竜馬の大政奉還論となり、「船中八策」となって具体化する。それらのアイディアはほぼ海舟が吹き込んだものである。
勝海舟は政治のみならず、経済・文芸についても造詣が深く、芭蕉にも並々ならぬ関心を抱いている。
「「全体おれは平生から『芭蕉という人はどうしても尋常のものでない。その余徳が深く人間にはいっていることは、ただ発句の高妙なる故のみではあるまい。きっとほかに何かそのわけがあるだろう。』と思っていたところが近江商人の塚本某がいうにはかの近江商人の徳目が実は芭蕉の教導訓示によってできたものとのこと。これを聞いておれは、積年の疑いがここに始めて氷解して大いに気が晴れた。」と語る。
「徘士松尾芭蕉。その志操、往時の西行法師の亜流なり。その句作超凡、満腹の禅味、
後世の企て及ばざる処。近江の人某いう、『近江の豪商その交易売買法の如き、むかし
芭蕉の指示する区画を遵守して今に変ぜず、近年近江の商人の商法をもって、殆ど英国
商人の法ありというに到る』と。
果たして知る、翁が凡人にあらざることを。……。
絶倫の才を薀蓄し、自主の志操、当世に卓絶す。或いは歌に隠れ、禅に悟入す。
超然たる見識、その奥底をあらわさずといえども、その人羨むべき哉。
三重県|俳句:松尾芭蕉 - 三重の文化
元来、松尾家は伊賀国柘植郡に代々住した平家末流の土豪、柘植七族の支流である。父は伊賀藤堂家の無足人として伊賀上野に来住、手習師匠などを生業としていた。若き日を藤堂良忠に仕える。良忠は北村季吟の教えを受ける俳人であり、
https://benesse.jp/contents/history/matsuobasyo/ 【松尾芭蕉が俳句を通じて伝えたこと「物事の本質を見よ」】 より
皆さんは俳句を作ったことがありますか? 美しい日本の風景を「五・七・五」の十七音で表現する俳句は、四季をもつ日本ならではの文化です。
俳句はもともと室町時代に流行した連歌から発展した「俳諧」(はいかい)がもとになっており、言葉遊びの要素が大きなものでした。それに芸術性を持たせた人が、江戸時代の俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)です。
松尾芭蕉は日本を代表する俳人で、最初は松尾宗房(まつおむねふさ)と名乗っていました。農民の生まれだとされますが、幼少期のことはよくわかっていません。やがて北村季吟(きたむらきぎん)に師事して俳句の世界に足を踏み入れます。
松尾芭蕉と言えば『奥の細道』が有名です。これは松尾芭蕉が現在の東北や北陸で旅をしながら作った紀行文で、文中に多くの俳句があり、「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」などの有名な俳句もこの中に収められています。
松尾芭蕉は『奥の細道』を作る前にも、紀行文『野ざらし紀行』を発表していますが、やはり多くの俳句が入っています。このように旅をしながら全国を回っていたことや、伊賀忍者で有名な現在の三重県伊賀市出身という説があることから「松尾芭蕉は隠密(忍者)なのでは?」ともいわれます。
『奥の細道』で松尾芭蕉が歩いたとされる距離は、約2400キロメートルにもなります。山道も多いこの道を、松尾芭蕉は約150日間かけて歩いています。これを1日の移動距離にすると約16キロメートルになりますが、実際には移動をしない日もあり、中には1日で50キロメートルも移動しているときもあります。
これを45歳の初老の男性が歩いたとすると、非常に元気です。また当時は関所(税の取り立てや検問をするための施設のこと)等での取り締まりも厳しいですし、何日も泊まりがけで旅をするため、とてもお金がかかります。一般庶民が気軽に旅などできる時代ではありませんでした。
そんな時代において、松尾芭蕉は何回も長旅に出ています。また『奥の細道』の旅に同行した弟子の河合曾良(かわいそら)によると、絶賛した『松島』にはさほど滞在せず、仙台藩の重要拠点である「石巻港」(いしのまきこう)や『瑞巌寺』(ずいがんじ)などを興味深そうに見て回ったそうです。
真相は明らかになっていませんが、忍者説というのも大変興味深いものです。
松尾芭蕉流・弟子の育て方
松尾芭蕉には弟子が多く、「蕉門十哲」(しょうもんじってつ・弟子の中でも特に優れていた10人のこと)と呼ばれるほどの弟子もいましたが、違う考えを持つ弟子も歓迎していました。松尾芭蕉自身の考えを押し付けることはせず、弟子たちの思うままに俳句を作らせています。
松尾芭蕉は「松の事は松に習へ竹の事は竹に習へ」という言葉を残しています。これは「自分を捨てて、自分が表現したいものと同じになれ」ということです。
この言葉の意味は「物事の本質を見よ」ということで、松尾芭蕉が弟子たちに自分の考えを押し付けなかったのは、自分だけの観点で見ることで、表現の幅が狭まってしまうことを心配したのではないかと言われています。
松尾芭蕉のこうした弟子の育て方は、「自分だけの観点で物事を見ていては、本質を見失う」ということを教えてくれます。
自分の考えが正しいと思い込んでしまうと、それしか見えなくなってしまいます。そうした「思い込み」があると、それが正解だと思い込み、別にある本当の正解に辿りつけません。
自分の考えを相手に押し付けるのではなく、相手を受け入れ、色々な考え方があるということを大切にしていけば、本当に大切なものが何なのかが見えてくることもあるでしょう。
松尾芭蕉も立ち寄った『瑞巌寺』に行ってみましょう
松尾芭蕉は『奥の細道』の道中、日本三景のひとつである『松島』に立ち寄っています。しかし松尾芭蕉はここでは俳句を詠んでいません。
ただ、記録の中では「いちばん美しい景色」「どんなに筆の立つ人でもこの景色の美しさを言葉にすることはできない」と言っており、この言葉通り松尾芭蕉もあまりの『松島』の美しさに、筆を動かせなかったのかもしれません。
そんな日本三景のひとつである『松島』に立ち寄ったあと、松尾芭蕉は『瑞巌寺』にお参りをしています。
『瑞巌寺』は仙台藩主だった伊達家の『菩提寺』(ぼだいじ)で、現在は国宝に指定されています。美しい装飾が施された建物が見どころです。
『松島』を見た松尾芭蕉は、『瑞巌寺』で何を感じたのか、同じ場所に立って考えてみてはいかがでしょうか。
http://www.basyo370.com/?p=56 【松尾芭蕉の師、「北村季吟」について】 より
芭蕉の師といえば、北村季吟(きたむらきぎん)。(1625~1705年)
でも、どんな人? と問われれば答えに困りませんか?
季吟は、俳人・歌人・学者・古典文学研究者と、多くの肩書きを持ち、どういう人なのか、今ひとつわかりにくいのです。
季吟と芭蕉
季吟は、近江国野洲郡(滋賀県野洲市)の医者の家庭に生まれ、医学を学びながら、はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳に俳諧を学びました。
24歳で、季寄せ『山之井(やまのい)』を刊行します。
俳諧宗匠として独立後は『新続犬筑波集』などの撰集、俳諧式目書『埋木(うもれぎ)』なども刊行しました。俳諧師としての季吟は、実作に優れていたというより、数多の俳書にその才を発揮したといえます。
季吟の大きな功績の一つに、松尾芭蕉を指導したことが挙げられます。
芭蕉は13歳のとき、父を亡くしたため、藤堂新七郎家に奉公に出ました。
藤堂家では、跡継ぎであった藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ)に小姓として仕えます。
良忠は俳諧が好きで、蝉吟(せんぎん)という俳号を持っていました。
蝉吟の師匠が北村季吟でしたから、芭蕉は、蝉吟の句の添削をしてもらうため、主人の代理で京都の季吟の元へ通うこともあったようです。
季吟から句の指導を受け、それを蝉吟に伝える役目を持っていたのです。
このとき、芭蕉は俳諧の妙味を知ったのでしょう。
また、蝉吟の学びに付き合うような形で、芭蕉は漢詩や和歌も学んでいったと考えられます。しかし、芭蕉が23歳のとき、蝉吟が死亡しました。
その後、29歳で江戸に下るまでの6年間、芭蕉の動向は正確には分かっていません。
引き続き藤堂家で働きながら、俳諧の研鑽を続けていったとも、蝉吟の死後、藤堂家での奉公を辞して京都に行き、季吟に入門したともいわれます。
どちらにせよ、伊賀か京都かで、季吟の指導を受けながら俳諧を学んでいたことは確かでしょう。
芭蕉が江戸で活動するようになると、季吟との関わりはなくなります。しかし、江戸で俳諧師として活動する際には、季吟から伝授された俳諧の作法書『埋木』が、芭蕉に権威を与えてくれました。
季吟との出会いがなければ、芭蕉という俳人は存在しなかったかもしれません。
古典注釈者としての功績
季吟の最も大きな功績は、その古典研究にあります。
『源氏物語湖月抄』『徒然草文段抄』『枕草子春曙抄』『伊勢物語拾穂抄』『八代集抄』『菟芸泥赴』『万葉拾穂抄』など、古典文学に関する多くの注釈書を著しました。その数は百八十余冊にも及びます。
特に、『源氏物語湖月抄(こげつしょう)』は、原文と注釈・頭注を見開きに収めて、様々な学説を紹介しています。これは現代の解説書にまで受け継がれる形式です。
『湖月抄』さえあれば『源氏物語』を読んで理解できるわけですから、江戸時代を通じて、もっともよく読まれた注釈書であったのです。
季吟の著した数多くの注釈書は出版され、古典文学が一般の庶民にまで浸透する契機となりました。貴族階級のものであった古典を、広く普及させた功績は、大きいものでした。
松尾芭蕉が、季吟という大いなる古典学者から教えを受けたこと、つまり、古典に関しての深い理解があったことは、芭蕉の文学を考える上では忘れてはなりません。
幕府歌学方になる
季吟は66歳の時、幕府の初代歌学方として、子の湖春とともに江戸に招かれました。
歌学方とは和歌に関する様々なことをつかさどる役職で、この後、幕府の歌学方は北村家が世襲してゆきます。
東京・駒込にある「六義園(りくぎえん)」という庭園をご存じでしょうか。現在は都立公園となって一般公開されています(入園料が必要)。
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ここは北村季吟がアドバイスし、柳沢吉保が作った庭園です。
「六義園」という名称は『古今和歌集』にちなんでおり、紀州和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として表現されています。
柳沢吉保も、古今和歌集や源氏物語などの古典文学をよく知る人ではありましたが、季吟の古典への造詣の深さがあってこその六義園ではないかと思います。
季吟はやがて、法印(僧侶の最高の位)の称号を受け、宝永2年(1705年)82歳で没します。
辞世の句は、
「花も見つほととぎすをも待ち出でつこの世後の世思ふことなき」
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