http://blog.livedoor.jp/kikyou0123/archives/52295362.html 【雲を根に富士は杉形の茂りかな】 より
“くもをねにふじはすぎなりのしげりかな” 延宝四年 三十三才の句
Making the cloud its root,
Mt,Fuji looks like a cedar,
Huge and luxuriant!
(Translated by TOSHIHARU OSEKO)
富士山がユネスコの世界文化遺産に登録されました。
めでたい、と、これを喜ぶ声もあれば、残念、と、反対の声もある。
噴火するんではないか、なんて話題も急浮上していたり。何かと話題の中心となってます。
ふるさと伊賀に帰る途中にこの句を詠んだ芭蕉さん。
伊賀は四方山の盆地ですので、これは!という、ランドマーク的な山はありません。それが、平野にそそり立つ富士の雄大さに触れた時、「そそり立ってるね~」と、そそり立ってる感に圧倒される、ということが私にもいつもあるので、ああ、芭蕉さんもそう感じたんだろうなぁ、
しかし伊賀者だから、すぎなり、なんて感動表現がスケールダウンしちゃってるなあ。
伊賀へ帰る途中だからなあ、心は先に伊賀の峠を越えていたのかもしれない。
などと、親近感を覚えます。この頃まだ若いしね。
伊賀の、盆景の中で生まれ育った感覚と、富士や、田子の浦や、松島や、東北の
神こそ宿るような圧倒的な風景とのギャップが、芭蕉の感性を増幅させたことでしょう。
https://ameblo.jp/kk28028hrk/entry-12534734039.html 【芭蕉句051】より
今回は富士に見とれる一句。
雲を根に富士は杉形の茂りかな (松尾芭蕉)
(くもをねに ふじはすぎなりの しげりかな)
延宝4年(1676年)、芭蕉33歳の時の作。駿河の国(静岡県)を通る時、巨大な円錐形の富士を見ての一句。「雲を根に」は「富士は高いので通常山の中腹にかかるが、まるで根元にかかっているように見える」という意味である。
「高い雲さへ富士は高いので富士の根元にかかっているように見える。まるで、巨大な杉が天空に屹立しているように」
という一句である。
私は「芭蕉句046」で、「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」という一句をとりあげ、「富士が見えない日が興がある」というように句意を取るべきではなく、むしろ逆説的に「見えない日もまた興がある」と取って、富士の巨大さ美しさを強調する一句だとした。本句で芭蕉は雲を凌駕する富士の巨大さを詠っている。
続いて次の一句。
暮れ暮れて餅を木魂の侘寝哉 (松尾芭蕉)
(くれくれて もちをこだまの わびねかな)
天和元年(1681年)の年末、芭蕉38歳。江戸深川の芭蕉庵で「一人わびしく餅つきの音を聴いている」という一句。
「年末が押し迫ってきて、近所界隈では正月に備えて餅をつく音がこだまのように聞こえる。が、この私ときたら一人わびしく寝ている」
という一句である。
こういう芭蕉の姿には芭蕉の真骨頂がうかがえる。出世だの栄華だのを求めないで、俳諧の道を選んだ芭蕉の人生がクローズアップされている。
日々草今も娘はピアノ弾く (桐山芳夫)
私にも娘がいたが、今頃どうしているだろうと思うと胸が痛む。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/fuji3.htm 【雲を根に富士は杉形の茂りかな】 より
(くもをねに ふじはすぎなりの しげりかな)
延宝4年、芭蕉33歳の時の作。これ以前の作が元気だけの若さを露呈していたものが、この年頃から香りを加えてきたようである。一句は、芭蕉が二度目の帰京の折、駿河を通過中富士山を見ての嘱目吟。なお、この伊賀帰郷の際の作品は7句残っている。
雲を根に富士は杉形の茂りかな
富士は高い山で、雲を峰に置かずに根においている。その上に円錐形の富士がある。その姿はまるで巨大な杉が屹立しているようだ。
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