雲無心出岫・雲水芭蕉

http://history.hanaumikaidou.com/archives/8265 【<遊歴と風交>】より

修行のために諸国を遍歴して歩く雲水僧のように、江戸時代には諸国を行脚しながら各地の俳人と交流することが盛んに行なわれました。旅に明け暮れた芭蕉にならい、蕉風の俳諧はこの行脚によって地方に広がり、多くの人々に浸透していきました。

 遍歴しながら地方の宗匠クラスの俳人を訪ねて句作を交わし、生活の糧を得ながら実力をつけていく俳人は行脚(あんぎゃ)とか雲水と呼ばれました。そして俳人同士の交流を「風交」と呼びます。

 地方の俳人も伊勢参宮などの寺社参詣の機会に、名所を巡りながら句作をかさねたり、松島行などの芭蕉の足跡をたどる旅を盛んに行ないました。

11.『行脚掟』   安西明生氏蔵

 己を慎み他を思う、行脚の心得17か条が記された『行脚の掟』の写。芭蕉の作と伝えられている。

12.房総旅日記 弘化4年(1847年)  当館蔵

 芝山町近辺の耕庵鶴寿という69歳の俳人が、小湊誕生寺へ参詣をしたときの旅日記。内房から那古寺を経て外房へ廻り、清澄・小湊から北上して帰郷した20日間の旅だが、諸所で句を作っている。

13.俳人先次亭が東長田(館山市)の安西洗心に宛てた手紙(明治年間)  安西明生氏蔵

 先次亭のもとへ信州松代から訪問して来た俳人白兆老人を紹介する文面。「もしあなたのもとへ立ち寄ったらよろしく風交してください。着衣は汚れ頭髪も束ねて驚くような風体なので門前払いをしたくなるが、心根は見かけと違うようだ。」と伝えている。

15.『総角集』  船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)

 雪中庵蓼太の門人で化政期に江戸の重鎮だった八朶園蓼松に師事した江戸の俳人一円窓欣月の句集。安房に住むようになって房総三国を遊歴、安房をはじめ風交した各地の俳人の句を集めている。序文は江戸の小青軒抱儀、跋文は大津(富浦町)の白梅居平島香雪が記している。安政3年(1856)刊。

16.老鼠堂永機句幅 明治32年(1899)   安西明生氏蔵

 東長田(館山市)の安西谷水は隠居をした67歳のとき、関西を遊歴して京・大坂の俳家を訪い、見聞を広めてきた。写真16は帰途東京の俳家穂積永機のもとを訪れて揮毫してもらった遊歴記念の書。写真17は江戸材木町で庵を結んだ梅之本為山の門人其葉が、はじめて谷水に風交を求めてきた挨拶状。

17.谷水宛其葉書状  安西明生氏蔵

18.道中日記帳 安政3年(1856)  川原晋氏蔵

 川戸(千倉町)の修験僧文殊院頼充こと俳人竹坡が、30歳のとき京都を中心に関西を遊歴した日記。各所旧跡を訪ねて句をつくり、また各地の句碑などを記録している。

https://www.myoshinji.or.jp/tokyo-zen-center/howa/966 【人生という旅路】より

東京。この地は私にとって非常に思い出深い土地です。

というのは、私は愛知生まれ愛知育ちなのですが、大学の4年間だけは東京で下宿生活をしていたからです。私は19歳で大学に入学しましたから、子どもから大人になる過程において大切な時期を東京で過ごしたわけです。今にも増して未熟だった私は、生まれ育った愛知から離れ見知らぬ土地にやってきて、一抹の寂しさや人間関係での悩み、そして自分の将来への漠たる不安を抱えたものです。

結局のところ、何とか4年を過ごし、卒業後すぐに愛知に戻りました。ほどなくして、修行僧として名古屋の道場に入門したのです。愛知から東京へ出て、子どもから大人への過渡期を過ごす。そして成人を迎えたかと思えばそれもつかの間、すぐに地元に戻って修行生活に移り、めくるめく日々を過ごしていました。

 禅の修行僧のことを「雲水(うんすい)」と呼びますが、これは「行雲流水」という禅の言葉に由来します。流れる水や行く雲のようにひとところにとどまらず、執着を離れた境涯のことを言うのですが、まさにそのような在り方を体現している、あるいはそこを理想の境地として精進し続けるため、修行僧のことを「雲水」と呼び慣わすわけです。

 しかし考えてみれば、修行僧のみならず、私たちの日々の営みそのものも、ひとところにとどまることもなく常に変化をし続ける、言わば旅のようなものでしょう。

月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして行きかふ年もまた旅人なり。

船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす

とは、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が、自身の旅の行程や体験を記した『おくのほそ道』という作品の序文に出てくる文言ですが、まさに私たちは雲のように水のように、決してとどまることなく旅路に生き、そしてその道中に息を引き取ってゆくのだと思います。

 私はこのように生涯を旅だと捉え、雲や水のように一所にとどまらない、ということを人生訓にしています。それはなぜかと言えば、一定の場所に固執することで息苦しさを覚えた経験があるからです。

 冒頭に大学のために東京に出てきた、と書きましたが、実のところこれは私の人生の中で想定外の出来事でした。高校の頃私は、地元に残るために名古屋の大学を目指して勉強をしていました。しかし、結果は不合格。ですから、失礼を承知でありていに言えば、当時は望んでもいなかった場所に行くことを余儀なくされたのです。東京に行くと決まった時は、心の底から不安で、不満でした。なぜかと言えば、小さなころから住み慣れた居心地よい土地を離れ、別天地に独り赴くことがたまらなく怖かったからです。

 ところが引っ越しを済ませ、1か月、2か月、3か月…と日がかさむごとに、不思議な変化が起きてきます。大学の中には友人も増え、アルバイト先も決まり、勉強や学外活動も思っていた以上に面白い。「住めば都」とはまさにこのことで、次第に東京の方が居心地よくなっている自分に気がつきます。

 そうなりますと、4年後に修行道場に入るために愛知に戻るときにはどうなっていたか。今度は、愛知に戻ることへ強い不安と不満を覚えていたのです。そして修行道場では、恥ずかしいことに「雲水」という立場でありながら、その実は全く行雲流水の境地を体現できていませんでした。楽しい思い出だけを思い返してはその心地よさにすがりつき、そして「辛い修行生活」という現実との板挟みに息苦しさを感じていたのでした。

 このことを踏まえて私が学んだことは、「住めば都」と感じた後が大切である、ということです。どういうことかと言えば、私たちは「都」、つまり自分にとって居心地のよいすみかを見つけると、どうしてもそこにずっと居たいという欲に駆られがちです。しかし、旅の道中に見える景色が変わるがごとく流転する人生において、一所にとどまることがままならないこともあるでしょう。すると理想と現実との隔たりを自ら作り出し、無いものねだりの息苦しさに見舞われることになりかねません。

 無論、それは場所に限ったことではなく、私たちは「あの頃は良かった」「今はもっとこうあればよいのに」と、頭の中にしかない自分なりの理想郷にしがみついてしまうことが往々にしてあります。

 もちろん過去を捨てることはできませんし、その必要もないと思いますが、肝要なのはその「都」に固執しないことではないでしょうか。ときには居心地の良い都を離れ、芭蕉の言うように旅をすみかとしてたださらさらと流れてゆく―そのようなとらわれのない心持ちで、日々ゆったりと人生という名の旅路を歩んでいきたいものです。

林昌寺副住職・野田晋明

https://lineblog.me/olive193_703/archives/2233726.html  【CRAZY CLOUDS】 より

私の好きな禅語に『雲無心出岫』(くもむしんにしてしゅうをいず)という言葉がある。

“岫”(しゅう)とは、山腹の洞穴のこと。広く山の谷あいを意味する。

雲はその岫からおのずと現れて、そこにとどまろうとするのでもなく、流れようとするのでもなく、またどこに行きたいとも思わず無心で漂っている。

雲は、どんな形をとろうだの、どこへ流れて行こうだのと、そこに作意は少しもなく、風にまかせて千姿万態をなして悠々と、東へ西へと流れて行く。

雲のように無心に、無礙(むげ)自在に。

水にも似てその相を様々に変えつつ、しかも滞りなく、妨げも一切なく、とらわれのない心で自然に任せて生きること。

禅僧のことを「雲水」と呼ぶが、厳しい修行を重ねてまさしく無作無心(むさむしん)の境涯への到達は禅者の理想とされている。

  ◆   ◆   ◆   ◆

いま、世界は大きく変わりつつある。

コロナ禍をきっかけに私たちを取り巻く社会の在り方や、人間が生きること、働くこと、学ぶこと、あるいは自然とのかかわり方に対する意味やその価値観の変容が求められている。

そして以前の世界にはもう戻れない。

一人ひとりが受け入れなければならない現実だ。

多くの戸惑いと困難な課題を突き付けられた、こんな時代にこそ哲学が有用だ。

自分の頭できちんと考えること。

情報を鵜呑みにするのではなく、惑わされることなく、正しく時勢を知ること。

「いま」をしっかり生きること。「自分」をしっかり生きること。いま、自分がなすべきことを知ること。いま、自分がなすべきことをすること。自分の気持ちを大切にすること。

誰かと比べないこと。自分の“物差し”を持つこと。常識は疑うこと。違和感は否定しないこと。そして、責任を持って自分の道を進むこと。その心構えがあれば、大丈夫。

キミは自由で、何にだってなれるし、どこへだって行けるさ。あの雲のように。

http://opl.cocolog-wbs.com/blog/2011/10/post-9e4f-1.html 【57.雲無心以出岫(『塊安国語』五)】 より

   雲無心にして以(も)て岫(ちゅう)をゐず

本文抜粋

この語は、もと陶淵明(中国・晋代の詩人・427年没)の田園詩「帰去来辞」にあります。白隠は、自著の「槐安国語」に対句の「鳥倦飛而知帰(鳥、飛ぶに倦(う)んで帰ることを知る)とともに引用している。岫(しゅう)は山の洞穴や巌(いわ)の穴です。この穴から湧き出る雲が「岫雲」です。禅語として用いる時は、自己を忘れた、自我にとらわれない、いわゆる我執がとれて自由に行動できる心境をあらわします。これを禅者は「任運無作の妙法」と呼びます。「任運」は、少しも私心を加えることなく自然に動く、真理のまにまに動くさまをいいます。「無作」は、人間的なはからいや技巧がないのをいい、この無心の動作が「妙用」です。すなわち「雲無心以出岫」です。 ・・・ また対句の「鳥倦飛而知帰」に、自分を動かす大きな力が背後に無意識の存在として実在することを知ります。しかもこの力は、”倦む”という好ましからぬ契機によって自覚されたのです。人生に疲れると、私たちは帰るところのあることに気づかされます。陶淵明の「帰去来兮(ききょらいげい)(かえりなんいざ)」ーさあ帰ろうよ! の呼びかけは、地上の家郷だけでなく、心のふるさとへの望郷の願いです。自分の中のもう一人の自分が、”いつまでも我欲を追求する放浪の旅を続けるな、はやく本心に、純粋な人間性に立ち返れ”と、この現実の自己を招く声だ、と禅者は聴くのです。

注)・・・は本文の省略部分を表す

禅語は、禅僧の発した言葉だと思っていたらそうではないのですね。

仏の教えが含まれていればそれも禅語だと知りました。

「鳥倦飛而知帰」はありがたい。

我々仏教徒には帰る場所があることを教えてくれる。

「この世に倦んだらあの世」

まてよ、あの世にもいろいろあるぞ!六趣十界

心配するな対策もある。

『それ摩訶衍の禅定は 称嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 その品多き処善行 みなこの中に帰するなり』

http://www2.higashiomi.ed.jp/kenkyu/?action=common_download_main&upload_id=1303

【雲無心にして以って岫を出ず】東近江市教育研究所 所長 中野正堂  より

今年の春は、真夏のような暑い日があるかと思えば、真冬のような厳しい寒さが戻ってきたり、体調管理が大変難しい日が続きました。

ここにきて、子どもたちが初夏の心地よい風の中で思いっきり活動できるようになってきました。私は、この時期になると冒頭の言葉を思い浮かべます。

「岫(しゅう)」というのは、山の中にある洞穴のことです。「新緑の木々が吐き出す新鮮な蒸気が、洞穴から出てくる風にのって山の端から真っ白な雲となって湧き出てくる」こんな清々しい情景を見事にうたっています。

これは魏晋南北朝時代の詩人、陶淵明(385~427)の『帰去来の辞』の中の一句です。役人として国事に奔走しながら、束縛されることを嫌い官職を辞して故郷に帰る決意をしようとした陶淵明の目に、無心に湧き出る白い雲が鮮烈な印象を与えたのだと思います。

今、教育の場にはさまざまな課題が山積し、もともと元気いっぱいの先生方も少し疲れ気味になることもあるかと思います。

私はこのようにやや元気がなくなったとき、身近なところの山や川、きれいな花や美しい緑に目をやり、心の中で「さわやか」と呟くことにしています。不思議なことに少し元気が戻ってきたような気がします。

無心に湧き出る雲に促され陶淵明は故郷に帰りました。

子どもたちの無心な笑顔に促され、私たちは、教職を自分の仕事として選んだときの、心の原点に帰ってみることも大切なのかもしれません。

暑さがつのって来ます。梅雨もやって来ます。どうか皆様健康に留意されますように。

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