和歌と禅⇒俳句の誕生

https://smcb.jp/diaries/7626667 【和歌と禅⇒俳句の誕生】 より

俳句の誕生和歌と禅との関係韻の源流黒潮由来

今週、図書館で長谷川櫂1954年生著「俳句の誕生」2018年3月10日刊をみた。

日本伝統の和歌から、江戸時代に芭蕉が俳句をつくり、明治時代に正岡子規が近代俳句を確立した…と昔習った。

勿論和歌は、万葉集から古今和歌集や新古今和歌集で知る。

ここで著者は日本古来の心情を伝える和歌から、近代俳句が成立するには12世紀前半に南宋より渡来した禅宗の影響を受けたと…掘り下げ概略すると;

①7世紀後半8世紀前半柿本人麿万葉集古今和歌集

②12世紀宋の禅問答

*宋の黄庭堅~1105年:*師;眛堂祖心~1100年

・悟りへの最短路の開示・吾爾に隠すこと無し

・言葉以前の世界は、言葉以前の過去にあったのでなく、未来永劫に言葉の向こうに存在する

・そのベールに言葉の切れ目を入れて、言葉以前の世界に目覚めさせるのが禅の問答である

③12世紀にこの南宋禅思想にさらされた和歌は、言葉の論理では宇宙の真理に到達出来ない禅思想に直面、切り刻まれ断片となり連結された

④そして、言葉と言葉の間の空白の時空に和歌で捉えられなかった新しい世界;

○大朝和歌の胎内に禅の思想を育む→新古今和歌集

∴ほととぎすその神山の旅枕/ほのかたらひし空ぞ忘れぬ;式子内親王、これは禅の⇒

  問;ほととぎすその神山の旅枕

  答;ほのかたらひし空ぞ忘れぬ

*当時達磨歌=禅的歌

*藤原定家;新古今和歌集1162年~1241年

⑤こうした流れの中、和歌が大衆化して室町→安土桃山→江戸と時代に曝されてきて、風刺の川柳迄庶民化した。

(和歌が堕落したと考える人が…)

⑦そこに禅的な魂を求める芭蕉が、和歌から切り取った五七五に魂を入れる俳句を創った。

子規はそれを文学的な近代装いした。

[以上]

 紙や文字溢れる青春時代は和歌も俳句もガラクタ知識だった。でも川柳は親や隣家おばさんや兄さんも家族や孫風景を切り取り、野良仕事の手慰みにしていた。

また現役時代は、工場の所長なども生産活動や規律風景を詠んで皆にメール配信していた。

OB会誌等にも会員は、和歌と川柳で同期旅風景を載せる。

勿論五七五七七の韻詩歌は、年齢職業問わず心情表現の重宝な言葉遊びだ。

心読む 和歌の世界は もう遠い 川柳もどき 言葉で遊ぶ 五七五

和歌の源流 インドなり 黒潮たどり 終着日本 インドには マドラス図書(館)に

韻踏みの ラーマヤナあり 源流歌だ

(やまと歌の韻源流は紀元前6世紀ドラビタ・インドヒンヅゥ―文化にある)

中国の 漢詩の韻は 律違う 昔は疑問 今は明快

(日本の和歌は漢字は中国のもの借りているが、訓読み方と韻律は中国と異なるヒンズー・ドラビタ文化が源流*1)

日本とは 和歌の韻中 痕跡を うたの源流 黒潮由来

日本語は やまと言葉に 漢字借り 巧み表現 平仮名補完

〈和歌から俳句への触媒は禅問答論考〉

*1;四半世紀前東南アジアに単身赴任したとき習いまた本を読んだ。バハサ(マレー語)習ったら、"主語+目的+動詞+肯定否定"の文脈順序は日本語に同じ。だが時制は現在形だけで、報告や指示命令や科学論文の文章記述は無理、口語伝達用語と知る。

日本語も江戸迄そうだが、明治時代に英語から9種類の時制が入り我々の頭は"過去→現在形→未来"思考表現ができる。

そこで言葉や言語に興味でてきて、大野晋「日本語の起源」を読破し、やまと言葉は黒潮文化由来を知った。

学会では異端説だが、東南アジアの言葉を勉強・経験実地で知るとあながち荒唐無稽ではない源流を感じる❗

例;大野安万呂・柿本人万呂の「万呂」は"王族"=ma-lue⬅ドラビタ語→近代では近衛文麿の"麿"がある。

*やまと言葉例;膿む・ほとり・畝・畦・まほろば・くだ=菅・腐る・汚れる・穢い・御祓・ねき

https://www.keio-up.co.jp/kup/sp/izutsu/doc/x1y4.html 【新古今和歌集】 より

「新古今が好きで古今集、新古今集の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえある」。 司馬遼太郎との対談「二十世紀末の闇と光」での井筒俊彦の発言である。「専門にやろう」というほどの思想的関心を和歌に抱いていたことを、彼自身がいったのはこの時がはじめてである。この対談が、井筒俊彦の公の場に出た最後の機会になった。

和歌における思想的構造の意味論的研究、この分野は、今にちも未だ黎明期である。万葉集を対象に佐竹昭広、あるいは白川静が論考を書き、それぞれ秀逸な成果を残しているが、古今集さらには新古今集まで領域を広げると、ほとんど着手されていないといってもいいのではあるまいか。

和歌における意味論の研究に本腰を入れることを考えた時期とは、おそらく彼が慶應義塾大学で1951年「言語学概論」の講義を開始した時期からLanguage and Magic (1956年)が書かれるまでの間だろうと思われる。

Language and Magicでも主に万葉集に触れ和歌における言語論、あるいは言霊論が展開されている。 しかし、彼がいう「思想的構造の意味論的研究」は、言霊論や言語創造論とは異なる様相を呈しただろう。手掛かりが『意識と本質』にある。

佐竹昭広と白川静がともに注目したのは万葉集における「見ゆ」の世界、古代人における「見る」の意味論である。「見る」ことは人間を超える世界に触れるということに他ならなかった。

それは神との交わりと神への賛美と神が遍在する世界への祝福を意味した。しかし、万葉集の時代に中核的役割をになったこの一語も、古今集になるとほとんど同様の用法が見られなくなる。

古今和歌集の「仮名序」はよく知られている。「和歌(やまとうた)は人の心を種として、よろずの言の葉(ことのは)とぞなれるける」、また「花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」。

和歌はこころを種子とする言葉によって生まれる、すべての存在者はあまねく歌を歌うというのである。新古今和歌集にも同じく漢文の「真名序」と仮名で書かれた「仮名序」がある。大和歌は、昔天地開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国(なかつくに)の言の葉として、稲田姫素鵝の里よりぞ伝わりける。

同様の文章は古今集の序にもある。だが、古今は、存在者が発する「コトバ」はすべて歌であるという歌の発生形態と一元性を論じたのに対し、新古今はまず、歌、すなわち「コトバ」の起源から論じ始めているのは興味深い。

古今集は四人の撰者によって編まれた。「仮名序」を書いたのは紀貫之とされているが、そこには個人の意思の反映はなく、あるのは和歌に真実在を発見した精神的共同体の鮮烈な宣言である。さらに新古今の「仮名序」には、古今集以来の勅撰和歌集を踏襲するに留まらず、世界観の転換をはかりたいという声明が刻まれている。

古今の時代、「眺め」は、折口信夫のいう通り、春の長雨のとき、「男女間のもの忌につながる淡い性欲的気分でのもの思い」を意味した。

しかし、新古今の時代になると様相が一変する。「眺め」とは情事を示す一語に留まらない、存在論的な「意味」を有するようになる。現象界の彼方を「眺め」ようと試みる歌人、現象的には詩人だが、精神史上の役割においては、彼らはむしろ「哲学者」だった。

 「彼は天稟の詩魂を有つ詩人であることによって、ギリシア形而上学の予言者となった」と井筒俊彦が『神秘哲学』でクセノファネスを論じていった同じ言葉が、新古今の歌人たちにむけて発せられたとしても、驚くに当たらない。

「眺め」とは、「『新古今』的幽玄追求の雰囲気のさなかで完全に展開しきった」とき、「事物の『本質』的規定性を朦朧化して、そこに現成する茫漠たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識主体的態度」であると井筒俊彦はいう。

「眺め」ることが即時「存在」との応答になる。「一種独得な存在体験、世界にたいする意識の一種独特な関わり」となるというのである。

 古今集以降の和歌において、倭詩(やまとうた)の決定的な変貌を論じ、中世に流れる「幽玄」の精神を現代に蘇らせたのは風巻景次郎である。『中世の文学伝統』は大部の書ではないが、彼の主著であり、日本古典文学研究が精神史の一翼を担うことを鮮明にした書として記憶されなくてはならない。和歌は、倫理と道徳あるいは宗教の世界に収まりきらない、魂の現実が言葉を通じて直接自らを表現したものだと彼はいう。歌人は一個の通路であるというのだろう。

 初版が刊行されたのは1942年、戦後1947年に復刊する。井筒俊彦が読んだのはおそらく「古今・新古今」に向き合っていた頃だろう。

日本文学史の決定的に重要な一時期、『中世』、への斬新なアプローチを通じて、文学だけでなく、より広く、日本精神史の思想的理解のために新しい地平を拓く。(「私の三冊」)

井筒俊彦73歳の時の『中世の文学伝統』評である。和歌、すなわち日本の詩を巡る彼の詩作はその半生を貫いた。

 井筒豊子は俊彦の妻でもあるが、独立した一個の思索者である。小説集、複数の訳書もある。しかし、彼女の業績のなかで最も注目するべきは和歌における「思想的構造の意味論的研究」である。

 成果は「言語フィールドとしての和歌」、「意識フィルールドとしての和歌」(雑誌「文学」岩波書店)そして「自然曼荼羅」(岩波講座 東洋思想『日本思想』岩波書店)の3部作に見ることができる。私たちはそこに井筒俊彦が畏怖と深甚な感動を覚え、蠱惑的と感じた世界へ単独で進んでいった一人の女性を発見するのである。

 井筒俊彦がこれらの論考を評価していたことを書いておきたい。井筒豊子については、改めて別稿で論じることになるだろう。


https://blog.goo.ne.jp/fugetu3483/e/37964eef7ed594c444fd225f1b093892 【道元禅師の和歌について(その1)】 より

曹洞宗の開祖である道元禅師(1200~1253)には『正法眼蔵』『永平清規』『永平広録』『学道用心集』『普勧坐禅儀』等の著述の他に『道元禅師和歌集』が編まれている。この和歌集については『傘松道詠』の呼称のほうが耳に親しいかも知れない。この『傘松道詠』という呼称は、江戸時代の宗学者、面山瑞方(1683~1769)が名付けたという説が、現代の研究では定説となっている。

この和歌集の成立は明確ではないが、道元禅師ご自身はご自詠の和歌を一冊にまとめたのではなく、後世の者が一冊としたようである。この和歌集についての最古の記述としては応永27年(1420)に宝慶寺の8世である喜舜和尚が「書写」して、当時首座(しゅそー禅の修行道場で修行僧中の首位に坐する者)であった機公(後に永平寺13世となる建綱禅師のこと)に附授した という記述が残されている。この「書写」の原本は何であったか、または喜舜和尚自身が、編集して書写したのか等、成立については定かではない。

その後の書写本も幾系統かあり、所載の和歌の数にも47首から65首の異同がある。時代が下がるほど所載数が増加している。成立の問題もあり、所載数の違いもあり、『道元禅師和歌集』に収められる全ての和歌が、ご真詠であるかは断定できないのである。

しかし『道元禅師和歌集』に収められる、ほとんどの和歌は、宗教的趣きの味わい深いものである。道元禅師ほどの境涯の方でないと、詠めないのではなかろうかと考えると、道元禅師のご真詠ではなかろうかと推察しうるお歌が多い。

道元禅師のお父さんは、最近の学説では源通親(みちちか)ではなく、その子の源通具(みちとも)といわれている。通具は和歌所寄人(よりうど)であり、『新古今和歌集』の筆頭撰者である。

道元禅師が和歌について造詣が深いのは当然ともいえる。三十一文字に宗教的境界を自在に詠みこなせることは想像に難くない。『道元禅師和歌集』に収められる和歌は、花鳥風月を愛でているような和歌であっても、単なる叙景歌ではなく、宗教の風光ともいえる世界を詠み上げている。「道歌」などと表現される由縁である。

私は「中秋夜のご詠歌」については、限りなくご真詠に近いであろうという論証を、某誌上で試みた。全てについての論証はできないが、一応、禅師のご真詠であろうと思われる数首を選んで解説を試みたい。(昨年『大法輪』誌上で書かせて頂いたものや、短波ラジオで放送させて頂いた和歌について当ブログにまとめてみた。本当はラジオの放送をインターネット上でお聞き頂けたのであるが、残念ながら最近配信が終了してしまったようなので、文章化を試みたい。)

春は花なつほととぎすあきは月 冬雪さえてすずしかりけり 

この和歌は川端康成氏によって、ノーベル賞の受賞記念講演で紹介された。日本の美しい四季を詠った和歌、という解釈が一般的にはなされている。しかし私は多少違う解釈をしたい。

道元禅師の祖父といわれる源通親の和歌に「春は花 夏はうつせみ 秋は露 あはれはかなき冬の雪かな」という和歌がある。通親は若いときは権勢を誇ったが、晩年は不遇な状況におかれたようで、人の世の儚さを移ろいゆく四季に寄せて詠みこんでいる。これを孫の道元禅師は本歌となさったと思うが、禅師の和歌は全く違った次元で詠んでいるといえよう。

禅師の和歌には「本来の面目」という題が付けられている。美しい日本の四季ではないのである。春には花、夏にはほととぎす、秋には月、冬には雪、それぞれ本来の面目を現じてすずやかだというのである。

道元禅師はこの和歌の中に、花、ほととぎす、月、雪にことよせて優劣比較のない宗教の風光を展開しているのではなかろうか。花もほととぎすも月も雪も生命の真実相の現れであり、あなたも私もまた生命の真実相の現れである。(言葉をかえて言えば、無限のエネルギーの表れ。万物は無限のエネルギーを、有限の身で現じているといえまいか。この見方は私が本師から教えられた見方である。)

道元禅師の師匠は中国の如淨禅師(1163~1228)というかたであるが、この方の語に「春は梅花に在りて画図に入る」という語がある。春は梅の花が咲いてはじめて春を現しうる、というような意味であるが、道元禅師のこの和歌も同じ趣旨といえるだろう。春も夏も秋も冬も、花、ほととぎす、月、雪などの現象をもって初めて現しうるものである。

同様にあなたがいなければ、私もいなければ、今のこの世はない。而今(にこん、まさにいま)のこの世は花や月と共に、あなたや私がいて、この世を現じているとさえいえよう。そしてそれぞれがすずやかだと禅師は詠まれているのではなかろうか。一つ一つ、一人一人すずやかなのだよ、とおっしゃってくれていると、この和歌を私は読みとくのである。

人間の苦悩の原因を考えてみると、その一つに、常に他と比較して自分に落ち着けないということはなかろうか。本来天地は全く差別無し、一人一人すずやかなのですから、安心して生きていきましょう。


https://blog.goo.ne.jp/fugetu3483/e/b3bf70c49bd22626af245d3ec854c551 【道元禅師の和歌その2ー坐禅の和歌】 より

「この心あまつみそらに花供ふ 三世のほとけにたてまつらなむ」

道元禅師の和歌集の伝承本としては、原初本に近い系統の書写本、『建撕記』に所載された系統、面山開板の流布本の系統、単独伝写本の系統をあげることができる。現時点では16種類ほどが数えられる。その中で面山瑞方(1683~1769)が開板下した流布本では、この和歌に「坐禅」と題をつけている。

伝承本によっては、語句に多少の違いがあり、上の句も「空にも」と「みそらに」とあり、下の句を「たてまつらばや」としたものもある。

この心は天に捧げる花、三世の諸仏に奉る花であるという。「この心」とはどのような心をいうのであろうか。 実は「この心」というのは坐禅そのものをいう。そのように解釈できる根拠はどこにあるかというと、道元禅師の『永平広録』の中に、それを見出すことができる。

〈原文〉

上堂。云。記得。先師天童住天童時、上堂示衆曰、衲僧打坐正恁麼時、乃能供養尽十方世界諸仏諸祖。悉以香華・燈明・珍宝・妙衣・種種之具恭敬供養無間断也。(中略)師云、永平忝為天童法子、不同天童挙歩。雖然一等天童打坐来也。如何不通天童堂奥之消息。且

道、作麼生是恁麼道理。良久云、衲僧打坐時節 莫道磨塼打車、供養十方仏祖、妙衣・珍宝・香華。正当恁麼時、更有為雲為水示誨処麼。顧視大衆云、凡類何能聞見及、自家一喫趙州茶。

                         『永平広録』巻七 522上堂

〈訓読〉

上堂。云く。記得す。先師天童、天童に住せし時、上堂し衆に示して曰く、「衲僧打坐の正に恁麼の時、乃ち能く盡十方世界の諸仏諸祖を供養す。悉く香華・灯明・珍宝・妙衣・種々の具をもって恭敬供養すること間断なし。(略)」師云く、永平忝くも天童の法子となって、天童の挙歩に同じからず。然りと雖も一等に天童と打坐し来る。如何が天童堂奥の消息に通ぜざらん。且く道え、作麼生か是れ恁麼の道理。良久して云く、衲僧打坐の時節、磨塼打車は道うまでも莫く、十方の仏祖に妙衣・珍宝・香華を供養す。正当恁麼の時、更に雲の為、水の為示誨の処有りや。大衆を顧視して云く、凡類何ぞ能く聞見に及ばん、自家一たび趙州の茶を喫せん。

傍線部のみ少し注釈してみると、

如浄禅師は言われた。「衲僧がひたすらに坐禅するまさにその時、盡十方の諸仏諸祖を供養するのである。絶え間なく香華・灯明・珍宝・妙衣・種々の具をもって敬い供養しているのである」と。それをうけまして道元禅師も「私がひたすら坐禅する時は、磨塼打車はいうまでもなく、盡十方の仏祖に妙衣・珍宝・香華を供養することです。」と言われている。

道元禅師も言われるように、如浄禅師の法嗣ではあるが、まったく同じというわけではなく、この語についても微妙な違いがある。つまり、如浄禅師は坐禅は仏祖への供養と言われるが、道元禅師は更に進めて、坐禅は仏祖に供養する妙衣・珍宝・香華そのものであると言われているのである。

「この心」を「真の心」とか「清い心」などと受け取るのは間違いとさえ言えよう。心情的な解釈は道元禅師の和歌には通用しないのである。禅師は美しく優しい言葉を使われるが、実は揺るぎない力強い仏道の世界を詠いあげているのだ、と私は読み解く。禅師の和歌は和歌だけから解釈しようとすると、充分でないだろう。

『天聖広燈録』という書物の中には、須菩提という釈尊の弟子が巌の中で坐禅をしていたら、梵天(『碧巌録』のなかでは帝釈天)が花の雨を降らせたという話がある。それに対して道元禅師は、この坐禅の姿そのものが三世の仏に奉る花だという。うっかり間違えると、坐禅をして神通力を得られるのではないか、というような考えをしている人がいるかもしれない。梵天が花の雨を降らせるほどのものだ、それはすごいと感心するかもしれない。

道元禅師が言われるのはそうではなく、私自身の坐禅が三世の諸仏に捧げる花だというのである。龍樹の名は「つらつら日暮らし」和尚のブログに最近紹介された「道元禅師最後の説法」の531上堂にも出てくるように、道元禅師は龍樹(2、3世紀頃の人)を深く学んでいるはずである。龍樹の『中論』に説かれる空観を学んでいる道元禅師にとっては、坐禅こそは空そのものの体現に他ならない。瞑想とは全く違うのである。

しかし、坐禅は三世の仏に供える花である、このように美しい言葉で詠まれると、坐禅を行じる者としてはいかにも嬉しいかぎりではなかろうか。足の痛さも忘れるようにさえ思

う。そして坐禅こそは空そのものの体現に他ならないとしたら、習禅ということはなく、どの坐も、誰の坐も三世の仏に供える坐である。 

全ての人、一人一人の坐禅が、三世の仏に捧げる花。この世にこうしていただいている命の不思議。その命に坐りきろう。命は儚いものではあるが、「儚いままに永遠だ」と私の本師、余語翠巌禅師はよく言われた。永遠の命に、而今、此処に坐りきる。

お互いにただ自らのまことを尽くして生きていこう。坐禅は三世の仏に奉る花なのである。

*522上堂の語をこの和歌の解釈の裏付けとして、秋田県龍泉寺の佐藤俊晃先生が指摘なさった。

*趙州(778~897)の「喫茶去」の意味は「お茶でも飲んで出直して来い」という厳しい接化(教え)であり、「お茶でも飲みなさい」というようなやさしいものではない。駒澤大学の石井修道教授の著書にある。

*「空」については、私の頭ではとても理解し切れません。フクロウ博士のブログ「梵音」でそのうちお書きいただけると思います。また私なりに学んでみます。理解できた範囲を努力していつか書かせていただきます。フクロウ博士の教えを受けながら。

*フクロウ博士のコメントを頂きましたのでここに掲載させて頂きます。

 空 (声聞(Dr. Owl)) 2006-04-02 20:29:27

AはAではなく、BはBではなく、AとBの区別も成り立たないという、自性空の視座から見ると、「坐禅を行じる人」(主体)も「行じられる坐禅」(対象)も「行じる」ということ(行為)も存在しないということになります。ですから、「私(主体)が坐禅(対象)を行じる(行為)」という認識における、自性を立てる坐禅は、空の体現としての坐禅にはならないと言えるでしょう。空の体現としての坐禅とは、「私」が脱落しており、「坐禅」が脱落しており、「行じる」ことが脱落している、無自性の坐禅のことを言うのではないでしょうか?。

『金剛般若経』に〈諸菩薩摩訶薩応如是生清浄心。不応住色生心。不応住声香味触法生心。応無所住而生其心〉とあります。有名なくだりですね。色声香味触法の六境は私たちが把捉し得るすべての対象のことを言います。感覚器官(眼耳鼻舌身)の対象(色声香味触)だけではなく、脳みそ(意)が把捉する対象(法)も含まれています。心があらゆる対象にとどまることなく、心が生ずるということを説くのが前引の句です。「私」「坐禅」「行ずる」といった観念にとどまらずに、坐禅をする(心が生じる)といのが、空の体現としての坐禅なのではないかと思います。

先ほどの補記 (声聞(Dr. Owl)) 2006-04-03 00:16:52

先ほどの補記です。

『従容録』「第七十四則法眼質名」に

金剛經云。應無所住。而生其心。無所住者不住色不住聲。不住迷不住悟。不住體不住用。而生其心者。則是一切處。而顯一心。若住善生心則善現。若住惡生心則惡現。本心則隱沒。若無所住。十方世界唯是一心也。

とあります。「無所住」というのは、色・声・香・味・触・法にとどまらないことであり、迷い・悟りにとどまらないことであり、体や用にとどまらないことであると述べられています。「而生其心者」とは、対象に限定を設けないところ(一切処)に一心が顕現するということであると説明されています。そして、対象に限定を設けて心が生じれば、すなわち、善にとどまって心が生じれば善が現れ、悪にとどまって心が生じれば悪が生じ、本来の心(一心)は隠没してしまうのであり、対象に限定を設けずに心が生じれば、十方世界はただ「一心」のみとなるのであると説かれています。空の体現としての坐禅とは、この「一心」の顕現としての坐禅であると考えます。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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