藤原清河

https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%85%E6%B2%B3  【藤原清河】より

奈良時代の廷臣。遣唐大使として入唐し,唐土で没した。生没年不詳。藤原不比等の孫,北家の房前(ふささき)の四男。740年(天平12)従五位下,中務少輔,大養徳守を経て749年(天平勝宝1)参議となり,翌年遣唐大使に任ぜられ,752年副使の大伴古麻呂,吉備真備らとともに入唐し,長安にいたった。入唐後,河清と称し,玄宗皇帝に拝謁して君子国の使臣と称賛され,翌年正月の諸蕃朝賀の儀式では,副使大伴古麻呂の抗議が入れられ,新羅の使臣より上位に列せられた。帰国の途中,逆風にあって安南に漂着し,土着民に同船者は殺害されたが,阿倍仲麻呂とともに逃れて唐の長安に戻り,唐朝に仕えて特進秘書監となった。日本の朝廷では,759年(天平宝字3)に河清を迎える使として高元度(こうげんど)らを遣わしたが,安史の乱のため帰国できなかった。朝廷では入唐大使のまま文部卿,仁部卿,常陸守に任じ,従三位に進めたが,777年(宝亀8)に次の遣唐使が入唐したときには,すでに唐土で没していたらしく,その娘の喜娘だけが遣唐使とともに帰国した。朝廷はそののち贈位をかさね,836年(承和3)に従一位を贈った。

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%85%E6%B2%B3  【藤原清河】より

前賢故実

民部卿房前の第四子。天平勝宝元年参議になり、同二年遣唐大使に任命され、同四年に出節刀を授けられ唐へ渡った。唐の長安に入り玄宗に拝謁した。玄宗は「貴国に賢明な君主がいると聞いている。今、使者がほかの方々と違って、殿上での行儀作法の心得があるのをみて、貴国は礼儀君子国という国名に改めても宜しい。」と感心して、阿倍仲麻呂に命じて府庫や三教殿を視察する清河らの案内をさせた。玄宗はまた絵師に清河の肖像を描かせ、それを殿中に納めた。さらに、清河らが日本に帰る前に、玄宗は清河に御製詩を贈った。このとき、仲麻呂は玄宗に日本に帰りたいと奏請し、玄宗から帰国のお許しを得た。清河と仲麻呂らは同じ船で出発したが、暴風雨に遭い安南の驩州に漂着したが、土人に襲われて船員の多くが殺害されてしまった。清河と仲麻呂は長安に戻り、唐に出仕することになった。清河は河清と名を改めて、特進秘書監まで累進したが、遂に唐で亡くなった。朝廷はその訃報を聞き、彼に從二位を贈った。

玄宗御製詩

日下非殊俗(日本はとりわけ俗な国ではない) 天中嘉会朝(きみたちの唐への訪問を誉め称える) 念我懷義遠(余に朝するために、きみたちは大義を背負って遠くからきた) 矜爾畏途遥(今きみたちのことを思うと、きみたちの長い帰途を怖く感じる) 漲海寬秋月(秋月に照らされている南の海は、一層広くてゆったりとした海に見える) 帰帆駛夕颷(夕方の強い風の中で帆が孕ませ、船は帰途に急ぐ) 因驚彼君子(ここにおいて、きみたちの君主に驚かされた) 王化遠昭昭(その王化は遠くまで明るく輝いている)

清河が渡唐の日に梅花を鑑賞して詠んだ歌

かすがのに いつくみもろの うめのはな さかえてありまて かへりくるまで


https://note.com/yy1312432/n/ndf9e277acee4 【【古代】藤原清河(720年〜777年)】より

7世紀から9世紀にかけて日本は大陸の進んだ技術や文化を習得するために、遣唐使を派遣した。大帝国唐王朝への遣使は今とは想像を絶する困難を極めた。それでも、中央集権化を進め、天皇中心の国家体制の整備を邁進する日本は危険な航海を冒して海へと渡った。この意味で遣唐使の果たした役割は非常に大きい。

明治新政府が西欧から、国際法を始めとして、欧米の進んだ技術や文化を学んだように、遣唐使の彼らがもたらした新知識は日本の発展に寄与した。遣唐使として派遣されたものの多くが、帰国を果たせず、東シナ海の藻屑となっていった。当時の航海技術の未熟さや外交関係の悪化により安全な航路を進めなかったことが原因としてあるが、国家の使命を受けた若者たちは大海原へ繰り出した。

藤原清河は藤原北家の祖、房前の4男として生まれ、順調に官職を進めていく。藤原北家はのちに冬嗣が出て、天皇家と結びつき摂関政治という一時代を築く家柄だ。清河は752年、遣唐大使として海を渡り、玄宗皇帝に謁見し、君子人なりと賞賛を受けた。

 春日野に 斎く三諸の 梅の花

 かすがのに いつくみもろの うめのはな

            栄えてあり待て 還り来るまで

            さかえてありまて かへりくるまで

『万葉集』

清河は家族に帰国を待つ歌を詠み、大陸へ渡った。翌年に行われた元日朝賀の日、当時中国皇帝を中心とする帝国世界観がある中、周辺国の使節は皇帝に礼をとる。その際に周辺国間での席次が問題となるが、清河は朝鮮よりも席次が後ろであることを抗議し、結果的に日本が第一の席次となり日本としての面目を保った。

その年の12月、在唐35年に及ぶ阿倍仲麻呂や唐の高僧鑑真を伴い、帰朝の途につく。しかし、4つの船は沖縄本島から奄美に向かう途中で風に流され、日本に到着すること叶わず、清河と仲麻呂の船はベトナムに漂着した。現地の民に多くの船員が殺されたりするなか、命からがら唐の都長安に帰り着いた。この時、鑑真が乗る船は無事日本に帰着し、日本は戒律が伝わり、仏教は新たなステージに進むこととなった。

帰着叶わなかった二人は、唐朝で官職を得て、出仕することとなった。その後、759年に清河を迎えるための使節が日本から派遣されたものの、唐朝は安史の乱の混乱を理由に唐朝に出仕する官人である清河の出国を拒否した。そのため、清河の帰国は叶わず、その後2度遣唐使派遣が計画されたが、国内の混乱を理由に派遣が中止され、清河は777年、唐にて没した。

遣唐使は20回計画が立ち、派遣は16回であった。清河の没後、遣唐使が派遣されるたびに清河の死を悼んで、清河に贈位が行われ、最終的に正一位という最高位となった。

遣唐使は、古代日本にとって非常に重要な使節であり、その後の日本に果たした役割はあまりにも大きいにも関わらず、誰が何をした、どんな事があったという部分が顧みられないことが多いと感じる。日本に帰ることが叶わなかった阿倍仲麻呂や藤原清河のような人物が何を思い、偲び異国で果てていったのかを想像することは彼らがそこに確かに存在したことの証となると思う。

https://ameblo.jp/gogosyougi/entry-10874315058.html 【藤原清河】 より

藤原 清河(ふじわら の きよかわ、生年不詳 - 宝亀9年(778年))は奈良時代の貴族。藤原北家の祖である参議・藤原房前の四男。母は片野朝臣の娘。唐名は河清。官位は従三位・参議、贈従一位。

遣唐大使として入唐し、阿部仲麻呂と唐朝に仕えるも、暴風や安史の乱により日本への帰国は叶わず、在唐のまま没した。

経歴

天平12年(740年)正六位上から従五位下に叙せられる。聖武朝にて順調に昇進して天平18年(746年)には従四位下にまで昇叙、天平勝宝元年(749年)の孝謙天皇即位に伴い参議に任ぜられ、兄・永手に先んじて公卿に列した。

天平勝宝2年(750年)9月、清河は遣唐大使に任じられる[1]。副使には大伴古麻呂と吉備真備が任じられた。天平勝宝4年(752年)閏3月、出発にあたり清河は節刀を拝し、正四位下に叙される。遣唐使一行は唐に到着して長安に入り、玄宗に謁し、君子人なりと称賛された。

天平勝宝5年(753年)1月、諸藩の朝賀に出席。日本の席次が西畔(西側)第二席で吐蕃の次であるのに対して、新羅が東畔第一席で日本より上席であったことに抗議し、新羅と席を交代させ、日本の面目を守っている。

同年12月、清河ら遣唐使一行は、在唐35年におよび唐の高官にもなっていた阿倍仲麻呂を伴い帰国の途につく。日本への渡航を望む鑑真一行が乗船を希望したが、唐が鑑真の出国を禁じたため清河は乗船を拒否した。しかし、副使の大伴古麻呂が独断で鑑真を自身の船に乗せる。遣唐船は楊州を出航したが、清河と仲麻呂の乗る第一船は逆風に遭い唐南方の驩州(かんしゅう)(現在のベトナム北部)に漂着する[2]。土人に襲われて船員の多くが害されるが、清河と仲麻呂は僅に身をもって免がれた。一方、鑑真を乗せた第二船は無事日本へ帰国した。天平勝宝7歳(755年)清河と仲麻呂は長安に帰着。清河は河清と名を改めて唐朝に出仕することになり、秘書監になった。

天平宝字3年(759年)清河を迎えるため高元度を大使とする迎入唐使が渤海国経由で入唐した。しかし、当時は安史の乱により唐は騒乱状態であったため、行路の危険を理由に唐朝は清河の帰国を許さなかった。天平宝字7年(763年)日本では清河を在唐大使のまま常陸守に任じ、天平宝字8年(764年)従三位に昇叙している。

清河は帰国できないまま在唐十余年に及び、宝亀8年(777年)次回の遣唐使が入唐したが、翌年、清河は唐で客死した。唐からは路州大都督の官が贈られた。なお、清河は唐の婦人と結婚して、喜娘という娘を儲けており、喜娘は宝亀の遣唐使に伴われて来日した。

日経225先物オーバーナイト配信・EO225

Q&A

philip_morris1969さん

なぜ、漂着するのは、決まって種子島なんでしょうか?

1隻くらい、隣の屋久島に漂着してもおかしくないと思うんですが、鉄砲に代表されるように、漂着するのは決まって種子島。屋久島に漂着したというのは聞いたことがないです。

過去(前近代)に、外国船が、屋久島に漂着したということはありますか?

ベストアンサーに選ばれた回答

agon_1969さん

●「屋久島・湯泊地区」の湯泊神社では、祭礼・湯泊神社大祭で笠踊りが奉納されます。

その笠踊りは、町の無形民俗文化財に指定されているのですが、

江戸時代末期~明治時代初め頃に、湯泊海岸に漂着した糸満人が教えたとされてます。

752年に遣唐大使『藤原清河』。遣唐副使『大伴古麻呂』。遣唐副使『吉備真備』らが4隻の船で入唐(中国入り)します。

753年に遣唐使一行が帰国する際、遣唐大使『藤原清河』は日本に来ようとする『僧侶・鑑真』の乗船を拒否した。

それを聞いた遣唐副使の『大伴古麻呂』は密かに『鑑真』を自分の船に乗船させた。

遣唐使船が出航して、ほどなく暴風が襲い、『藤原清河』の大使船は遠く南方まで漂流したが、『大伴古麻呂』の副使船は持ちこたえ「屋久島・尾之間」のミヤカタという磯に漂着します。『吉備真備』の副使船も「屋久島」に漂着し、その後2隻の副使船は合流して帰路に着いた。という記録があります。

屋久島に漂着した船の記録・資料を探しましたが、上記の2例しか見つけられませんでした。

(略)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000