蓮の骨

https://mokuenn.jugem.jp/?eid=401 【「蓮の骨」】より

 蓮は冬になると枯れたり、茎が折れて水に没したりして哀れな姿を見せる。「枯蓮」「蓮枯るる」の季語と共に「蓮の骨」という季語がある。しかし、この「蓮の骨」を載せていない歳時記も多く、或る意味では「詩情性」が無いと嫌われている季語でもある。先日、千葉公園の大賀蓮の池に行くと、正に「蓮の骨」を目の当たりにした。

  枯れ尽くし全て折れ伏す蓮の骨    昌文

 この句は直ぐに出たが、この様に季語を説明する句は真っ先に落とされるであろう。「季語の説明である」と、云われない句を作るには、新しい観点、視線、表現力が問われて来る。「~尽くし」などの常套的表現では、作者の心を映していないし、ましてや読者の心を打つことは出来ない。ここが、「一句一章」の俳句の難しい処である。

  最後には虚とも実とも蓮の骨   昌文

  折れ伏せる虚像実像蓮の骨    〃

 蓮の茎とその水に映る影を「虚実」と表したことで、少しは良くなったかも知れない。だが、これは「見ただけ」であり、自分の「想い」を入れて、もう一歩掘り下げたいと思う。

  決断を下す淋しさ蓮の骨     昌文

 昔の仕事上でも現在でも、重い決断をする時の一種の虚しさと淋しさを、「蓮の骨」の殺伐たる気韻に合わせたのであるが、これで如何であろうか・・・


Facebookはる ひなたさん投稿記事【人の死が私たちに教えてくれこと】

お客様で、連絡が取れない方がおられ気になっていました。

先程、その方と親しい方から亡くなられたことを知らせていただきました。

その瞬間、胸がぎゅっと縮むような感覚があり、言葉にならない衝撃が広がりました。

姿はもう見えないのに、その方の笑顔や声、雰囲気がふと心の奥に浮かんできます。

寂しい気持ちが続いています。人の死に触れると、私たちは急に深い場所に引き戻されます。

日常のペースとは違う、静かな世界に足を踏み入れるような感じです。その中で、死はたくさんのことを教えてくれます。

ひとつは、今日という時間は永遠ではないということ。だからこそ、人との出会いも、言葉も、しぐさも、当たり前に思っていた瞬間がどれほど貴重だったか気づかされます。

そしてもうひとつは、人は亡くなっても完全に消えるわけではないということ。

姿はなくても、その人と過ごした時間の温度、心に残った言葉、やわらかい気配、胸に灯る何か。そういったものは、思い出とは別の形で生き続けます。

人は、別の世界へ移っても、こちら側に残したものは消えません。死は終わりではなく、形が変わるだけです。肉体は離れても、魂は軽くなり、こちらと違う流れの中へ進んでいくと言われています。そこには痛みも不安もなく、静かに休める場所があります。

私は、彼女の魂がその場所で安らかであることを、心から願っています。

人の死は、私たちに3つのことを伝えてくれます。

ひとつめは人とのつながりは、命が終わっても途切れないということ。

2つめは今という時間を大切にすること。

3つめは自分はどう生きたいのかを改めて問いかけてくること。

死に触れると、自分の人生を見つめ直すように心が動きます。本当に進みたい方向はどこなのか。誰と、どんな日々を重ねたいのか。そんな問いが静かに浮かんできます。

今回のことを通して、改めて思います。私たちはいつか必ず別れを経験します。

それでも、人と出会い、つながり、誰かの人生のひとときに触れられることは本当に尊いことだと。今、胸の奥にあるこの寂しさは、その方とのつながりが存在していたからなのでしょう。そして、そのつながりはこれからも形を変えて続いていきます。

彼女の魂が向こうの世界で安らいでいますように。そして、残された私たちが、今日を丁寧に生きていけますように。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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