闘いは未だ終わらず枯蓮

https://ameblo.jp/yujyaku/entry-12644190034.html 【闘いは未だ終わらず枯蓮】より

闘いは未だ終わらず枯蓮( たたかいは いまだおわらず かれはちす )

先日行った植物園では、目新しい花はなく、紅葉は枯葉となって散り、道には落葉が積もっていて、むせ返るような朽葉の匂いが漂っていた。

そんな中、いつものように園内をゆっくりと回ったが、園の北方に位置する蓮池の方に行くと、蓮の茎が折り重なり、枯れた葉がベージュの帽子(チューリップハット)のように垂れ下がっているのが見えた。

俳句では、こんな状態を「枯蓮、枯れ蓮(かれはす、かれはちす)」あるいは「蓮の骨」と呼び、冬の荒涼とした情景を表す季語にしている。

本日の掲句は、そんな「枯蓮」を見ながら詠んだ句だが、上五の「闘い」は依然収束の見通しが立たない「コロナ禍」及び「米大統領選挙」にかけたもの。

後者の方は、表向き14日でほぼ確定したと言われているが、裏情報によれば、もう一波乱ありそうな気配である。

尚、秋に入り、蓮の葉が敗れ始め頃のものを「破蓮(やれはす、やれはちす)」といい秋の季語になっている。「敗荷」とも書くが、この熟語の「荷」は「はす」を示す。

因みに、「枯蓮」に関しては、過去に以下の句を詠んでいる。

【関連句】

① 憐れなる破れかぶれや枯れ蓮

② 枯蓮を見遣る紅葉の赤々し

③ ノッポさんのシャッポのごとく枯はちす

①は、最後の最後まで頑張ったが遂に力尽きた様子を「枯れ蓮」にかけて詠んだもの。②は、「紅葉」との取り合わせで詠んだ句。「紅葉」が秋の季語なので季重なりとなるが、実景がそうなので止むを得ない。

③の「ノッポさん」は、NHK教育テレビの「なにしてあそぼう」に出演していた俳優の愛称。「シャッポ」とはフランス語で帽子のこと。

「枯蓮」「枯れ蓮」に関して詠まれた句は非常に多い。本ブログでも、これまで何句か紹介したことがあるが、以下には、それ以外のものを選んで掲載した。

【枯(れ)蓮の参考句】

枯蓮のうごく時きてみなうごく(西東三鬼)

生ぬくき雨こぼれけり枯蓮 (石橋秀野)

枯蓮や空ゆく風につれさやぎ (橙黄子)

枯蓮のどの影となく動きけり (鉄谷佳子)

美しき空とりもどす枯蓮 (小川千賀)


Facebook一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)さん投稿記事

私の考えに共感してくれた方が素敵なエッセイをnoteに寄せてくれました。

60歳は「締めくくり」ではなく「やっと半分」。「成功」の次に来る「完成」の人生とは。

「役割」を手放し本当の「自由」に気づくまでのプロセスが見事に描かれています。

60代からの人生が「こんなに自由だった」と気づくまで より

共生

「何をしてもいい」という、重すぎる自由

会社員人生のゴールテープを切った翌日、私の手には真っ白なスケジュール帳だけが残されました。長年夢見た「自由」のはずなのに、胸に広がったのは、奇妙なほどの戸惑いでした。

世間を見渡せば、60代の生き方は二極化しているように見えました。

片や、「リスキリングだ」「まだまだ働ける」「新しい挑戦を」と、活動的(Active)であることを求める声。

片や、「もう頑張らなくていい」「手放すことが勝ちだ」「何もしなくてもよい」と、静的(Passive)であることを勧める声。

私は、その両方の「べき論」の狭間で、身動きが取れなくなっていました。

「あるべき姿」になれない私

焦燥感から、私も「活動的なシニア」になろうと試みました。地域のデジタル講座に顔を出し、流行りの「おてつたび」のような記事を読み漁る。けれど、どうにも心が躍らない。「世間から取り残されまい」とする焦りだけが空回りしているようでした。

では、「手放す」のはどうだろう。

「何もしなくてもよい」と自分に言い聞かせ、ぼんやりと1日を過ごそうと試みます。しかし、長年染み付いた「何かをしなければならない」という強迫観念が、罪悪感となって私を苛みます。「何もしない」というのは、私にとって「何もしない」という、別種の“仕事”のように難しいものでした。

活動的にもなれず、かといって、心から休むこともできない。60代の「自由」とは、こんなにも窮屈なものだったのか。そんな葛藤が続いたある日、ふと気づいたことがありました。

私が本当に「手放す」べきだったもの

近所のカフェで、ただコーヒーを飲みながら、窓の外を眺めていたときです。私は、スマホでずっと気になっていた植物の名前を調べていました。誰に頼まれたわけでも、仕事に役立つわけでもない。ただ、知りたいから知る。

その小さな喜びに没頭している自分に気づいた瞬間、霧が晴れるような感覚がありました。

私が縛られていたのは、「役割」でした。

「Activeであるべき」という社会の役割。「Passiveに休むべき」という新たな役割。

私が本当に手放すべきだったのは、趣味や仕事ではなく、「他人の物差し」や「社会規範」そのものだったのです。

データによれば、60代とは、キャリアや子育てに追われた50代を底にして、再び「自分軸で生きられる」と感じる割合がV字回復する年代だといいます。

私は、他人や世間の目を気にする必要から解放され、ようやく「自分軸」を取り戻すスタートラインに立った。そう、「何をしてもいい」し、「何もしなくてもいい」。「何をしたいか」を、自分で決めていい。

「ああ、こんなに自由だったのか」

真っ白だった未来のキャンバスが、不安の対象から、何でも描けるとびきりの可能性に見えた瞬間でした。

ある本の一節に「人生の後半期は『成功』ではなく『完成』を目指す時期だ」とありました。誰かと比べる「成功」ではなく、自分自身を「完全にする」ために、得たものを「わけ与える」生き方。

まさにこれだ、と思いました。

私の「自由」は、壮大な起業や世界一周にあるのではありません。興味の赴くままに植物の名前を調べ、美味しいコーヒーを味わい、そして、この小さな「気づき」を、かつての私のように悩む誰かにそっと「わけ与える」こと。

人生120年時代と言われる今、60歳はまだ人生の半分。

私の「完成」に向けた人生の黄金期は、どうやら、今ここから始まるようです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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