山柿の門

https://www.manreki.com/library/kikaku/01haru-hitomaro/kashin/kashin.htm 【「歌の聖」から「歌の神」へ】より

1.はじめに

 越中に赴任してきた翌年の天平19年(747)春、大伴家持(おおとものやかもち)は大病をわずらい、病床にあった。その病も快方に向かっていた3月3日、大伴池主(おおとものいけぬし)に贈った歌(巻十七・3969~3972)の題詞のなかで、家持は「山柿の門(さんしのもん)」について語っている。

  幼年に未(いま)だ山柿の門に逕(いた)らず、 裁歌の趣(さいかのおもぶき)、

  詞(ことば)を■林(じゅりん)に失ふ。

 家持は、尊敬する先人として「山柿」を強く意識していた。この「山柿」は誰を示すのか。古来いくつかの説が提示されてきたが、そのひとりが柿本人麻呂であることはまちがいない。家持にとって人麻呂は、先人としてつねに意識しなければならない歌人だったのである。

2.歌の聖・人麻呂

 平安時代のはじめ、最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)『古今和歌集』の仮名で書かれた序文(「仮名序(かなじょ)」と呼んでいる)のなかに、柿本人麻呂が登場する。

いにしへより、かくつたはるうちにも、ならの御時よりぞ、ひろまりにける。

かのおほむ世や、哥の心を、しろしめしたりけむ。かのおほむ時に、おほきみつのくらゐかきのもとの人まろなむ、うたのひじりなりける。

 文武天皇の時代に、「正三位柿本人麻呂」が「歌の聖(ひじり)」として活躍していたという。しかし、人麻呂が「正三位」であったという史料はなく、むしろ『万葉集』からすると、位の低い歌人であったと考えられる。

 人麻呂の活躍した時代から約200年が経った平安時代のはじめ、すでに人麻呂は「歌の聖」として伝説化していた。その後、『古今和歌集』が歌人たちの手本として重視されるなかで、人麻呂はますます「歌の聖」として崇拝されてゆく。

 この「歌の聖」となった人麻呂の歌が、『古今和歌集』に7首ある。しかし、すべて「読み人知らず」の歌に、「ある人の説」として「人麻呂作」と注記されていることから、真作ではないとする考えが支配的である。しかし、この7首のなかに、後世人麻呂の代表作として考えられた歌がある。

  ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ

 (巻九「羈旅歌(きりょか)」)

 「余情」の最高傑作と考えた藤原公任(ふじわらのきんとう)にはじまって、この歌は人麻呂の真作としてひとり歩きしはじめた。さらには、この歌をめぐる秘伝までもが、まことしやかに語られるようになってゆく。人麻呂は、『万葉集』そのものではなく、『古今和歌集』にあるこの歌をもとに、さらにあらたな「人麻呂」像が生成されてゆくこととなるのである。

3.人麿影供のはじまり

 鎌倉時代の説話集『十訓抄(じっきんしょう)』に、人麿影供(ひとまろえいぐ)のはじまりをめぐる逸話がある。

 歌をうまく詠みたいと日ごろから人麻呂を念じていた藤原兼房(かねふさ)の夢のなかに、人麻呂が現れた。それは、直衣(のうし)・指貫(さしぬき)・烏帽子(えぼし)姿で、左手に紙、右手に筆を持って、なにか考えこんでいる、どうみても「常の人」には見えない姿だった。夢から覚めた兼房は、すぐさま絵師を呼んで、夢に見たこの人麻呂の姿を描かせて、毎日拝礼した。そして、そのご利益で、歌がうまくなっていった。この絵像は、兼房臨終に際して、白河院に献上され、宝物として「鳥羽の宝蔵」に納められることとなる。その後、藤原顕季がその絵像を借り出して、写し描かせた。そこに、人麻呂をほめたたえる文章と、『古今和歌集』の「ほのぼのと明石の浦の…」の歌を書き加えてご本尊として崇拝するようになり、人麿影供がはじまった。元永元年(1118)6月16日のことである。

 影供とは、崇拝する神仏や人物の像をかかげて、供物をそなえ礼拝する儀式のことである。

 平安時代末に活躍した歌人藤原顕季にはじまる歌道家六条家(ろくじょうけ)では、このときの絵像が子孫に代々受け継がれて、人麿影供は欠かすことなく続けられた。さらに鎌倉時代になると、影供と歌合(うたあわせ)が結びつくようになって、人麻呂崇拝は、ひろく歌人たちのあいだに広がっていった。

 人麻呂像を礼拝する儀式であった影供の普及は、ますます人麻呂を神格化することにつながり、歌道を宗教的に方向づける役割も果たした。同時に、人麻呂の姿が描かれたことが契機となって、人麻呂もふくまれる「三十六歌仙絵」が多く生み出されることにもなった。そのため、さきの逸話に語られる兼房の夢に現れた人麻呂が、三十六歌仙絵の人麻呂像の基準となるのである。

 『古今和歌集』の仮名序のなかで「歌の聖」とされた人麻呂は、平安時代末にはじまる人麿影供という儀式の普及とともに、「歌の神」というあらたな役割をあたえられることとなるのである。

4.「歌の神」への変容

 「人麿影供」という儀式の普及によって、人麻呂は「歌の聖」から「歌の神」へと変容していった。

 藤原顕季(あきすえ)が人麿影供をはじめておこなった平安時代の終わりごろ、歌人として活躍した住吉大社第39代神主津守国基(つもりくにもと)は、和歌浦玉津島神社(わかのうらたまつしまじんじゃ)の祭神「玉津島明神(衣通姫・そとおりひめ)」を住吉大社(すみよしたいしゃ)の神として迎えた。これ以降、航海の神であったはずの住吉明神は、あらたに「歌の神」としての役割も担うこととなるのである。

 そのころ、顕季にはじまる六条家が人麻呂を崇拝したのに対して、藤原定家(ふじわらていか)を輩出した御子左家(みこひだりけ)では、定家の父俊成(しゅんぜい)が住吉明神と玉津島明神を平安京に勧進して「新玉津島神社」を創建し、歌の守護神として崇拝していた。

 もともとは別々の「歌の神」として崇拝されていた人麻呂・住吉明神・玉津島明神の3神は、住吉=玉津島、住吉=人麻呂など、それぞれが同一神の化身であるかのように混同されたりしながら、徐々に歌の守護神「和歌三神」として、まとめて崇拝されるようになってゆく。

 人麻呂は、もはやたんなる「歌の聖」ではなく、「和歌三神」のひとりとして「歌の神」というあらたな地位を獲得したのである。そして、このような人麻呂崇拝は、歌人たちだけでなく、連歌師や俳人たちにまで深く浸透してゆくこととなる。

 そのような人麻呂が「歌の神」としてあらためて注目されるのは江戸時代の中ごろ、享保8年(1723)である。この年は、人麻呂の一千年忌にあたる年とされ、明石人丸神社(兵庫県)と高津柿本神社(島根県益田市)に対して、朝廷から正一位が贈位され、祭神を「柿本大明神」、社号を「柿本社」とするという宣命(せんみょう)が下された。『古今和歌集』の仮名序のなかで「正三位柿本人麻呂」と記された「歌の聖」人麻呂は、「正一位柿本大明神」という神の最高位にのぼったのである。

 しかし、このような人麻呂崇拝は、やや変化した形で民間にも浸透していた。人麻呂は「人丸」と書く場合が多く、その音にかけて「火止まる」や「人産まる」と解釈し、防火、安産の神として信仰していたのである。つまり、民間の人麻呂崇拝は、たんに最高位の大明神として霊験にあずかる対象にすぎなかったのだろう。

5.さいごに

 昭和3年に主婦の友社は昭和改元を記念して、『万葉集』のなかから名歌を読者投票で100首選んで「萬葉百首絵かるた」を作成した。この100首のうち人麻呂歌は、「人麻呂歌集」歌をふくめて11首選ばれている。『万葉集』中最多の歌数を誇る家持でさえ5首であることから、この数字はかなり多い。

 また、アララギ派の歌人斎藤茂吉は、人麻呂を崇拝しつつ、人麻呂研究に没頭して『柿本人麿』全5巻の大著を完成させた。とくに、人麻呂の自傷歌に詠まれた「鴨山」を終焉地として探索を続け、ついに島根県湯抱温泉がその地であるという結論に達したときの感激を、つぎのように歌いあげた。

  人麿がつひのいのちを終はりたる鴨山をしも此処と定めむ (昭和12年11月)

 長く『万葉集』を代表する歌人は人麻呂だった。いまもそう考える人は多いだろう。たしかに当館が収集する研究論文や書籍のなかでも、人麻呂に関わるものはとくに多い。その点で、『古今和歌集』の仮名序にはじまる人麻呂崇拝の流れは、いまも脈々と続いているのかもしれない。


https://note.com/masachan5/n/n215bf88de72c 【万葉集 山柿の門を考える】より

 万葉集の和歌の世界で古今和歌集の仮名序で柿本人麻呂と山部赤人が取り上げられていることから、万葉集で歌われる「山柿の門」とは山部赤人と柿本人麻呂のことであるとなっています。ただ、万葉集で「山柿の門」の言葉が使われた時、当然、万葉人たちは古今和歌集の仮名序の存在を知りません。未来の物事を根拠に過去の物事を説明することは、まず、科学でも学問でもありません。

 さて、その「山柿の門」の言葉ですが、これは万葉集巻十七に大伴家持が詠う「更贈謌一首」と云う標題を持つ集歌3969の歌があり、その標に次のような漢文が置かれています。これが和歌の世界では有名な「山柿の門」の出典先です。

 この漢文は文中に「裁謌之趣」と述べるように家持自身のの和歌及び漢詩の作歌能力や鑑賞能力を述べているものと考えられていて、「山柿の門」の「柿」は柿本人麻呂のことと思われています。これは万葉集に柿本人麻呂集が載せられ、万葉集の編纂に大伴家持が参画しただろうと推定されていることからしても動きようが無いと思います。他方、「山」については従来にあって「山部赤人」説と「山上憶良」説とがありますが、おおむね、古今和歌集の仮名序において紀貫之する柿本人麻呂と山部赤人とは甲乙付け難いとの評論などから「山部赤人」説が有力です。ただ、繰り返しますが古今和歌集の仮名序を根拠する場合、奈良時代の人々が紀貫之達と同じ文学的な立場と評価をしていたとする論拠が必要となります。

更贈謌一首并短謌

標訓 更に贈れる謌一首并せて短謌

原文 含弘之徳、垂恩蓬軆、不貲之思、報慰陋心。戴荷未春、無堪所喩也。但以稚時不渉遊藝之庭、横翰之藻、自乏于彫蟲焉。幼年未逕山柿之門、裁謌之趣、詞失于聚林矣。爰辱以藤續錦之言、更題将石間瓊之詠。因是俗愚懐癖、不能黙已。仍捧數行、式酬嗤咲。其詞曰  (酬は、酉+羽の当字)

標訓 含弘(がんこう)の徳は、恩を蓬軆(ほうたい)に垂れ、不貲(ふし)の思は、陋心(ろうしん)に報(こた)へ慰(なぐさ)む。未春(みしゅん)を戴荷(たいか)し、喩(たと)ふるに堪(あ)ふることなし。但、稚き時に遊藝(いうげい)の庭に渉(わた)らざりしを以ちて、横翰(わうかん)の藻は、おのづから彫蟲(てんちゆう)に乏し。幼き年にいまだ山柿の門に逕(いた)らずして、裁謌(さいか)の趣は、詞を聚林(じゅうりん)に失ふ。爰(ここ)に藤を以ちて錦に續ぐ言(ことば)を辱(かたじけな)くして、更に石を将ちて瓊(たま)に間(まじ)ふる詠(うた)を題(しる)す。因より是俗愚(ぞくぐ)をして懐癖(かいへき)にして、黙已(もだ)をるを能(あた)はず。よりて數行を捧げて、式(も)ちて嗤咲(しせう)に酬(こた)ふ。その詞に曰はく、  (酬は、酉+羽の当字)

標訳 貴方の心広い徳は、その恩を賤しい私の身にお与えになり、測り知れないお気持ちは狭い私の心にお応え慰められました。春の風流を楽しまなかったことの慰問の気持ちを頂き、喩えようがありません。ただ、私は稚き時に士の嗜みである六芸の教養に深く学ばなかったために、文を著す才能は自然と技巧が乏しいままです。また、幼き時に山柿の学門の水準に到らなかったために、詩歌の良否を判定する感性においては、どのような詞を選ぶかを、多くの言葉の中から選択することが出来ません。今、貴方の「藤を以ちて錦に續ぐ」と云う言葉を頂戴して、更に石をもって宝石に雑じらすような歌を作歌します。元より、私は俗愚であるのに癖が有り、黙っていることが出来ません。そこで数行の歌を差し上げて、お笑いとして貴方のお便りに応えます。その詞に云うには、

 さて、ここでの私が運営するブログに馴染みのある人には知られていると思いますが、山部赤人の歌は「調べの歌」に範疇される歌です。常体歌の多くが「表記する歌」である万葉集歌の中においては特別な位置を占める歌です。その赤人の歌が「調べの歌」であるがために、時代により彼の代表作は変わります。現在では長歌・短歌において、彼の代表作は長歌では富士を詠う集歌317の「山部宿祢赤人望不盡山謌一首」の歌であり、短歌ではその長歌の反歌である集歌318の歌です。

参考歌 短歌

集歌318

原文 田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留

訓読 田子し浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける

私訳 田子にある、その浦から出発して見ると、真っ白に富士の高き嶺に雪は降っていた。

 ところが、紀貫之が柿本人麻呂と山部赤人とは甲乙付け難いとの評論したことに反応し、平安末期に藤原定家は仮名序の解説の中で赤人の代表作として次の歌を撰んでおり、富士の歌ではありません。歌の評価基準を感性に求めるものは、時代と共に流行り、廃れが生じます。

集歌1424

原文 春野尓 須美礼採尓等 来師吾曽 野乎奈都可之美 一夜宿二来

訓読 春し野にすみれ摘みにと来し吾そ野をなつかしみ一夜寝にける

私訳 春の野にすみれを摘みにと、来た私です。この野に心が引かれ、ここで夜を過しました。

 最初に私訳を示しましたが、インターネットにおいて万葉集の歌の解説には定評のあるHP「千人万首」とHP「壺斎閑話」からその解釈を以下に紹介します。

HP「千人万首」より

春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける(8-1424)

【通釈】春の野に菫を摘みにやって来た私は、その野に心引かれ、離れ難くて、とうとう一夜を過ごしてしまったよ。

【語釈】◇すみれ摘みにと 菫の花は摘み取るとすぐ萎れてしまう。古人はそれを、花の生命力が摘み取った人の魂に移ると考えた。菫摘みがかつて春の恒例行事とされた所以である。◇野をなつかしみ 野が慕わしいので。「なつかしみ」は形容詞「なつかし」の語幹に、理由・原因をあらわす接尾語「み」が付いたもの。

HP「壺斎閑話;山部赤人:恋の歌(万葉集を読む)」より

山部赤人には、恋の歌もいくつかある。それらの歌が、誰にあてて書かれたものかはわからないが、中には相聞のやりとりの歌も混じっていて、色めかしい雰囲気の歌ばかりである。赤人は、叙景の中に人間のぬくもりを詠みこむことに長けていたと同時に、人間の心のときめきを表現することにもぬきんでていた。

まず、万葉集巻八から、赤人の恋の歌四首を取り上げてみよう。

― 山部宿禰赤人が歌四首

春の野にすみれ摘みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜寝にける(1424)

あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも(1425)

我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば(1426)

明日よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日も今日も雪は降りつつ(1427)

「春の野に」の歌は、赤人の恋の歌として、あまりにも有名な作品である。それ故、様々な解釈もなされてきた。中には、これは春の気分に浮かれるあまり、野原で寝てしまったことよと、春を強調するに過ぎないとする、うがった見方もある。

アララギ派の歌人山本憲吉は、これは恋愛の心を詠ったもので、一夜寝たのも無論女の家であると断定している。筆者にもそのように思われる。一首を素直に詠めば、誰しもそう思うであろう。また、そう読むことによって、この歌の趣も深まると思うのである。その女が誰かはわからぬが、そんなことを抜きにして、色めいたあでやかな歌だといえよう。

 おおむね、集歌1424の歌の「一夜宿二来」は「一夜寝にける」と訓読みし、「野で一夜を過ごしてしまった」と解釈します。今日における山部赤人を評価する時、これが定訓とその解釈として良いと考えます。当然、「野」には「野原」と云う直線的な意味合いと、「鄙の里」と云う寓意として取る解釈の違いはあると思いますが、夜を過ごしたのは都から離れた「野」であることは共通の認識と思います。

 さて、ここで疑問が生じます。果たして、紀貫之たちは本当にこのように解釈していたのでしょうか。

 まず、古今和歌集の時代では長歌は宮中などでの歌会で扱われるテーマでは有りませんから、評価の対象外です。そのため、現代人が「赤人の富士の歌がどうだ、こうだ」と評論しても、それは古今集や新古今集で扱われるような和歌の範疇にはありません。従って、富士の歌などから赤人を評価し、さらに柿本人麻呂と比較した上で「山柿の門」の議論をするようなことは出来ません。評価は古今和歌集の時代に立ち戻って、当時の基準で行う必要があります。現在の赤人への評論は、現在の和歌の鑑賞基準をベースとした評価と古今和歌集時代の和歌の評価基準をベースとした評価が混在しています。そのため、「詠う歌」であるが故に評価での代表作が違います。

HP「古今和歌集の部屋」より、紀貫之の歌を紹介

歌番2

袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つ今日の風やとくらむ

解説 立春の日の今日の風は、袖をひたしてすくったあの水が、凍っているのをとかすだろうか、という歌。「礼記」の月令にある"東風解凍"という言葉を元にしていると言われている。それを暦上の春と合わせて、「とく-むすぶ」から掌で水をすくう動作を導くことにより、"凍" のさらに前の時間を含めることでイメージに幅が出ている。

歌番9

霞立ち木の芽もはる雪降れば花なき里も花ぞ散りける

解説 木の芽が「張る(萌る=ふくらむ)」と「春」を掛けて、霞がたち、春の雪が降ると花のない里にも花が散るようだ、という歌で、先頭の "霞立ち木の芽の部分は、霞が「たちこめる」と音が似ていて面白い。同じ貫之の歌にはもう一つ「芽がはる」という表現を使った歌がある。

 紹介した歌は共に古今和歌集に載る紀貫之のものです。ただし、古今和歌集の本来の歌は一字一音の変体仮名表記ですから、現在のような漢字平仮名交じりの歌でも、濁音交じりの歌でもありません。理解では次のような歌です。なお、解釈は藤原定家のものです。

歌番2

原歌 曽天比知天武寸比之美川乃己保礼留遠者留多知計不乃可世也止久良武

読下 そてひちてむすひしみすのこほれるをはるたつけふのかせやとくらむ

解釈 袖ひちてむすびし水の凍れるを春立つ今日の風や解くらむ

歌番9

原歌 可寸美多知己乃女毛者留乃由幾不礼者者那奈幾左止毛者那曽知利个留

読下 かすみたちこのめもはるのゆきふれははななきさともはなそちりける

解釈 霞立ち木の芽も春の雪降れば花なき里も花ぞ散りける

 紹介した一字一音の変体仮名で記述された古今和歌集の翻訳作業では、それぞれの歌を解釈する人が原歌の解釈に合わせて変体仮名を漢字交じり平仮名和歌へと置き換えていきます。その成果が今日の古今和歌集の歌として紹介される歌です。この約束があるためか、古今和歌集の本質が理解している人のものは、掛詞や縁語となるもので、字義から言葉の解釈に影響を与える可能性がある場合は漢字ではなく平仮名表記を選択しています。清音・濁音の選択も然りです。古今集歌において、どの言葉を漢字表記にするかは歌を鑑賞する人の感性と理解の深度に依存します。

 古今和歌集の歌は清音濁音の区別を行わず、また、大和言葉での同音異義語の面白さに掛詞の技術を使うことからより鑑賞深度を持たせています。そのため、一つの歌の中に二つ以上の景色を楽しむことが可能になります。

 例として、歌番2の「かせやとくらむ」には「春風が氷を解くであろう」、「掬った手から水をこぼしたのは風が疾いから」や「御簾の紐を風が解くだろう」など複数の意味があり、歌番9の「このめもはるの」には「霞が立つ春には木の芽も張る」や「霞が立つ季節には木の芽も芽生えるが、一方、早春の」などの二つの意味があります。場合によっては歌番9の「はるのゆきふれは」には「春の雪が降れば」と「春が行き過ぎてしまえば」との別々の解釈も成り立ちますから、一層、複雑になります。この重層性が古今和歌集の特徴です。なお、この重層性を言い出すと答えは一つしかないはずの大学入試の古文の問題になりませんから、和歌道の基準から藤原定家の解釈を正解とし彼が気が付かなかった解釈は不正解とします。

 その重層性を持つ古今和歌集から眺めた時、柿本人麻呂と山部赤人とは甲乙付け難いとの評論とは、どのようなものでしょうか。柿本人麻呂は藤原京時代を代表する朝廷の行事を詠う歌人ですし、自然を詠う歌も色彩豊かです。あえて、紀貫之が事細かく論評することは不要でしょう。一方の山部赤人はどうでしょうか。紀貫之が取り上げなければ万葉集では二番手に位置する歌人であって、スター歌人ではありません。そこで、もう一度、古今和歌調の表記にして赤人の歌を見てみます。

集歌1424

原文 春野尓須美礼採尓等来師吾曽野乎奈都可之美一夜宿二来

訓読 はるしのにすみれつみにとこしわれそのをなつかしみひとよぬにける

 さて、歌での句「なつかしみ」と云う言葉は「なつかし+み」と云う語の組み合わせで出来た言葉です。この「なつかし」と言葉は万葉集の時代では、「懐」という漢字の原義から「心が引かれる、親しみが持てる、好ましい」と云う意味合いの強い言葉です。ところが時代が下って平安時代後期になると「思い出に引かれる、昔が思い出され慕われる」のような意味合いに変化しています。また、為にする提議ですが、句切れによっては「こしわれそ のをなつかしみ=来し吾ぞ、野を懐かしみ」と「こしわれ そのをなつかしみ=来し吾、苑を懐かしみ」との別の解釈の可能性も見出せます。

 テクスト論ではありませんが、歌を解釈するのは紀貫之です。作歌者本人である山部赤人ではありません。紀貫之はどちらの解釈をしたのでしょうか、それとも両方の解釈でしょうか。万葉集時代での「心が引かれる」ですとスミレを摘みに出かけた野で一夜を過ごしたと考えられますが、平安時代の「思い出に引かれる」ですとスミレを摘んだ野の景色を自宅の寝床で夜通し思い出したことになります。さて、どちらでしょうか。

 アララギ派の歌人山本憲吉はこの歌に恋歌の匂いを感じ、鄙の里での逢引きを疑います。つまり、この歌には重層性があり、かつ、艶があります。もし、紀貫之がその点を見出したのであれば、それは万葉集時代の鑑賞法では有りませんし、その時代に鑑賞によって現れる歌が持つ重層性と艶という価値観はなかったのではないでしょうか。古今和歌集の紀貫之や新古今和歌集の藤原定家が山部赤人の代表作を集歌1424のスミレの歌とし、現代人が好む集歌318の田子の浦の歌を採らなかった理由が想像出来るのではないでしょうか。

 問います。「山柿の門」とは「柿本人麻呂」と「山上憶良」でしょうか、それとも、「山部赤人」でしょうか。大伴家持と山上憶良との間には歌や実生活において接点があり、家持は憶良の辞世の歌に唱和した歌を作っています。また、年少時代の家持にとって憶良は学問では皇太子の家庭教師に任命されるほどの大先生の立場ですし、遣唐使随行員で世界を知る人物であり筑前国司と言う中堅官僚でも大物に分類される人です。まず、筑前国司と因幡国司や越中国司とでは格が違います。さらに、家持の幼少期に在っては二人の関係において大宰府時代を忘れることは出来ません。一方、家持が赤人と接点を持ったというものは見出せませんし、赤人に対して唱和するような作歌活動もありません。

 漢文には「幼年未逕山柿之門」とあります。大伴家持が幼年時代、柿本人麻呂は奈良時代人にとって大歌人でしたし、人麻呂歌集は万葉集の東歌に異伝が数首も採られるほど日本全国規模で有名な歌集でした。山上憶良は遣唐使の随員、皇太子の家庭教師、父親大伴旅人の風流相手ですし、学問において家持の師の立場でした。一方、山部赤人は神亀年間頃のものから次第に作品が万葉集に採歌されていますから、神亀年間から天平六年頃までの人物です。ですから、神亀年間後半に直ちに大歌人の扱いをされていたかは不明です。一方、家持は天平五年頃、十五歳前後で成人式である袴儀をし成人の仲間入りをしたと思われますから、家持が「幼年」と云う言葉を使うのであれば、それ以前、神亀四年頃から天平四年までの間のこととなります。時代性から、本当に大伴家持は「貴族階級の教養として山部赤人を学ぶ必要がある」と思ったのでしょうか。

 余談ですが、万葉集の歌から推定して山上憶良は紀伊御幸で柿本人麻呂と一緒に紀伊国へ赴いている可能性があり、また、好去好来謌や巻十三の事霊歌などから大和歌の精神では山上憶良と柿本人麻呂とは同志であるとの評論があります。およそ、漢文の文章に家持の謙遜が入っているのなら、家持は山上憶良とその憶良を通じて柿本人麻呂との両者を知っているとの自慢を「幼年未逕山柿之門」で述べたことになります。確かに天平時代の有名歌人の中で大宰府時代の山上憶良を知っているのは大伴家持ぐらいのものです。場合によってはこのようなひねくれた考え方もあります。

 もう一度、問います。「山柿の門」とは「柿本人麻呂」と「山部赤人」ですか。

 もし、そうだと云うのですと、その根拠は何ですか。第一に大伴家持は紀貫之が生まれる遥か前の人物であって、遠い将来に古今和歌集やその仮名序が編纂・創作されることは知りません。つまり、古今和歌集の仮名序や紀貫之の評論を根拠にすることは出来ません。当たり前のことです。また、現代の山部赤人評価論を使うこともできません。そこには紀貫之の仮名序の影響が多大ですし、アララギ派の影響もあります。その時、大伴家持と奈良時代での赤人への評論と一致する保証はありません。根拠を万葉集だけに限定した時、家持が赤人をどのように見ていたかの論証が必要です。残念ながら、当たり前の要求なのですが、「山柿の門」とは「柿本人麻呂」と「山部赤人」であるとの説において、大伴家持から見た山部赤人論なるものを見たことがありません。これは浅学のためでしょうか。

 現在の万葉集の歌の鑑賞に疑問を持つと同じレベルで、古今和歌集の歌の鑑賞にも疑問を持っています。どなたか、すっきりとした論を示して頂けないでしょうか。

 この文を作るためにインターネットに遊んでいましたら、西行法師の作品論評の中で藤原定家は「古今和歌集が読めない人のためにその古今和歌集の歌が持つ言葉の重層性に目を瞑って、敢えて、漢字平仮名交じりの表現に翻訳した」と云うものがありました。酷いものです。定家本の古今和歌集とは歌集がきちんと読めない人のためのガイド本程度のものだそうです。そのため、古今和歌集の特徴である重層性が判っている人は西行法師のように定家の翻訳を無視して原点に戻らざるを得ないようです。ただ、歌の中に重層性を楽しむようにと作歌されたものから、その重層性の楽しみを消し去ったものとは、一体、それはどのようなものなのでしょうか。それに古今和歌集の歌の本来の姿が一字一音の変体仮名だけで記述された歌集であると云うことを、さて、どれほどの人が知っているのでしょうか。

 万葉集も怖い歌集ですが、同じように古今和歌集も怖い歌集です。



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