https://ameblo.jp/haiku-sen/entry-12772687520.html 【門を出て】より
門を出て五十歩月に近づけり 細見綾子 句集『牡丹』より 平成六年作。
87歳の作品です。心不全で入院し、退院してからの作です。とても有名な俳句ですが、その背景を知ると、さらに心に残る一句となるのではないでしょうか。
「門を出て」とは、病み上がりの身を、家の外へ歩み出させたということです。
月へ向かって歩み出したのでしょう。よく読むと、「けり」で終えています。
五十歩月に近づきました、という「けり」です。
月に向って歩んだり、それでも月には近づけないというのは、いわば普通の感覚であるわけですが、「月に近づいたよ」と言い切っているところが、優れた感性だと思います。
退院の後に、これだけの句を詠みあげる、俳句的体力があったことも素晴らしいですが、
伸びやかな生命を感じる一句が、87歳の時の作品とは、改めて驚いた次第です。
月「に」を使っています。
月「へ」ではなく「に」としたことで、漠然と月に近づいたという、明確な目的を感じさせないところも、生かされているという、人の力の及ばない自然の恵みを感じることができます。
病の句友へ、この句集を改めて紹介したところ、とても喜んでくださいました。
勇気を与えてくれる一句だと思いました。月を見上げて、歩んでいきましょう!
https://ameblo.jp/geneva-77/entry-12677377825.html 【俳句なのだ!! 細見綾子さんに出会う(前編)】より
細見綾子みつけて今日はこれでよし
■「歳時記」―「春」―「植物」 その「チューリップ」の例句の中に
チューリップ喜びだけを持つてゐる 細見綾子 を見つけたとき、私も喜びに包まれました。
「私も同じように思いますよ!」という共感。そして、「こんなふうに、素直に詠んでいいんだ」、という安堵感。とても嬉しかったのです。
昨日の角川照子さんに続いて、この気になる俳人をネット上で調べていたら■「オペラのため息」さんのブログ https://plaza.rakuten.co.jp/operanotameiki/3019/にいきあたりました。以下↓
◆昨年(※1997年)、90歳で細見綾子氏は亡くなった。かつて、高柳重信発行の「俳句評論」(昭和34年)で俳句界の各氏に「現在あなたが一番詠いたいとお考えになっている主題はなんですか」と出題されたときの綾子氏の回答は次のようであった。
「新鮮な角(かど)のとれない 人間と自然と云うことになりませう。細見綾子」
角のとれない人間でありつづけようと思って、そうありつづけることのできた希有な人が俳人・細見綾子なのだろう。
◆細見綾子:プロフィール
1907年(明治40年)兵庫県生まれ。
1927年(昭和2年)日本女子大学国文科卒、最初の結婚。
1929年(昭和4年)夫病没。故郷の丹波での療養生活の間に松瀬青々主宰の「倦鳥」に
投句、青々の指導を受け始める。
1937年(昭和12年)青々没。遺稿の整理をする。
1946年(昭和21年)金沢で沢木欣一の創刊主宰した「風」に同人参加する。
1947年(昭和22年)沢木欣一と結婚、昭和32年まで金沢市在住。綾子40歳、欣一28歳で
あった。
1952年(昭和27年)『冬薔薇』で第二回茅舎賞を受賞。
1974年(昭和49年)『伎藝天』で昭和49年度芸術選奨文部大臣賞。
1978年(昭和53年)『曼荼羅』で第一三回蛇笏賞を受賞。
1997年(平成9年)9月、90歳で亡くなる。
◆1994年刊行の綾子氏の第九句集『虹立つ』は80歳から83歳までの句が収められている。
俳句は老いの文芸とも言われるほどであるが、齢を重ねることは、より深くより自在になれるということでもあろうか。
つぶやきがそのまま詩になったような句にいつしか入り込んでいった。
『虹立つ』の中で一番惹かれた句が次の句である。 老ゆることを牡丹のゆるしくるるなり
昭和32年に金沢から東京の武蔵野市へ越してきた。丹波生まれの綾子氏の故郷から
材木を運び建てたという武蔵野の家には、牡丹が50株ほど植えられている。
堅い蕾がきしきしと音をたてるようにほぐれ、華麗な花を誇り、朝の牡丹、夕の牡丹、夜の牡丹と、刻々と変わりゆく、まさに光のなかのページェントである。
咲ききった美しさの、次の瞬間に牡丹は、一気にくずおれるように散る。
十二歳年下の夫、沢木欣一氏との結婚生活も含めて、いつもどこか張りつめている部分があったのではないだろうか。度重なる入退院で肉体の衰えも感じていただろう。
80歳を過ぎた綾子氏は、牡丹を見続け、牡丹との存問を繰り返し、「すこしつかれました…」という綾子氏に、牡丹はきっと、語りかけたに違いない。
「いつもいつも、肩を張っていることはないのですよ」と。「牡丹に許される」とは、
この場合自然を代表する牡丹の中に綾子氏は「神」を見てをり、その神に「許された」と感じたのである。「ゆるしくるるなり」の措辞を平仮名書きにすることによって、
スローモーションで散る牡丹の姿が見えてくるようである。
言葉を漢字にするか平仮名にするかで、随分イメージも変わってくるから不思議なものである。
* * *
集中、好きな句を揚げる。
梅見とて家を出てきしことたのし キャスリン・バトル虹立つように唱ひたり
海はみどりと聞きて秋思のさだまりぬ 茹で栗のうすら甘さよこれの世の
雪晴れの自分に向ひ話したき
* * *
夫の欣一氏は、俳句の純粋さを細見綾子から学んだと言っている。
「人物が無邪気というか。こせこせしていないというか、無欲なんですね。純粋といえるでしょうね。ただ作ることだけ楽しんで 花を見てもその良さに没入するようなところがありますね。丹波の山奥で育っているから、そういう点では小さい時から自然が体の中に入ってるんでしょうね。」(俳句文庫『沢木欣一』より、春陽堂刊)
* * *
■以上は、実は、この記事の「要約」ともいえる箇所なのです。
これ以降、第一から最終の第九まで、句集ごとの秀句が紹介されます。しかし、長いのです。
申し訳ありませんが、ここで一旦切りまして、明日掲載したいと思います。
で、この簡潔にして十分な細見綾子論ですが、筆者は(み)とのみ記されているのですが、
どうやら、あらきみほ(本名・荒木ミホ)氏らしいということが分りました。
本当にありがとうございます。(※プロフィールは最後に)
*
また、綾子さんの句のなかに「蕗の薹みつけて今日はこれでよし」という句があるのです。
これもとても共感できる句です。
私としては「細見綾子みつけて今日はこれでよし」なのですよ(笑)
フォローしあっているお互いおばばのブロガーさんたち、「一病息災」といきたいところですが、二病、三病…。それでも、「今日、細見綾子さんと出会ったよ~!」って、届けたいよ!
じゅんさん、都忘れさん、待っててね!
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◆荒木ミホ氏プロフィール
昭和二十年、大分県生まれ 昭和四十三年、青山学院英米文学科卒業 平成元年、カルチャーセンターにて深見けん二先生に師事 平成三年、「花鳥来」参加
この間に、石寒太主宰の「炎環」、斎藤夏風主宰の「屋根」に十年間所属。
平成二十年、「青林檎」参加 現在、茨城県守谷市在住 俳人協会会員
朝日カルチャーセンター俳句通信講座、NHK学園生涯学習添削講座講師。
◆句集『ガレの壺』
◆共著『虚子「五百句」研究』、編著『小学生の俳句歳時記』ほか
◆著書『図説 俳句』(日東書院本社)、『添削・俳句入門』(日東書院本社)、『名句もかなわない子ども俳句170選―季語も名句も覚えられる俳句入門』(中経出版)、『毎日楽しむ名文365―一日一日を大切に生きる』(中経出版)、『細密画で楽しむ里山の草花100 (中経の文庫) 』(中経出版)ほか
◆俳誌「花鳥来」で、ホトトギスの俳人から現代の俳人まで句集評など。
メールマガジン「つれづれ俳句」主宰(平成十一年~十六年)
俳誌「鑛(あらがね)」にて「虚子をめぐる俳人」三十一回、「虚子と散文」十五回を連載、「『五百五十句』を読む」十九回を連載。
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お付き合いいただき ありがとうございました💛
https://ameblo.jp/geneva-77/entry-12677597561.html 【俳句なのだ! 細見綾子に出会う(後編)】より
門を出て五十歩月に近づけり 昨日の細見綾子(前編)の続きです。
荒木ミホさんによる年代ごとの句集の紹介です。掲句は、最終句集から。
■綾子俳句には誰もが知っている有名な句がいくつもある。
◆第一句集『桃は八重』より
うすものを着て雲のゆくたのしさよ チューリップ喜びだけを持つている
つばめつばめ泥が好きなる燕かな ふだん着でふだんの心桃の花
でで虫が桑で吹かるる秋の風 来て見ればほほけちらして猫柳
最初の結婚の二年目に夫を、直後に母を亡くし、その頃から綾子氏は肺を患って郷里の丹波で療養生活をしていた。22歳のとき医師に奨められて俳句を始め、松瀬青々に師事する。
綾子氏の心の辛い時期の句であろうが、若い心は自ずから「バランス」をとって、
逆に、明るい詩情を与えてくれるのだろうか。
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◆第二句集『冬薔薇』より
硝子戸の中の幸福足袋の裏 木蓮の一片を身の内に持つ
寒卵二つ置きたり相寄らず 鶏頭を三尺離れもの思ふ
40歳で28歳の沢木欣一氏と結婚。
終戦後、昭和21年に沢木欣一は「風」を創刊主宰する。この金沢という地方にあって、俳誌「風」には、金子兜太、森澄雄、鈴木六林男、佐藤鬼房など若い俳人たちが大勢あつまり、
社会性俳句の拠点としてエネルギーのみちみちた結社で、綾子氏も共に切磋琢磨した時代であった。
二句目「木蓮の一片」は43歳で長男太郎を身籠もったときの感覚を見事表現していると思う。宿している子への愛しさと、母となる誇らしさとが、木蓮のあの清浄な滑らかな花弁で象徴されてをり、さらに、肉体的には、妊娠中の異物が身の内に在るという女ならではの独特な感覚であろうか。
三句目、不思議な句だなと随分考えてしまった。意味があるようで、すぐには分からなくて、
でも何だか惹かれてしまう句である。きっと、こんな感じかなと思う。
綾子氏はある朝、手にした二つの寒卵を置こうとしていた。最初は並べて置いてみた。
でも、何だかこの日は、たとえ卵であっても仲良く並んでいるのはイヤなのである。
ちょっと離して置いてみた。うん、これなら…と自分の気持を何とか納める。
新婚の頃、友達になりたての頃、親子だって、時には身にまとわりつくものから、離れてみたくなる時があるものだ。
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◆第三句集『雉子』より
山茶花は咲く花よりも散つてゐる 雪今日も白魚を買ひ目の多し
昭和27年より30年に至る4年間の作品で、旅行者としてではなく金沢に住み北陸在住としての句が多い。
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◆第四句集『和語』より
蕗の薹喰べる空気を汚さずに 寒夕焼終れりすべて終りしごと
青梅を洗ひあげたり何の安堵 雪渓を仰ぐ反り身に支えなし
金沢から東京の武蔵野市へ越してからの句である。
『和語』の後記に次のようにあった。「日本の言葉しか使えない自分が日本の言葉を愛するなど、いうのはおかしいかも知れないが私は四十年俳句を作って来て、今日この頃日本の言葉の美しさに向き直るような気持でいる。
自分が俳句を作って来たことは日本の言葉に出合うためであったのかも知れない。
心とか自然とか区別せずに、それらを含めて言葉をあらしめたい。それらのすべてのものの上に『言葉』を冠したい。俳句は日本の言葉でしか言いあらわせない最たるものである。
この最たるもの、俳句の上であったればこそ思い知らされることが多かったのだと思っている。句集を作るということが何か一線を画することであれば私は今自分の言葉を洗いたい。
そして日本の言葉との新しい出会いを求めてゆきたいと考えている。」
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◆第五句集『伎藝天』より
木村雨山の座り姿の初冬なる 女身仏に春剥落のつづきをり
昭和48年の刊行である。木村雨山は加賀友禅の名人(無形文化財)。
金沢の初冬の身が引き締まるような日の、名人の工房である。きちんと座って仕事をしているのは絢爛たる加賀友禅である。木村雨山の端座する姿だけを描くことによって、一層、眼前に友禅の美しさがたち現れてくる。
二句目、綾子俳句の最も有名な一句である。
奈良秋篠寺の伎藝天である。(綾子氏は)以前にも何回か訪れたことがあったが、
この時は、秋篠寺への道々、春雪がちらつき畦焼の火が見え煙が立ちこめていた。
偶然が幾つも重なり、黒漆の剥落した伎藝天をことに新鮮に感じ、長いこと佇んで、永遠の美を感じたのだという。『伎藝天』のあとがきに次の言葉を見つけた。
「自然をますます美しいと思うようになった。自然に執し、求め、ほとんど埋没するかの境に於てものいうことを覚えて来た。俳句そのものの持っている作用、業(わざ)をしきりに思う。」
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◆第六句集『曼荼羅』より
春立ちし明るさの声発すべし 螢火の明滅滅のふかかりき
この句集により飯田蛇笏賞を受賞した。
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◆第七句集『存問』より
正月の雪や一日眉まぶし 蕗の薹みつけて今日はこれでよし
軍鶏の眼にただ鶏頭の枯れゆけり 時じくに秋空欠けて瀧落ちる
*
◆第八句集『天然の風』より
がらがらとあさりを洗ふ春の音 年暮るる胸に手をおきねむらんか
どんぐりが一つ落ちたり一つの音
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◆第九句集『牡丹』(※1)より 平成8年刊行の最後の句集である。
吾亦紅ぽつんぽつんと気ままなる 再びは生まれ来ぬ世か冬銀河
門を出て五十歩月に近づけり
※1:昨日の細野綾子前編に「1994年刊行の綾子氏の第九句集『虹立つ』」とあることから、句集『牡丹』(1996年刊行)は第十句集となるかもしれない。(たんぽぽ注)
綾子氏の句には、「さびしい」「たのしい」「喜び」「単純」など、主観的な言葉、もしくは自分で評言を言ってしまっている句、また破調とも思える句の多いのに気付く。
ドイツ文学者・杉橋陽一氏は著書の細見綾子論『剥落する青空』で、それは綾子俳句の癖=特色であると述べている。
「五・七・五の区切りを取らない変調的なリズムで成立、この変則的音調が一気呵成になったかのような手捌(てさばき)をとどめていて・・瞬間的な印象を捉えたと見える」
*
技巧を弄せずしてさらりと言い切った天衣無縫ともみえる綾子俳句の世界を、
夫・欣一氏は次のように述べる。「彼女は割り切れないものを一所懸命に書いているんですよ。意外に思考型なんです。これは男・女を問わず俳句の中ではめずらしいですよ。
感覚と思考が一緒になっているようなところがあって、たえず人生とは何かということを考えてるんですね。」(俳句文庫『沢木欣一』春陽堂)
*
ともあれ、90歳でお亡くなりになるまで、洗いたての木綿のように気取らない純粋さと、
ごつごつさをもちつづけた俳人であった。自然や物にいつも新鮮な心で向かう「角のとれない」人間でありつづけた俳人であった。
欣一氏は、細見綾子を偲ぶ会で、こう言った。「細見は俳句にほうけた一生でした。」(み)
■荒木ミホさん、
このように俳人ならではの細やかな視線で細見綾子さんを綴っていただき、心から感謝申し上げます。なお、第七句集『存問』の「存問」とは、「相手の安否をたずねる挨拶・問いかけ、
相手や対象を慰めその心を和らげる」という意味だと細見綾子さんは言われています。
*
最終句集の 門を出て五十歩月に近づけり
心にしみわたるような句です。 こうこうと冴えわたる秋の月、なにやら呼ばれているような気配でもあったのでしょうか。門を出て、そろそろと歩を進める。歩けば、歩いた分だけ月は近くなる。それが嬉しいような…。
こういう句に出会えた幸せをかんじます。
■なお、以下の情報もあります。
【俳人 細見綾子 生家】
http://higashiashida.net/hosomitei/
ご遺族の寄贈で、訪問・見学できるようです。お近くのかたがうらやましいです。
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お付き合いいただき ありがとうございました💛
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