https://note.com/enosatoko/n/n332464ed3296 【口はあえて半開きにしてるんです】より
私はリラックスして力を抜くということが下手だ。社会人になってから妊娠するまで定期的に整体に通っていた。肩を筆頭に体じゅうがこっていたからだ。施術中に必ず言われるのが、「力を抜け」という事。抜いてるつもりなんだけどなぁ。
子どもが産まれてからは子連れOKのヨガにしばらく通っていた。そこでも言われる「力を抜いてリラックス」。体を伸ばすポーズを取りながらどうやって力を抜くのかよくわからなかった。ヨガの最後にやる屍のポーズ(仰向けで寝てひたすらに無になるポーズ)でも、うまくリラックスできることのほうが少なかった。
寝ている時はリラックスしているはず、かと思えば会社勤めをしていた頃は、歯ぎしりをして寝ている姿が苦しそうだと夫に指摘されて真剣にマウスピースを作ろうとしていた。(仕事をやめてから、寝ているときの食いしばりは無くなったみたい。)
長年肩こりに悩む私は、衝撃的なことを知る。口を閉じていても上の歯と下の歯は離れているのが正しい状態なのだと。ギギギっと力を入れていなくても奥歯同士が日常的にくっついているとそれが肩こり首こりにつながるという。そのことを知るまで、奥歯がくっついているかどうかなんて気にしたことはなかった。口を閉じているときは上下の奥歯もくっついているのが普通だと思っていたからだ。どおりで肩がこるわけである。
意識してみると私はいつも歯を食いしばっている。仕事中、通勤中、家事中どんなときも ィーッとなっている。これをすぐやめるのは無理に近い。だから奥歯がくっついているのに気づいたら離すという小さな抵抗を続けている。
私にとって、口をとじたまま奥歯を離した状態で保つというのはかなり難しい。歯がつかないことだけを優先すると、舌をグッと歯茎の内側に押しつけていたり、頬の内側を甘噛みしている始末。これでは歯の食いしばりよりも疲れてしまいそうだ。
つまり、歯並びの問題か何かフィジカル面で、もしくは長年の習慣で、ちょっとムリなのだろう。
ただ、確実に歯を食いしばらなくてすむ方法がある。口を半開きにするのだ。口を半開きにすると頭も体も少しだけふわっとする。
そこで、どうしても力を抜きたいときには口を半開きにする。ストレッチの時、美容室でシャンプーしている時、婦人科検診の内診の時、無になりたいとき。
口を半開きにするのは力を抜くための最終兵器。口呼吸になってしまうから四六時中半開きにするわけにもいかないのだ。(コロナ禍のマスク生活と半開きは相性が良さそう。)
そういえば子どもの頃、テレビをみる時などに口が半開きになっているのをよく親に注意されていた。だらしないとか、みっともないとか。まあ確かにそうかもしれない。
私の息子も口が半開きになっていることがある。何かに集中しているときに口が開いているように思う。体に力を入れないでものごとに集中しているんだとしたらその感覚を無くさないで欲しい。
歯を食いしばるよりリラックスして、口を半開きにしていきたい。
https://www.topcon.co.jp/media/healthcare/buddha_eyes/ 【仏像の目が半開きなのはどうして?】より
仏像の目は開いているのか閉じているのかどちらともいえないような、半開き(半眼)の状態が多い印象はありませんか? 目を伏せて視線を下に向けているようにも見えますが、下から仰いで目線を合わそうとしてもなかなか合いません。何か意味が込められているのでしょうか。今回は、仏像の目に注目してみましょう。
仏像には種類があり、目の表現も異なる
仏像とひと口にいっても、実は大きく「如来」「菩薩」「明王」「天部(天)」の4つのグループに分かれています。「如来」は悟りを開いたグループ、「菩薩」は悟りを開くために修行中のグループ、「明王」は仏の教えに従わない者を懲らしめるグループ、「天部」は仏法や如来を守る神々のグループです。元々仏像は、仏教を開いた釈迦(ゴーダマ=シッダールタ)の姿を表したのが始まりです。釈迦をモデルにした仏像は「釈迦如来」といい、台座に坐って印を結んでいる姿が一般的で、釈迦が生まれてすぐの様子を表した「誕生仏」や、入滅したときの姿を表す「涅槃像」などもあります。
その後、悟りを開く前の王子時代の釈迦をモデルにした菩薩像もつくられるようになり、さらには釈迦と同じように悟りを得た人、悟りを開くために修行中の人もいると考えられ、様々な如来像(薬師如来、阿弥陀如来など)、菩薩像(文殊菩薩、観音菩薩など)がつくられるようになりました。
半眼の仏像は、実は如来像か菩薩像に限られることが多く、明王(不動明王など)や天部(毘沙門天、金剛力士など)の多くは、悪を叱咤するために目を見開いて怒りの形相をしています。
半眼は瞑想している状態を表現!?
如来像や菩薩像の目に半眼が多いのは、瞑想中の姿を表しているとする説が有力です。人々を救済するために精神を集中しているのです。集中するときは目を瞑るという人も多いかもしれませんが、目を閉じると周りが全く見えなくなるので、自分自身にしか意識が向きがちになります。また、うっかり眠くなってしまうこともあるでしょう。そのため坐禅や瞑想では、何かを凝視することなく、うっすらと目を開ける半眼をすすめることが多いようです。見下ろすように立っている仏像と、下から目線を合せようとしても合わないのはそのため。実は両眼とも瞳の位置を少しずらして、視線が合わないようにつくられているそうです。
ちなみに、釈迦の目は青みを帯びた金色で、まつ毛は牛のようにビッシリと生えていたといわれています。
つくられた時代で異なる仏像の目
日本で仏像がつくられるようになったのは仏教文化が開花した飛鳥時代です。この頃に仏師として活躍したのが止利仏師(とりぶっし、鞍作止利(くらつくりのとり)とも)。日本最古の大仏である飛鳥寺の飛鳥大仏も完成させました。止利仏師がつくる仏像の目の特徴は、上下のまぶたの弧線を同じように大きく描いた杏仁形(アーモンドアイ)。唇の両端をわずかに上に向けることで、微笑しているような表情(アルカイックスマイル)を表現しています。
その後、飛鳥時代後期から平安時代に入ると、仏像に日本らしさが出てくるようになります。ふっくら丸みを帯びた穏やかな姿で、遠くを見ていた視線は、拝む人のほうを見ているかのようなうつむき加減のものが多くなります。鎌倉時代になると、より写実性が求められるようになり、瞳に水晶をはめこむ「玉眼」という技術が誕生しました。それ以降の仏像には玉眼(ぎょくがん)が多く用いられるようになりましたが、有名な仏師・運慶は木を彫って目を造る従来の「彫眼」の技法も使い分けていたといいます。
「目は口ほどに物を言う」というとおり、仏像の目を見ていると、何か語りかけられているような気がします。それは、仏像を造った仏師たちの工夫や、当時の時代背景が表されていたのです。今後、仏像を拝む際には、目にも注目してみると、その年代や仏師が表現していた仏の心を垣間見ることができるかもしれません。
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