人間は一本の管である

http://www.asahi.com/area/saga/articles/MTW20220812421070001.html 【みんな「一本の管」なのだ】より

 生物学者の福岡伸一さんが朝日新聞に寄せるコラム「動的平衡」に、「人間は考える管」であり、「ヒトの身体はとどのつまりちくわのようなもの。口と肛門で外界とつながった一本のチューブ」と書かれている。管になったのはそう遠いことではなく、当初はイソギンチャクのような単なる袋だったそうである。その後、口と肛門ができたおかげで人間は前と後ろが作られ、前には口、鼻、そして脳もでき少しは策するようになり、人間は「考える管」になったという。

 それはよきことだったのだろうかと福岡さんは問う。入れたら出さなくてはいけない。管の出口でうんこにして出すか、小便にするか、屁を放つか、なんて仕分けはどうやってやるんだろう。

 以前に直木賞作家でエッセイストの山口瞳さんが「人間は、しょせん一本の管である」と書いていたのを思い出した。それを読んだ司馬遼太郎さんも名言だと言ったとか。1967年、週刊文春の「山口瞳のマジメ相談室」で25歳の大阪の奥様からの相談だった。「結婚して二年、文句のつけようのない夫だが、一つだけ、二人でいるときに平気でおならをする。パンツを汚すのも困る。平気な顔をしてパンツを洗濯籠にほうりこんでいく。腹が立つ。どうしたらいいでしょうか」

 山口さんの解答は「人間は、しょせん一本の管。食べて排泄する管を持つ動物。管の片端が汚れるのも致しかたがない。そう思ったら、汚れたパンツを洗うのは割合平気になるんじゃありませんか」。

 夫を「一本の管」と言うのはすごい。どんなハンサムでも美人でも結局は一本の管と考えると、なぜか笑える。

 東京生まれの山口さんは、父方のルーツである佐賀県藤津郡久間村冬野(現在の嬉野市)を初めて訪ね、小説「血族」(文春文庫)を書いた。地区の半分以上が山口姓、そこで「頭の恰好が佐賀の頭。体つきがずんぐりむっくりで、間違いない佐賀の人間」と言われる。

 小生もずんぐりむっくりした管に平ぺったい短頭が載る佐賀人。ちくわは大好きだけど、それが?


https://ito-yosanoumi.com/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AF%E4%B8%80%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%AE%A1%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B/ 【人間は一本の管である】より

頭木弘樹さんの著書が面白い。大学生の時に潰瘍性大腸炎を患いその後の絶望と希望の日常を綴られたユーモアの書です。帯がまた秀逸で・・・「人間は、食べて出すだけの一本の管。だが、悩める管だ・・・。」口に始まり肛門で終わる一本の管なんだということですね。体調不良にも拘わらずなかなか医療機関にたどり着けず、医師にも本当のことが言えず・・という患者心理が描かれた冒頭部分からすぐに引き込まれる、一般の人にも、医療関係者にも必読の書ですねこれは。冠婚葬祭には会食がつきもので、ビジネスにもパワーランチとか、食べることは人間社会のベースになるアクティビティなのですが、それが消化器疾患をもつ患者さんたちにとっては、拷問以外の何物でもないのかもしれない(私の解釈です)ということ、なかなか普段は気づけないですよね。何気なく、ちょっとランチでも行きませんか?ということがプレッシャーになってしまうことがあるなんて・・・。世の中『知る』っていうことはとても大切なのだな~と思いました。


https://ameblo.jp/trifky/entry-12621010854.html 【人間は、・・・一本の管である! おいおい!】より

今朝の読売、「編集手帳」には、一瞬で、目が覚めました。なにしろ、こういう出だしです。

「人間は食べて出すだけの一本の管である。だが、悩める管である・・・・とは、

作家カフカの研究者として知られる頭木弘樹さんが、”文学者と患者”両方の立場で発する言葉である。」から始まって、例の潰瘍性大腸炎が、いかに苦しい病気であるかについて述べているのだが、私の目を覚ましたのは、「人間は食べて出すだけの一本の管である。だが、悩める管である」という言葉です。

まことにズバリと、しかもどこかユーモラスに、人間の本質を衝いていて、おもしろい。

パスカルの「人間は考える葦である」に通じる言葉ですね。

実は、いつもズバズバと人間観察をブログに書いているブロ友も、先日、人間のことを、単なる「〇○袋である」と喝破されていて、シャイな私などは、のけぞったのでありますが、(^_^;)

たしかに、人間は、いくら高尚なことを言っても、いくら深い思索をしたとしても、

その肉体は、消化、吸収、排泄をする一本の管、単なる物質的存在には違いなく、

この物質的な働きが終了した時には、思考する能力も終了するわけだから、実に悲しい「物」でありますな。

私も若い頃から、人間として、より精神的な存在でありたいと願っているのに、実際は、どうしようもなく肉体的存在であることに、何度も打ちのめされたものです。

ま、歳と共に、そのことは徐々に受け入れられるようになって、今では、快食快便こそが、一番ありがたく思えるような、老人になりつつあるのです。(笑)

「人間は食べて出すだけの一本の管である。だが悩める管である」蓋し、名言ですね。

今朝は、名言に出会った、愉快な朝になりました。


https://blog.goo.ne.jp/odawarajyo/e/17e7def59d42240dd02e70442ff0d7ad 【「人間は、しょせん一本の管である」】より

 とあるところで山口瞳が「人間は、しょせん一本の管である」と書き、それを読んだ司馬遼太郎が、妙におもしろがって、名言だ!と言っています。この「人間は、しょせん一本の管である」が、どの文章にある言葉なのか、長いこと分からずにいました。

 それがやっと分かりました。『週刊文春』に連載していた「山口瞳のマジメ相談室」1967年7月10日号の言葉でした。「マジメ相談室」は、1年9ヶ月続いた連載で、読者の相談に答える一種の人生相談コーナーです。

 名言「人間は、しょせん一本の管である」が出た号を見てみましょう。読者の相談に山口瞳が答えます。25歳の奥様からの相談。

「結婚して二年、文句のつけようのない夫ですが、ただ一つだけ、二人でいるときに平気でおならをするのが困ります。やられるたびにむしゃくしゃします。ついでに書きますが、パンツを汚すのも困ります。平気な顔をしてパンツを洗濯籠にほうりこんでいきます。まるで子供のようで、なさけなくなります。つくづく、男性は横暴な動物だと思い、腹が立ちます。どうしたらいいでしょうか」

 これを読んだとき、私は数分間笑い続けました。こんなことを雑誌に投稿する奥様の気持ちが知りたいです。よっぽど腹を立てていたのでしょうか。そして山口瞳の回答も傑作。

「人間は、しょせん一本の管です。食べて排泄する管を持つ動物です。管の片端が汚れるのも致しかたのないことでしょう。そう思ったら、汚れたパンツを洗うのは割合平気になるんじゃありませんか」

 夫を「一本の管」だと思ったら、百年の恋も冷めてしまいそうです。

 しかし、人間は一本の管というのはすごい!どんな美人でも、どんなイヤな奴でも結局は一本の管。管が町中を歩き、管が恋愛をし、管が喧嘩をする。そう考えると、なぜか笑えます。


http://naturesciencecafe.blog.fc2.com/blog-entry-31.html 【[コラム]人間は「管」である】より

生物は「管」である、という見方がある。生物はその中心に1本の管を持ち、管の端である口から食べ物を取り入れ、管の中で消化・吸収し、管の端から排泄する。しかし、外部環境から取り入れるものには、ときとして生物に害を与えるものがある。そのため、この管には免疫機能が備わっている。人間でいえば小腸が免疫機能の中心である。

この免疫システムは実に精妙なものである。自己と他を区別し、たとえば病原菌には強く反応して排除する。一方、食べ物にはやさしく働く。また腸内細菌に配慮して共存共栄を図っている。この「管」は、常に環境を意識して働いているのである。

ところで、我々は「我考える、ゆえに我あり」などといい、人間存在の中心は「脳(意識)」であると思っている。しかし、生存にもっとも必要な食べ物の摂取の観点では、脳が意識するのは、せいぜい食べ物が腐っていないかを目や鼻や舌で感じるだけである。食べ物の良し悪しの判断の大半は腸に依っている。この意味でも人間は「管」であるといえる。

さて、アフリカの森林や草原で暮らしていた頃と比べて、人間は大きくなった脳を使い、農作や牧畜を始め、地球を掘り起こして大量の工業製品を作り出し、地球上を埋め尽くした。そして、我々のご先祖さまが暮らしていた森林や草原は実にせまくなり、人間の生活環境は大きく変化した。

確かに我々は「脳」のおかげで、便利な人工物に囲まれた清潔な場所で暮らすようになり寿命も延びた。しかし一方で我々の体の中心にある「管」は、環境の激変についていこうとして四苦八苦している。環境変化についていけず、ときには免疫システムがバランスをくずして、食物アレルギーを引き起こすケースが増えてきた。

生物が生きていくためには、環境と調和していくことが必須であり、人間もまた然りである。しかし、人間の「脳」は、環境に対して実に鈍感である。一方、環境に対してもっとも敏感なのは「管」の方である。今こそ「人間は「管」である」と考えるときかも知れない。 (記:五等星)

[参考]自然科学カフェの集い(第4回 2014年11月15日)「腸と食べ物と免疫系と」(東京大学 八村敏志 氏)

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