自然社会を迎える瞬間

https://sinic.media/contents/2547/ 【人間には今、新たな理〈ロゴス〉が必要だ   

福岡伸一 × 中間真一】より

連載対談「自然社会を迎える瞬間」vol.1

これからの時代における「SINIC(サイニック)理論」の役割や未来への視座を再確認することを目的とした連載企画「自然社会を迎える瞬間」。

生物学者の福岡伸一さんとヒューマンルネッサンス研究所 エグゼクティブ・フェローの中間真一がナビゲーターとなり、多様な専門性を持つゲストをお招きします。

2023年は、SINIC理論の上では人類が本当の変容を遂げねばならないとされる「自律社会」への突入間近であり、人類の文明社会が「自然」と共に生きる「自然社会」まで10年という時期です。

本連載では、人体と地球をひとつながりのシステムとして捉えるプラネタリーヘルスや、より良い未来を構築するための企業の役割、人類史における物語の位置づけ、SINIC理論の思想的な基盤のひとつにもなった仏教などをテーマに語り合うことで、ヒューマンルネッサンス研究所がオープンソース化に取り組むSINIC理論の持つ可能性を探っていきます。

全5回シリーズの初回は、ナビゲーターの2人が登場。

生物学、哲学、社会学、歴史…などさまざまな観点から、未来予測理論「SINIC理論」を読み解きます。―― 生命を内側から見ることで生まれた「動的平衡」

中間:オムロンは、“最適な制御”を目指すオートメーションのリーディングカンパニーとして事業を展開しています。創業以来、センシングとコントロール(制御)をコア技術として強みとしてきているわけですが、オムロンの創業者・立石一真は、自動制御技術から刺激を受けて生まれた新たな科学であるサイバネティクス(※1)の究極の姿を「制御に頼らずとも最適な状態が持続する状態」と考えていたようです。そして、そうした未来へのダイアグラムが描かれているのが、立石が1970年に国際未来学会で発表した未来予測理論であり、我々ヒューマンルネッサンス研究所(以下、HRI)が未来研究の基盤としている「SINIC(サイニック)理論」です。

福岡: “SINIC”というのは何の略なのですか?

中間: “Seed-Innovation to Need-Impetus Cyclic Evolution”の頭文字をとったもので、「イノベーション(技術革新)の円環論的展開」のような意味となります。SINIC理論の基本的な考え方は、科学、技術、そして社会の間に円環的な相互関係が存在するということです。

福岡:円環的とはどのような意味なのでしょう?

中間:科学・技術がそれぞれ作用しあいながら発展し、社会のニーズや価値観に影響を与える一方で、社会の変化が新たな科学・技術の需要を生み出すといった、互いが原因でもあり結果でもあるという関係性を指します。このように、科学と技術と社会、この三者間の円環的な相互作用のプロセスを基盤としていることがSINIC理論の一つの特徴です。

また、100万年前の人類の始原から歴史をたどり、人類社会の変化を俯瞰しながら未来を展望していることも大きな特徴。「原始社会」から始まる人類社会は、直前の「情報化社会」を経て、現在の「最適化社会」、さらには「自律社会」へと発展し、2033年頃に「自然社会」を迎えると予測しています。

この円環の図式において対角の位置に相当するのが、福岡さんが主張されている重要な概念「ロゴス」と「ピュシス」の関係だと感じていました。なので、私にとってSINIC理論には福岡さんが日頃よりお話されている内容と重なる部分がとても多く、非常に共感を覚えると共に、SINIC理論の進化を考える上で大いに参考にさせていただいています。

福岡:人間は生まれたときは自然そのものとして生まれます。自然を表すギリシャ語でこれを「ピュシス」と呼びます。そこから徐々に、知恵をつけることで「ロゴス」を身に着けていく。ロゴスはギリシャ語で「言葉」という意味でもありますが、論理やロジックの語源です

ピュシスからロゴスへ、という変遷は、ひとりの人間の人生から社会の成り立ちそのものにまであてはまると私は考えています。たとえば私も最初は、昆虫が大好きな「虫とり少年」でした。葉っぱの上をうろついている幼虫が蛹になって、2週間ほどすると蝶になる。とても不思議なプロセスです。しかも蛹の中ではすべての組織がドロドロに溶けてしまっているのです。どうして昆虫にはこんなことが起きるのか? そうした疑問から私は生物学者になっていくわけですが、そのプロセスはまさに人のロゴス化です。

科学は生き物を解体し分析する営みです。そして解体と分析の行き着く先は細胞であり、DNAという共通の仕組み、遺伝情報です。科学、そして科学者になるプロセスは、ロゴス的、論理的に生命を理解することだと言いかえられます。しかし、それを突き詰めていくと、ロゴス化しすぎることへの怖れのようなものが生まれてくるようになります。つまり生命を情報とだけみなしてしまうと、生命の持っている大事な側面を見落としてしまうのではないか、というある種の発想の転換点が訪れるのです。

私も研究者としての挫折も経験し、生命とは何かを再度考え直そうとしました。そうしてたどり着いたのが「動的平衡」という考え方でした。生命はやはりピュシスです。生命とは何かを考えるには、外部から観察するのではなく、本来の自然のあり方、生きている状態の内部で考えるべきだと考えるに至りました。動的平衡、すなわち合成と分解を繰り返し、エントロピーを排除しながらバランスを保っているものが生命だと考えるようになったのです。

※1 サイバネティクス:アメリカの数学者、哲学者であるノーバート・ウィーナーによって提唱された考え方。動物と機械を別け隔てなく制御・通信するための科学的な枠組みのことを指すとされる。

―― ロゴス化した生命はピュシスへ帰還する

中間:とても共感します。私は高校入学直後に生物の授業で読んだレイチェル・カーソンの『沈黙の春』に衝撃を受け、一時期は化学系に進もうと考えていたほどでした。しかし、大学では管理工学科という経営と工学の学際分野を選択しました。学生時代には、素晴らしい恩師を始め、さまざまな学問や人との出会いがあり、創造性と効率性、働く人の心理や社会の価値観に興味を持ちました。そして写真フイルムの生産技術部門で、卓越した技術を活かす工場や働き方の効率化からキャリアをスタートさせました。ロゴスとしての管理技術からの出発です。

最高効率でよりよい物を生産するための管理技術の仕事は、成果に直結する達成感あふれるものでした。しかし、ある工場の現場で、ふと疑問を持ったのです。生産性向上を追求するほどに、人の動きや人の価値観すらもコントロールするようになっていくのではないか。それは、人にとって本当に豊かな生き方なのか?と。そもそも、豊かな暮らし、世界をつくるために生産があり、生産性を上げるための技術として制御工学も活かされるはずです。それなのに、いつのまにか逆転し始めているのではと疑問を抱いたのです。人を活かすものづくり、技術開発こそ、本当に自分がやりたかったことだったはずだと、改めて気付きました。ちょうどその頃、オムロンがHRIという生活者視点で未来を考える研究所を設立することを知り、縁あって仕事場を転じました。

福岡:そうした発想の転換を、私は「ピュシスへの帰還」だと考えています。そうしたことも言葉で表現すると、それこそロゴス化されていきますが、より解像度の高い言葉で表すことで、再びピュシスに近づけるのではないか。そう信じて探求を繰り返していったのです。それは中間さんが制御工学というロゴスから、HRIでの研究活動を経て、ピュシスに近づいていったことと似ているように思います。

中間:そうですね。オムロンは制御技術の最先端を切り拓く企業として認識していただけるようになりましたが、SINIC理論を読み解くと、創業者の理念は機械制御の完成をゴールするのではなく、人間としての生きる歓び、命の輝きの獲得こそが目標とするゴールであることがわかります。それを実現させるための道筋として、科学・技術・社会の相互作用と、人間の進歩指向意欲を原動力として進化させるという構想が描かれています。私はこの理論に大いに共感して、それに基づく未来研究に参加してきました。

福岡:『音楽と生命』という書籍で対談した坂本龍一さんもロゴスからピュシスへという変遷を経た方でした。音楽好きな少年として育ち、西洋音楽の理論やピアノを学び、Yellow Magic Orchestra(YMO)を結成し、デジタルで楽譜を完全に自動演奏するということを試みました。彼はまさにピュシスからロゴスへという道を進んだ人でした。しかし人生後半になって、それが音楽の本質ではないかもしれないと思い、不協和音、自然音、雑音、あるいは循環する音などを取り入れた『async』などの作品を制作しました。それはピュシスへの帰還だったのだと思います。

中間:そうですね、私も福岡先生と同い年で、ほぼ同じ社会の空気を吸って生きてきたので、坂本龍一さんの音楽には大きな影響を受けました。そして、彼の音楽の行き着いたところに生まれたのが『async』であったことは大きな驚きでしたね。

福岡:まさに彼の到達点でした。ふつう、音楽は“synchronicity”(sync)、つまり調和と同時性で再現できるわけですが、そこに否定の接頭辞 “a” をつけたものが『async』です。つまり非同期、これは非常に面白いと思いました。

中間:『音楽と生命』の対談、私も読みました。興味深かったのは、坂本龍一さんは音楽をサウンドとノイズで捉えている。サウンドがロゴス、そしてノイズがピュシスにあたるわけです。私たちの制御の世界ではS/N比、つまりシグナルとノイズの関係で捉えます。

福岡:ノイズの海の中から意味のあるシグナルをいかに見出していくか、その営みがテクノロジーであり科学です。私たちが実験を繰り返すのは、ノイズだらけの生命現象から、できるだけ再現性の高いシグナルを抽出しようとするからなのです。

―― 「生きる」ことは「最適化」に耐えられない

中間:歴史的に見ると、人間がピュシスからロゴスへと、明示的にシフトする時期として、ルネサンスという変化の時代があると思います。人類は、もしかすると自分たちの欲求をそのまま追求していく、ピュシスの世界のままで留まった方がよかったのではないでしょうか?

福岡:私たちは欲望を実現するためにテクノロジーや科学を発展させ、世界を構造化し、論理的に考えるようになりました。それが近代科学です。確かに便利で清潔な世界になりました。しかしその分、自然から遠ざかってしまったと言えます。

自然と触れ合うことが大切だとよく言われますが、実は最も近い自然は海や山ではなく、自分自身の身体です。その身体に耳を傾けると、さまざまなノイズがあることが分かります。ノイズは一見、価値のないものに思えるのですが、そのノイズの中から自分自身にとって大切な音を探すという行為が今、人間には必要なのだと思います。

SINIC理論では、2005年頃から「情報化社会」から「最適化社会」へと遷移するという発展が予測されていたとのことですが、それはどのように進むのでしょうか?

中間:情報化社会のコンピュータライゼーション、インターネットによる科学技術と社会の発展の中で、人・物・情報の最適化が飛躍的に進んできました。しかし、人間という生き物にとって、ベストマッチの計算づくの最適状況が快適なのでしょうか?

私は、そうではないどころか、やがてそれに耐えられなくなると予測していますし、それこそが人類史上の大きなパラダイム・シフトの起爆剤になると考えてきました。すなわち、物から心へ、集団から個人へという大転換です。過去に起きた大きなパラダイム・シフトは、中世から近代への移行を遂げる契機となった「ルネサンス時代」です。その直前には、世界的なペスト大流行があり、それまでの教会の権威が失墜しました。そこで、再び古代ギリシャ時代に思いを馳せて人間復興を目指し、新しいアートやサイエンスが生まれたわけです。そして、近代科学が生まれ、産業革命へと発展しました。ここに、それまでの「心」中心の価値観から、「物」中心の価値観、合理的な社会への発展がもたらされたわけです。

このルネサンスに対して、今、最適化社会という大転換期に起こり始めているセカンド・ルネサンスは、その反対の方向です。「物」から「心」、「個人」から「集団」です。言わば、「リバース・ルネサンス」と呼んでもよいでしょう。

福岡:まさにそうだと思います。私たちは今、ChatGPTなどの生成AIに驚嘆していますが、これは究極の最適化システムです。膨大な言語情報を収集し、ディープラーニングすることで最適な解が抽出される時代です。

しかしそれはまた、私たちが扱ってきたロゴスは、膨大な履歴を収集し、それを最適化すれば再現できる程度のものであったとも言えるわけです。一方、私たち人間は、言葉を道具として使っているだけで、使われてしまってはいけない。生成AI が何でも教えてくれる時代は今後も発展しつづけるでしょう。シンギュラリティと呼ばれる特異点、つまりAIが人間の知性を凌駕するときがくるかもしれません。 しかし人間は本来的にピュシス的な生き物です。ロゴス的なものだけで成り立っているわけではありません。AIが与える最適解にしたがうだけの生き方に耐えられなくなってくるでしょう。ピュシスとロゴスの往還を繰り返すことが「生きている」ということだと気づく、そんな転換が近い未来のどこかで訪れると思います。

―― 生命は破壊を前提とする存在

中間:とにかく使ってみないと、さまざまな利点も問題点もわからないものですから、私は最近、積極的にChatGPTを使っています。模範解答を提供できる上、何度もやり直しを求めれば、問いかけを続ける私の意図を忖度してくるのには驚きました。ロゴスの世界では、ChatGPTはさまざまな点で有用だと思います。

福岡:たとえば、最適化という意味で、短歌や俳句など制限のある文芸では、膨大な言葉のデータを持っている方が最適なものを生み出せるように思います。また、将棋やチェス、囲碁などの組み合わせ最適化問題では、すでにAIが人間を上回っています。

しかし生き物の営みには、合成と分解の両方がありますが、機械の仕組みには分解が存在しないのです。分解、つまり破壊がないということが生命とAIの最大の違いです。もし機械が自己破壊的なプログラムを組み込んで新しいものを作れるとすれば、それはChatGPTのようなものではなく、スロットマシンのようなものになるでしょう。

中間:「偶発性の組み込み」ですね(笑)。

福岡:そうなんです。果たしてその機械に価値はあるでしょうか?

しかし生命は興味深いことに、まず破壊が先行します。たとえば、蝶の蛹の中では、すべてのものがドロドロに溶けるような破壊が起きています。これによって、ひらひらと空を舞う蝶という新しい生命の営みを生む。私たちはこうした生命のあり方、子どもの頃に馴染んだはずなのに、大人になると遠ざかってしまった生命の深い営みについて再考する必要があるのではないでしょうか。

中間:私もそう思います。人間らしさというと、つい機械と人間の比較になりますが、私は合成と分解の比較にこそ、人間変容の契機があると考えています。

福岡:生命は合成と分解という相矛盾する要素を持っていますが、これは自然界では当たり前のことです。自然界では相反するものが同時に存在する中で新しいものが生まれているのです。生命は非常に不思議で、合成と分解が同量であると定常状態になります。しかし、分解が少し上回っていると仮定すると、定常ではなく徐々に壊れていく過程が生じます。そのことによって、エントロピー増大の法則にあらがうことが可能になります。しかし、分解が上回ることは、生命に有限性を与えます。

生命が合成と分解を行っているということは、絶えず何かを他の生命から受け取りながら、同時に、何かを渡している、ということです。それはバトンタッチであり、利他主義です。その繰り返しが、生命系全体の38億年の営みなのです。その中で個体の生命は一瞬の活動でしかありません。作り出しつつ、すぐに壊しながら、他者に手渡していく。このダイナミズムを、私は動的平衡と呼んでいます。

―― 法隆寺に学ぶ、新たなロゴスを生み出す方法

福岡:生命を単なる情報として捉えすぎることには反省が必要であり、近代科学を見直さなければならないと感じます。SINIC理論がそうしたことを予見していたことは驚きですね。どのようなバックグラウンドから、立石一真さんは予見していたのでしょうか?

中間:立石一真の遺したアーカイブを辿っていると、仏教や東洋思想に基づく発想を見つけることができます。また、当時の科学技術のトレンドでもあったサイバネティクスの影響も大きい。洋才偏重、アメリカ追従に陥らず、和洋双方から本質と未来性を抽出して、未来への経営の羅針盤を構想したことがうかがえます。

福岡:京都は、哲学者・西田幾多郎による「西田哲学」や生態学者・今西錦司による進化論など、少し東京とは違うタイプの人が集まる風土がありました。そこでは、ロゴス的なアルゴリズムではなく、循環、同時性に基づく考え方によって世界が成り立っているという思想が共有されていたように思います。その土壌に、立石さんもいたのではと推測します。

動的平衡は私たちの生命に流れている仏教的な「無常」とも言い換えられるでしょうし、利他性は仏教の教えに基づいていると言えます。それに立石さんが反応されているのかもしれませんね。ChatGPTをはじめとするAI全盛の今だからこそ、彼らの考えが復興されるべきだと思います。

中間:ゴールというか、人類の二周期目のスタートとして「自然社会」を位置づけていますが、ここで言う「自然」は、Natureの訳語の「しぜん」というよりは、仏教用語でもある「じねん」の方が、その社会に近づきつつある今となっては適当ではないかと感じています。「自然(じねん)社会」、即ち自ずと然りであり、ありのままの姿です。だからこそ、ノン・コントロールという理想形にも重なります。

福岡:ヒエラルキーや中央集権ではなく、分散的に宇宙や社会が存在するという考え方に還元していくのはピュシス的です。そもそも生命はそうしてできています。生命系全体として見たとき、そこには主従関係もなく、中央集権的でもありません。自然界には中枢的な脳がない生物だっていくらでもいるわけです。分散的な仕組みで多細胞生物が機能している例も多数あります。日本は中央集権的な傾向がありますが、そうではない世界があるということも認識すべきです。

社会発展にともない価値観が収斂するプロセスを示した図

中間:SINIC理論では、ロゴスとピュシスの二元論が永遠に続くのではなく、それらが収斂していくようなイメージです。だから、モデル図解も円柱状の螺旋的な進化ではなく、円錐状の螺旋的進化なのです。

そこで一つ、大きな疑問が湧き起こります。この円錐の頂点、それぞれの価値観が収斂した後の世界とはどのようなものなのでしょうか。

福岡:人間を人間たらしめているものとは何かを考えると、理解が進むかもしれません。

細胞や遺伝子、代謝の仕組みでみれば、人間もトカゲや鳥も同じです。しかし人間だけが文化、社会、法律を作り科学を築くことができた。これは世界を構造化し、名前をつけるという能力、すなわちロゴスを持ったからです。

しかし、ロゴスは常に一定ではなく、ピュシスと共進化するものです。つまり、ピュシスを捉えるために、変化していかなければなりません。近代科学を作り出してきた、ルネサンス以降のロゴスはそろそろ“制度疲労”を起こしています。現代は新しいロゴスを創り出さなければならない時代なのかもしれません。

中間:それは人間にとって真の変容ですね。

福岡:そうですね。人間本来の生命のあり方に即したテクノロジーと、人間を回復するルネサンスが必要です。

中間:テクノロジーにはどんな役割が求められるのでしょうか?

福岡:ロゴスは、世界を構造化しましたが、同時に、世界を分節化、分断化しすぎてしまいました。あるいは見えない境界線や壁を作り出しました。テクノロジーは、このような境界線や壁を溶かし、分断をつなぎなおす役割が求められると思います。具体的には言語の違いをなくすこと、時間や空間によって遠ざけられている点を連結することなどが期待されます。

中間:まさに合成と分解における分解が重要になるわけですね。どうすればよき分解に向かえるのでしょうか?

福岡:分解というのは「全部取っ替える」ことではありません。伊勢神宮と法隆寺はどちらが生命的かという面白い議論があります。

伊勢神宮も法隆寺も、どちらも歴史のある建造物です。伊勢神宮は20年に一度開催される式年遷宮による全取り替えという方法で今に存在しています。場所も新しくしてきました。ある意味ではこれは、ロゴス的な発想です。

一方、日本最古と言われる法隆寺ですが、じつは建築当時の部材はほとんどありません。少しずつ取り替えていくことで、現在にその姿をとどめています。つまり、組み合わせの仕組みと相補性を保存しながら新しいものに変えていっているわけです。ピュシス、つまり生命的なアプローチは法隆寺です。

法隆寺は、ピュシスにとって大切な変わり方を教えてくれます。それは、急に大きく変えるのではなく、大きく変わらないために小さく変わり続けるということです。変わらないことを保存しつつ、変えることを大切にしていく。そんな相克の関係が、生命らしさをつくるのです。

中間:お話をお伺いする中で、ロゴスとピュシスが共進化し、収斂していく未来のイメージが強まってきました。

本日はありがとうございました。

今後、福岡先生と私が交互にさまざまな知見を持つ方々と「自然社会を迎える瞬間」をテーマに意見を交わしながら、「未来」を想像し、創造するキーワードを解き明かしていきたいと考えています。今後もよろしくお願いします。


https://sinic.media/contents/2673/ 【自然社会を迎える準備 ⸺忘我と分散的自我⸺

 福岡伸一 ✕ 伊藤東凌】より

連載対談「自然社会を迎える瞬間」vol.5

これからの時代における「SINIC(サイニック)理論」の役割や未来への視座を再確認することを目的とした連載企画「自然社会を迎える瞬間」。生物学者の福岡伸一さんとヒューマンルネッサンス研究所 エグゼクティブ・フェローの中間真一がナビゲーターとなり、多様な専門性を持つゲストをお招きします。

全5回シリーズの最終回となる今回のテーマは、SINIC理論の思想的な基盤のひとつにもなった禅。福岡伸一さんと京都「両足院」副住職​​である伊藤東凌さん​​が、禅と生命科学の観点から生命や人の意識の本質に迫り、「自然社会」を私たちの社会がよりよい形で迎える手がかりを提示します。

―― 禅と動的平衡から生命の定義を探る

福岡:本日はよろしくお願いいたします。東凌さんは臨済宗の僧侶ということなんですけれども、まずは臨済宗(※1)の特徴について教えていただけますか。

伊藤:臨済宗もふくめた禅宗は、自己へ向き合う方法の実践を徹底する宗派で、日々の実践をとても大事にする所に特徴があります。

福岡:つまり、他の宗派に比べて自由というこということでしょうか?

伊藤:そうですね。時代の変遷とともに社会も人も変わっていきますから、通り一遍の教えだけではなかなか通じなくなってきています。禅宗は仏教の教えの伝え方も比較的自由に開かれているところがありますので、例えば両足院でも展示を行っていますが、アートなどの表現と組み合わせながら仏教の教えを広く伝えていく試みにも挑戦しやすいと考えております。

©MASASHI KUROHA

福岡:自由というのはいいですよね。私は生物学者として生命現象に向き合ってきて、いまだに生命とは何かを問い続けています。「命とは何か?」と問われたら、仏教者の立場から、まずはどのようにお答えになりますか?

伊藤:我々は認識するということを大事にしておりますので、例えば私がポンとこの扇子で何かを叩いたときに、「叩かれたぞ」と認識して何かしらの反応をするものが生命だと考えております。

福岡:反応のあるものが生命ということなんですね。生命科学の分野では、生命とは何かという定義についてもいろいろな捉え方があります。動くとか、呼吸をするとか、代謝しているとか、増殖するとか、そうした特性をまずは列記するという考え方で答えざるを得ない面があるわけです。しかし、特性ばかりをいくら列記しても、生命というものの本体にはなかなか到達できず、周縁をぐるぐる回ってしまうことになります。

私もそうしたことへの葛藤を抱えながらも、学問として生命を捉えるときには、その方法を取らざるをえませんでした。しかし、それだけでは不十分だと考えた末に、生命の内部から特性を捉えるアプローチに至ったことで「動的平衡」というコンセプトにたどり着きました。

動的平衡とは、生きている生命の内側で絶え間のない合成と分解や、結合と分裂など、相反することが同時に起き続けており、その上でバランスを取っている状態を指します。つまり、常に流転していることが生きていることの本質なのです。

エントロピー増大の法則という、万物は例外なく秩序がある状態から秩序がなくなる方向に向かうという宇宙の大原則があります。それにより、壮麗なピラミッドのような建造物であっても年月とともに風化してしまいますが、生命だけは自分自身を壊しながらつくり替えることによって、秩序をなんとか守っている。いわば動的平衡によってエントロピー増大の法則に抗っているものが生命だと私は捉えています。こうした考え方は、仏教的における無常や輪廻思想とも親和性があると思いますが、いかがでしょうか。

伊藤:まさに仏教の無常についての説明を聞いているように思いながら伺いました。福岡先生が生命の内部からその特性を捉えることで動的平衡に至った際に、そのプロセスや方法はどのようなものだったのでしょうか?

福岡:生命というのは部品ではなく部品と部品の関係、つまり両者をつなぐ「間」こそが実は大事なのだということに気がつきました。生命の外側から分析をすると、その「間」が取り除かれてしまうので、ものだけが残ります。確かにそれらは部品としてはそれぞれ大事なんですけれども、それらを単に寄せ集めれば生命ができるというわけではなく、その関係が大事だということにだんだんと気がつきました。

学問を登山に喩えると、色々な知識の吸収や解析を進めながら一歩一歩山を登っていくようなものです。そうすると、ある頂上に達しますが、そこから初めて見えてくる光景があります。私の場合は、それが要素還元主義的なアプローチや分析だけでは生命を理解することはできないという反省に立った上で、自分自身をパラダイムシフトしました。そうすることで、関係性やものの流れを大事にしながら物事を見ていこうという動的平衡の立場に転換していったのです。

※1 臨済宗:臨済宗は9世紀に中国の禅僧臨済義玄​​によって始まった宗派であり、鎌倉時代に栄西によって日本に伝来した。曹洞宗、黄檗宗と並ぶ日本三大禅宗のひとつ。

―― 自我の境界をぼかし、軛を手放すこと

伊藤:臨済宗では座禅をして瞑想をします。人が瞑想する時、具体的に何をしているのかというと、自分自身の外で起きていることも内側で起きていることも、じっくり観察するように受け止めていきます。例えば雨が降ってきた時に、普段であれば、雨の音を認識すると、「傘を持ってきていないな」とか「予定を変更しなきゃ」と、関連する別のことに意識が向いてしまうので、それ以降は、雨の音を聞いているようでいて聞かなくなることが多いはずです。瞑想というのは、そういう時に、流れて変化し続ける音に対して継続的に意識を向ける練習だといえます。

身体に関しても一緒ですね。怪我や病気など大きな変化が出てきて初めて身体の存在や変化に対し、つぶさに意識が向くわけですけれど、そうではないときでも、刻一刻と変わり続ける小さな変化を見ていく。このように、すべての事物は常に流れ続け、決して止まった存在ではないということをはっきり認識するのが、まずは瞑想の第一歩だといえると思います。

福岡:生物はたとえ止まっているように見えても常に変化し続けていますね。例えば、一見すると同じ所にじっと留まっているように見える植物も、実は絶えず動いています。細胞の中はどんどん代謝されて、外からやってくる分子がそこに一瞬止まっても、またそこから流れ出ていきます。これは動物も植物も同じですよね。そういう目に見えない流れを感じ取るのが瞑想だと考えると、非常に腑に落ちます。

伊藤:そうですね。先ほどお話した自分の外側と内側に関して説明をする時は、最初は外に意識を向けて、次はあなた自身の身体に意識を向けてくださいと区切って説明をします。まずは区切らないと、なかなか理解のとっかかりをつかめないので、まずはそのようにお話するのですが、次の段階では、内と外と呼んでいたものの境界線をぼかして曖昧にしていくことを意識してもらいます。そのように内と外という境界から離れることは、仏教でいう「我」という非常に厄介な存在によるとらわれから、一時的にでも離れることにつながります。

福岡:人間は言葉を生み出したおかげで、この世界を構造化したり、ものに名前をつけたり、いろいろな仕組みを理解することができました。しかし同時に、言葉にはさまざまなものを分節化する性質があります。今おっしゃったように内と外を分けたり、壁をつくったり、切断したりする作用があります。これを私はロゴス作用と呼んでいます。ロゴスは文明や社会を構築して人間を非常に豊かにしましたし、基本的人権のような概念をつくり出しましたが、本来なら連続しているものや、その間にある関係性すらも過度に分断する側面もあります。瞑想によって内外の壁を溶かしたり、つないでいくことができれば、とても素晴らしいと思います。

―― すべての存在は分散的で無常である

福岡:東凌さんは、「梅干しからトマトへ」というメッセージを掲げておられるということなのですが、具体的にどういうことなのか教えていただけますか。

伊藤:お寺に座禅をしに来られる方にその動機を質問をすると、多くの方が「もっと自分の中にぶれない軸を持ちたい」ですとか「揺るぎない自己を確立したいです」とおっしゃいます。「自己肯定感が低いので、それを高めたい」という方もいます。私からすると、この自己と呼ばれているものの捉え方自体が、少し硬直しすぎていると感じます。ですから、私は座禅を体験する方々に「ゆらゆらなフォームこそが最高のバランスです」とお伝えしています。

福岡:動的平衡ですよね。止まると命は止まりますから。

伊藤:仏教では「無我という境地」という言い方をしますが、無我に至るのはなかなか難しいので、その前に忘我を体験していただきます。つまり我をしばらく忘れる、あるいは少しゆるめる。自己と思っているものが、梅干しのようなものだと考えると、その中心に堅い種があるということになります。間違えてガリッと強く噛んでしまうと歯が欠けてしまうかもしれません。揺れない自分やぶれない自分を目指すということは、この種をどんどん堅くて大きなものにしていくということです。

それよりも、自分というものの核だと思えているものを、もっと分散的に見ていくことを提案しています。中心にひとつの堅い核があるのではなく、小さなたくさんの自分の核が自分の中に散らばって集まっているような捉え方をするほうが、柔和で優しく生きていけるのではないかとアドバイスをすることが多いんです。

福岡:無我に達するのは簡単なことではないので、まずは忘我とおっしゃいましたけれども、臨済宗では、無我の境地の無というのはどういうものだと考えられていますか?

伊藤:自分というのを一つの固定したものとして見るのではなくて、集合体であるという見方がまず無我に近づいていく一歩です。仏教では、無常という概念と併せて無我を捉えますが、物事が変わり続けるなかで、自分というものが変化が遅いものや時として固定されたものとして見えてしまいがちです。

しかし実際には、周りとなんら変わりない、自分もまた本当に変わり続けているものだと識るということです。それを踏まえて自分もその周囲にある森羅万象もまた、多くの事物が集合した存在であると理解するということです。鳥の声、雨の音、風が葉っぱを通る音。言葉でいうよりも、実際に耳に入ってくる振動というのはもっとたくさん存在し、その振動を受け止めている自分もまた振動している。このように多と多の重なり合いとつながりの無数の糸を見ていくことが無我であって、あるとないを超えた無数というのが無我の境地なのだと思います。

福岡:そのお話を聞いて思い出したことは、哲学者の西田幾多郎(※2)のことです。西田先生は、鈴木大拙(※3)の盟友で、西田哲学の背景にも禅の思想があります。西田先生のおっしゃる「絶対無」は、何もない状態を指すのではなく、あることとないことが同時に存在している状態です。存在と非存在、あるいは合成と分解、そうした逆の流れが同時に存在している状態を絶対無としています。つまり、非常に動的なものが無であるということです。

自分を構成しているさまざまな原子や分子、あるいは自分を一瞬ごとにつくっている情報が常に無数の糸と環境との間に結ばれていて、それらも絶えず揺らいで動いている。それが自己、あるいは自我を解放して、無数のものに近づいていると考えることは、我々を自由にしてくれると思うわけです。

それは未来を考えるということにもつながっていくと思いますが、仏教、あるいは臨済宗の教えの中に、自分に対する過去・現在・未来いった時間をどう捉えているかについて、何か教えのようなものがありますか?

伊藤:時間に関しましては、やはり「今」ということをとても大事にしています。とくに人の悩みごとを伺うと、大抵は過去のことを悔やんでいたり、先のことを恐れていたりと、常に過去や未来にとらわれている方が多い。それに対して、今に集中して、その今をいかにクリアにしていくかということを、よくお話しています。今以外の時間はないのだと。

福岡:素晴らしいですね。過去や未来というのもロゴスがつくり出したある種の幻想というふうに考えることができますよね。そして私は、他の生物にとっての過去・現在・未来といはどういうものかというように、いつも人間の視点から距離を置いて考えるようにしています。そうすると、単細胞生物であろうが、猫や犬、あるいは猿といった割と高等な生物であろうが、過去にとらわれていることはないし、未来を恐れていることもない。今を生きているだけですよね。

※2 西田幾多郎:京都学派の創始者。京都大学名誉教授。禅の修学を踏まえた『善の研究』で「西田哲学」を確立。主観と客観が分かれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する根本的な問いを考察した。

※3 鈴木大拙:日本の仏教学者、文学博士。禅についての著作を多数英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。

―― 未来社会に向け、ピュシスを回復するテクノロジーの可能性を探る

©MASASHI KUROHA

福岡:さきほど伊藤さんは、梅干しからトマトへとおっしゃいましたけれども、私はそのトマトにあたる部分を蚊柱のようなものだと捉えた方が、より真の生命のあり方に近いのではないかと思います。目に見えないくらい粒が小さくなり、分散して絶えずその粒が外と入れ替わっている状態ですね。

生命は38億年前から流転しながら存在し続け、個々の生命は絶えずさまざまな物質やエネルギーや情報を受け取りながら、長い歴史の中での一瞬とも言える時間だけ、一生という形で個体が淀みのように構成されます。しかし、それらは絶えず揺れていて、時間が経てばまた環境の中へと還っていくものだと考えると、自我あるいは自己というものはそれほど確かなものではなく、環境とつながって常に動的に揺らいでいる存在だといえます。

実際に我々の身体でも、各臓器や各細胞はものすごい速度で代謝されていて、消化管の細胞は2、3日で入れ替わってしまいます。ですから、去年の私と今の私を比べてみると、物質レベルでは、ほとんど入れ替わっていると言っても過言ではありません。

唯一、記憶というものがその人の自己を支えているのかもしれませんが、その記憶も脳の配線にある電気が通ったときに思い出される現象にすぎません。いわば記憶はその瞬間ごとにつくり出されている幻想ですから、それもあまり確かなものではないでしょう。

存在が不確かだからこそ人間は自分を守るし、死ぬことを恐れるわけですけれども、死というのはある種最大の利他性と見ることもできます。自分が死ぬことによって、それまで自分が占有していた空間や資源を新しい生命に手渡すことができますし、それが起こるから生命は連続しているわけです。そう考えると、やはり自己というものに執着しすぎるのは、本当の自然のあり方から離れているロゴス的な幻想であり、執着だと感じます。

伊藤:私たち仏教者も葬儀などを通して人よりも多くの死に触れますが、死こそが最大の利他性というお話には、ちょっとドキッとしましたね。自然の中やそれこそ寺院の庭先でも、毎日のように虫がコロッと死んでは自然に還って、また別の個体が生まれていきますが、人間の場合は、死を迎えると特別な方法で埋葬します。例えば現代の日本では遺体を焼成してお骨を石の中に閉じ込めてしまいます。

福岡:身体を構成する大半の物質は、結局二酸化炭素や水に変わって、環境の中に分散することで植物の栄養になったり、大地の微生物の栄養になったりして、流転していくわけですよね。現代の人間は他の生物に食われてしまうことは少ないですが、埋葬するにせよ、チベットの鳥葬のように他の動物に食べさせるにせよ、結局のところ環境に還しているということには変わりがないので、その一部をお骨にして、つぼに入れて保存するというのは、流転する生命があまりにも儚いので、なんとかそれを固定したいという、人間の儚い願いなのかもしれません。

©MASASHI KUROHA

福岡:もう一つお伺いしたいことがあります。「分別」という言葉が仏教の教えにありますけれども、これはどういうものだと捉えたらいいのでしょうか。

伊藤:分別知は、福岡先生がおっしゃったような言葉の持つロゴスの作用によってできるだけ細かくものを見て、混ざり合わないように分けて物事を知っていくことを指します。これはこれで極めて大事なことですが、仏教の修行においては、分別知というのをあまり重要視しない、むしろ分別知を超えていきなさいということで、「無分別智」という言い方をします。

鈴木大拙も「即非の論理」(※4)のくだりで、「山これ山といふにあらず、山これ山といふなり……」という『雲門広録』(※5)の言葉を引用しています。我々はすぐに、山を見たときに「あれは山だ」という言葉で捉えて、そのありようや全体をつぶさに見ることを放棄してしまうわけですけれど、無分別な状態というのは、一旦その言葉から離れて捉えたうえで全体性をつかもうとします。とはいえ、分別を全否定しているわけではなくて、無分別を理解したうえでの分別をしなさいという教えがありますね。

福岡:それはとても大事ですよね。言葉で山だと捉えてしまうと、それだけで理解したつもりになり、自然としての山を見なくなる。つまり言葉の持つロゴス的な作用に依存してしまいがちです。ですから、そうして捉えた世界は本当のこの世界ではないことを、常に肝に銘じながら言葉を使うということですよね。

伊藤:臨済宗もふくめて禅というのは、仏教思想に中国の道教や老荘思想などがブレンドされています。そうしますと、自然こそに答えや道があると考えるので、よりロゴスから離れていきます。人間ももちろん自然の一部なのですが、自然と切り離して、自分たちだけが特別だと考えたり、ましてや自然をコントロールする対象として見るのではなくて、どうやって自然の一部としての感覚で生きていけるかを重視します。

福岡:それは大変素晴らしい自然観だと思います。いかにロゴスから離れるかといっても、例えば原始時代のような混沌としたピュシスに帰れということでもないですよね。言葉を手放すことのできない人間は、どこまでもロゴス的な方法でしか生きられません。ですから、ピュシスをより解像度の高い新しい言葉で言い直しながら、ロゴスとピュシスを行ったり来たりしながら生きるしかないと思います。

伊藤:おっしゃるとおりだと思います。ロゴスを徹底的に否定して、すべてピュシスに転換しろというのではなく、行ったり来たりすることが大切だと思います。そうしたとき、ピュシスを回復するための、誰でもできる実践方法として、福岡さんならどんなことが考えられますか?

福岡:自分の好きなことを好きであり続けるということが、ピュシスを忘れないということにつながると考えています。私の場合は少年時代に夢中になった昆虫採集が原点にありましたから、今も自然との触れ合いで、ピュシスの広がりというのを感じるという感覚を、忘れないようにしています。

伊藤:自然との触れ合いや遊びが本当に大切ですよね。一方で、科学が発展して我々の生活が便利になる、こうしたテクノロジーとピュシスの関係は直観的には離れたものに思えます。テクノロジーによってピュシスを回復する方法というのは考えられるのでしょうか?

福岡:テクノロジーはある意味でロゴスの究極形ですから、どうしてもピュシスから離れていってしまいますよね。でも、ロゴスの新しい形として、これまで私たちが分節化しすぎたロゴスをつないでいくテクノロジーもあると思います。例えばAIを使った翻訳ツールによって言語の壁を溶かしていくこともそうです。それから、距離や時間によって隔てられていた人たちがコミュニケーションをすることができますよね。

出会ったり、互いに交流するということはピュシスに属することだと思うんです。関係ということですから。ですから、テクノロジーの未来として、これまで人間が築いてきた言語の壁や、国境の壁や、文化の壁や、民族の壁を溶かすというあり方に私は期待したいなと考えています。分節化されたものをまた再結合していくことにテクノロジーの未来があるのではないでしょうか。

伊藤:関係というのがかなり大事なキーワードになると思います。テクノロジーによって新たな縁起が生まれて、自分の中ではもうつながっていないと思っていた糸が、もっと可能性のある糸という形で再びつながっていく未来を想像するとワクワクしますね。それによって自分を縛っていたロゴスの縄が少し緩まるかもしれません。

福岡:そうですよね。自己というものを縛っている縄を解いて、もう少し大きな生命の流れに戻るというか、参加するという意識が大事なんじゃないかなと思います。そうした心構えが10年後に自然社会を私たちがより良い形で迎える準備になるのではないでしょうか。

※4 即非の論理:鈴木大拙が著書『金剛経の禅』の中で「般若の論理」として提唱した、禅の立場から解き明かした般若経の根本原理。

※5 雲門広録:唐末から五代の時代に活躍した中国の禅僧、雲門文偃(うんもんぶんえん)​​の語録。

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