縄文の思考

https://note.com/fukuokashinichi/n/n2dfc93e32a29 【君はいのち動的平衡館を見たか vol.6|縄文の思考(期間限定公開)】より

 ならば、私たち現代の万博のプロデューサーも、大なり小なりとはいえ、岡本太郎の叫びを受け継いで、テーゼもしくはアンチテーゼをきちんと発する責務がある。

 そのためには、岡本太郎の思いをたどり直す必要があるだろう。太陽の塔は何を象徴していたか。それは、岡本太郎が当時夢中になっていた縄文的な生命のパワーである。火焔型土器や奇怪な土偶に宿っている、ほとばしるような生のちから。

 岡本太郎が縄文の美を発見したのは、1950年代のことである。1930年代、フランスに留学した太郎は絵画の修練を積むとともに、民俗学や文化人類学に触れた。戦後、彼はたまたま訪れた東京国立博物館で縄文土器と対面し、その造形に驚愕した。

 栃木県寺野東にある縄文遺跡からは、直径165メートル、高さ2メートルの巨大な環状盛土が発見された。何らかのモニュメントと考えられている構造体だが、その目的は不明だ。内部を調べると、バームクーヘンのように、何層にも重ねて土が盛りつけられている。しかも、各層からは異なる時代区分の土器が出土しているのだ。こうしたことから推定すると、この構造物を建造するにはおよそ1000年が費やされていることが判明する。青森県三内丸山遺跡の盛土構造物の方はさらに長期で、ざっと1500年もの継続工事だったことが分かっている。縄文人たちは何世代にもわたって、絶え間なく手を加え、常に作ることを続けていた。つまり、どんなものがいつできるのかということよりも、バトンタッチを繰り返しながら、それぞれの人々が、今、作っていることに参画しているという事実の方に重きをおいていたのである。まさに流れの中にあるいのちを絶えず、手渡し続けていた。

 歴史学者の小林達雄氏は、「記念物を完成させることに目的があったのではなく、未完成を続けるところに意味があったとみなくてはならぬ。むしろ完成を回避して、未完成を先送りし続けることに縄文哲学の真意があったのである。」(『縄文の思考』筑摩書房)と述べている。

 締め切り、完成、納品……現代の私たちは、いつもそんなものに縛られ、あくせくしている。そんな私たちからすれば、完成しないことにこそ意味がある、そんな文化がかつてこの日本にも存在していた。驚かされるしかない。

 このような哲学、すなわち今を生きる思考は、ともすれば今日の日本人、あるいは近代というものが見失ってしまったのではないか。そんな気がする。締め切りや納期がないと私たちの仕事がはかどらないのも事実だが、締め切りや納期があるゆえに、効率が何よりも優先されることになる。効率とは、仕事や成果を時間で割り算する思考だ。月給や年収を比較する、というのも同じ思考法だ。そこにはいつも一時間あたり、一日あたり、一年あたりの割り算がある。つまり短いタイムスパンでしか、物事を見ることができない思考回路にすっかり支配されてしまっているわけだ。

 しかし時間がとうとうと流れていた縄文期には、今を生き、それが過去の人々と連続し、未来の人々にもつながりゆく、という実感さえあれば生は充実していたのかもしれない。完成や成果ではなく、プロセス自体に意味があった。

 一方、狩りと採集によって生活の糧を得ていた当時の人々は、現在の私たちほど長時間、労働に身を捧げていたのでもない。縄文人の実労働時間を正確に知ることはできないが、現在における狩猟採集民の文化人類学的調査によれば、一日に2、3時間ほどの労働によって、集団はその日の生活の糧を得ることができた。あとの時間、彼ら彼女らは何をして過ごしていただろう。花を愛でたり、星を眺めたり、歌ったり、風に吹かれたり、あるいは奇妙な形の土器や土偶を作って、楽しく暮らしていたのではないだろうか。

 私たちの社会は時代とともに急速な進化と発展を遂げ、幸福で豊かな生活を手中にすることができた、というのは一種の幻想なのかもしれない。縄文への旅を通して、私はそんなことを考えた。そして岡本太郎もまた、縄文土器や土偶から大きなインスピレーションを得た。彼は、縄文人の美を発見した。同時に、自分の内部に、自分が表現すべきものを発見した。それが「日本発見であると同時に自己発見でもあった」(岡本太郎『画文集・挑む』講談社)ということである。縄文土器や土偶が吹き出す生命力。縄文人のいのちに対する畏敬の念、縄文人の生命観を体現している。あるいはそこに彼らの時間感覚、生命の実感が現れている。少なくとも縄文人は現代の人類よりは調和していたはずだ。人間同士が調和していたし、自然とも調和していた。

 テクノロジーやイノベーションが人間を幸福に導くのではない。あるいはそれらが人類に進歩や進化をもたらすものでもない。むしろ日本文化の古層に眠っている縄文的なパワー、生命の尊厳と根源につながるほとばしりを取り戻すことこそが、私たちに本来のいのちの輝きをもたらすことになる。太陽の塔はそのことを伝えるための到達点に他ならない。岡本太郎はそう言いたかったに違いない。


Facebook竹元 久了さん投稿記事

🔵最も根源的な「再生・循環」という観念

「生命は再生する」「生命は自然の中を循環していく」という、縄文人の「再生・循環」の観念は、人類史から見ても最も根源的な観念の一つ。

●死を遠ざけなかった縄文人の生き方

現在、私たちが持っている死のイメージと、縄文の人々のそれとは、まったく違うものだったと、山田さんは言います。

「現代では死は忌み嫌われているイメージがありますが、縄文人にとって死はもっと身近でした。この時代は、集落の中央にある広場にお墓を作ったり、家の中に埋葬したりすることが多くありました。広場や家に遺体をしばらく置いていた例も見られます。つまり、彼らは死や死者を恐れていなかったのです」。

その根底にあるのが、「生命は再生する」「生命は自然の中を循環していく」という、「再生・循環」の観念です。

「現代では、死は自分がこの世からいなくなる"消滅"や"無"のイメージを持つ人が多いですが、縄文人にとって、死は『自然に還ってもう一度生まれる』ための出来事でした」。

この時代の「生」の象徴といえば、生命を生み出す出産に関するものが多く挙げられます。

「土器や土偶がたくさん作られましたが、出産に関するデザインが多いんですね。土偶はおなかや腰のあたりが膨らんだだものがよく見られますが、これは妊婦をかたどったものだといわれています。

また、土器には、赤ちゃんの顔のようなものが装飾されていたり、出産時の光景を表したようなデザインもあります。土器の中に赤ちゃんや、時には成人の遺骨を入れる『土器棺墓(どきかんぼ)』という埋葬方法がありますが、これは、土器を母体に見立て、もう一度生まれ変わることを願ったといわれているんですよ。お墓の副葬品として、遺体と一緒に土偶が埋められていた例もあります」。

●全てに宿る魂は自然の中で生き続ける

縄文時代には、生物だけでなく、この世に存在する全てのものに魂(アニマ)が宿るという思想「アニミズム」がありました。縄文の人々は、常に周辺にさまざまな生命や魂を感じながら、生活していたことになります。こんな考えから「土器棺墓(どきかんぼ)」には、動物の頭や木の実などが入っていたこともあるそうです。

そんな生活において、人の死もまた、自然界に起こり得る当たり前のことの一つでした。「縄文の人々にとっても死への不安や恐怖は当然あったと思います。でも、人は死んだらいなくなるのではなく、風となり、鳥となり、星となり、自然に還って存在し続け、やがて再生する。そう考えることは、彼らにとって『心の処方箋』として機能していたと考えています」。

●再生・循環を思えばもっと豊かな人生に

縄文の人々は、私たちと同じように見たり、感じたりできるホモ・サピエンス(現生人類)でした。山田さんいわく、日本人の精神や考え方などの基盤がここにあるのだそうです。最近は、自分の遺骨を山や海に散骨する「自然葬」を希望する人も増えていますが、これも「生命は自然に還って再生する」という縄文時代の思想が、いまも私たちの心の中に脈々と受け継がれているからでは、と山田さん。

「縄文時代の死生観は、人類史から見ても最も根源的な観念の一つです。現代は科学文明が発達したにもかかわらず、経済や環境、家庭や仕事などのさまざまな問題があり、死に対する恐怖や不安を持つ人も多くいます。閉塞感を強く抱えるいまだからこそ、その観念が人々の『心の処方箋』として求められているのでしょう。自分は消滅するのではなく、自然のあらゆるところに存在して生き続ける、と思うことができれば、死の迎え方やクオリティ・オブ・デス(死の質)も、とても豊かなものになるのではないでしょうか」。

匿名

https://gendaihaiku.gr.jp/page-13433/【「アニミズム俳句」、無垢句、そして『縄文大河』への道のり  マブソン青眼】より

マブソン青眼

 フランスから日本に移住してからもう少しで30年になる。日本語で俳句を作っているのもおよそ30年。そもそもそんな「俳句」(俳諧)と出合ったのは40年前、芭蕉句に惚れたことからすべてが始まった。フランスから高校の交換留学生として初来日し、1年間宇都宮高校で勉強することになっていたが、その図書館で芭蕉句の英訳書を見つけた。10歳の頃から「詩人になる」と決めていた私にとって、大変な衝撃だった。たった17音で人間は本当に文学作品を創ることができるのか、という素朴な疑問から関心が湧いた。

 古池や蛙(かはづ)飛こむ水のをと 芭蕉

の英訳と原文を辛うじて読解し、当時17歳だった私は、「だから何?」と思いつつ、ほのかに芭蕉という人間の”ズレた視点”に感銘を受けた覚えがある。やはり、この「芭蕉翁」の心の自由、そして”同時に2つのものを心で描く”という俳句の骨法がこの句にあるのだと予感した。難しい言葉で言えば、この句は「雅俗混交」と「和漢混交」の「取り合わせ」を嗜みながら、古典的な「蛙の声」に対する、庶民の自由な発想を吐露しているのだ、という「第一印象」。そしてもう一つ、マブソン青年の眼に映った大事な「印象」といえば、「取り合わせ」の妙技だけではなく、「二重写し」という「面影」が促す世界観である。「もしかすると、この蛙は、芭蕉さん自身じゃないか? 彼は蛙のように、軽やかに、自由に飛びたかったんだろう」と直感した。

 帰国後、パリ大学東洋学部日本文学科に入学し、修士課程では芭蕉や一茶の俳諧のみならず、「風土記」や「万葉集」東歌などの上代歌謡も少し研究した。やはり、この日本列島に住む人間たちは太古から「自然物」に接した際、それらを「自分と切り離された世界」と見ず、むしろ「波のうねり」を「恋」のように感じたり、「不可思議な岩」を「妻夫」と見たり、「蛙」を「心の自由」と詠ったりするのだと、また驚いた。

 当時、パリ大学日本文学科のキャンパスの近くに、自由に受講ができる「社会科学高等研究院EHESS)」があり、そこでクロード・レヴィ=ストロースの後継者でアニミズムが専門のフィリップ・デスコーラが教鞭を執っていた。その講義で革新的な「4つのオントロジー説」を知ることができた。この説に基づく「現代人類学におけるアニミズムの学術的定義」は案外、解りやすい日本語で訳されていないので、ここで説明させていただこう。

 要は、「人間は4種類の世界観をもつことができる」という説である。「アニミズム」「トーテミズム」「アナロジズム」「ナチュラリズム」。それは、万物の内面と外面に対して、人間がどのように接するかで決まるのだ。万物の内面(「魂」と呼ばれたりするもの)について「同一」のものとみた場合、すべての「内面」が平等に存在し、同じ資質があるという考えになる。「アニミズム」と「トーテミズム」がそのようなオントロジーだが、万物の「外面」に関しては両者に物の見方の違いがある。アニミズムでは「外面」の多様性が認められるが、トーテミズムでは皆で「トーテム」を囲んで、生き物のグループを作り、トーテムに合わせて外見を固定させようとする(多くはアニミズム社会が定住するとトーテミズムに変わる)。さて、いわゆる「アナロジズム」(例えば中世までのヨーロッパ、あるいはインド・中国などの多神教的社会)と「ナチュラリズム」(近代以降のヨーロッパ)はいかが? その二つの世界観では、生き物によって「内面」が区別(差別?)される。アナロジズムでは社会階級、カースト制度、六道などによって「魂」の上下関係が決まり、ナチュラリズムでは「人間」と「その他」がハッキリと切り離され、人間のみに魂が認められ、デカルト辺りからNature とCultureが完全に決別する。しかしそのナチュラリズムでは万物の外面(物質的な部分)はすべて「科学」という名の掟によって統一される。最後に、アナロジズムの外面についてだが、万物の外面も多様のままであり、内面的なカテゴリーと複雑なアナロジー(関係性)で位置づけられている(例えば中世ヨーロッパの紋章、仏教の五色など)。

 つまりデスコーラの革新的な発見は、アニミズムの定義だけではなく、他のオントロジー(世界観)との相違関係にある。「アニミズムとトーテミズムでは文化(Culture)に対する自然(Nature)というコンセプトも、単語でさえ存在しない。だからこそ、人間と非人間が一体化し、人間がその環境に害を与えようとしない」と言うのだ。結果としてアニミズム的世界観の人間は、同類の魂をもった相手と接した場合(とりわけやむを得なくその命を取って食した場合)、強い感情移入が働き、非常に重い責任感、そして罪悪感を覚えるということになる。そのジレンマを解決するには、特殊な人間による「交渉」が必要になる。それで、シャーマン(吟遊詩人、語り部等)に仲介役を頼んで、彼らに「二重写し」に見える(半人半獣)の仮面を着けさせたり、物語(神話)、歌(多くはポリフォニー)、踊り(トランスなど)をやらせたりして、人間と非人間の和解に努めるのだ。

 ここで日本人なら誰しも能のワキとシテの「二重写しの物語(トランス?)」を思い浮かべるだろうが、実は日本の上代歌謡から俳諧まで検証すると、そんな「二重写しの呪術的な歌」が大変多く認められる。

 田一枚植て立去ル柳かな 芭蕉

 かつて所属した早大の堀切実研究室のメンバーと、2003年に上梓した『「おくのほそ道」解釈事典』(東京堂出版)で示したように、実はこの名句の「植える」と「立去る」の主体は、3世紀の研究史を経てなお 不明のままである。早乙女か、芭蕉か、柳の精か、遊行柳の奥に宿る西行の魂か、全く判らない。4つの主体、2つの動詞の「八重写し」となる。つまり、柳を媒体にして、シャーマン芭蕉は西行の霊と交信し、「豊かな稲の実り」を祈っているのではないか。

 亡母や海見る度に見る度に 一茶

 こちらもやはり「二重写しのアニミズムの世界観」が認められる。一茶は同時に海の「魂」を仰いで、顏も知らぬ母(4歳の時に喪った実母)の「魂」を仰いでいるのだ。そうやって自分を含む「弱い人間たちの息災」を祈るのだ。

 ところで私が再来日したのは、1996年。今度は、国際交流員として長野県庁に勤め、「俳句でおもてなし」という長野オリンピックの公式文化プログラムなどを担当しながら、一茶研究に専念するために長野市に居を構えることになった。その頃、同じ一茶研究家でもあった金子兜太師に会い、意気投合し、師事した。彼の「一茶アニミズム説」に心から共鳴した。兜太はむろん、パリ大学の最新の人類学者によるアニミズムの定義を知るはずもなかったが、彼には、3年に及ぶ大事なフィールドワーク、つまりトラック諸島で共に暮らしたカナカ族に対する深い理解があり、肌で「アニミズム俳句」を悟っていたと言えるだろう。

 犬は海を少年はマンゴーの森を見る 兜太

金子兜太師と筆者 (秩父俳句道場にて)

 この名句はまさに、「同時に人間と非人間の視点」を詠った南洋のアニミズム、島の恵み(海やマンゴーなど)に感謝する「和解のシャーマン俳句」といえるのではないか。

 実は私事の話となるが、約5年前、兜太が他界した少し後、急に日本社会(や日本の俳壇)の閉鎖性に疲れきって、1年間南太平洋の孤島で一人暮らしをしてみようと決めたのだ。そこで、師がかつてトラック諸島で勝ち取った「俳諧自由」の風を感じ、季節の無い島で”純粋な無季句”を目指し、五百句と長編小説一編を書いた。生まれたのは『句集と小説 遥かなるマルキーズ諸島』(本阿弥書店、2023年)の一冊である。

  古代 先祖像(ティキ)金子兜太の悲しき笑み 青眼

  子は父を父は神父を神父は海を見る

(写真左)マルキーズ諸島ヒバオア島にある 古代・先祖像(ティキ)Tiki souriant (金子兜太師とそっくりか?)(写真右)一年間過ごした南太平洋の孤島・ヒバオア島

 ポリネシア最古の文化を誇るマルキーズ諸島で1年間“何とかして生き残った”お陰で、少しばかり兜太師の、そして風土記や東歌や芭蕉や一茶にみる”アニミズムの複眼的な視点”で物事を仰げるようになったような気がする。しかし、その美しい島で初期の新型コロナ肺炎に罹り、日本に戻っても後遺症が続き、実は今も慢性的な喘息に悩まされている。

 ただ、めでたいこともあった。2021年秋、小説『遥かなるマルキーズ諸島』のフランス語版『L’île-sirène』がタヒチのÉditions Haere Pō社からも上梓されることになり、2021年11月15日から二十一日まで開催された「第21回タヒチ・ブックフェア」に招待された。2年ぶりにポリネシアに足を運んで、「俳句とアニミズム」について講演をしたり、「第1回ポリネシア俳句大賞」の審査委員長を務めたりした。特に、最も心に残ったのは、ちょうど一茶忌の日となる11月19日、仏領ポリネシアで初めての句会を開いたことである。こうして日本の俳句(ハイク)はついに、南洋の孤島でも、地元の人間(エナタ)によって詠まれるようになった。そこで、アニミズムの世界観に基づいたポリネシア人の「取り合わせ」と「曖昧な文法を活かした二重写し」のセンスに息をのんだ。例えば、大賞に輝いたこの句。

 Ma’ita te tai / Tani te ‘eo manu / ‘Ena te ua

 海白み鳥語ひとつになれば喜雨

  ライタ・カイムコ (マルキーズ語)

 この取り合わせ、この大らかな「海・鳥と人間の二重写しによる共生的な世界観」に、「おくのほそ道・旅立ち」の句が思い出されるのではないか。

 行春や鳥啼き魚の目ハ泪 芭蕉

 やはり、日本という島国はそもそもポリネシア三角圏の北西に浮かぶ小さな列島だったのだ。南太平洋と同じ”アニミズム文化圏”なのだと、その頃から強く感じるようになった。

  浅間からポリネシアまで鰯雲 青眼

 トラック諸島から帰還した頃の金子兜太師もきっと、同じ感慨を抱いていたのではないかと想う。事実、「俳句の国際交流」を有意義に(そしてフェアに)進めるのであれば、本当は欧米や中国ばかりではなく、アニミズム的な言語と時間意識をもった文化圏(南太平洋、アイヌ、南米原住民、アフリカの一部など)と交流したほうが、「取り合わせ」と「二重写し」の美学が”自然に”通じる文化圏から、素晴らしい作品が生まれるのでは、とも考えたりする。国際俳句交流協会初代会長であった故・内田園生氏(元・駐セネガル日本大使)が創めた「ダカール・日本大使館俳句大会」が今も大人気を集め、その40年近くの歴史が途切れることなく続いているのも、その証しといえよう。ただ、そのような地域は多くの場合、決して裕福な経済状況ではないため、「俳句の国際交流」から疎かにされがちなのだ。私自身もいわゆる”普通のフランス人の翻訳家”でもあり、現在生計を立てるためにパリの大手出版から定期的に近世俳諧などの翻訳集を出させてもらっているが、その本はパリや大都市の中心部の名書店で売られているだけで、南太平洋やアフリカなどでは一切流通しないのが現状である。

『日本の猫 一茶俳句撰 Un chat au Japon』 仏訳集 Editions de la Martiniere 2023

 ともかく2020年から南太平洋の孤島から日本の長野市に住む妻子の元に戻り、コロナの後遺症に耐えながら生活してきた。そして、3年間の闘病の日々を描いたのは次の句集『妖精女王マブの洞窟』(本阿弥書店、2023年)である。「大らかな人魚の世界を愛でる海のアニマ」から「やや不気味な妖精を追いかける空のアニマ」に転換したといえる。アニミズム的な世界観がヨーロッパにも色濃く残っていた中世の頃、「夢想の世を司る妖精の女王マブ」が敬われていた。シェリーの哲学詩によると、彼女は毎晩、心ある人間に夢を見させ、俗塵を離れた天空の洞窟まで連れてゆき、そこから苦難多き人界を眺めさせ、のちにその人間が目覚めると清らかな眼でこの世を再発見することができる、という不可思議な存在だ。そんな詩を読んで私は病から蘇ったかのような、苗字の通り「マブの子」に生まれ変わったかのような童心に帰り、再びこの地球を無垢な「青眼」で眺めたいと思った。そしてある日突如、「五七三」という” 無垢な韻律” と出合った。その”新韻律”の無垢句50句で、句集『妖精女王マブの洞窟』を締めくくった。

  木々に雪バッハの後の無音  青眼

  悉く山の名忘れ服喪

  泣いている木 笑っている木 みな木 

 すると、めでたいことに、この風変わりな句集が第79回現代俳句協会賞を受賞することになった。そんな”新韻律”への道のりを辿る句集で頂けたことが特に嬉しかった。さきほど「ある日突如、「五七三」という” 無垢な韻律” と出合った」と書いたが、もう少し詳しく説明しよう。ちょうど兜太五周忌の三日前、2023年2月17日の昼頃、千曲川沿いの縄文遺跡の近くの中洲で昼寝をしていた。なぜか、一つしかない白雲(はくうん)より大鷺(だいさぎ)が降りて来て、一句が浮かんだ。

  白雲より大鷺降りて無音 青眼

 “凄まじい歓び”だった。原始の世界へタイムスリップしたかのような、無垢なる宇宙を垣間見たような・・・。「無垢句」という言葉は自然に口から出た。そしてすぐに「これぞ、螺旋のような、アニミズムのリズムだ」と直感した。そもそも昔から、私は「五七五」が左右対称で、”完璧すぎて”、「案外、日本的ではない」と感じていた。富士山もそうだが。「完璧な幾何学的フランス庭園」を好むフランス人に人気の「FUJI YAMA」なんか、私はあまり感動しない。俳人なのになぜか「五七五七七」に見える八ヶ岳、あるいはいびつな茶碗にも似た浅間山のほうが心に響くのだ。五七五が富士山なら、五七三は浅間山か。切なくて、ややもどかしくても、とにかく無垢にして無性にゆかしい。五七五が仏教の輪廻転生なら、五七三は自然体の螺旋的な時間意識だろうか。そこに完結しない、”生まれ変わり”という人間の概念以前の、進行中の無垢な時空。マルキーズ諸島のタトゥーの螺旋模様のような。縄文土器の渦巻文のような。ケルトの列石の二重螺旋のような。

 ヨーロッパ近代文学の詩歌は同じ長さの詩句(アレクサンドランなど)を重ね、一神教ならではの直線的な時間意識を表現する。五七五は仏教ならではの周期的な時間意識を表現する。それなら、五七三はやはり螺旋、アニミズムの時間意識であろう。

 本稿の前半でふれたオントロジー論を当てはめて言えば、対等な詩句の西洋長詩はもちろんナチュラリズムの世界観であり、五七五は万物の内面と外面をカテゴリー化するアナロジスム(題詠、有季定型のカテゴリー)、あるいはもっと自由な傾倒の「二重写し」を詠うアニミズム俳句の世界観が見られる。後者には本来、左右非対称の螺旋型の韻律のほうが合うのでは、と私は思う。

 初めて五七三で句が浮かんだ直後、2023年3月中旬、たまたま大切な俳友である五十嵐秀彦氏に、講演講師として北海道文学館に招かれ、彼の計らいでアイヌの方々と会えた。それで、アイヌ文化を詠んだ無垢句20句の連作で句集『妖精女王マブの洞窟』を締めくくることにした。

 アイヌ語美(は)し雪解雫もラ行

 天広く手のひら広くアイヌ

 舞う鶴の夢果てし無く旅寝

五十嵐秀彦氏と筆者(上田市「無言館」敷地内、兜太揮毫「俳句弾圧不忘の碑」の前で)

 長野市に帰って来ると、ごく自然に千曲川流域の縄文文化に興味をもつようになった……。

 2024年の夏至の日に出した句集『縄文大河』(本阿弥書店)は「アニミズム俳句の三部作完結」のつもりで、「海のアニマ」(南太平洋の人魚)、「空のアニマ」(ヨーロッパの妖精)に続く「石のアニマ」(縄文のビーナス)を詠もうとした。全句において五七三の韻律を用いて、合計444句にわたって縄文時代中期に最も栄えた千曲川・信濃川流域(井戸尻から長岡まで)の先史文化を讃えたかった。つまり、”世界の果て”なるマルキーズ諸島で五年前に惚れたアニミズム文化と同じ世界観が、実は妻の家族の出身地でもある千曲川沿い長野市若穂町縄文遺跡などに潜んでいたと発見したのだ。妻と娘のご先祖様でもある縄文人のために、どうしても遺したかった1冊。1年半、ほぼ毎日、長野県や新潟県の様々な縄文遺跡や資料館を探訪し続けた。私の大好きなニッポンはそこにあった。壮大な苗場山麓の火焔土器のような稜線に、香炉型土器に似た緩やかな浅間山に、縄文の無階級社会を想わせる広大な諏訪湖に。五七三のリズムの螺旋に誘われたまま、「もう一つのニッポン」を賛美したのだ。

 ある冬の日、長野県小海線の小海駅から十キロ近く歩いたあげく、「北相木村栃原岩陰遺跡」に辿り着き、1万年ほど人間が必死に生きようとした洞窟を見た。その時、1万年の歴史も、フランスあるいはマルキーズまでの1万キロの距離もみな同じ”切ない螺旋”の一部に見えた。そして、深い安らぎと、純粋な温もりをしみじみと堪能した。遥かなる日本の縄文文化こそが、新しい世界文学への道を照らす焔(ほのお)のように見えたのだ。

 石組炉 地球ひとつのかたち 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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