ムーミン谷にチングルマ咲き誇る

https://www.iwate-np.co.jp/article/2025/6/30/184591 【ムーミン谷にチングルマ咲き誇る 雫石町と秋田県仙北市にまたがる秋田駒ケ岳で見頃】より

青空の下、ムーミン谷と呼ばれる場所に咲き誇るチングルマ=29日、秋田駒ケ岳・馬場の小路

 雫石町と秋田県仙北市にまたがる秋田駒ケ岳(1637メートル)では夏の花が盛りを迎え、チングルマの群生が一面に広がっている。

 通称「ムーミン谷」と呼ばれる馬場の小路(こうじ)では、かれんな白い花が登山道沿いに咲き誇り、風に揺れる。大勢の登山客が青空に映える「じゅうたん」に歓声を上げ、写真撮影を楽しんだ。家族4人で訪れた仙北市・生保内小5年の吉田統吾さんは「ちっちゃくて、すごくきれい」と見入った。

 高山植物の宝庫と呼ばれる秋田駒ケ岳。チングルマは7月いっぱい見頃が続き、コマクサやニッコウキスゲも今後咲き始める。

https://www.youtube.com/watch?v=q50EPSUkq_I

https://diamond.jp/articles/-/357245 【「えっ、ムーミンってこんなに深い話だったの?」性と自由の暗喩が面白すぎた!】より    横道 誠: 京都府立大学文学部准教授、文学博士

ムーミン谷のチングルマとハイカー

日本でもお馴染みのムーミン・シリーズを、発達障害当事者である文学研究者の横道誠氏が独自の観点から読み解いている。牧歌的な物語に見える「ムーミン」だが、よく読めば性的絶頂や同性愛を暗示している箇所が見られるのだという。本稿は、横道 誠『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』(ホーム社)の一部を抜粋・編集したものです。

「自閉的」で我が強い住人が集まる

ムーミン谷が意外にも平和な理由

 私が思うに、ムーミン谷とはおそらく、トーベ(編集部注/トーベ・ヤンソン。ムーミン・シリーズの作者である女性)自身が属していた芸術家たちや学者たちのコミュニティのメタファー的存在です。それが共同体として理想化された姿が、ムーミン・シリーズに描かれているのではないでしょうか。

 ニューロマイノリティ(編集部注/神経学的少数派=注意欠如多動性障害や自閉スペクトラム症などの症状を持つ人のことを非病理的に捉えなおした表現)は芸術家に適していると見なされることが多いです。それもあって、芸術家の世界には似たもの同士が多いと思うのですが、しかし彼らは「自閉的」な傾向を持つためにとても我が強い人たちなわけです。それがときには、深刻な葛藤ももたらすはずです。共同体の存続が危機に瀕することだってあるかもしれません。

 そういう現実とは裏腹に、ムーミン谷はあくまで平和です。「自閉的」で我が強いキャラクターだらけなのに、そして彼らはバラバラに行動しているのに、共同体は問題なく持続していきます。そのようなムーミン谷は、トーベにとって「現実もこうだったら良いのに」と感じさせる理想郷だったのではないでしょうか。

 『ムーミン谷の夏まつり』を見てみましょう。夏が舞台ということ、作中で演劇が上演されるということから、トーベはシェイクスピアの喜劇、とりわけ『真夏の夜の夢』を意識してこの作品を書いたのではないか、と推測できます。

 本作の献辞は、舞台演出家だったヴィヴィカ(編集部注/ヴィヴィカ・バンドレル。トーベと恋愛関係にあった女性)に捧げられています。ヴィヴィカとの恋愛は早くに散ったのですが、ふたりは友人として信頼関係を維持しました。

スノークのおじょうさんが見せる

エクスタシーの表情

 1948年に『たのしいムーミン一家』でトーベが人気作家になると、ヴィヴィカの発案で最初のムーミン演劇が構想され、1949年の年末に『ムーミン谷の彗星』が『ムーミントロールと彗星』として舞台化されました。これらの経験が、『ムーミン谷の夏まつり』にみなぎる賑やかな印象と、クライマックスを構成するムーミンパパが台本を書いた『悲劇「ライオンの花よめたち─血のつながり」』へと発展したのだと思われます。

 本作では、スノークのおじょうさんのヒロインとしての魅力が爆発しています。とくに劇場で衣装部屋に入る場面ではフェミニティがあふれています。

「衣装……服……ドレス!」

 小さく声に出して、ドアのハンドルを動かすと、中へ入りました。

「まあ、すてき!ほんとに、なんてきれいなんでしょう」

 おじょうさんは、胸がどきどきしました。

 ドレス、ドレス、ドレス。ドレスばかりが見わたすかぎり、いく百となく、ぎっしりとならべられて、何列も長々とつり下がっているではありませんか。金銀の糸で作られたドレスも、雲のようにふわふわのチュールや白鳥の毛のドレスも、花がらのシルクのドレスもあります。ダークレッドのベルベットのドレスも、たくさんのスパンコールが光り、つぎつぎ色が変わる、きらきらのドレスもありました。

近づいてみて、スノークのおじょうさんは、ほうっとなってしまいました。指でドレスにさわってから、腕いっぱいにドレスを抱え、鼻におしつけたり、胸にだきしめたりしました。ドレスはサラサラと鳴って、ほこりと香水のにおいを立てました。やわらかいドレスたちは、おじょうさんをはてしなくやわらかな世界にひきずりこんだのです。(『夏まつり』p.76-77)

 この場面が描かれた挿絵ではスノークのおじょうさんの顔つきは陶酔し、エクスタシー(性的絶頂)を感じさせます。

ミムラとミイ姉妹は

同じ人物が分裂したもの

 同じように濃厚なフェミニティを感じさせるキャラクターとして、本作にはミムラも登場しています。彼女の顔つきにもエクスタシーのニュアンスを感じさせる場面があります。

 二村さん(編集部注/AV監督・文筆家の二村ヒトシ。横道誠氏の著書『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』に「大人のテーマが描かれている(ように僕には思える)ムーミン・シリーズ」というコラムを寄稿)はミムラとミイという姉妹ふたりは、トーベのいつもの流儀で、同一のキャラクターがふたりに分裂した存在のように感じられると言っていました。女性の性的な側面とそうではない側面の分裂というわけです。トーベにとっては、その両方が重要だったのではと思われます。

 前作『ムーミンパパの思い出』には、たくさんのミムラたちが出てきていました。多産の一族なのです。ですからミムラは恋愛、結婚、多産、繁栄の女神アフロディーテ(ヴィーナス)のようなシンボル的存在かもしれません。『ムーミン谷の夏まつり』にはスナフキンが面倒を見ることになる24人もの子どもたちが登場して、大量に集まって移動するニョロニョロも姿を見せます。

 これらも多産性を連想させますし、全体に漂う多幸感を強めています。

 スノークのおじょうさんがヒロインとして魅力を発揮し、彼女とムーミントロール(編集部注/ムーミン族の男の子で、アニメ版の主人公・ムーミンの原型)が公認のカップルとして表現される本作ですが、そうとはいえ、すでに次作以降での彼女の没落の予兆も描かれてしまっています。冒頭近くでムーミントロールにとってのふたりの重要なキャラクターがつぎのように表現されています。

 スナフキンは、ムーミントロールの親友でした。いうまでもありませんが、ムーミントロールはスノークのおじょうさんも大好きです。だけど、おじょうさんは女の子ですから、それとこれとがそっくり同じというわけにはいかないのです。(『夏まつり』p.18)

 スナフキンは留まりつづけ、スノークのおじょうさんは存在感を弱めていきます。つぎにスナフキンについて考えてみましょう。

「たばこを吸うべからず」の立て札を

引っこ抜く怒りのスナフキン

『たのしいムーミン一家』が、ムーミントロールとスナフキンのいちゃいちゃしている場面から始まって、終盤にスナフキンを思って悲しむムーミントロールの描写があるのと対照的に、『ムーミン谷の夏まつり』は、スナフキンを恋しがるムーミントロールの描写から始まり、ムーミントロールとスナフキンの再会がクライマックスで描かれます。

 作品が執筆された背景に視線を転じると、トーベはすでに1952年にアトス(編集部注/アトス・ヴィルタネン。ムーミンの連載の場を提供した新聞の編集長で、スナフキンのモデルになったとされる)と恋人としては決定的に破局していましたが、彼はたいせつな友人としてトーベの心に住みつづけることになりました。

『ムーミン谷の夏まつり』では成りゆき上、置きざりにされたり迷子になったりした24人の子どもたちの世話を焼くことになるスナフキンが描かれます。ふだんのスナフキンには父性的な印象がありませんから、意外なイメージと言えるでしょう。さらに意外なのは、いつもの飄々とした態度を捨てて、反逆児的な姿を見せる場面があることです。おそらく現実上のアトスをむしろ反映しているのかもしれません、それはつぎのようなスナフキンの公園での行状です。

 スナフキンは、自分のしたいことをぜんぶ禁止している立てふだを、残らず引きぬいてしまいたいと、これまでずっと思いつづけてきました。ですから、

(さあ、今こそ!)

 と考えただけでも、身ぶるいがするのでした。

 まず、『たばこを吸うべからず』のふだから始めました。

 つぎには、『草の上にすわるべからず』をやっつけました。

 それから、『笑うべからず、口笛を吹くべからず』に飛びかかり、

 つづいて、『両足で飛びはねるべからず』を、ずたずたにふみつけました。

 小さい森の子どもたちは、ただただあっけにとられたまま、スナフキンを見つめていました。(『夏まつり』p.118)

 他人に自由を制限されたくないスナフキンは、じぶんの自由を守るためなら、こんなに大胆に乱暴になるのだと考えられます。

美しい自然描写にも見出せる

ニューロマイノリティの感性

 さて、またまた自然描写の話をしておきましょう。本作でも、やはりムーミントロールと水の親和性が強調されています。スナフキンを恋しがるムーミントロールは、ぼんやりとした目つきで池の横に寝ころんでいます。とても個人的な意見ですが、私はムーミン・シリーズすべての挿絵のなかで、この場面でのムーミントロールの絵がいちばん好きです。横たわった彼のまわりでは自然界が初夏を謳歌しています。

 池のまわりには、すべすべしてつやのある大きな葉っぱがしげっていて、トンボやミズスマシがその上で休んでいました。水面の下では、いろんな小さい虫たちが、ゆうゆうと動きまわっています。もっと下のほうには、カエルが目を金色に光らせていました。いちばん底のどろの中に住んでいる、カエルの親類みたいなおかしな生きものが、ちらりとすがたを見せることもありました。(『夏まつり』p.12)

自然とシンクロしやすいニューロマイノリティの世界観が具現化されたかのような風景描写です。水が引きはじめ、災害が収まる場面は、勢揃いしたキャラクターたちが楽しそうにしています。と同時に自然界の様相が記されて、本作の多幸感は頂点に達します。

ホムサ=ホモセクシャル

同性愛のほのめかし!?

 やっと、水が引きはじめました。洗い流されたばかりの海岸が、ゆっくりと日光の中にふたたびすがたをあらわしました。最初に顔をつき出したのは、木々たちでした。寝ぼけたようなこずえを水面の上にふるわせ、それから、あんなひどいできごとのあとでも、なにも失わなかったことをたしかめるように、枝をさしのばしました。いためつけられた木立は、いそいで新芽を出しています。小鳥たちは元のねぐらを見つけ、水の引いた丘の上では草の上に寝具が干されていました。(『夏まつり』p.206)

 トーベの描きだす自然の姿は、ほんとうに美しいですね。

『ムーミン谷の夏まつり』で、ムーミントロールたちが逮捕されてしまう場面は、もちろん物語を盛りあげるための演出にほかなりませんけれども、「やらかし体験」によって叱られたり責められたりする発達障害者の人生を暗示しているようで、私としては微笑を浮かべてしまいます。

書影『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』(ホーム社)

『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』(ホーム社)

横道 誠 著

 畑中さん(編集部注/畑中麻紀。新版ムーミン全集の改訂翻訳者。横道誠氏の著書『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』に「ぴったりの居場所がない人のために」というコラムを寄稿)は「自閉的ということなら、本作に登場するホムサがいちばんそうだと思う」と言っていました。たしかに人間のような生きもののホムサが見せる控えめな態度と旺盛な空想力は、ニューロマイノリティの特徴にかなっています。

 また畑中さんは「スウェーデン語の母語話者が『ホムサ』という名前を聞いて連想するのは『ホモセクシャル』みたいです」とも教えてくれました。

 なるほど、そうわかると、『たのしいムーミン一家』でトフスランとビフスランがトーベの同性愛を仄めかしていたのと同様の役割を『ムーミン谷の夏まつり』ではホムサが果たしていることになりますね。このようなトーベの仕掛けに対して、私はいつもニューロマイノリティらしい「強烈なこだわり」を見てとります。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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