Facebookあいことばさん投稿記事
「あなたがアメリカに来ると命が危ないから、絶対来ないでください」
『奇跡のリンゴ』の著者、木村秋則さんに、オノ・ヨーコさんはこのように伝えた。
オノ・ヨーコさんが『奇跡のリンゴ』をアメリカで翻訳出版しようとしたが、何者かの大きな力によって、出版社に圧力がかけられ、出版できないようにされてしまったそうです。
仕方なく現在はご自分のサイトで紹介するにとどまっています。
以下はヨーコさんの紹介文の翻訳。
⭕️
親愛なる友人の皆様
この『奇跡のリンゴ』という本を皆様にご紹介できることを大変嬉しく思っております。
私がこの本に出会った経緯と、この本の内容についてご説明いたします。
木村秋則著『奇跡のリンゴ』、石川拓司著。
www.IMAGINEPEACE.com にて YOKO ONO が紹介
私は東京の JAL ラウンジでニューヨークへの帰路を待っていました。隅に並べられた新刊の中からこの本を手に取りました。読み始めたら、もう手放せませんでした。待合室の係員がこの本を持ち帰ってもいいと言ってくれたので、ニューヨーク行きの飛行機の中で全部読み終え、すぐにこのテーマの 2 冊目の本があればいいのにと思いました。
この本は革命です。
リンゴ農家が 10 年間かけて殺虫剤を使わずにリンゴを育てる方法を見つけようと努力した実話です。彼が発見した方法は、リンゴ栽培だけでなく、殺虫剤を使って育てた植物すべてに当てはまると私は思います。
彼が何年も働くうちに、村の人々や友人たちは皆、彼が気が狂ったのではないかと考え始めました。最初、彼が先祖から受け継いだリンゴ園は、殺虫剤を一切使わなかったために破壊されました。
殺虫剤を使った他の果樹園から、彼の果樹園に大量の虫がやって来ました。彼の2人の息子は、クラスメイトにからかわれるのを避けるために学校を辞めました。
彼は貯金をすべて失い、しばらくの間、地元のバーの用心棒をしなければなりませんでした。
彼の妻は何も言いませんでしたが、毎日、美しい弁当箱に手作りの弁当を入れて畑に届けてくれました。彼はひげを剃らずに、空を眺める以外何もせず一人で座っていました。
10年経った後、彼はついにこの信じられない旅を始めたのは間違いだったと思いました。
ある満月の夜、彼は自殺するために丘を登りました。彼は石の上に座り、どうすれば自殺できるのか考えました。
すると突然、遠くの木が彼の目に留まりました。その木は月明かりに輝いていた。それはリンゴの木だった!
「なぜこの丘にリンゴの木が一本だけあるのか?」と彼は思った。
彼はその木に駆け寄ってみると、それはリンゴの木ではなかったが、その木が彼にインスピレーションを与えた。
「そうだ!果樹園のリンゴの木はすべて最初は温室で育てられ、その後植え替えられ、自然の根は切り取られている。
強くて健康な木を育てるには自然の根が必要なのだ。」そこで彼は自然の根を持つリンゴの木を手に入れ、殺虫剤の代わりに少量の酢を散布した。不思議なことに、彼の果樹園のリンゴの木の周りには虫が来なくなった。
この発見の後、彼はテレビでインタビューを受けた。彼の物語のドキュメンタリーが作られ、彼は有名になった。
毎日、彼のリンゴを買いたいという人々から多くのメールが届く。
彼はリンゴを大量生産することを拒否しているので、リンゴは並んでいる人々にゆっくりと売れる。
奇跡のリンゴには悪いものは何一つないので、腐らない。毒がなければ、私たちの体もそうなると思います。
彼の手法を果物や野菜の栽培に応用すれば、私たちの子供や孫、そして私たちも不必要な病気から救われるでしょう。だからこそ、私はこの本を革命と呼んでいます。皆さんもそう感じていただければ幸いです。
この文章は以下のオノ・ヨーコさんのサイトに掲載中。
https://www.imaginepeace.com/?s=akinori
FacebookHiroshi Kaneiさん投稿記事
"click the ❤️ if you love bees"ハチが好きなら、ハートをクリックしてね🐝🌼💛
🐝小さなハチからのお願い: もう一度、花を咲かせてくれませんか?🌷🪻🌹🌻
こんにちは、人間さん。
私は小さなハチです。あなたの目には映らないくらい小さいかもしれません。でも、私はあなたを見ています。あなたの庭、窓辺、街の通りを飛びながら…。
だけど最近、花が消えてしまった場所ばかりが目につきます。咲いていたはずの花たちがいないのです。私は声を張り上げることも、叫ぶこともできません。ただ羽を震わせて静かに飛び回るだけ。でも今日は、どうしてもあなたに伝えたいことがあるのです。
私はハチです。自分のためだけに生きているわけではありません。
飛ぶたびに花粉を運び、命をつなぎ、森を育て、野に花を咲かせ、あなたの食卓を支えているのです。でも、私は疲れています。舗装された土地が増え、雑草は除草剤で枯らされ、私たちが頼っていた花たちは次々に消えています。
花を探して飛び回っても、見つからないまま空腹で帰れずに、戻ってこない仲間もいます。
それでも、私たちは飛び続けます。それが、命をつなぐ私たちの仕事だから。
だけどもう、私たちだけでは無理なのです。(略)
🌱 小さな声に、耳を傾けてみませんか?
お願いです。どうか、花を植えてください。コンクリートの隙間にも、カラフルな命を吹き込んでください。きれいに整った庭じゃなくてもいい。
少し草が伸びていても、クローバーやたんぽぽが咲いているほうが、私たちには嬉しいのです。それらは“雑草”ではありません。私たちの赤ちゃんのミルクであり、生きる希望なのです。あなたの子どもたちの未来のためにも、地球を守ってください。
もしハチがいなくなったら、りんごも、いちごも、ひまわりも…そして、色彩も、音楽も、命の輝きも消えてしまうかもしれません。これは、私たちを守るための話だけではありません。
あなた自身を守るための選択なのです。私は知っています。私たちの羽音に耳を傾けてくれる子どもたちがいることを。理由なんてなくても花を植えてくれる優しい人がいることを。
あなたには、命を育む力があります。大きな畑はいりません。ほんの一角でも、ひと鉢でも、一粒のタネでもいい。そして――命を信じる、あなたの「心」があれば、それで十分なのです😇
🌍 今、私たちにできること
・道ばたに花を咲かせる・除草剤を使わない庭をつくる・たんぽぽやクローバーを「雑草」と呼ばない・子どもたちに、自然の大切さを伝える
❤️ 小さな命を守る一歩を、あなたから。
🍀「雑草のような強さ」は、命をつなぐしるし。
あなたの小さな行動が、地球の未来を守ります。
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🎤福岡伸一インタビュー「〈太陽の塔〉は強烈なアンチテーゼだったー」万博テーマ事業プロデューサー福岡伸一が語る、生命の本質と死の意味。
https://distance.media/article/20250707000487/ 【福岡伸一、万博《いのち動的平衡館》で伝えたかったこと #1 思想篇 岡本太郎のアンチテーゼを引きうける】より
大阪・関西万博のシグネチャーパビリオンの一つ《いのち動的平衡館》を担当した生物学者の福岡伸一さん。いのちをテーマにしたパビリオンをつくるなかで、考えつづけたのは、生の有限性、すなわち「死」のことだったと言います。万博開催への逆風が吹くなか、70年万博へのアンチテーゼであった岡本太郎の「太陽の塔」と向き合うことで深めた、その思考の内幕を語っていただきました。
取材・文・編集:田井中麻都佳
「太陽の塔」は強烈な「アンチテーゼ」だった生命進化の大きなジャンプは「利他」がもたらした「死」こそが最大のアンチテーゼである
21世紀の万博はビジョンやフィロソフィーを描くべ「ストック」から「フロー」へ、利己から利他へ「太陽の塔」は強烈な「アンチテーゼ」だった
――大阪・関西万博(EXPO2025)の開幕と同時に発売された福岡さんのご著書、『君はいのち動的平衡館を見たか―利他の生命哲学』(朝日出版社)を読みました。万博のテーマ事業プロデューサーとして、「いのちを知る」という課題のもとで、この館の建築と展示をどのようなものにするのか、試行錯誤しながら取り組まれたプロセスが書かれていて、たいへん読み応えがありました。さまざまにご苦労もあったようですね。
福岡伸一 そもそも私は少年時代から、一人で虫捕りをしたり、蛹を育てて蝶へと羽化させたり、顕微鏡で観察したり、といったことが好きな、非常に内向的な子どもだったんですね。つまりプロデューサーのようにリーダーシップが求められる役割にはまったく向いていないのです。契約をした後になってから、プロデューサーには、企画だけでなく、資金集めや人集め、皆を鼓舞するような生徒会長的な役割が求められると認識して、もっとも自分に向いていないと絶望したわけですが、ときすでに遅し(笑)。船は走り出してしまったので、みんなとともになんとか乗り切ろうとやってきて、ようやく開幕に漕ぎ着けたところです。
――ご著書のなかでとくに印象に残ったのが、「メッセージはアンチテーゼとして現われる」という福岡さんの言葉でした。
福岡 なぜ、アンチテーゼなのか。それは、流れの中にいるだけでは、流れ自体も、その方向も、距離(distance)もわからないけれど、流れに抗したしたときにはじめて、流れが相対化できるものだと、つねづね考えてきたからです。既存の考えのあり方を疑ってこそ、新しいパラダイムを見出せるのではないか、と。
その象徴とも言えるのが、1970年大阪万博で岡本太郎[★01]がつくった「太陽の塔」です。岡本太郎が70年万博のテーマ事業プロデュサーとして、丹下健三[★02]が設計したお祭り広場の大屋根をぶち破ってつくった太陽の塔で示したのは、まさに強烈なアンチテーゼでした。ご存じのように、70年万博のテーマは「人類の進歩と調和」で、携帯電話や動く歩道、リニアモーターカーの原型のようなものがあったりして、当時10歳の少年だった私も、こうした未来的なテクノロジーにワクワクしたことを憶えています。
ところが、これに対して岡本太郎は、テクノロジーの祭典とはまったく無縁の、縄文土器や土偶を彷彿とさせる異形の塔をつくった。そこには、「人類は進歩もしていなければ、調和もしていないじゃないか。むしろ、縄文的な生命の本質的なパワーの根源に立ち戻るべきだ」という岡本太郎の力強いメッセージが込められていました。そうやって岡本太郎は本質的な問いを投げかけることで、見る者に「メタ的な視点」を与えてくれたのです。現に、かつての最先端テクノロジーはすでに実現されたか、別のかたちのイノベーションが起きて陳腐化してしまった。一方、太陽の塔はいまも立ち続けています。これを見て私は改めて、アンチテーゼだけがメッセージを伝えることのできるものであるという思いを強くしたのです。
翻って考えてみれば、私自身がここ20年ほど唱えてきた「動的平衡」という考え方もまた、最先端の分子生物学からすると一つのアンチテーゼと言えます。最先端の分子生物学では、生命を精密機械のように捉えて、ミクロな分子や遺伝子一つひとつの機能を調べて記述し、それらを部品のように統合することで生命になる、という機械論的な思考に基づいています。でも、この考え方は、本当は間違っているんですね。なぜなら、いくら遺伝子やタンパク質などの部品を集めてくるくるとかき混ぜたところで、そこから生命が立ち上がってくることはけっしてないからです。
これに対して動的平衡は、その部品同士の相互作用にこそ生命の本質があり、それらを集めることで生命現象になるという考え方です。生命は絶え間なく自らを壊しながらつくり変えることで、「エントロピー(乱雑さ)の増大」という宇宙の大原則にあらがっています。整理整頓しておいた机もちょっと油断すれば散らかってしまうように、本来なら物質は無秩序へ向かうわけですが、生命はこの下り坂を動的平衡の作用によって上り返している。私は、38億年もの長い歴史のなかで生命が進化し続けてきた理由は、まさにこの動的平衡にあると考えています。
しかし、現在の生物学の本流からすれば動的平衡は異端です。したがって、動的平衡は生物学へのアンチテーゼである、と言うことができる。そうしたわけで、今回の万博は、大なり小なりこれまで私が考えてきたことを体現できる場になるだろうと、プロデューサーという大役をお引き受けしたのです。
では今回、われわれは何を示すべきなのか。EXPO2025には私を含めて8名のテーマ事業プロデューサーが任命されましたが、この多様性の時代にあっては、皆で一つの価値観を示すよりも、それぞれが尖ったことを提示する方がいいだろうと、結果として8名それぞれがパビリオンをつくることになりました(経緯については、前掲書『君はいのち動的平衡館を見たか』に詳しい)。そこで私は、EXPO2025の「いのち輝く未来社会のデザイン」のテーマを前に、何がいのちを輝かせているのか、どうすればいのちを知る場となりうるのか、そのアンチテーゼをどのように示すべきなのかを考えながら、《いのち動的平衡館》をつくっていくことになりました。
生命進化の大きなジャンプは「利他」がもたらした
――アンチテーゼをめぐる思考の旅もまた、試行錯誤があったわけですね。
福岡 はい。岡本太郎の太陽の塔の中に、生命の進化を模した「生命の樹」というモニュメントがあるのをご存知でしょうか? この樹には、アメーバなどの原生生物から爬虫類、恐竜、哺乳類、人類に至るまで大小さまざまな生物模型が取り付けられていますが、実は進化のプロセスというのは必ずしもリニアに進んできたわけではないんですね。ましてや適者生存や弱肉強食、優勝劣敗などいう言葉に代表されるように、勝ち残った者だけが生き残ってきたとは限らない。むしろ私は、生命の進化は、協力や共生といった「利他的なふるまい」によって大きくジャンプしていることに気づいたのです。
たとえば、生物進化の最初の大きなジャンプとして、いまから十数億年くらい前に、大腸菌のような原核細胞から、ミトコンドリアや葉緑体などを持った真核細胞へと進化した出来事がありました。それまでは大きい細胞が小さい細胞を食べていたのですが、あるとき、食べて消化してしまうのではなく、細胞のなかに小さい細胞を温存し、共存したところ、互いにとって良いことが起きたんですね。小さい細胞(ミトコンドリア)はエネルギーの生産効率が高く、過剰なエネルギーを大きい細胞に供与できるようになり、逆に大きい細胞は小さい細胞を外敵から守る役割を果たした。さらに、クロレラのような単細胞の光合成細菌が大きな細胞に寄生し、細胞のなかで光合成を行いながら増殖するようになると、光合成の産物である有機物の一部を大きい細胞に与えるようになった。こうしてやがて葉緑体が生まれ、高等植物へと進化していくのです。
あるいは、無性生殖から有性生殖への進化も大きなジャンプの一つです。オスとメスという二つの性が互いに協力しなければ次の世代が生まれないという面倒な仕組みを、なぜわざわざつくったのか。それは一見、非効率に見えるかもしれませんが、有性生殖によって遺伝子のシャッフリングが起こるようになり、生物の多様性を生み出すことにつながりました。それが結果として、生物の生存環境の持続可能性に寄与してきたのです。そう考えると、生命進化というのは、利他の歴史であると捉えることができるでしょう。
そしてこの生命の利他的なふるまいは、イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンス[★03]が『The Selfish Gene(利己的な遺伝子)』(1976年)のなかで述べたような、自己複製だけを目的とする利己的な生命の姿、すなわち20世紀型の生命観へのアンチテーゼと言えます。そこで私は、「利他的共存」を生きる生命の姿こそ、この万博で描くべきテーマだと考えたのです。
「死」こそが最大のアンチテーゼである
福岡 ところがその後、「利他」だけでは、生命の動的平衡の姿をすべて伝えることにはならない、何かが足りないと悩むことになりました。というのも、先述したように、生命は自らを壊しながら新たにつくることで、エントロピー増大の法則につねにあらがっているのですが、その営みを繰り返しながらも、次第に流れに押されてエントロピーが増大していって、最終的には死んでしまうからです。そもそも、いのちは有限で死があるからこそ、新しい生が生まれます。すなわち、死そのものが他の生命にとっては利他的な意味を持っているわけですね。そこで、「死」を肯定的に捉えて、いのちの有限性を打ち出さない限り、《いのち動的平衡館》は完成しないのではないか、という考えに至ったのでした。
――「死」についても、岡本太郎の影響を受けたそうですね。
福岡 そうなんです。岡本太郎は、生命力に溢れる縄文文化を追い求めて、東北や沖縄に通っていましたが、なかでも、古来より神聖な島とされてきた沖縄の久高島に強い関心を持っていました[★04]。まさにこの地を、日本の近代文化へのアンチテーゼとして捉えていたようです。そこで、私は2023年と2024年に久高島を訪問したのですが、この旅を経て、《いのち動的平衡館》に「死」が必要であることをはっきりと認識したのです。
実は岡本太郎自身は死の意味については十分に語れなかったばかりか、この島で行われていた風葬の写真を撮り、手記を発表するという、致命的な過ちを犯してしまいました。これによって島の人たちは大きな衝撃を受け、以来、風葬は取りやめることになってしまったという過去があります。
『君はいのち動的平衡館を見たか―利他の生命哲学』(朝日出版社、2025)。「岡本太郎の沖縄」をたどった旅についても触れている。
現代ではとくに、死は生を中断する忌むべきものとして遠ざけられ、害悪であると捉えられていますよね。実際に戦争を伝えるような報道であったとしても、メディアは死体を映すことなく、ことごとく視界から死を消そうとします。しかし、死は誰にでも訪れるものであり、いのちを輝かせるものなのです。ですから私は、死というものを忌むべきものではなく、生命に欠かせない最大の利他的なふるまいである、という肯定的なメッセージを打ち出したいと思いました。
しかしなぜ人間はこれほどまでに、死を遠ざけてきたのか――。それは、人間だけが、種の保存よりも個の生命を尊重し、そのことに価値を見出した初めての生物だからです。そして言葉を発明し、論理〈ロゴス〉を手に入れた。それがいのちが輝くことの起点にもなっています。そうして個の生命の自由を勝ち取り、文化や文明、社会や芸術などを生み出してきたのです。科学やテクノロジーはまさに、ロゴスがもたらした勝利と言えるでしょう。しかしだからこそ、個体にとって最大の恐怖は個体の消滅、すなわち死なのです。死は生を剥奪し、個の自由を中断する害悪です。ロゴスによって肥大化した私たち個はそう考えているのですね。でもいくら生命をロゴス化しようとしても、生命そのものが、不確かで、不安定で、気まぐれな自然〈ピュシス〉であることには変わりありません。生命である限り、死は等しく、誰にでも必ずやってくる。そのことに気づいていただきたいのです。
万博広しといえども、死の問題に真正面から取り組み、メッセージとして発信しているパビリオンは、この《いのち動的平衡館》だけではないでしょうか。
21世紀の万博はビジョンやフィロソフィーを描くべき
――実際に万博を歩くと建築の面白さといい、各パビリオンのさまざまな催しといい、とても見応えがあります。一方で、この時代に万博を開催することの意義については、さまざまな意見があります。福岡さんは、現代の万博の意義をどのように捉えていらっしゃいますか?
福岡 20世紀の万博は、テクノロジーの祭典として、見本市的に最新のテクノロジーを見せる場であり、お国自慢の場であったわけですね。しかし70年大阪万博で示されたさまざまなテクノロジーがすでに実現され、あるいは陳腐化していることを思えば、21世紀の万博で示されるものはテクノロジーというよりも、哲学的なメッセージやビジョンであるべきだと思っています。
ただ、フィロソフィーやビジョンを語るためには、まさにdistanceというか、「距離」や「高度」が必要なのです。言い換えるなら、岡本太郎がもたらしてくれたような「メタ的な視点」です。メタ的な視点を持てば、人間のさまざまな争いがいかに無益であるか、あるいはテクノロジーの方向性が間違っていないかどうか、相対化できるはずです。それは言うなれば、「火の鳥」のような視点と言ってもいいでしょう。手塚治虫の漫画『火の鳥』では、人間が「火の鳥(フェニックス)/不死鳥」を追い求めながら、さまざまなドラマが展開されますが、その中で火の鳥はコスモゾーン(宇宙生命)として、人間に「生命とは何か」を突きつけます。火の鳥のように、いまこそ人間の営みを鳥瞰しながら、改めていのちの意味を問い直す視点が必要なのではないでしょうか。[★05]
たとえば現在、老化を病気とみなして老化細胞を取り除く研究が進んでいます。その根底には、火の鳥の物語と同様に「不老不死」を望む人類の欲望がある。しかし、不老不死を実現するのは永久機関をつくるに等しく、物理的にも生物学的にも不可能なのです。老化細胞を取り除いたところで、新たに元気な細胞が老化するだけで、老化が加速される可能性すらあります。そのことは、生命の基本原理に動的平衡があると知っていれば、理解できるはずなのです。
「ストック」から「フロー」へ、利己から利他へ
――いま人類はますます利己的になっているように見えます。一人ひとりが利他的にふるまうには、どうすれば良いとお考えですか?
福岡 確かに難しいことではありますが、よく考えてみると、われわれは常に他の生命の一部をいただくことで生きているわけですよね。そのことを思い起こしていただきたい。言い換えるなら、私たちは他の生命に自らのいのちを委ねていると言えます。たとえば、植物であれば過剰な葉や実を他の生物に分け与えることで、他の生物の生に寄与しています。ところが、人間だけは過剰に持っていても、利己的にストックしようとしていますよね? 資源を集め、穀物などの食糧をたくさん集め、自分たちのためにストックしている。金融経済も同じで、お金をストックすればするほど増えていくという仕組みを築いています。
しかしそれは自然の原理ではありえないのです。自然のものをたくさんストックしても、いずれ腐ってしまったり、変性したりして使えなくなってしまうからです。だから、100あれば足りるところ、110とか120生産できたとしたら、余った10〜20を他の生物に手渡す。つまりフローに回すのです。これが利他性の基本だと思います。つまり、利他というのは、100しかないのに10渡すという強制的な寄付ではなく、余剰分を渡せばいい。しかも、あげたからその分、何かで返してもらおうというギブアンドテイクでもありません。誰かにバトンタッチしたら、別のところからバトンが回ってくる、というネットワーク上のゆるやかな関係の上に成り立つのが利他なのです。そのネットワークの結節点にいながら、つねにパスをし続けることが、本来、自然が持っている利他性の回復に近づける道なのではないでしょうか。
おっしゃるようにいま、利己的な人間たちによって、世界のあちこちで分断や非寛容の問題が起こり、争いが絶えません。かつて「進歩と調和」をめざした人類は、ますます悪い方向に向かっているように見えます。でもだからこそ、いのちの意味を考え、生命の調和の基盤について考えてほしい。自国ファーストなど、利己的な主張をしている国のトップの方々にこそ、《いのち動的平衡館》に足をお運びいただき、生命の基本原理にいのちの有限性と利他性があるということを、ぜひ学んでもらいたいと思っています。
https://distance.media/article/20250714000492/ 【福岡伸一、万博《いのち動的平衡館》で伝えたかったこと #2 対話篇】より
生物学者の福岡伸一さんが担当した、大阪関西万博のシグネチャーパビリオンの一つ《いのち動的平衡館》をめぐる旅の第二弾。今回は、プロデューサーの福岡さんに加え、建築《エンブリオ》を手がけた建築家の橋本尚樹さん、展示《クラスラ》を手がけたデザインエンジニアの緒方壽人さんを交えてお話いただきます。巨大なマンタを彷彿とさせる不思議なフォルムの建築、蛍のような淡い光の点群で描き出される生命の物語――それぞれの制作プロセスを聞きながら、現代に必要なテクノロジーと万博の意味についてお聞きしました。
取材・文・編集:田井中麻都佳
世界初となる生命のような建築《エンブリオ》
――第1回は福岡さんに《いのち動的平衡館》のコンセプトについて伺いましたが、ここからは建築《エンブリオ》と展示《クラスラ》を手がけられた、建築家の橋本尚樹さんとTakramの緒方壽人さんにもお話を伺っていきたいと思います。福岡さんの生命観である「動的平衡」「いのち」「利他性」「死」といったものを、どのように建築や展示に落とし込んでいかれたのかお聞かせください。
橋本尚樹 建築《エンブリオ》について言うと、来場された方がパッとご覧になっただけでは、なんだか不思議な形だな、何だろうと思うくらいかもしれません。でも実は、建築的にはかなりチャレンジングな取り組みをしています。というのも、生命原理を表現すべく、「建築もまたうつろいゆく流れである」という考えをもとに、弱い部材が集まり互いに力を及ぼし合いながら形を変えて(動いて)バランスをとるという、かつてない建築の在り方に挑んでいます。その結果、これまで僕らが建築だと思ってきたものとは、少し違った存在に見えるかもしれません。
橋本尚樹さん
――曲線を描く、不思議な形ですね。
橋本 あれだけの大規模な柱のない空間を実現するために、非常に華奢な鋼管リングとケーブルでできた骨組みを、一枚の膜で覆う必要がありました。そうしてできた建築は、軽やかで、光の移ろいとともに、まるで生命のように動いているようにも見えます。実はあまりにも繊細な部材だけで構成したので、バランスが取れていれば、構造的に動いてもいいという新しい試みの仕組みに至りました。だからこそ生命的な雰囲気が出せたのかなと思っています。
――建築は動かないものという固定観念がありますが、動いてもいいと。それは新しいですね。
橋本 訪れた人たちから、「これって建築なんだろうか」という感想も聞こえてきたりして、それは狙い通りというか、まさにこれまでの建築への一つのアンチテーゼを示すことができたのではないかと思っています。
振り返ってみれば、福岡先生がかつて訪れて感動されたという70年万博も、《お祭り広場》の大屋根で磯崎新が提案した「スペースフレーム」をはじめ、数々の技術革新が示される場となっていました。そして、その恩恵をいま現代の私たちは受けています。東京ドームのあの屋根の膜構造だって、70年万博のアメリカ館の技術が元になっているんですよ。そういう意味では、今回のわれわれの《エンブリオ》も、そうした技術革新に比肩するものの一つになっていくと大変嬉しいです。
福岡伸一 《エンブリオ》はすべてのワイヤーが引っ張り合ってバランスを取っているので、無駄な線は一本もないんですよ。しかも、まるで巨大なマンタが歌って泳いでいるようなあの曲線は、橋本さんがデザインして描いたわけでもない。つまり、ある種の必然をもって立ち上がった自律的な形なんですね。
福岡伸一、万博《いのち動的平衡館》で伝えたかったこと #2 対話篇の画像
橋本 そうですね。私は細胞だとか何か生命を真似て形をつくったわけではなくて、生命のなりたちに倣ったつくり方を考えていった結果、あの形になっていきました。この万博という舞台で大切なのは、形というよりも、手法だと思いました。だから次に私たちの手法を参考にしてつくる人が出てくれば、当然、また違う形になっていく。
ただ、つくり方がデザインを決めているので、けっこう不自由な形ともいえます(笑)。正直なところ、実際にできるまでは本当に立ち上がるのかも不安でしたが、バランスした瞬間、現場にいた人たちから歓声が上がりました。それくらい難しい試みだったということだと思います。
福岡 そう、立ち上がるためにはあの形しか解がないんですね。誰かデザイナーが絵を描いて、それを形にするというのとは真逆で、自律した空間を作り出すための構造を考えていった結果が、あの生命を彷彿とさせる不思議な形の建築へと結実したということなのです。
福岡伸一、万博《いのち動的平衡館》で伝えたかったこと #2 対話篇の画像
高精細映像のアンチテーゼとしての展示《クラスラ》
――次に緒方さんが手がけられた展示《クラスラ》についてお聞きできればと思います。見る者の想像力に委ねる、余白のある展示になっていますね。
緒方壽人 いまは4Kや8Kの高精細映像や、カラフルでビビッドなLEDによるプロジェクションマッピングなどが主流ですよね。実際に今回の万博でもそうした展示をしているパビリオンが多くあるはずです。でも、ここでもわれわれは、そうした現代の映像技術に対するアンチテーゼを示したつもりです。だからあえて、淡い光の粒が集まり、その相互作用によって生命の営みが描き出されるという、墨絵的なモノトーンの世界を描いたのです。それにより、見る人の想像力を掻き立てることを意図しています。
福岡伸一、万博《いのち動的平衡館》で伝えたかったこと #2 対話篇の画像
緒方壽人さん
福岡 実際に完成してみて驚いたのは、あの光の点群は止まっていると何の画像だかまったくわからないのですが、動くとたちまち細胞分裂や鳥の羽ばたき、イルカのジャンプ、馬の駆け足だと理解できるんですね。そもそも生物は動きによって他者を認識しているということがよくわかります。私自身、水族館などでじっとして動かないトカゲを、水槽越しに指先をピッと動かすだけで振り向かせるという特技を持っているのですけど(笑)、まさにその生物の視覚効果を実現できたと思っています。
――展示の仕方もユニークですね。観客が光のインスタレーションを焚き火のように囲んで、光の点群の立体的な動きや音、振動を五感で体感するというもので、いままでに体験したことのない不思議な時間でした。
緒方 立体映像のボリュメトリックLED[★01]の手法自体は、世の中に存在しますし、万博の他のパビリオンでも見られるのですが、カラフルでスペクタクルなものが多いのです。一方、動的平衡の生命観を表現するには、蛍の光や焚き火から立ち上がる火の粉のような、もっと繊細で儚い光の階調を表現したいと考えてLED基盤から独自に設計開発しました。結果的に、消費電力も非常に少ないんですよ。もう一つ特徴的なのは、そのボリュメトリックLEDが自立しているということ。通常、天井から吊るすタイプが一般的ですが、先ほどお話があったように、この建築では天井から展示物を吊り下げることはできなかったんですね。かといって、せっかく特徴的な曲面で構成された屋根を持つこの建築の中に、新たに箱を入れるのはもったいないですよね。そこで、自立する立体LEDを提案することにしました。
――さまざまに制約があるなかでつくられていったわけですね。
緒方 最初はLEDの棒を真っ直ぐ自立させていたのですが、福岡先生から、ジグザグにできませんかという無茶ぶりもあったりして(笑)。
福岡 そうなんですよ(笑)。だって、最初の提案が四角いジャングルジムみたいなもので直線的だったので、それではあまり生命的ではないと思ったんですね。
福岡伸一、万博《いのち動的平衡館》で伝えたかったこと #2 対話篇の画像
緒方 そのことは本当は自分たちでもわかっていたのですが、デザイナーとしての自分が福岡先生の提案に同意しつつも、エンジニアとしての自分が「それは技術的に難しいよなぁ」と思ったりして、せめぎ合っていました(笑)。結果的に、なんとか実現して、いまの複雑な形に落ち着いたのです。
――最初、福岡先生からアンチテーゼを示す、というコンセプトを聞きになったときはどう思われましたか?
緒方 アンチテーゼと聞くと、テーゼ(正)を否定(アンチ)するようなイメージがありますが、改めて調べてみると単に否定するだけの話ではないんですよね。テーゼ(正)とそれに対するアンチテーゼ(反)をより包括的に統合していくことをアウフヘーベン(止揚)といい、そうして生み出されたものが「ジンテーゼ」(合)であるという。よく考えてみたら、私が卒業した東京大学の産業機械工学科の英語名が「エンジニアリング・シンセシス」だったんですよ。「シンセシス」って、ドイツ語で言うところのジンテーゼなんですね。そこで初めて、「そうか、二項対立を超えて異なる要素が統合されて、何か新しいビジョンが生まれるということを自分も学んできていたんだな」と腹落ちしたのです。
実際にこうして万博が始まってみると、《いのち動的平衡館》に限らず、さまざまなところでテーゼやアンチテーゼが示され、それらが統合されて、新たなビジョンであるジンテーゼが生み出されているんだなと感じています。そして改めて、とてつもなく壮大なプロジェクトに関わっていたんだということを実感しているところです。それぞれ、向かう先のベクトルは違っているけれど、多様性に富んださまざまなメッセージが示されていること自体が、万博の醍醐味なんでしょうね。
テクノロジーはどうあるべきなのか
――建物においても、展示においても、技術的な面でもさまざまにご苦労があったようですね。
福岡 まさに、鋼管リングやワイヤー、ネジの一本一本、さらには展示のLEDの光の一粒一粒、それが載っている基盤や配線まで、すべての細部にいろいろな人の創意工夫と努力が詰まっています。それはこのパビリオンに限った話ではなく、すべてのパビリオンで同じような創意工夫や努力があって、それらが結集した場こそが万博であり、人財育成や教育の場になっている。まさに壮大な実験場としての万博の意義というのも、非常に大きなものがあると思っています。
そもそも私がこの夢洲に初めて視察に訪れたのは2022年7月のことですが、そのときは水たまりとぺんぺん草しか生えていないような荒涼たる空き地だったんですよ。いまこうして綺麗な敷石で覆われ、多くの方の創意工夫が詰まったパビリオンが建ち並び、多くの人が訪れる場となったのは非常に感慨深い。しかしこれも恒久的な施設ではなく、半年後には取り壊され、リサイクルされて消えていく。まさに、万博というのは蜃気楼のようなものなんですね。しかしそれもまた、粒子が集まって形を成し、やがて壊されて環境へ還っていくと考えれば、一つの動的平衡の姿と言える。万博は恒久的でないからこそ、メッセージやビジョンが際立つということがあるのではないでしょうか。
福岡伸一、万博《いのち動的平衡館》で伝えたかったこと #2 対話篇の画像
――そのように万博はメッセージやビジョンを示す場であると福岡さんは考えておられるわけですが、一方で、やはりさまざまな新たなテクノロジーが示される場にもなっていますね。現代のテクノロジーの方向性についてはどのように考えていらっしゃいますか?
福岡 テクノロジーというのは、基本的には機械的なアルゴリズムをベースとしていて、他方、生命は動的平衡に基づくものなので、両者は本来、相容れないものなんですね。だから私はつねづね、テクノロジーが生命の内部に侵入してくることには細心の注意が必要だと主張してきました。当然、情報発信のための通信であるとか、移動の手段であるとか、人間の営みを補助したり、支援したりするものとしてテクノロジーは必要不可欠です。しかし、生命の営みの内部にテクノロジーが入ってくることには注意を払わなければなりません。
もちろん、どこからが生命の内部か、というのは議論が分かれるところでしょう。私自身は、人間の免疫システムに関わる領域に入ってくるテクノロジーは危険だと考えています。つまり遺伝子操作や再生医療といった領域ですね。
――AIについてはどのように考えていらっしゃいますか?
福岡 人間の表現方法の拡張として使う分にはいいと思うのですが、確かに人間の意識に影響を与えるという意味では注意が必要です。人間の思考をそのまま移し替えたり、誰かの思考パターンを再現したりすると、問題を引き起こす可能性がある。たとえば、亡くなってしまった祖父母や両親がAIで再現されれば嬉しいと感じる人はいるかもしれませんが、ヒトラーの意識がAIで再現されたとしたらどうでしょうか? そうした独裁者や狂信的な教祖が、死してなお人々を扇動し多大な影響力を持ち続けるとしたら、そんな未来はディストピアでしかない。そう考えるとやはり、死というのは、ある意味で救済としての役割も持っていると感じます。万物は流れていくからこそ、人々は安心して暮らしていける。だから、AIが意識の不老不死化をめざすことには警戒しなければならないと思っています。
そもそもAIには動的平衡の原理はありませんから、さまざまな情報がどんどん溜め込まれてストックされていく。そうなれば当然、そのシステムの中にエントロピーが増大していくことになります。つまり、ありとあらゆるノイズが溜まってカオスな状態になってしまうわけですね。そうやってときに、陰謀論を唱えたり、嘘をついたりといった問題を引き起こす。そう考えると、AI自身の中に、自らを壊し、捨てるという生命的な仕組みが備わらない限り、袋小路に陥ってしまって、現在のAIブームは意外にも短命で終わってしまうのかもしれません。
福岡伸一、万博《いのち動的平衡館》で伝えたかったこと #2 対話篇の画像
落合陽一さんのシグネチャーパビリオン《null2》。《いのち動的平衡館》とは対照的な生命観を提示している。
理想のチームワークを発揮できた理由
――今日、こうして《いのち動的平衡館》を手がけられたチームのお話をお伺いして、とてもいい雰囲気でコミュニケーションが取られていたんだろうな、と感じました。緒方さん、橋本さんは、福岡さんとのコラボレーションについてどう感じていらっしゃいますか?
緒方 福岡先生が伝えたいメッセージがクリアで、最初からまったくブレることがなかったので進めやすかったですね。しかも、各テーマプロデューサー8名によるシグネチャー館が8館あるなかで、福岡先生が唱えられてきた「動的平衡」という考え方は、自分が本にも書いた「コンヴィヴィアル・テクノロジー」[★02]という考え方と通底するところがありました。コンヴィヴィアルとは端的に言えば「ともに生きる」という意味です。行き過ぎたテクノロジーは人間を依存させたり思考停止させたり、独占や格差を生んでしまいます。コンヴィヴィアル・テクノロジーとは、そうではなく行き過ぎない「ちょうどいい道具」であるべきという考えです。そうした人間とテクノロジーとのバランスは、福岡先生の「動的平衡」に通じるところがあると感じました。そうしたこともあって、先生からのお題に素直に打ち返すことができました。
橋本 僕は、最初お話をいただいたとき、まだ実績もたいしてないこんな私たちに任せてもらって、本当にいいんでしょうかという感じで、身に余る光栄だと感じました。でもよく考えてみたら、70年万博でも、若い建築家たちが活躍していたんですね。たとえば黒川紀章も、当時はまだ30代でしたが、東芝IHI館やタカラビューティリオン、空中テーマ館など、複数のパビリオンを手がけ、その斬新な取り組みがその後の建築界に大きな影響を与えてきました。同様に、今回の《エンブリオ》もそのような存在になればいいなと思っています。実際にすでに僕らの建築をもとにした論文が書かれるなど、反響を呼んでいるのはとても嬉しいことです。
それから実際に建築をつくっていくプロセスに関して言うと、試行錯誤の中で僕の提案に対して、毎回、福岡先生から「これってこんなふうにも見えるよね?」「こんなふうにしてもいいかもね?」という新しい発見やアイデアを伝えてくださったのは、とても励みになりました。最終案に辿り着くには時間がかかりましたが、だから最後までちゃんと上を向くことができたのだと思います。
緒方 そう、福岡先生から無茶振りは来るももの、本当に無理なときは「それは無理です」と言える関係性を築けたのはとてもありがたかったですね。
福岡 そう動的平衡の動きを表現するために、立体LED装置自体を動かすことはできないかと言ったんですよね。でも、その装置をつくるのに手一杯になってほかは何もできなくなってしまいますよ、と言われて断念したのです(笑)。
緒方 いちおう検討はしたんですけどね(笑)。
福岡 真面目な話をすると、そもそも私は最初、建築家とプロデューサー、デザイナーとプロデューサーの関係性というものを、あまりよく理解していなかったのです。一般的に、クライアントというのは自分のやりたいことのメッセージをきちんと言語化できていないことがほとんどなので、なんとなく曖昧な雰囲気を受け止めたつくり手がキャッチコピーや造形をつくって、「こんな感じでどうでしょう?」とつくっていくことになるわけですね。でも私の「動的平衡」は、キャッチコピーにする必要はないのです。実際、さまざまな方たちが現れて、動的平衡を噛み砕いたキャッチコピーを用意してくださり、最初、混乱してしまった。そこでそこまでのやり取りをいったん御破算にして、コンペによってつくり手を選び直したという経緯がありました。
そのなかで、お二人は、私のメッセージを直に受け止めて、それを理解してストレートに打ち返してくれた。だからこそ非常にいいチームになったし、限られた時間のなかでブレることなく、メッセージを形にすることができたのです。
いずれにせよ、これから《いのち動的平衡館》を訪れる皆さんには、この場所でいのちの本質をより深く理解していただきたい。そしてパビリオンの外に出て、大阪の青空を見上げて、いのちの大切さに思いを馳せながら、朗らかな気持ちになって帰っていただきたいと思っています。
――本日はお忙しいところ、長時間にわたりお話をしていただきまして、ありがとうございました。
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