「雨ニモマケズ・・」

https://note.com/aokomaki/n/na4a38ddf5785 【「雨ニモマケズ・・」賢治の本当の心に触れたくて  杉山武(八戸市在住)】より    青森太郎(ソウマ シンキチ)

1.はじめに

 宮沢賢治氏(以下氏を省く)の「雨ニモマケズ」の詩は、日本中で誰もが知っているくらい有名である。私のふるさとである岩手県を代表する作家であり、農業・化学・地質学・天文学・音楽演奏活動等を通して人々と交流し、また、宗教活動にも没頭する等、多彩な活動を行っていた。そういった活動を通し、ふるさとの自然を見つめ、周囲の人たちと農業実践を通して触れあうなど、人間味あふれる賢治を感じることを学んできたのではあるが・・・。

 私が宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に疑問を持ったのは、この作品は賢治の死後、弟清六の手によって世間の人たちの目に触れることになるが、その際、手を加えられたり、削除されたりした理由の一つに、「詩として取り扱った」という手直しの言い訳が入り込んでいたことに憤りを感じたからだ。 ここでお断りしておくが、私は「詩と日記文についての違いについて取り上げたつもりはない。たとえ肉親であっても書いた人の気持ちを尊重し、原文に沿って発表すべきである。

 この「雨ニモマケズ」について疑問や意見を持つ人たちが多くいたようであるが、書いた賢治以外の人によって賢治の意図とは違う作品となって広まってしまったのではないかということについて、その事実が理解され「賢治が書いたその時の気持ちを理解してみたい。」という人たちが増えてくれることを願っている。

 私にとって、いかに素晴らしい作品であったとしても、書いた人の意識を理解せずに、故人である賢治の許可なく作品の内容を変えてしまったことについては、あってはならないことであると感じながら、資料の確認等で手間取り、三十年近く時間が経ってしまいました。

 「雨ニモマケズ」は、賢治の死後、弟清六氏の手によって世間の人たちの目に触れることになる。そうして、賢治の作品がやがて印刷され、戦前・戦後を通して人々の目に触れていく。

しかし、本当にトランクから発見された手帳の文章― 「雨ニモマケズ」が詩として広まっていった解釈の通りであるのか、改めて疑問を感じている。賢治の心をしっかりとらえないまま賢治の意思とは違った解釈の元で広まり、「日本一有名な詩」となったこの作品に疑問や意見を持つ人たちが多くいたが、その意見は一般的にはなっていない。

 作品は書いた者がなくなっているにもかかわらず、 本人の意図とは関係ない解釈・校正の元、印刷・出版されてしまったと感じている。改めて賢治の心を考えながら 「もう一度読んでみたい人の作品」となる手がかりにできたらと思い、この作品を吟味をしてみた。

2.トランクの中からの手帳の発見

 この手帳は「宮沢賢治最後の手帳」といわれ、「「雨ニモマケズの手帳」とも呼ばれている。この手帳が発見されたのは、賢治が亡くなった翌一九三四年二月十六日に東京・新宿で開催された 「宮沢賢治友の会」の席上である。この会合には、招かれた賢治の弟清六が賢治の遺品である大きな革トランク (壁材セールスの際にも使用した)を持参していた。席上、参加者の誰かがこの革トランクのポケットから手帳を取り出し、他の参会者にも回覧させた。その模様を、同席していた詩人の永瀬清子が後に「この手帖がこの夜のみんなの眼にはじめてふれた事については疑いがないように私は思う。」と書き記しているが、この大きなトランクを持参した清六は、この手帳の存在を知っていたはずである。のちに「宮沢賢治名作選」の出版を手伝った吉田コトによると、賢治の父政次郎氏は、肺病にかかり誰にも認めてもらえない賢治があきらめがちになっていく姿に憐れんで「かわいそうだ。かわいそうだ。」と幾度も口に出していたという。(吉田談|昭和十三年頃)

 一九二四年(大正十三年)四月、賢治は詩集心象スケッチ「春の修羅」を自費出版(宮沢家で負担)する。多くの作家や詩人等に送ったということだが、返事があったのは草野心平と高村光太郎だけで、ハガキで礼状程度であったということを吉田が父政次郎から聞いている。 そばにいた弟、清六も賢治の作品を何とかしたいと思い、松田甚次郎氏(山形出身の農民作家で賢治の教え子) や吉田コト氏に協力を願っていたようだ。清六が無名に近い賢治のことを、このトランクの中の手帳の発見によって印象づけたかったのではないだろうか。

 私もようやくこの手帳の復刻版を見る機会を得る。 手帳の右側の表紙をめくり、そこから数えて五十三~六十一ページに「雨ニモマケズ」がある。昭和六年東京に宣伝に行った賢治は、神田の宿で長く寝込む。この手帳の始まりの日付は書き出しに出てくる。 「昭和六年九月廿日再ビ東京ニテ発熱」とある。次の日の九月二十一日には、父・母への遺書をしたためている。つまり、賢治は自分の最後を意識しており、その時期にこのノートが使われている。残りの人生に対する思いを、素直な気持ちで分かりやすい言葉で書き綴っていったと思われる。

 この「雨ニモマケズ」は日記文であり、詩ではない。人の目に触れられるようになった当初から話題にのぼっていたことである。この手帳の中の九ページにわたって書きつづられている文章を詩として取り上げられているが、この手帳自体を賢治は作品として読んでいただくために書いたものではない。主に日記やメモ帳として、自分の心の中にある思い等を書きつづったものである。

 文芸評論家の郷原宏は、「もう一度読みたい宮沢賢治 別冊宝島」に「解説 宮沢賢治―人と作品と時代」を書いている。その中の文頭から「日本でいちばん有名な詩は、たぶん宮沢賢治の「雨ニモマケズ」 である。・・・そして自分もできれば賢治のように生きたいと思っている。・・・国民の精神形成に影響を及ぼした詩は珍しい。理由ははっきりしている。中学・高校の教科書に載っていたからだ。昭和時代の後半に少年期をすごした国民の約七割は、学校でこの詩を習っている。そして今なお、この詩の教科書掲載率は群を抜いている。もし、国民詩人という言葉があるとすれば、宮沢賢治は間違いなく国民詩人である。・・・」 郷原の文の一部だけの掲載ではあるが、私もそう思っていた一人である。誤記を直すとか、変更、削除等考えていくと、詩かどうかを述べる前に、勝手に文章に手を加えたり、変更したり、削除したりしてはならないものであるという常識を伝える必要性を感じた次第である。また、そのことを教科書で勉強した人や、その他の読者のほとんどには知らされないままに来ているということ自体も問題なのである。それでは一つ一つ説明していく。

3.省かれた日付「十一月三日」は

 原文では算用数字と点で横書き表記されているこの数字は、書いた日付の昭和六年十一月三日のことであり、日記として記したものであることが分かる。詩として取り上げ、文章を校正する必要はなく、書いてあることに従って素直に読みとっていけばよいのである。この日の日記の最後はここで終わってはいない。「・・・サウイウモノニ ワタシハ ナリタイ」で終わりとなる「雨ニモマケズ」の文章には続きがある。 次のページに書かれてある七行の南無妙法華経等のお題目である。 (末尾ある原文通りの文で確認して下さい) 宮沢賢治「手帳」の復刻のために尽力され、解説を書かれた小倉豊文氏によると、この文は日蓮宗で本尊としている十界曼茶羅中枢部の書写したもの。 恐らく病中悲願の「雨ニモマケズ・・・」を書き終えた後、本願勧請の思いをこめて謹写したものであろう。 ―とある。 (要約した)

 この小倉氏の解説にも書かれてあるように、 「雨ニモマケズ」 は賢治の病中悲願であると思われる。しかし、書き終えた後、本願勧請の思いをこめて写したのではなく、ここの文がないと「・・・サウイウモノニ ワタシハ ナリタイ」という賢治の強い思いが感じられない文になってしまう。 そして、 「慾ハナク・・・東二・・西二・・南二・・北ニ・・」という徳目だけが目立ち、最後の「ワタシハ ナリタイ」は、真面目で道徳的な人としての賢治の姿が浮かび上がってくる。

 そうではないのだ。最後のページは死が目の前に迫っている賢治の心の中にある思い(生きたい・もう少しの間、動ける体がほしい)を込めた祈りの文であり、ここまでが日記の中の記述なのである。決して削除するべきではない部分である。宗教的色彩が濃くなるので載せたくなかったのだろうか。ここの削除のために、詩の解釈は全く別のものとなってしまった。学校で勉強した人は知らされていない。指導書にも載らないので、全国の教師自身も気づいていないだろう。

4.当初から作者の誤記とされ直された部分「ヒドリ」 

 詩として発表するために、意図的に変えさせ箇所として、「ヒドリノトキハ・・・」と「サムサノナツハ・・・」を暑い夏と寒い夏を対照的に取り扱いたいために、 「ヒドリ→ヒデリ」に変えてしまったことは、幾度も 「雨ニモマケズ論争」問題として取り上げられている。その度に結論が出ずじまいになってきているのだろう。

 しかし、弟清六の「兄はドとデをよく間違える。」という証言と、『校本宮澤賢治全集』編集者の草稿調査を行った詩人の入沢康夫は「デとドの書き癖があったこと」 次の行「サムサノナツハオロオロアルキ」と対照にならない点 本作の他の箇所で多用されている対照の手法からはずれてしまう点。出版社の校正責任者として「この詩のこの部分は暑い夏と寒い夏の対比に間違いない。」といった考えを述べている。

 賢治自身は日記として書き、本人はこの文が詩だとは述べていない。詩の作品として載せたいと思うのは、弟清六と出版社のほうである。日記の文に意図を無視しての誤記扱いは、宮沢賢治自身の侮辱につながると思う。原文の訂正したい所は自分で直している。誤記ではない。

 前述の小倉豊文は、 「ここの文九ページは、抹消も訂正もきわめて少なく、字体もしっかりしていて一目瞭然である。」と書いておられる。しっかりした意識をもって書かれた日記文を、詩として出版するために、本人の誤記ではないにもかかわらず、変更した責任は重い。

5.「雨ニモマケズ」を書く前後の収入はほとんどが実家の負担

 羅須地人協会での肥料設計、技師でのセールスも収入はないに等しい小学校でこどもたちが学ぶ賢治の職業は、「教師」は四年間だけ。教師をやめて農民芸術の学校「羅須地人協会」を設立し農業等を実践し、農作物や花などを生産し売り歩くが、 金持ちの息子のやること等に見られたりする。農民たちへの、献身的な肥料設計も天候不順による不作等もあり、やがて、過労と栄養不足で病床に伏すことになる。

 その後、東北砕石工場の鈴木東蔵氏の訪問で、肥料作成や販売への同じ夢を持ち合うことになるが、実は東蔵氏の訪問の目的は工場維持のための、「スポンサー探し」が主な目的であり、「宮沢家」の財力を当て込んでの訪問でもあった。鈴木東蔵の訪問の主目的は工場を維持するために宮沢家からの援助を得ることができ、賢治自身も技師として就職できた。 昭和五年四月のことであった。

 賢治の仕事は、肥料の効用を宣伝し、販路をひろげることであった。重いトランクを持って肥料サンプル等を持ち歩き、関係団体に見本を見せ宣伝して歩くセールスマンであった。そして肺炎も完治をしないまま、再び病気がちとなる。 妹のトシも肺結核で亡くなっている。

 なぜこのような職に就くようになったかというと、肥料設計と関連する土壌改善に役立つ炭酸石灰を広めるために、東北の町・村をまわり宣伝していたがどの企業も農業に関連する所にはお金がないので、宣伝をして理解していただくだけにしかすぎなかった。もっと宣伝をしなければという気持ちで東京までも宣伝に出かけていった。印刷物や肥料のサンプルを鞄に詰め、あちこちを笑顔で訪問するわけだが、大部分が肥料としての効果を理解してくれても、買ってくれるお金がどこもない時代である。 教員時代は、自分で給料をもらっていてもたくさんの本の購入など、赤字であってもその補填は実家が全て出してくれていた。立派に見える賢治には、常識が通じない面があっていたようである。ましてや、羅須地人協会を立ち上げた頃は、ほとんどが実家で負担し、重い荷物を手に持ちセールスを続けている賢治にとって、まわる所が金銭的にゆとりのある団体ではなく、商品の価値は理解できても商談がまとまるようなことは少なかったようだ。

6.病床に伏せりがちな賢治が肥料の普及等に奔走する毎日

 「ヒドリ」のことを考えてみる。東北人が聞くヒドリとは一日の労働をして一日分の賃金を得ることである。賢治は、大正十年十二月に教師となり昭和元年三月に退職している。 わずか四年四カ月間の教員生活だが、職に就いていれば給料で生活していると考えるが、 本の購入等、給料で賄えない分は実家から出してもらっていたらしい。

 今までは地元にいて実家から何不自由なく生活していた賢治が、昭和六年二月に立ち上げて間もない東北砕石工場に就職する。 注文の少ない工場で何とか努力したいと思い、技師としての仕事と宣伝のためにサンプルをトランクに積め石灰の宣伝販売を行って歩いている。しかし、製品が使用する側にとって使いやすい存在であったかは疑問である。小岩井農場との営業により、幾度もやり直しがかかっていることも記録にある。賢治は、一人で大きな苦労を背負いながら、九月に上京するが再び発熱し、病床につくことになる。

 ちなみに、ここに登場する「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」は日照に苦しむ農民がだめになる作物のために嘆きの涙を流すのではなく、賢治自身が日当を得たときあるいはそういった効果があったときの喜びの涙であると考えるのが自然である。学校で教えた解釈とは全く違ってくるが、苦しい労働のあとの成果であり、うれしい涙である。

 余談だが、一歩先んじて八戸市にカーバイト工場が誕生している。カーバイトとは、炭化カルシュウムのことある。燃えるときに発する光で鉱山での採掘事業を行う人たちや、漁船では光で魚を集める集魚燈に利用したりし、また、度重なる冷害に苦しむ農家のためには農業用肥料が効果を発揮していった。明治四十四年に八戸に是川水力発電所が誕生した。水力による電気エネルギーに有効利用として三八地方に豊富な石灰石を活用するカーバイト工場(大正六年)を誘致した。つまり、賢治の考えていたことに先んじて、八戸の是川水力発電所の電気を使ったしかも安価なカーバイト工場が八戸に誕生していた。賢治は、花巻農学校を退職した大正十五年に八戸の鮫を訪れている。この時には八戸の水力発電所の存在をつかんでいると思います。

7.教科書に載せるために食糧の米を四合から三合に直される

 「一日に玄米四合と」を「一日に玄米三合と・」に直させられた。それは、昭和二十二年文部省発行の「中等国語」に載せるために、GHQの指示により、「四合は多いので三合にしなさい。」という指示を受け、変えさせられて発行する許可を得たのだという。詩として教科書に載せたかった文部省は、内容を変えても差し支えないだろうと考えたのだろうか。 敗戦国側としては従うしかなくこのように「雨ニモマケズ」 は教科書に登場した。 戦後も窮乏に耐えて生きる日本人の姿と重ね合わされ、日本人なら誰もが知る詩となっていった。

 平成二十九年「NHK-100分で名著 宮沢賢治スペシャル」 でこの詩は賢治の死後、不思議な経緯で広がることを取り上げている。太平洋戦争中の昭和十七年に大政翼賛会発行朗読詩集「常緑樹」に掲載された。 「雨ニモマケズ」 は、「欲しがりません勝つまでは。」などと共に戦時中にあるべき日本人の精神として広まっていく。

 こうして、日本中に広がった 「雨ニモマケズ」 の詩と共に宮沢賢治もまた、偉人として定着していったということである。ここで、賢治が全国に広まる賢治像は「自分の家の職業に疑問を持つ賢治。 農学校に主席で入学。 成績優秀で、教師となる。「雨ニモマケズ・・・」の詩を書いたときの宮沢賢治のイメージは、農学校の先生をし、こどもたちと真剣に向き合う、貧困に苦しむ農民を救いたいと考え、また、詩歌・童話の創作、音楽活動を通し地域の仲間と集う等でのモラリストとしての姿である。」 

 教科書に掲載され、学校の先生を通してこの詩がこどもたちに愛されるようになるが、作者である宮沢賢治は、前述のように「聖人君子」として映されていくようになる。

8.「雨ニモマケズ」 の文は、 「詩」なのだろうか。いや、この文は日記文であり自分の強い願いを文章にしているもの。

 体も心も思うようにならず、考えていることのわずかしか実践できないことについても、できるだけでもいい自分の故郷の人たちが豊かになった土壌のもとで、幸せな生活を送れるように祈りたい。そのためにも、もう一踏ん張りできる体に戻してくれないだろうか等の自分の心残りだったことをお題目を唱えながら祈ったのではないだろうか。

 この文を書く昭和六年十一月三日の二カ月前、東京に宣伝に出た際にまた高熱を出し、宿で寝込んでしまう。その時に、父・母あてに「遺書」をしたためている。そこには、わがままであった自分、どんな子供も受けないようなご恩をいただきながらおかえしできない自分だったことをわびている。

 賢治の手帳には、右から九月二十日に再び上京し、発熱したことから書いてある。十月二十日には、同じ宿に宿泊したときに、急性肺炎なった部屋から三歳の女の子の咳をしては泣いている声が聞こえることを書いている。最後の行には、その病を「私にうつしたまわらんこと。」で終わっている。声に出さないが心で祈ってくれている。

 十月二十四日、二十八日、二十九日と日記を書きつづり、十一月三

日 「雨ニモマケズ」の文となる。(P.5の下段とP6に掲載)十一月六日の文には「くらかけ山の雪・・・」から始まるところからもしかすると、 「雨ニモマケズ」 を書いた十一月三日の頃は故郷に戻ってきた時期かも知れない。このような内容からも、日記の中に病気、父母との葛藤・懺悔の気持ち等を書き表しているようであり、自分の気持ちを書き留めていることが分かる。ここにいる賢治は、決して国語で勉強したモラリストの賢治の姿ではなく「少しの間だけでも動き回れる丈夫な体がほしい」という願いをこめている賢治であることに注目してほしいものである。さいごに、「雨ニモマケズ」を原文に近い形で、日付けを入れ、賢治の祈りをこめたお題目も入れて掲載してみた。 そして、日記の一部も掲載した。

 「雨ニモマケズ」は、晩年の賢治の「今、まだやりたいこと」があり、そのためにも丈夫な体がほしいのだと願っている文であると考えている。二〇一七年の九月で、賢治が亡くなって八十四年を迎える今、文が削除・変更され、内容が変わってしまったことについて、そのことが語られないままにしないでほしい。 そして、賢治が日記の文に込めた意思をしっかり理解していくことが賢治理解につながっていくのではないだろうか。 わたしには、道徳的な賢治ではなく、人間的な面をさらけ出している賢治の姿が目に浮かんでくる。

 なお、弟清六は父・母の思いを背負いながら兄賢治をみんなに知ってもらおうと努力した功労者であり、彼がいなければ誰も賢治という存在を知らないはずである。ただ、病気のこととか、宗教での対立、いろんなものの収集など、人に知られたくなかった面を持っていたらしく、兄や家を守ろうとしたこともあったことを付け加えておきたい。

(主な参考・引用文献)

ザ・賢治―宮沢賢治全一冊 宮沢賢治 第三書館 一九八五

月夜の蓄音機 吉田コト子、思い出語り 荒蝦夷 二00八

宮沢賢治―まんが岩手人物シリーズ 岩手日報社 一九八八

イーハトーブ農学校の賢治先生 魚戸おさむ 小学館 二0一0

もう一度読みたい宮沢賢治 (別冊宝島) 東京書籍 二00七

宮沢賢治の青春 菅原千恵子 (株)宝島社 一九九四

宮沢賢治 「手帳」 解説 小倉豊文 生活文化社 一九六七 ほか

雨ニモマケズ

風ニモマケズ  雪ニモ夏ノ暑サニモ マケヌ  丈夫ナカラダヲ  モチ  欲ハナク

決シテ瞋ラズ  イツモシヅカニワラッテ  井ル  一日二玄米四合ト  味噌ト少シノ

野菜ヲタベ  アラルコトヲ  ジブンヲカンジョウニ  入レズニ  ヨクミキキシワカリ

ワスレズ  野原/松ノ林ノ蔭ノ  小サナ萱ブキノ  小屋二井テ  東二病気ノコドモ

アレバ  行ッテ看病シテ ヤリ  西ニツカレタ母アレバ  行ッテソノ  稲ノ束ヲ負ヒ

南二  ソシテ  死ニサウナ人  アレバ  行ッテ  コハガラナクテモ  イー

トイヒ  北ニケンクワヤ  ソショウガ  アレバ  ツマラナイカラ  ヤメロトイヒ

ヒドリノトキハ  ナミダヲナガシ  サムサノナツハ  オロオロアルキ

ミンナニデクノボート  ホメラレモセズ  クニモサレズ  ソショウガ  ヨバレ

サウイフモノニ  ワタシハ  ナリタイ

南無無邊行菩薩

南無上行菩薩

南無多寳如来

南無妙法蓮華経

南無釈迦牟尼佛

南無浄行菩薩

南無安立行菩薩

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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