Facebook加藤隆行さん投稿記事【ゆっくり、ゆっくり】
最近、怒りっぽいとか、焦りやすいとか、不安が止まらないって人──それ、メンタルの問題っていうよかたぶん、「スピード」の問題です。
怒りも、焦りも、不安も、その正体は「思考が高速で動いている」ってこと。
あたまの中が、F1レースみたいになってる。
たとえば…・相手の一言に、0.3秒でムカッ!・予定がズレて、0.2秒でイラッ!・未来のこと考えて、0.3秒でザワザワ!…早すぎる。
もう反応レベルが、脊髄反射。そりゃ疲れるわけです。自分の想いを味わう暇もなく、どんどん先回りして、勝手に傷ついて、勝手に構えて、「なにこの世界、しんどいんだけど」ってなる。そう聴いてみると、そうかもって感じませんか?
アタマの、思考の、スピードが落ちたら、今のしんどさから抜け出せるかもって、思いませんか?そこでおすすめなのが──「なんでも、ゆっくりにしてみる」こと。
歩くのも、ゆっくり。箸を持つのも、ゆっくり。話すのも、聞くのも、書くのも、ぜんぶ、ゆっくり。
まるでスローモーション俳優みたいに「いま…、オレ…、動いてる…」って感じで。笑
そーやってなんでもゆっくりにすると実は思考もゆっくりに、なる。
でね、これやろうとすると──「早くしろ!速くしろ!」ってあたまの中から誰かが言ってきます。いるんですよ、そういうF1チームの監督みたいなヤツが。
「そんなノロノロしてたら置いてかれるぞ!」「周回遅れになるぞ!」って。
でも、そこをグッとガマンして、「わかった、わかった」と監督をなだめて、それでもゆっくりしてみてください。ちょっとだけでいいから。数分でいい。
ガマンして、試してみて。そしたらね、「あれ?」って思うはず。ちょっとだけ感覚が変わってくるから。「なんかいつもと違う」って感じるから。思考のスピードが落ちると、感情の波も徐々に穏やかになる。ギュンギュン次々と塗り替わっていたアタマの中のが言葉や景色がなんだか少しずつよく見えるようになってくる。
そしたら世界が広がった気がして、空気までやさしく感じられるようになる。
そしたら、なぜだら自分にも周りにも、やさしくなってる。
さて今日は、まずひとつだけ。**「急いで流し込んでた朝食をゆっくり食べてみる」**とか。
**「帰り道、ゆっくり星を見ながら歩いてみる」**とか、そんなゆっくりから、ぜひどうぞ。
とはいえ、朝遅刻してもボクのせいではありません(^ω^)
https://www.shirayama.or.jp/kouwa/k375.html 【今を生きる】より
はじめに
今年も年度替わりの節目を迎えました。卒業や退職で去り行く人、又、入学や就職で来る人々の心がかよう季節です。
世阿弥の言葉に「初心忘るべからず」という言葉がありますが、目標をしっかり見定めてそれに向かって努力することが大切であります。
山に登るときに一番大切なことは何かと問われたときに、「訓練」とか「情報」とか「装備」といいますが、それよりも大切なことは先ず「山に登る」という強い目的意識と目標を持たなければならないということです。その目的と目標は意識の強さによって途中で逃げ出してしまうようなことがなくなり、必ずやり遂げようという強い決意や決心がその後の成果に大きく左右するのであります。
目標の勘違い
昨今は試験の合格が目的のようになってしまっているように思います。
良い学校に入る、良い会社に入る、その時に試験合格を目指しますが、目標が試験合格になっているので、合格した後は、何がゴールだったのかが見えなくなって、しまいには勉強しない、学校へ行けない、中途退学する。就職にしても、仕事がつらい、仕事をしない、仕事が合わないなどで退職といったことにもなりかねない。
現在、ゴールは試験合格ではなく、自分が将来何になりたいかという目標を探すために全国の中学校で「わく・ワーク」と称して職場体験学習が行われています。この取り組みは吾が白山市の北辰中学校から始められ、今では全国に普及していますが、自分がどんな仕事がしたいか、何になりたいかという目標のもと、その進路にあった学校や先生につくことで、目的を果たし、目標に到達することができるのであります。
つまり、最初に志す目標を決めるのが大切なのであります。
神社での「わく・ワーク」の様子
一生懸命と一所懸命
一生懸命という言葉がありますが、一生とは産まれてから死ぬまでの間のことで、終生とか生涯ということでありますので、人間が一心に生きることをさしますが、元来は一所懸命ということであり、一つの所、又は一つになることであります。そしてその一つの事柄に対して命がけで取り組むことであり、一心に目標の為に頑張ることであります。
人は一生の目標に向かって一つ一つのハードルを乗り越える。その一つ一つのハードルが一所懸命につながるのだと思います。
中今
江戸中期の書物「葉隠」の有名な一節に「武士道とは死ぬ事と見つけたり。」という言葉があります。それは「死ぬ」まで頑張れということではなく、「死を想え」そして「今を生きろ」たった一度しかない人生を後悔するのではなく、失敗や負けることを恐れず、苦難や挫折を受け入れるという前向きな発想のことであります。
私たちは今、「中今」に生きています。中今とは今この一瞬ということであります。『広辞苑』には「過去と未来との真ん中の今。遠い無限の過去から遠い未来に至る間としての現在」とあります。
ということは過去があって現在があり、現在が又未来を築くのであります。そのまっ只中が中今なのであります。であるならば、この一瞬をしっかりと捉えて自分に忠実に生きたいものです。
その一瞬一瞬が後先を考え単なる今ではなく、「中今」となるのであります。
人生には迷いもあるし、ためらいもあります。しかし、迷っているうちにもためらっているうちにも時は過ぎて行くのであります。
ここに目的・目標を強い意志で持つことにより、そのことが完遂出来るかどうかがかかってくるのです。
いったん決めたらそれに従ってその目的を達成させるために一所懸命その「中今」を無駄にしないことです。その努力がやがて自信につながり、目標達成につながるのであります。
宮司の揮毫散華「霊峰白山中今」
宮司の揮毫散華「霊峰白山中今」
昨年金沢にて開催された「国宝薬師寺展」を記念して宮司を始め北陸の伝統工芸作家14名の手によって製作されました。
散華とは寺院の法要の際に撒かれるもので、元来蓮などの生花が用いられていましたが、現在は蓮の形を模した色紙に字や絵を描いたものを用いています。
おわりに
永六輔氏は講演の中で、「(たとえば今日が3月1日だとすれば)朝、目が覚めたら布団の中で今日は『ついたち』ついたちは1ヶ月で1日しかないが、1年では12回ある。3月1日は1年で1回しかないが、平成26年3月1日は自分の人生でたった1回しかない貴重な1日だから今日1日を楽しく笑顔ですごそうと大きな声で言ってみることです。」とおっしゃっていました。その毎日毎日の積み重ねが幸せな一生につながってくるのだと思います。
「むくわれない努力はあっても無駄な努力はひとつもない」と先人はおっしゃいましたが、年度替わりの3月・4月、新たな目標・目的をもって清々しい春を迎えましょう。
FacebookPrem Sheelさん投稿記事
人間は、あたかも眠りながら生きているかのようだ。人間は、現に眠っている。目覚めとして知られるものもまたすべて眠りだ。イニシエーションとは、覚醒している人と親密に触れ合うことをいう。覚醒している人と親密な接触を持たない限り、眠りから覚めることはできない。
なぜなら、マインドは、目覚めているという夢を見ることさえできるからだ。マインドは、もう眠ってはいないという夢を見ることができる。
だが、どんな夢でも、夢を見ている者には、それが夢であることがわからない。夢から醒めて初めて、それが夢だったことがわかる。夢が続いているあいだは、それが夢だとはどうしてもわからない。あなたはいつも夢が消え、過ぎ去った後でそれに気づく。
「これは夢だ」と言える者はいない・・夢に現在形は使えない。あなたは、いつも「あれは夢だった」と言う。夢見のさなかには、夢は生々しく見えるからだ。現実のように見えなければ、夢は破れてしまう。現実の装いがあって初めて夢は生み出されうる。
私が「人間は眠っている」と言うときには、このことを理解しなければならない。
私たちは1日24時間絶えず夢を見ている。私たちは夜は外界を遮断し、内側で夢を見ている。昼は感覚が外界に向かって開かれているが、夢は内側で続いている。
一瞬でも目を閉じれば、あなたは再び夢のなかにいる。夢は内側で絶えることなく続いている。あなたは外界に気づいているが、気づいていても夢見るマインドが消えたわけではない。
夢見るマインドの上に目覚めた意識が押しつけられているが、夢は内側で続いている。
目を覚ましているはずのときでさえ、あるがままの現実を私たちが見ていないのはそのためだ。私たちは現実の上に夢を押しつける。私たちは現にあるものを決して見ない。
私たちはいつも自分の投影を見ている。私があなたを見ても、私のなかに夢があるなら、あなたは投影の対象になる。私は自分の夢をあなたの上に投影し、あなたをどう理解しようとも、
それはすべて私の夢、私の投影と混ぜ合わされる。
私があなたを愛しているときには、あなたはある姿をとって見える。あなたを愛していないときには、あなたはすっかり違って見える。あなたは同じには見えない。
私はたんにあなたをスクリーンとして使い、私の夢見るマインドをあなたの上に投影している。私があなたを愛しているときには、夢が変わるので、あなたは違って見える。
私があなたを愛していないときには、あなたは同じだが・・スクリーンは同じだが・・投影が変わる。今や私はあなたを別の夢を映すスクリーンとして使っている。
そして、夢はまたもや変わりうる。私は再びあなたを愛することができる。
そうなったら、あなたは私の目には違って見える。私たちは決してあるがままを見ていない。
私たちはいつも、現にあるものの上に投影された自分の夢を見ている。
夢見るマインドはまわりに非現実の世界をつくりあげる。マーヤ、幻想という言葉が指しているのはこのことだ。「幻想」とは、世界は実在しない、戸外の通りの騒音は実在しないという意味ではない。それは現実にある。
だが、内側で夢を見ているマインドが止まらない限り、決してそれをあるがままに知ることはできない。
ある人にとっては、その戸外の騒音は音楽であるかもしれない。他の者にとっては、ただうるさいだけだ。その騒音にあなたが気づいていない瞬間もあれば、気づく瞬間もある。
その騒音が気にならない瞬間もあれば、耐えがたくなり、我慢できなくなることもある・・が、騒音は同じだ。通りを行き交う車は同じだ。だが、あなたの夢見るマインドが変わる。
マインドが変わるにつれて、あなたの周囲にあるものすべてが新しい色彩を帯びてくる。
私たちが世界は幻想、マーヤだと言うのは、世界が実在しないという意味ではない。
それは実在する。だが、私たちが世界を見る見方が幻想なのだ。
私たちが見ているものなどどこにもない。誰かが覚醒していても、現実の世界が消えるわけではない。その人が覚醒する前に知っていた世界が完全に消え去るだけだ。
まったく新しい世界、客観的な世界が代わりに現れる。あなたが加えた色合い、形・・自らの夢見るマインドにしたがって、あなたが加えた意味や解釈はもはや一切存在しない。
このマーヤの世界、この幻想の世界、この投影の世界に関する限り、私たちは決してひとつの世界に住んではいない。ひとりひとりが別の世界に住んでいる。
それゆえに、夢見る人の数だけ世界がある。あなたがたの眼に映る私は同一ではない。
それぞれが私に私以外のものを投影している。
私は、私自身に関する限りひとりだ。だが、もし私自身が夢を見ていたら、私の眼にも、
私は一瞬一瞬に違って映る。私の解釈が刻一刻と変わるからだ。だが、私が覚醒していたら、
私はいつも同じだ。仏陀はどこかで、「光明を得た人を見分けるには、 その人が海水のようにいつも同じであるかどうかを確かめればよい」と言っている。
海水は、どこをとっても一様に塩辛い。私が覚醒していれば、私にとって、私は同一だ。
今世だけではない。私は通り過ぎてきたあらゆる生で同一だった。
私は永遠に不変だった。真の私は同じままでありつづけている。それは変わりようがない。
投影が変わるだけだ。スクリーンは同じままだが、フィルムが変わり、映像が変わる。
Osho - I Am The Gate
FacebookOSHO Japaneseさん投稿記事
ただリラックスして、物ごとをあるがままに任せるがいい。受動的な気づきーーそれが瞑想の意味だ。ときには見守ることを忘れても、何の問題もない!思いだしたときに、再び見守ればいい。忘れるときは忘れなさい。これがリラクセーションだ。
これが、生をあるがままに受け容れるということだ。Osho
https://www.osho.com/ja/highlights-of-oshos-world/relaxation 【「リラクセーションについて」Oshoの言葉から リラクセーションとは、ただ自然であることだ】より
Osho,
リラクセーションについて、さらに何か言って下さいますか? 私は、自分の核の深いところにある緊張に気づいています。そして全面的にくつろいだことはおそらく一度もないのではないかと、うすうす感じています。先日あなたが、くつろぐことは起こり得る最も複雑な現象のひとつだと言ったとき、私は豊かなタペストリーを垣間見ました。それはリラクセーションとレット・ゴーの糸が信頼をもって深く織り合わさり、さらにそこに愛が加わり、そして受容が、流れと共に行くことが、融合とエクスタシーが……。
全面的なくつろぎは最終的なものだ。それは、人がブッダになる瞬間だ。それは成就の、エンライトンメントの、キリスト意識の瞬間だ。今あなたは、全面的にくつろぐことはできない。最奥の核に、緊張が続いている。
しかし、くつろぐことを始めるがいい。周辺から始めなさい――そこが私たちのいる場所だ、そして私たちは自分のいる場所からしか始められない。あなたの実存の周辺をくつろがせなさい――身体をくつろがせなさい、振る舞いをくつろがせなさい、行動をくつろがせなさい。ゆったりと歩くがいい、ゆったりと食べるがいい、ゆったりと話し、聞くがいい。あらゆる一連の行為を、落ち着いてやりなさい。急いではならない、慌ててはならない。自分が永遠を手にしているかのように動くがいい――実際、あなたはそれを手にしている。もし始まりがあり、終わりがあるなら、私たちは始まりからここにいて、最後の最後までここにいるだろう。実際には、始まりはなく終わりはない。私たちは常にここにいたし、常にここにいるだろう。形は変わりつづけるが、本質は変わらない。外見は変わりつづけるが、魂は変わらない。
緊張とは急ぐこと、恐怖、疑いを意味する。緊張とは、守るための、安心していられるための、安全であるための絶え間ない努力、ということだ。緊張とは、明日のために、あるいは来世のために、今準備しているということだ――明日、自分が現実に直面できないのではないかと恐れているから、準備しなければならない。緊張とは、あなたが本当には生きずに、ただ何とか避けてきてしまった過去を意味する――それは付きまとっている、それは過去の持ち越しだ、それがあなたを取り囲んでいる。
生に関する、ひとつのとても基本的なことを覚えておくがいい――生きられなかったどのような経験も、あなたに付きまとい、主張する――「私を終わらせて! 私を生きて! 私を完結して!」。あらゆる経験の中には、終わらせて完結されることへと向かう、そうなることを欲している内在する質がある。ひとたび完結されたら、それは消える。完結していなければ、それは存続し、あなたを苦しめ、あなたに付きまとい、あなたの注意を引く。それは言う、「私に対して何をしてくれるんですか? 私はまだ中途半端です――私を全うさせて!」
あなたの過去全体が、何ひとつ完結されることなくあなたに付きまとっている――なぜなら、何ひとつ本当には生きられることなく、すべては何とか回避され、可もなく不可もなく、生ぬるいやり方で、中途半端に生きられてきたからだ。強烈さは全くなく、情熱も全くなかった。あなたは夢遊病者のように夢の中を動いてきた。だから、その過去が付きまとい、未来は恐怖を生み出している。そして過去と未来のはざまで、ただひとつの現実であるあなたの現在は押しつぶされている。
あなたは周辺からくつろがなければならないだろう。くつろぎの最初のステップは身体だ。あなたが身体のどこか――首や、頭や、脚――に緊張を抱えているかどうか、身体の中を見ることをできる限り何度も思い出すがいい。それを意識的にくつろがせなさい。身体のその部分に行って、その部分を促しなさい、愛情を持って「くつろぎなさい!」と言うがいい。
そして、あなたが身体のどの部分に取り組んだとしても、それがあなたの話を聞いて、従うことに、驚くだろう――それはあなたの身体なのだ! 目を閉じて、身体の中に入り、つま先から頭まで緊張があるところを探してごらん。そして友人に話しかけるように、その部分に話しかけなさい。あなたとあなたの身体に、会話をさせなさい。くつろぐようにと、そこに言いなさい、そして告げなさい、「恐れることは何もない。怖くない。私がここにいて世話をしているから――くつろいでいいよ」と。少しずつ少しずつ、あなたはそのコツを学ぶ。すると身体はくつろぐようになる。
それからさらに一歩、もう少し深く進みなさい。マインドにくつろぐように言うがいい。身体が話を聞くようなら、マインドも聞く。だがあなたはマインドから始めることはできない――あなたは一番最初から始めなければならない。途中からは始められない。多くの人がマインドから始めて失敗する。間違ったところから始めるから失敗するのだ。どんなことも、正しい順番でなされるべきだ。
もしあなたが自らの意志で身体をくつろがせられるようになれば、自分の意志でマインドがくつろぐのを助けられるようになる。マインドはさらに複雑な現象だ。ひとたびあなたが、身体が自分の話を聞くという自信を持つようになったら、あなたは自分自身に対して新たな信頼を持つようになる。今やマインドでさえ、あなたの話を聞くことができるだろう。マインドはもう少し時間がかかるが、それは起こる。
マインドがくつろいだら、次はハートをくつろがせ始めなさい。それはあなたのフィーリング、感情の世界であり、さらにいっそう複雑で、いっそう微妙だ。しかし今やあなたは信頼とともに、自分への大いなる信頼とともに動いている。今やあなたにはそれが可能だとわかる。それが身体に可能であり、マインドに可能であるなら、ハートにも可能なのだ。そして、あなたがこれら三つの段階を通過して初めて、四番目の段階に進むことができる。今あなたは、自らの実存の最奥の核へ行くことができる。それは身体、マインド、ハートを超えた、あなたの存在のまさに中心だ。そしてあなたは、それもくつろがせることができる。
そしてそのくつろぎは確実に、起こり得る最高の喜びを、エクスタシーの究極なるものを、受容をもたらしてくれる。あなたは至福と歓喜にあふれるだろう。あなたの生そのものがダンスの質を持つだろう。
存在全体は踊っている、ただし人を除いて。存在全体はとてもくつろいだ動きの中にある――動きは確かにある、だがそれは完全にくつろいでいる。木々が育っている、鳥がさえずっている、川が流れている、星々が動いている。あらゆるものが、とてもくつろいだままで進んでいる。急がず、慌てることなく、心配することなく、そして無駄がない。人を除いて。人は自分のマインドの被害者になってしまった。
人は神を超えて高まることもできれば、動物以下にまで落ちることもできる。人には幅広い領域がある。最低から最高まである、人は梯子なのだ。
身体から始めるがいい、それから進んで行きなさい、ゆっくりゆっくり、より深くへ。そして最初に一番目のことを解決しない限り、他のところから始めてはいけない。もしあなたの身体が緊張していたら、マインドから始めてはいけない。待ちなさい。身体に働きかけるがいい。そしてほんのちょっとしたことが、途方もなく役に立つ
あなたは一定のペースで歩く。それは習慣的に、自動的になっている。今はゆっくり歩こうとしてごらん。仏陀は弟子達に言っていた、「とてもゆっくり歩きなさい、そしてとても意識的に一歩ずつ進みなさい」。もしとても意識的に一歩ずつ進んだら、あなたはゆっくり歩くことになる。もしあなたが走っていて、急いでいたら、覚えていることを忘れてしまう。だから仏陀はとてもゆっくり歩く。
ただ、とてもゆっくり歩こうとしてごらん、するとあなたは驚くだろう――気づきの新たな質が身体に起こり始める。ゆっくり食べなさい、するとあなたは驚くだろう――そこには大いなるくつろぎがある。あらゆることをゆっくりやるがいい……ただ古いパターンを変えるために、ただ古い習慣から出てくるために。
最初に、身体が小さな子供のように完全にくつろがなければならない。そうなって初めて、マインドに手をつけなさい。科学的に動いていくがいい――最初に最も単純なことを、それから複雑なことへ、その後にさらに複雑なことへ。そしてその時初めて、あなたは究極の核でくつろぐことができる。
あなたは私に尋ねている、「リラクセーションについて、さらに何か言って下さいますか? 私は、自分の核の深いところにある緊張に気づいています。そして全面的にくつろいだことはおそらく一度もないのではないかと、うすうす感じています」。
それがあらゆる人間の状況だ。あなたが気づいているのはよいことだ――大多数はそれに気づいていない。あなたは気づいていて幸運だ、気づいていれば何かができるからだ。もし気づいていなければ、何ひとつ可能ではない。気づきが変容の始まりだ。
そしてあなたは言う、「先日あなたが、くつろぐことは起こり得る最も複雑な現象のひとつだと言ったとき、私は豊かなタペストリーを垣間見ました。それはリラクセーションとレット・ゴーの糸が信頼をもって深く織り合わさり、さらにそこに愛が加わり、そして受容が、流れと共に行くことが、融合とエクスタシーが……」
そうだ、リラクセーションは最も複雑な現象のひとつだ――とても豊かで、多次元的だ。これらすべてのものはその一部だ、レット・ゴー(手放し)、信頼、明け渡し、愛、受容、流れと共に行くこと、存在との融合、自我のないこと、エクスタシー。これらすべてはその一部だ、そしてもしあなたがリラクセーションのやり方を学んだら、これらすべてが起こり始める。
あなた方のいわゆる宗教は、あなたを非常に緊張させてきた。なぜなら、それらはあなたの中に罪悪感を作り出したからだ。ここでの私の努力は、あらゆる罪悪感とあらゆる恐怖からあなたが解放されるのを助けることだ。私はあなたに言いたい――地獄は存在せず、天国は存在しない。だから地獄を怖れてはならないし、天国を熱望してはならない。存在しているすべては、この瞬間だ。あなたはこの瞬間を地獄にすることもできれば、天国にすることもできる――それは確かに可能だ――しかしどこか別のところに天国があるのではなく、地獄があるのでもない。地獄はあなたが緊張しきっている時にある、天国はあなたがすっかりくつろいでいる時にある。全面的なくつろぎが楽園だ。
FacebookSammaditthi Asakuraさん投稿記事
「因果関係によって作り出されたすべてのものは無常である」(諸行無常)と智慧によって見るとき、人は苦しみを厭い離れる。これが、人が清らかになるための道である。仏陀の言葉より
※因果関係とは十二縁起によって説明されています。
釈尊(しゃくそん)が、人間の肉体生成を十二種の法則に分類し、心の変化にも十二に分かれた因縁の法則があるという教えです。前者を外縁起(がいえんぎ)、後者を内縁起(ないえんぎ)と言います。十二縁起の理解によって仏陀の三法印(無常、無我、苦)の理解も深まります
https://www.osho.com/ja/read/featured-books/yoga/dying-with-consciousness 【意識して死ぬ】より
瞑想とは明け渡すこと、全面的に解き放つこと(レット・ゴー)だ。自分自身を明け渡すやいなや、その人は神の手のなかに抱かれている自分に気づく。自分自身にしがみついているうちは、私たちは全能なる存在と一体になることなどできない。波が消えるとき、その波は大海そのものになる。
瞑想の本質を理解するために、いくつか実験をやってみよう……。
誰もあなたに触れることがないようにして座りなさい。眼をゆっくり閉じて、体をゆったりさせる。体にどんな緊張もどんな興奮もないように、すっかりくつろぐことだ。
さて、ふたつの山のあいだを、川が音をたてながら、すごい勢いで流れていると想像してみなさい。それをよく観て、そして飛びこんでごらん……。ただし泳がないこと。動いたりしないで、体を漂わせるがいい。いまや、あなたはその川と一緒に進んでいる――ただたゆたっている。到着しなくてはならないところもないし、目的地もない。だから、泳ぐなどという問題は出てこない。さながら一枚の枯葉が、努力なく楽々と川を漂っているかのように感じなさい。明け渡し(サレンダー)、全面的な解放(レット・ゴー)とは何か、それがわかるように、はっきり体験することだ。
漂い方がわかったら、今度はどうやって死ぬか、どうやって完全に解け去るかを見出しなさい。眼を閉じたまま、体をゆったりとさせて、すっかりくつろいでごらん。そして、ひと積みの薪(まき)が燃えているのを見守りなさい。たきぎの山が燃えていて、その炎は天にも届かんばかりだ。そして、もうひとつ覚えておくことは、あなたが燃えさかる薪の上にただ置かれているということだ。そして、友だちや親類縁者たちがみな、まわりに立っている。
いつの日かそれは必ずやってくるのだから、死の瞬間を意識して体験するのは良いことだ。炎が高く舞い上がるにつれて、自分の体も燃えていると感じてごらん。ほどなく、その火はひとりでに消える。そして人びとは立ち去り、墓場はもとのように空っぽになり、静寂が訪れる。それを感じるがいい。そうしたら、あらゆるものが静まり、灰だけしか残らないことがわかるだろう。あなたは完全に消え去った。この消え去るという経験を覚えておきなさい。なぜなら、瞑想もまた一種の死だからだ。
眼を閉じてすっかりリラックスする――なにもする必要はない。なにかをやるという必要はないのだ。あなたが存在する以前から、ものごとはそのあるがままだった。そして、あなたが死んだ後でもそれは同じままだ。
なんであろうと現に起こっていることは起こることだ、ということを感じてごらん。その如性(にょしょう)(そのようであることSuchness)を感じるがいい。それはまさにそのように在るのだ。そのようにしか存在し得ない。他の在りようなどないのだ。それなのに、どうして抵抗などする?
<如性>とは「無抵抗」のことだ。どんなものもそのあるがままで申し分ない。草は緑、空は青く、大海の波はとどろく……小鳥はさえずり、カラスが鳴く……。生とはかくの如きものなのだから、あなたの側からの抵抗はない。と、突然、変容が起こる! いつもは邪魔だと思いこんでいたものが、いまや好感のもてるものに見えてくる。あなたは何にも反対していない。あなたはあるがままのすべてのものに、幸せだ。
第一にあなたがやらなければならなかったことは、存在の大洋にあって泳ぐことよりも、漂うことだった。漂う用意のできている者には、川それ自体が大洋へと連れて行ってくれるのだ。
第二に、死から自分を救うよりも、自分を溶かすことだ。私たちが救いたがっているものは必ず死ぬ。そして永遠に存在するものは、私たちが努力しなくても、ずっとそこに存在する。死ぬ覚悟のできている人は、神性を迎える扉を開くことができる。だが、自分の扉を閉ざしたままにしているとしたら――死の恐怖のせいで――あなたはそうすることで、神性に達することを犠牲にしているのだ。瞑想とは死ぬことだ! 最後に体験すべきことは如性だった。花と棘を両方受け入れて初めて、あなたは平安に達することができる。平安とは、結局、全面的受容の結実なのだ。平安は、平安の不安さえも受け容れる用意のできている人のところにだけ訪れる。
だから、眼を閉じて体をゆったりとさせ、そうして、あたかも体のなかに生命などないかのように感じてごらん。体がリラックスしているように感じるがいい。そのように感じつづけてごらん。そうすれば、まもなくあなたは自分が自分の体の主人ではないということがわかるだろう。体の細胞という細胞、神経という神経がくつろいでいる――まるで体など存在しないかのようだ。
ちょうど体が川を漂っているかのように、体はそのまま放っておきなさい。生という川が望むところにあなたを連れてゆくままにまかせなさい。そして、さながら一枚の枯葉のように、生の川の上に浮かび漂うがいい。
そうしたら今度は、自分の呼吸がだんだん落ち着いて静かになってゆくのを感じなさい。呼吸が静かになってくると、あなたは自分が消えてゆくように感じるだろう。あたかも燃える薪の上にいて、自分がすっかり燃え尽きてしまうかのように感じるだろう。灰さえも残っていない。
そうしたら、小鳥の鳴き声、明るい陽ざし、大洋の波を感じなさい。そして、ただそれらの観照者でありなさい――受容的で、なおかつ醒めて、注意深くありなさい。
体の緊張は解けている。呼吸も静かだ。そのとき、あなたは「如性」のなかにいる。あなたは、ただそれらすべての観照者なのだ。
だんだんあなたは内なる変容を感じはじめる。と、突然、内側でなにかが静かになる。「心」(マインド)が静かで空っぽになった。それを感じることだ。その観照者でありなさい。それを体験するがいい。
川は、浮かんでいたあなたの体を連れ去ってしまった。薪もあなたの体を焼き払ってしまった。そして、あなたはずっとその観照者でありつづけた。その「無」のなかへ、至福が入ってゆく。それを私たちは「神性」と呼ぶ。
そうしたら最後に、2、3回ゆっくり呼吸をする。呼吸のたびごとに、あなたは新鮮さや平安、そして至福の歓びを感じるだろう。さあ、ゆっくり眼をあけて、瞑想から戻ってきなさい。
この試みは、夜ごと就寝前にやって、その直後に眠ると、だんだんとあなたの眠りが瞑想に変わるだろう。
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