https://www.kyoto-su.ac.jp/faculty/ls/column/ls_column05/ 【なぜ私たちの細胞には
「死」のプログラムが備わっているのか~「生」と「死」のパラドックスに迫る】より
先端生命科学科 川根 公樹 准教授
人体の維持に欠かせない「プログラムされた細胞死」
ー私たちの体を形作る細胞には、あらかじめ「死」がプログラムされていると聞きました。すべての生物の基本単位であり、まさに「生」の根幹である細胞に「死」が組み込まれていることは、とても不思議に思えます。そこで、「細胞死」をご専門に研究されている川根先生に、なぜ、細胞には死のプログラムが実装されているのか、なぜ私たちにはそれが必要なのか、その理由をお聞かせいただきたいと思います。
私たちの体は、たくさんの細胞からなる「細胞社会」と例えられます。この細胞社会の秩序は、時として、個々の細胞の死、犠牲の上に成り立っているのです。例えば、不要な細胞や有害な細胞、無能な細胞を細胞死によって社会から除去することで、体を形作り、健康を維持しているのです。細胞社会は、人間社会に比べ、より全体主義といえます。
具体例を挙げると、私たちの手や足の指は最初からこの形で作られるのではありません。もともとは指と指の間に水かきのような部分があり、胎児の間に、その部分の細胞が細胞死によって取り除かれることで、残った部分が指になるのです。彫刻をイメージしてもらうとわかりやすいかもしれません。
また、体が出来上がった後でも、体を構成する細胞を古いものから新しいものに常に置き換えることで、私たちは健康を保つことができます。今このように話している瞬間にも、体の中では途方もない数の細胞が死んでいっています。人体の細胞数はおよそ37兆個。そして毎日約3000億個もの細胞が新たに生まれており、それと同程度の細胞が毎日死んで全体のバランスを取っているのです。血液細胞や消化管の細胞など、さまざまな部分で古い細胞と新しい細胞の入れ替わりが起きています。例えば今、体を流れている血液の赤血球細胞を考えても、数カ月後に生き残っている細胞はおらず、すべて新たな細胞に置き換わっています。今日のあなたと明日のあなたは、細胞生物学的には違う自分と言えるかもしれませんね。
細胞死は、ウイルス感染やがんから体を守るはたらきも担っています。ウイルスに感染した細胞やがんになりかけた異常な細胞で、死のプログラムが起動することで、ウイルスの増殖を阻止したり、がんになるかも知れない細胞を排除したりするのです。
私たちの体を守る免疫システムの成立にも細胞死の働きがあります。免疫システムにとって最も重要なのは、自己と非自己(異物)を区別することです。病原体などの異物を自己と区別し、異物のみを特異的に攻撃することで、私たちの体を病気から守るのです。この免疫システムができるときに、自己を認識し攻撃してしまう免疫細胞が細胞死によって排除されることで、免疫システムが「敵」のみを攻撃するようになります。
細胞死は人体にとって本当に重要なシステムなのですね。もし細胞死の仕組みが正しく機能しなかった場合、どのような影響があるのでしょうか。
起こるべき細胞死が適切に起こらなければ、さまざまな疾患につながることが考えられます。たとえば、がんやウイルスは、私たちの体をより容易に蝕むことになるでしょう。自己を攻撃してしまう免疫細胞が除去されなければ、免疫系が自身を攻撃することで、自己免疫疾患になります。反対に、細胞死のスイッチが誤って発動すれば、まだまだ元気で活躍できるはずの細胞が死んでしまい、やはり、さまざまな病気になるでしょう。例えば、神経細胞が死ぬことによって発症するアルツハイマー病などの神経変性疾患や、インスリン分泌細胞の細胞死による糖尿病、免疫細胞の細胞死によるエイズなどは、細胞死のプログラムが誤って発動することが原因であると考えられています。
このように、細胞死のプログラムの破綻はさまざまな病気の原因になるため、逆に、細胞死を自由自在にコントロールできれば、そうした疾患の根本治療も可能ということです。細胞死のしくみを理解することがいかに重要か、わかってもらえたと思います。
個の死が周囲に与える影響とは細胞社会における細胞死を理解する
ー現在、先生が力を入れておられる研究テーマについてお聞かせください。
細胞社会における細胞死」が重点的なテーマです。これまでの細胞死研究は、死ぬ細胞だけにフォーカスする形で進んできました。その結果、細胞が死ぬときにその細胞内で何が起こるのか、といった、細胞死の仕組みそのものについては多くのことがわかってきました。しかし、改めて考えてみると、死ぬ細胞の周囲には多くの健康な細胞や、同種細胞、異種細胞などが存在しています。そうした細胞社会の中で、ある細胞が死ぬと、その周辺の細胞にも影響が及ぶはずです。例えば、組織に欠員が生じたら、それをなんとかして補わなくてはいけません。つまり、細胞死を真に理解するためには、死ぬ細胞のみならず、その周辺の生き残る細胞も含めた細胞社会全体を俯瞰する視点が必要だと思ったのです。
現在は、特に腸管の上皮細胞に着目しています。腸の細胞は古い細胞と新しい細胞の入れ替わりが激しく、新しく生み出された細胞は数日で寿命を迎えて細胞死するため、腸ではおびただしい数の細胞死が今この瞬間も起こっています。その際、古い細胞は絨毛(腸の表面に生えている小さな突起)の先端から飛び出して剥がれるような形で除去され、細胞脱落という様式で終焉を迎えます(図?)。どのようにして細胞の寿命は決まるのか、周りの細胞は死ぬべき細胞をどのように認識し、それを押し出すよう振る舞うのか。実際に細胞が組織から離れる際には死ぬ細胞、周囲の細胞、双方の細胞内で一体何が起こっているのか。そして、細胞が押し出された後の隙間はどのように埋められるのか。細胞脱落の仕組みについて理解するためには、死ぬ細胞のみならず、その周辺の細胞の関わりも含めて理解する必要があります。このような視点での研究はこれまであまりなされていなかったため、今でもまだわからないことだらけです。その謎の解明に少しでも近付こうと、日々研究に励んでいます。
ー川根先生の研究は、広い意味では、「細胞生物学」の分野に含まれると思います。先生は細胞生物学のどのような点が魅力的だと感じておられますか。
私たちの体の中では、想像を絶するほど巧みな仕組みで細胞の働きが展開されています。光や色、におい、味を感じられるのは神経細胞の働きのおかげですし、歩いたり、スポーツをしたりできるのは筋肉細胞のおかげです。また、免疫細胞があの手この手で外敵を駆除してくれることで、私たちは感染症から守られています。こうした個性豊かな細胞の振る舞いは、私達が意識できないレベルで、しかし確かに体の中で行われており、これら振る舞いの働きを深く知り、感動できる点こそが細胞生物学の大きな魅力だと考えています。
生命科学の面白さを共有したい
ーここまでの先生のお話を聞いていて、本当に研究を楽しんでいることが伝わってきました。生命科学部では、3年次生の秋学期から各学生が研究室に分属し、研究を通じて生命科学を学ぶと聞いています。生命科学部では、どのような研究環境で学びが行われているのか教えて下さい。
京都産業大学生命科学部にはソフト・ハードともに充実した研究環境があるので、その点も研究や教育の大きな支えになっています。たくさんの研究室があり、幅広い分野の研究が展開されているだけでなく、研究のレベルも非常に高い。そうした中、研究室間でお互いの研究について議論したり、情報共有したりする機会も多く、たくさんの刺激を受けています。また大学の支援体制も手厚く、生命科学研究に必要な先端機器が配備されているなど、とても恵まれた環境だと思います。そのような環境で、学生達が研究に没頭し、日々成長していく姿を、私たちは目の当たりにしています。
ー最後に、高校生の方に向けてメッセージをお願いできますでしょうか。
高度な研究に加えて、教育の手厚さも生命科学部の魅力です。学生思いの教員がとても多く、どうすれば学生にわかりやすい授業を提供できるか、各教員が工夫をこらしています。一人でも多くの学生に生命科学の面白さを伝えていくことが、私たち教員の目標です。教育・研究の環境が十分に整った生命科学部で、ぜひ私たちと一緒に、楽しく奥深い生命科学の世界を探究していきましょう。
コラム「こんな所にも細胞死が!」
プログラムされた細胞死(アポトーシス)は、ヒト以外の多細胞生物でも普遍的に見られる現象です。例えば、昆虫は、幼虫、さなぎ、成虫と、その形態を大きく変化させます。その変態の過程で、例えば、幼虫細胞から成虫細胞へと大幅な入れ替わりが起こります。幼虫細胞が、しかるべきタイミングで組織から除かれなくては、昆虫の変態もうまくいかないのです。
植物は、根から水を吸い上げます。水は、導管と呼ばれる管を通り、根から茎、葉へと運ばれます。実は、この導管の形成にも、アポトーシスが関与しているのです。まず、導管の元となる細胞が縦に連結して並びます。その後、細胞がアポトーシスで死に、死んだ細胞が除去されます。すると、その細胞を覆っていた細胞壁だけが残り、元々細胞が存在していた場所が空洞になります。その空間が、植物が水を運ぶための導管となるのです。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00421/011200001/ 【死は、それ自体が「パラドックス」である】より Byスティーヴン・ケイヴ
「死にたくない」「長生きしたい」……人類はこの感情を原動力に、都市をつくり、科学を発展させ、文化を築き上げてきました。そして、「死」がもたらす人生の有限性が、一人ひとりの人生の充実に大きな役割を果たしているといいます。それはいったい、どういうことなのでしょうか。哲学博士で、ケンブリッジ大学「知の未来」研究所(Leverhulme Centre for the Future of Intelligence)エグゼクティブディレクター兼シニアリサーチフェローのスティーヴン・ケイヴ氏による著書『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』から一部を抜粋し、ビジネスパーソンの教養となり、今をより豊かに生きるための考え方を紹介します。1回目は、「人は必ず死ぬ。しかし誰もが、自分の死を正しく想像できない」ということについて。
人類を突き動かす「永遠」への熱望
私たち人間は、他のあらゆる生き物同様、果てしなく生を追求するよう駆り立てられている。だが、生き物のうちで唯一私たちだけが、その追求の過程で目覚ましい文化を創出して瞠目(どうもく)すべき芸術品を生み出し、豊かな宗教伝統を育み、科学の物質的業績と知的業績を積み上げてきた。そのすべては、「不死」を手に入れるための4つの道をたどることを通して成し遂げられてきた、というのが私の主張だ。
不死への意志が文明の根本的な推進力であるという主張を初めて耳にしたら、疑いを抱く人もいるだろう。
「そのような意志はあまりに抽象的であり、日々の活動の背後にある本能たりえないであろう。あまりに神秘的なので、サルから進化したヒトという生物の行動は説明できそうにない」というのだ。
だが、私たちの永遠への熱望の起源は、神秘的でもなければ抽象的でもない。その正反対で、これほど自然なものはありえないだろう。私たちが未来まで生き延びようと奮闘努力するのは、人類の長い進化の遺産の、直接の結果にすぎない。
あらゆる生命形態に唯一共通するのが、生き永らえ、子孫を残そう、つまり、未来まで存続しようとする傾向だ。どれほど大きな山でも、甘んじて浸食を許す。微細な砂粒が黙って海の波に洗われるのと何ら変わりはない。だが、どれほど小さな生き物でも、風雨や捕食者の攻撃には全力で立ち向かう。生物以外の宇宙の特徴である無秩序に陥るまいとして闘う。生き物はまさにその本質上、はなはだしい不利をものともせずに持ちこたえるための、動的なシステムなのだ。犬であろうと、ミミズであろうと、アメーバであろうと、生き物はひたすら生き続けることのために間断なく奮闘する。永続するためのこの努力こそが、生の本質だ。
進化生物学者リチャード・ドーキンスが言うとおり、「私たちは生き残るためのマシンだが、『私たち』とは人間だけを意味するわけではない。そこには、あらゆる動物、植物、細菌、ウイルスが含まれる」のだ。これは、現代生物学では自明の理となった。何らかの形での自己保存あるいは自己複製は、「生命とは何か」という定義には必ず含まれている。
自然選択による進化の過程は、なぜそうならざるをえないのかを教えてくれる。多様性に富んだ個体群の中では、生き延びて子孫を残すのが最も得意な生物が自らの遺伝子を次世代に伝える。身の回りに見られる猫や樹木や昆虫のどれであれ、今存在しているのは、祖先が自らと子孫を維持するのに最も長(た)けていたからにすぎない。
したがって、生き永らえて子孫を残すことを通じて、未来まで首尾良く生き延びられるかどうかが、まさに進化の勝者と敗者の分かれ目なのだ。
そして、私たち人類に関していえば、直感や複雑な情動や私たちの洗練された推論の過程はみな、生存という目的に、直接的あるいは間接的に貢献するために存在していることが、卓越した神経科学者のアントニオ・ダマシオによって示されている。
生物人類学者のジェイムズ・チザムはさらに推論を進め、あらゆる価値はこのたった1つの目標から生じるとし、その目標とは、「そのために身体が存在している複雑な活動、すなわち無期限の持続」である、と述べている。
ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーは、この根本的な衝動を単に「生への意志」と呼んだ。とはいえ、時間の制限はない――チザムの言うとおり、私たちが望む持続は「無期限」だ――から、むしろ、永遠の生への意志、あるいは、不死への意志と呼ぶべきだ。
文明という営みの大半を含め、私たちの成すことのじつに多くが、「不死」への衝動によって説明できるのだ。
人は必ず死ぬ、しかし誰もが「自分の死」は受け入れられない
私たち人間を際立たせているのは、大きくて接続性の高い脳だ。この脳も、私たちが自らを無期限に存続させるのを助けるために進化したのであり、生存のための奮闘には大いに役立つ。
私たちは、自分自身や、未来や、さまざまな可能性を自覚しているので、適応し、精緻な計画を立てることができる。だが、自分自身に関して、恐ろしいと同時に不可解な視点を持つことにもなる。私たちの強力な知性は、私たちも身の回りの他のあらゆる生き物同様、いつの日か死なねばならないという結論に情け容赦(ようしゃ)なく至る。それにもかかわらず、その一方では、私たちの頭脳には1つだけ想像できぬものがあり、それは、死という、自分が存在しない状態そのものだ。それは文字どおり、考えられない。
したがって、死は不可避かつ信じ難いものという印象を与える。これを私は「死のパラドックス」と呼ぶ。
このパラドックスの両面は共に、同じ見事な認知能力から生じる。約250万年前に現生人類の直系の祖先であるホモ属が出現して以来、人間の脳の大きさは3倍になった。それに伴い、概念にまつわる一連の非常に重要な革新が起こった。
第一に、私たちは自分を他者と別個の個体として認識している。これは、大きな脳を持つほんの一握りの種に限られた特質であり、高度な社会的相互作用に不可欠と考えられている。
第二に、私たちは未来について詳しい考えを持っているので、あらかじめ計画を立てたり、それを変更したりできる。これもまた、他の大多数の種では見られぬ能力だ(珍しい例外の1つに、スウェーデンのフールヴィック動物園のチンパンジーの事例がある。そのチンパンジーは、日中に来園者に投げつけるための石を、夜のうちに拾い集めておいた)。
そして第三に、私たちはあれこれ可能性を検討し、目にしてきたものを一般化しながら学習したり、論理的に考えたり、既知のものから未知のものを推測したりでき、さまざまな筋書きを思い浮かべられる。
「人間の死亡率は100%である」ということ
生き延びる上でこうした能力が有利に働くことは明らかだ。マンモス猟の落とし穴からスーパーマーケットの供給網まで、私たちは必ず必要を満たせるように、物事を計画し、調整し、協力することができる。
だが、こうした能力には代償も伴う。自分や未来についての概念を持ち、身の回りで目にするものに基づいて未知のものを推測したり一般化したりできるなら、仲間がライオンに殺されるのを目撃した場合には、自分もライオンに殺されうることに気づく。そのせいで、いざというときのために槍(やり)の穂先を尖(とが)らせて備えておくようなら役に立つが、不安も生まれる。死という未来の可能性を現在に呼び込む。
そして、生きとし生けるものはすべて死を免れないことに気づく。死こそ真の敵であることを悟る。強力な頭脳を使い、鋭い槍や頑丈な門、満杯の食料貯蔵庫、病院などによって、この敵をしばらくは食い止めることができるが、同時に、すべては結局無駄で、いつの日か自分が死にうるだけではなく、確実に死ぬことがわかる。
これこそ、20世紀のドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーが「死に向かう存在」という有名な言葉で表現したものであり、彼はこれこそが人間の境遇にほかならないと考えた。
したがって私たちは、強力な頭脳に恵まれているものの、同時に、死ぬだけではなく、死なねばならぬことを知るという宿命を負わされている。
「自分」という視点を抜きに「自分の死」は想像できない
だが、第二の考え――そして、「死のパラドックス」のもう一面――は、その正反対のことを告げている。私たち自身の消滅は不可能だ、と。実際のところ私たちは、“自分が死んだらどうなるか”を想像しようとするたびに、つまずく羽目になる。現に存在していないところを思い描くことが、どうしてもできないのだ。
やってみてほしい。自分の葬儀までは、あるいは、ひょっとすると、暗い虚空までは思い浮かべられるかもしれないが、あなたは依然としてそこに存在している──観察者として、それを思い浮かべて眺めている目として。想像するという、まさにその行為が、あなたを魔法のランプの精のように呼び出し、仮想の存在とする。
したがって、思考する主体としての私たち自身に、死を現実のものにすることはできない。私たちの秀でた想像力が適切に機能しない。想像をしている者が、その想像をしている本人の不在を懸命に想像しようとしてもうまくいかないのだ。
「私たち自身の死を想像することはまったくもって不可能だ。そうしようとするたびに、じつは自分が傍観者として相変わらず存在していることが見て取れるから」と、ジークムント・フロイトは1915年に書いている。彼はここから、次のように結論した。「心の底では、自分が死ぬと信じている人は誰もいない……[なぜなら]無意識の中では、私たちの誰もが、自分は不死だと確信している」からだ。
あるいは、イングランドのロマン派の詩人エドワード・ヤングが言うとおり、「万人が、誰も死を免れないと思っている。自分自身を除けば、だが」。
現代の認知心理学は、この古来の直感に科学的な説明を与える。私たちが新しい事実や可能性を受け入れるかどうかは、それを想像できるかどうかに左右されるという。自分自身の死というのは、意識の終わりを伴うので、意識がないというのはどのようなものかを意識的になぞることはできない。
「死のパラドックス」を抱えながら生きる
というわけで、私たちはパラドックスを抱えている。未来に目を凝らすと、永遠に生きたいという願望が満たされるように思える。いつの日か自分が存在しなくなることなど、考えられないように感じられるからだ。だから、私たちは自分の不死を信じている。
それでも同時に、毒ヘビから雪崩(なだれ)まで、自分の存在に対する無数の潜在的脅威を痛切に感じており、そこかしこで他の生き物が否応(いやおう)なく命を落とすところを目にする。だから、私たちは自分の死の必然性を信じている。私たちの過度に発達した知的能力が、お前は永遠だ、お前は永遠ではない、死は事実だ、死は不可能だ、と相反することを告げているように思える。
ジグムント・バウマンの言葉を借りると、「死の概念は矛盾を孕(はら)んでいる。そして、そうであり続ける運命にある」となる。私たちの不滅性と、死の必然性の両方が、同等の力を持って私たちの心の中に現れてくるのだから。
この「死のパラドックス」がどのように発生するかは、自分を客観的に眺めるか、主観的に眺めるかと考えれば、説明がつく――だが、説明がつくのと解決するのとは話が別だ。このパラドックスは、私たちの最終的な運命についての、2つの相容れぬ、それでいて強力な直感から成る。私たちはそのような緊張関係を抱えたまま生きてはいけないし、生きてはいない。そのような状態は、恐怖と希望の間の、継続的で身がすくむような苦闘となるだろう。
だが、大半の人はそのような生き方はしない。人間の境遇の中核にある矛盾に身がすくむようなことは、通常ない。それは、存在にまつわるこの窮境を理解するのに役立つ物語を創り出したからで、それらの物語が「不死のシナリオ」であることは言うまでもない。
「誰もが死ぬ。したがって、私も死ぬに違いない。だがこれは想像できないので、私たちは不死を創出し、その所産が文明である」(ブライアン・アップルヤード)
進歩そのものが、無期限の生を求める私たちの抑え難い欲望の産物なのだ。
(訳:柴田裕之)
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