https://fragie.exblog.jp/31359785/ 【二つの桃は食べられたのだろうか。】より
(略)
新刊紹介をしたい。桂凜火句集『瑠璃蜥蜴』(るりとかげ)
A5判ペーパーバックスタイル帯有り 72頁 四句組 第1句集シリーズⅡとして刊行
著者の桂凜火(かつら・りんか)さんは、1958年生まれ、神戸市在住。2008年「海程」入会、2015年「第50回海程新人賞」受賞、2018年の「海程」終刊を経て、現在は「海原」同人。現代俳句協会会員。本句集には、師であった金子兜太氏による鑑賞三句が収録され、また同人代表の武田伸一氏が跋文を寄せている。
兜太氏が鑑賞している三句は
執念(しゅうね)くもよいよい生きて花菜漬け
桃ふたつかたみに息を吸うて吐く
大浦天主堂毛虫一匹入れる瓶
であるが、ここでは一句のみ紹介したい。
執念(しゅうね)くもよいよい生きて花菜漬け
自分の来し方を振り返って今までしぶとく頑張って生きてきたなあという気持。そして今、花菜を漬けていて、やっと生活のくつろぎを得られていると。典型的な境涯句ですね。
修辞が上手です。「執念く」というのがこの人らしいし、「よいよい生きて」のレトリックが面白い。ここでの「花菜漬け」はちょっと洒落ているが、私から見ると少しもの足りない。でも、頑張ってます。
「花菜漬け」はちょっと洒落ているが、私から見ると少しもの足りない。でも、頑張ってます。っていうのが兜太さんらしくていいな。わたしは「花菜漬け」がいいと思ったのだけど、兜太さんだったら、なにをつけたのだろう、興味のあるところだ。
武田伸一さんは、とても丁寧にこの作者について鑑賞しておられえる。桂凜火さんの魅力を一面的だけでなく多方面から浮き上がらせている。タイトルからしてすごい。「異能の才華」である。抜粋して紹介したい。
ハエ取り蜘蛛跳ぶ年寄りを笑うな 大浦天主堂毛虫一匹入れる瓶
蕗の傘差して黄泉ゆく兜太少年 竹婦人サクマドロップもうないよ
菫草怒りの束は光に放つ 今日を跳ぶかぼそさを跳ぶ冬の虫
桂凜火は写生から始めて徐々に階段を上りつつ、自己特有の個性を確立する多くの俳人とは違い、ほかの誰とも同調しない独自の世界で句を作り始めた、希有の作家といってもいいだろう。(略)
対象の核心部に鋭く進入し、他の誰にも真似のできない、桂自身の世界を築き上げていることに注目したい。と、その独自性を大いに評価しておられる。
たくさんの句をあげて桂凜火さんの俳句の魅力について記している。
少年の降りてくる坂皇帝ダリア 竹皮を脱ぐくらくらと男笑う
草かげろうだれのものでもない時間 過去は真綿ぐるぐる巻いて出かけるぞ
ふるさとや白木蓮の暗き道 鯛焼きのつらいとか書いてないけれど
これは担当のPさんの好きな句である。
わたしが好きな句とはかぶらなかった。 少年の降りてくる坂皇帝ダリア
これはよく景の見える一句だ。坂道があってそこに皇帝ダリアが咲いている。わたしがイメージしたのは、なだらかな広幅の坂道でどちらかということ都市郊外の住宅地、緑がそれなりに豊かなところである。季節は晩秋から冬にかけて。この花は背が高く、いつも見下ろされている感じをぬぐえない。坂をおりてくる少年がいる。まだ骨格などが完成途上にある少年、わたしはいまふっとバルテュスの絵に登場する少年を思い浮かべた。この画家の場合、少女の方が印象的なのであるが、少年も登場する。ややかたくなな未成熟さを残した少年。そんな少年と皇帝ダリアはよく似合う。皇帝ダリアが美しく支配する坂を可憐にしてやや反抗的な少年がおりてくる。少年が皇帝ダリアに気づき見上げるか見上げないかは、わたしの知るところではない。が、皇帝ダリアの方は少年をきっと支配下に置こうとひそかに狙っている、のである。
桃ふたつかたみに息を吸うて吐く
この句は兜太さんによる鑑賞が紹介されているが、面白い一句だ。そしてエロティックな句だ。「桃二つと、お互いに息を吸ったり吐いたりしている人間が居ると。その二物配合で出来る映像がどうかということ。「かたみに息を吸うて吐く」というのは、桃も二つ、人間も二人。お互いに食べ合っているのは仲のよい二人に違いない。」と、鑑賞する兜太さん。そうか食べるところまでいっちゃうのか、と私は思った。というのは、桃は手にとられずにあり、そこにいる人間もある緊張感のなかでそれぞれが対峙している。だから、息を吸うて吐くという行為がクローズアップされるのだ。桃も呼吸している、そんな気配がその人間(たち)にも伝わってくる。わたしにはそんな風に思えた。「桃の生々しさ、人間の男女の生々しさ、そういう情景が出てくる。」という兜太さんの鑑賞はわかる。ただ、男女と言うところがいかにも兜太さんらしい。仲のよい男女というのは、現実を前向きに果敢に生きられた金子兜太という人の気持ちの良い解釈だ。わたしは、この一句をそうは読めないのだ。ある緊張感のある恋愛の手前にいるような人間同士(男性同士っていうのもあり)が、二つの桃を前にして、向き合っている。桃には触れていない。ましてや食べることはしていない。しかし、この場面では人間の存在は希薄で、やはり二つの桃の存在感の方がよりリアルなのだ。桃が象徴するところのエロス、それが支配している。こんな解釈をして許されるかしら。
桂凜火さんの俳句には背後にいろんな物語が潜んでいる。読者はそこに自由に心を遊ばせてもいいのだって思う。もっと沢山の句を鑑賞したいが、長くなってしまいそうだ。
わたしも好きな句をいくつかあげておきたい。
菫草怒りの束は光に放つ 蛍飛ぶ哀しくきれいな切り取り線
ひまわりの毛深き全身屹立す 白梅のよもつひらさか賑わいて
終わらない戦争紙芝居に紙魚
五七五の短い俳句という不思議な形式に誘われて多くの人と出会うことができました。句会での新鮮で心地よい緊張。知らないうちに俳句をこよなく愛するようになっていました。そして、日常生活はいろいろあって日々怒濤、あっという間の十余年でした。句集『瑠璃蜥蜴』をこの度、上梓することができたことは、大きな喜びです。
「あとがき」を抜粋して紹介した。
本句集のタイトルは「瑠璃蜥蜴」瑠璃蜥蜴がもつ一色をテーマカラーとした。
蒼穹はカッターナイフ銀杏散る
抱かれてもいいのは夜明け蓮の花
桂凜火の感度は気ままなところが新鮮である。とにかく多彩。
(第50回海程新人賞選考感想より・金子兜太)
蕗の傘差して黄泉ゆく兜太少年
集中にある、金子兜太への追悼の一句である。とても好きな一句。
蕗の傘が兜太少年にはお似合いだ。この少年は骨太の凜とした勝ち気な目をした男の子(おのこ)である。
https://kaigen.art/kaigen_shu/%E6%A1%82%E5%87%9C%E7%81%AB%E5%8F%A5%E9%9B%86%E3%80%8E%E7%91%A0%E7%92%83%E8%9C%A5%E8%9C%B4%E3%80%8F%E3%80%88-%E3%81%8D%E3%82%89%E3%81%8D%E3%82%89%E3%81%A8%E3%82%AE%E3%83%A9%E3%82%AE%E3%83%A9%E3%81%A8/ 【桂凜火句集『瑠璃蜥蜴』〈 きらきらとギラギラと すずき穂波〉】より
大浦天主堂毛虫一匹入れる瓶
あの神聖なる大浦天主堂だが、眼目は毛虫と小さな瓶だ。瓶の中の毛虫が視野に入った時、まず面白さがあっただろう。それから人間の傲慢さへ心が動き、そして哀しみへ、と感情は連なっていったであろうか。旅の通りすがりの、脳裏に起こった一瞬の錯綜であるが、不条理性の、高度な滑稽感漂う作品だ。
覚悟とは小春日和の大欠伸 過去は真綿ぐるぐる巻いて出かけるぞ
あけび裂く人を束ねる指をもて
作者は一九五八年生まれ。二〇一五年第五十回海程新人賞を受賞されている。句集あとがきに「日常生活はいろいろあって日々怒涛」と、短い言葉が添えられている。何某かの組織の重要ポストについておられる方だろう。掲句の「覚悟」は外界との関係性に於ける自己内部への求心性の始まりか。「大欠伸」はその時空の受容と不安と祈望の横溢そのものだ。「過去は真綿」の肯定性の裏にある微妙な心の震え……。「人を束ねる指」と「あけび裂く」指の同位性による自らへの懐疑……。
これら三句が、この句集の解読キーではなかろうか。組織に生き、その〈現場〉のきらきらギラギラする、怒涛の日々の肉感を、情動の向くまま外界へ、世界へシャッフルし、放散せしめている。それが『瑠璃蜥蜴』の最大の魅力だと思う。
蒼穹はカッターナイフ銀杏散る
日常のただなかにある倒錯。現代文明がもたらす生の痛み。もはや人は美しき奈落に生きているのかもしれない……。
耳洗う清潔な仕事白露かな 鯛焼きのつらいとか書いてないけれど
海仙人掌待つこと腹の空くことよ 酢海鼠や百万回も死んでいる
絶望って薄い壁です実むらさき
「耳洗う」の句から、例えばカウンセリング・マインドの傾聴を想う。「鯛焼き」の向こう側(他者)へ思いを遣らざるを得ない作者。砂底に潜り込んで出て来ない「海仙人掌」の句は現代社会が産んだ引籠りの風刺画と読んだ。己を殺し殺し「百万回も死んで」もなお〈現場〉を愛し、〈現場〉に「実むらさき」のようなロマンを抱き続ける、そんな作者をおもう。
春の宵ひと刺してきた口漱ぐ 沖縄忌見て見ぬふりの指を嗅ぐ
八月のゆるき寝息の映画館 背徳のラ・フランス海匂うなり
正論の刈られゆく国青嵐 月見草ふとくらがりにつかまれる
菫草怒りの束は光に放つ 夜の鏡深く透くかな氷魚遡上
果敢な一面の自己。対して揺らぐ現実の有り様。散見する忿りは多分に公憤である。「遡上」する「氷魚」は純なワタクシであり、夜々自己を顧みるのだ。句の内部に伏在する実社会を負う感情、それが複雑に入り組み、しかも耀きを失わず撓る。一句に載せる情報を極限まで切り落し、内部衝迫である〈こころの髄〉で勝負してくる作者。句の中でうねり、句の中でもがき、句の中で己の存在を問い、応えようとする作者がいる。事、モノそれ自体が哀しみをもって、作者の眼前に迫ってくるのだろう。だから、この作者の言葉扱いは、わざとらしくない。
ハエ取り蜘蛛跳ぶ年寄りを笑うな
ハエ取り蜘蛛は、網を張らず歩き回りながら獲物を取る徘徊性の益虫。言われてみると目玉大きく、腰の曲がった長老のようにも見える。それが跳ぶ!……。いのちの尊厳を、その底辺から丁寧に掬い上げている句と言えるが、これは直感ではなく、直観だ。精神が対象を直に知的に把握し、実態と観念を即座に合体させているのだ。社会性俳句という範疇に到底収まらない独特の詩力に圧倒される。
ぎゅっと抱いて子鹿の斑もう消える 思うまま生きてみなはれひよこ豆
駄目な奴そういったのか冬鷗 性悪のどこから悪か抱卵季
一方、生な表現に瑞々しい情が溢れ、天与の母性愛を感じる句。一見サブカルチャー風であるが、アップテンポな諧調が、より今日的な哀感を創出させている。
春の水耀うわたしの鬼は此処 蛍飛ぶ哀しくきれいな切り取り線
桃ふたつかたみに息を吸うて吐く 春の馬一等さみしい男です
抱かれてもいいのは夜明け蓮の花 桃吹くや似合わぬものを脱ぎ捨てる
水草生う白きリネンの匂いして
愛おしく切なく、情緒的な句だ。「リネンの匂い」に象徴される作者が、外界に対峙し、抗い、享受してゆくほかなき生、そしてその先に広がる豊潤な人の世の味わい……。
執念くもよいよい生きて花菜漬け
ざくざくと花の朧を生きてきた
強靱な精神性に改めて感動が深まる巻頭句と巻末句だ。どちらも鷹揚な人間賛歌の句と読ませて頂いた。
ピュアでエッジの効いたこの一冊、今ふたたび、詩の真髄とは何かを問うてもいるか。
https://kangempai.jp/writing/2020/09katsura.html 【句集『瑠璃蜥蜴』桂 凛火】より
ふらんす堂 2020年9月4日発行
蒼穹はカッターナイフ銀杏散る
抱かれてもいいのは夜明け蓮の花
桂凜火の感度は気ままなところが新鮮である。
とにかく多彩。
金子兜太・・・・・帯文「第50回海程新人賞選考感想より」
言わば、桂凜火は写生から始めて徐々に階段を上りつつ、自己特有の個性を確立する多くの俳人とは違い、ほかの誰とも同調しない独自の世界で句を作り始めた、希有の作家といってもいいだろう。例えば、多くの初心者がまず取り組む、自然に対する目のつけどころにしても、
菫草怒りの束は光に放つ
ややオプティミズムおたまじゃくしのしっぽ
といった、極めて独自性のあるところからスタートし、
今日を跳ぶかぼそさを跳ぶ冬の虫
存在や鋭角に生え蕗の薹
などのように対象の核心部に鋭く進入し、他の誰にも真似のできない、桂自身の世界を築き上げていることに注目したい。
武田伸一・・・・・「異能の才華」より
五七五の短い俳句という不思議な形式に誘われて多くの人と出会うことができました。句会での新鮮で心地よい緊張。知らないうちに俳句をこよなく愛するようになっていました。そして、日常生活はいろいろあって日々怒濤、あっという間の十余年でした。句集『瑠璃蜥蜴』をこの度、上梓することができたことは、大きな喜びです。金子兜太師には、最晩年の十年間ご指導いただき、前掲のような心温まる批評をいただけたことはよき思い出です。
桂 凛火・・・・・「あとがき」より
○帯「自選十句」より
菫草怒りの束は光に放つ 春の宵ひと刺してきた口漱ぐ
水草生う白きリネンの匂いして 沖縄忌見て見ぬふりの指を嗅ぐ
大浦天主堂毛虫一匹入れる瓶 八月のゆるき寝息の映画館
桃ふたつかたみに息を吸うて吐く きつねよりズルい男だ海鼠食う
フクシマやスローモーションの牡丹雪 今日を跳ぶかぼそさを跳ぶ冬の虫
○発行所 ふらんす堂 〒182-0002 東京都調布市仙川町1-15-38-2F
電話 03-3326-9061 (定価 1,700円+税)
◆句集『瑠璃蜥蜴』: 桂凛火(かつら・りんか)◆
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